貴女は、私の傍にいる

 戦後の日々は、流れるように過ぎ去っていった。

 志乃は、その後、山城家を訪問した。その目的は、彼の遺した探偵小説の原稿を、家族に返す為だった。

 辰巳の家には、彼の両親の他、志乃より年が二つ、三つばかり下の妹がいた。辰巳の両親も彼女も皆、特攻作戦に散っていった息子の死に、今も深く心を痛めていた。

 志乃が渡した、彼の書き残した探偵小説の原稿を見ると、彼らは大変に喜んでくれた。

 「懐かしい…。辰巳お兄ちゃんの字だ…。昔、よく、こっそり書いた探偵小説を、私に読ませてくれていたわ。お兄ちゃんの小説を、いつも、一番最初に読めるのは私で、私の感想を聞くのが、お兄ちゃんの楽しみだったの」

 辰巳が昔言っていた、「郷里の妹」らしい女学校の制服姿の彼女は、兄の遺した原稿に目を通して、そう言った。彼女は、生前、まだ辰巳が郷里の家に住んでいた頃から、彼が密かに書いていた探偵小説を、いつも楽しみに読んでいたとの事だった。聡明で文才ある兄を、彼女は慕っていたようだ。

 志乃の手に渡る前は、この原稿は、辰巳の愛する人であった、琴音が、辰巳の戦死後もずっと預かっていた事。空襲が激しさを増してからも、辰巳の遺した原稿は必ず、風呂敷に包んで、焼夷弾から逃げる最中も、肌身離さず持っていた事を、志乃は伝える。

 琴音の死について、話題が移ると、辰巳の妹は、表情に暗い影を落とす。

 「里宮琴音さんの事は、もう、かける言葉も見つからないわ…。琴音さん、そして、早坂さんが、空襲からお兄ちゃんの小説の原稿を守ってくれたのね。この小説は途中で、終わってしまってるけれど、どんな気持ちでお兄ちゃんは、ペンを置いて、出征したんだろう…」

 無念そうに、途中の章で未完となっている、原稿を見つめて、辰巳の妹は呟いた。思い描いていた物語を終わらせられないまま、自分の人生に終止符を打たなければならなかった、辰巳の無念さは計り知れない。

 比島に出撃する前、最後に、あの下宿屋の部屋で辰巳と話した夜を、志乃は思い出す。自分の書き残した小説を、あの夜、辰巳は時に懐かしそうに眼を細め、時には苦笑交じりに読み返していた。あの時の彼の眼差しは、勇ましい学徒兵ではなく、一人の文学青年のそれに戻っていたように、志乃は思う。

 彼はどんなトリックや、犯人の葛藤を、この物語の結末に用意していたのだろう。そして、特攻作戦で死ぬ事なく、もしも書き続けていたなら、彼は、何処まで高みへ辿り着けただろうと、志乃は今でも考えてしまう。

 「生前は、辰巳お兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとう。早坂さん。そして、お兄ちゃんの原稿を、私達の家に持ってきてくれて」

 志乃より2つか3つ年下に見える彼女は、そう言って、ぺこりと頭を下げた。

 「お兄ちゃんからの手紙で、貴女の事も、よく聞いています。お兄ちゃんの恋人…、里宮琴音さんと貴女は、本当の姉妹のように仲が良かったって。『なんだか、僕にも新しく妹が出来たような気分だ』って、手紙にも書いていました。早坂さんの小説は、感情表現が豊かで、読む者を強く引き込む物があるって、褒めてましたよ」

 辰巳の妹は、彼の遺した、未完の小説の原稿を読み終えると、それを大事そうに胸に抱えた。

 「お兄ちゃんにとって、小説は生涯を賭しても、惜しくないものだった。この小説は、間違いなくお兄ちゃんの魂の一部よ。空襲で全て、焼かれてしまったのかと、もう諦めてしまっていたのに…、こうしてまた、お兄ちゃんの小説に巡り合えて、本当に良かった。琴音さんも、そして、早坂さんも、お兄ちゃんの形見の原稿を、空襲の中、守り抜いてくれて、ありがとう」

 辰巳の妹は志乃に、丁重に頭を下げた。そして、志乃を気遣うように、こう言った。

 「本当は早坂さんだって、辛いよね…。姉のように慕っていた琴音さんが、あのような事になってしまって…」

 辰巳の妹の言葉に、志乃は、膝の上で手を握り、俯く。

 琴音の最期の夜の事は、今でも何度も悪夢に見ては、夜中に飛び起きる。時には、悪夢にうなされている自分の発した、琴音の名を呼ぶ声で目覚める事もあった。

 大空襲の夜、二人で飛び込んだ、遺体が水面を漂い、その血で赤く染まった川の中。

 水面の近くで、体から流れ出していく鮮血の筋を纏いながら、背中を撃たれてぐったりと浮かんでいる琴音の姿が、何度も夢に現れた。それを、口から、血の味のする水を泡へと変えて、必死に、声にならない声で、志乃は琴音の名前を呼んだ。川の水を押しのけるように藻掻いて、川面まで浮かび、琴音の血みどろになった体を、川岸まで抱えて運んだ、あの夜。その一部始終が、否応なしに、志乃の頭の中で繰り返し、再現された。

 ‐しかし、志乃は、そうした悪夢に飲み込まれてしまいそうになる度、再建した家の、庭先の鉢植えに揺れている、白の紫苑の花の事を思い出す。

 琴音が息を引き取った、川の傍の場所で、まるで彼女が花となって還ってきたかのように咲いていた、あの白い花を。

 志乃は、自分の事を心配げに見つめる、辰巳の妹に、その不思議な話を聞かせた。

 琴音が愛していた花。その花が、彼女の生まれ変わりのように、彼女の息絶えた場所で咲いていた事を。そして、その花を大切に、自分の家の庭先で育てている事を。

 「信じられない話かもしれないけれど、本当の事よ。琴音お姉さまはね、白い紫苑の花が大好きだった。一番大事にしていた着物にも、その花の刺繍をするくらいに。だから、あの場所に、白の紫苑が咲いていたのは、偶然の事とは思えなくて。ああ、琴音お姉さまの、身は滅んでしまっても、魂は、姿を変えて生き続けてるんだって、すんなり、私には信じられたの」

 辰巳の妹は、最初は驚いていた。しかし、「身は滅んでも、魂は姿を変えて、生き続ける」という、志乃の言葉に、思い当たる節があったのか、こう言った。

 「今…、早坂さんが言った、その言葉。この身は滅んでしまっても、魂は生き続けるんだって、お兄ちゃんが、比島から我が家に送ってきた、最期の手紙にも書かれていました。早坂さんの言葉が、お兄ちゃんと、言っている事がそっくりだったから、驚きました」

 辰巳は、家族にあてた手紙の中でも、琴音、志乃に対してと同じ言葉を遺したのだろう。

 そして、「体は滅びても、魂は生き続ける」という言葉は、短すぎる生涯を終えねばならない事に苦悩した、辰巳が辿り着いた答であり、自身の過酷な運命の中で、その思いだけが、彼の救いとなっていたのだろう。

 「辰巳さんが、あの言葉を遺してくれたから…、私は、人の魂は、その体が滅んだところで、終わりじゃないんだって信じられるようになった。琴音お姉さまの魂も、きっと同じ。もう、触れる事も、声を聞く事も出来ないけれど、大好きな花の姿になって、帰ってきたんだと今なら、私は信じられる。辰巳さんの魂も、きっと、何かの形で、必ず、貴女の元へ、帰ってくるって信じてる」

 辰巳の妹は、志乃の言葉を聞き、そっと、瞼を伏せて、答えた。

 「私も、いつか、お兄ちゃんの魂に再会出来るかもしれないのね。早坂さんが、琴音さんと、花という形で再び、巡り合う事が出来たみたいに…。分かった。早坂さんの言葉、私も信じてみる。何年でも待つわ、お兄ちゃんの魂と、また会える時を。それまでは、この、お兄ちゃんの書き残した小説を、手放さずに持っておくわ」

 

 辰巳の妹、両親とも、再会の約束を交わして、志乃は、東京に戻る汽車に乗った。

 「早坂さんの小説が、書店の店先に並ぶ日を、楽しみに待ってるわ」

 辰巳の妹は、駅まで志乃を見送ってくれて、別れ際に、

 闇市への買い出しから帰る人々でぎゅうぎゅう詰めの、汽車の中、志乃は、誓いを新たにしていた。

 『琴音お姉さま、辰巳さんの果たせなかった夢の為にも…、例え、どんなに、この先で待つのがいばらの道であったとしても、私は、小説を書き続ける。琴音お姉さまは、もう、私の小説を最初に読んで、感動して、感想を聞かせてくれる事はないけれど、白の紫苑となって、私の元で咲き続けてる。辰巳さんの魂も、何処かで、私の事をきっと、見ていてくれてる。私は、一人じゃないから、もう一度、筆を執る事が出来る…』


 車窓から見える、建物が焼け落ちた痕が、至る所に目立つ街。志乃の目に映る日本の地は、深く傷を負っていた。傷を負っているのは、国土だけではない。汽車の中に立ち並ぶ人々の顔も憔悴し、疲れ切って、その心は、焼け跡の街と同じく、荒れ果てているようだった。老いも若きも、男も女も、関係なく。

 焼け跡に一輪咲く、花となるような、そんな小説を書こう。

 戦争によって、枯れてしまった人々の心を潤す、清らかな泉となるような小説を。

 

 食料さえも乏しく、戦時中と変わらない厳しい生活の状況は続いていたが、そんな中で志乃は、再び筆を執り、書き始めた。

 辰巳の生還を願って、琴音と共に筆を一度断ったから、一度も執筆をしていなかった。戦争末期には毎日のように軍需工場に遅くまで駆り出されてもいて、筆を執る暇もなかった。

 久しぶりに筆を執った時も、志乃の思うようにその筆は運ばなかった。空腹にお腹が鳴るのを我慢して、夜遅くまで机に向かった。家計を支える為に、働きに出ながら、寝る時間も惜しんで執筆する生活は、志乃を疲弊させ、何度も心を折れさせそうになった。

 働きながら、文学賞にも応募をして、最初の選考すらも通貨する事は皆無な期間が続いた。偶に論評付きで返されても「女学生同士での、砂糖の塊のように甘ったるいばかりで、浅薄な恋愛ごっこの話など、文学と呼ぶのにも値しない」というような、酷評ばかりだった。志乃が描きたかったもの‐、少女達の愛を描く文学は、文壇からは、まともに相手にもされていなかった。

 

 そんな時でも、志乃の心の支えとなっていたのは、家の庭先に植えた「琴音の花」-白の紫苑であった。

 一度はしおれ、散ってしまった花も再び、秋の到来と共に、蕾をつけて、綻び、白く、可憐な花びらを開かせる。

 秋の朝。まだ、朝日も昇り切らない時間。筆が止まったまま、夜を明かしてしまった時には、志乃は、庭先に降り立っては、庭の鉢植えに咲き乱れている、白の紫苑の花の元へいつも、足を運んだ。

 日を重ねるごとに、冷たさが増していく朝の風に吹かれていると、一晩中、考えあぐねて、疲れ切った脳も蘇る心地がした。

 『琴音お姉さま…、私はもう、昔のように、清らかな気持ちでは、小説を書けないかもしれません。お姉さまに読んでもらう為に、少女達の物語を書いていた時は、あれ程、軽やかでうきうきと心弾ませながら、筆を執っていたのに、今は…、どうやったら選考を通れるかだとか、そんな事ばかり気にするようになって。何か大事な事は忘れたままで、書いている気がしてならないんです…』

 秋の朝風に冷えた、繊細で柔らかな白い花びらに指先で触れながら、志乃は、心で語りかける。その花びらの冷たさ、柔らかさは‐、たった一度だけ、志乃と琴音の唇が触れ合った瞬間。琴音の亡骸の唇に触れた時の事を、思い出した。

 志乃は、その白い花びらに、次は指先ではなく、そっと、唇で触れる。瞼を閉じて。

 

 そうすると、不思議な事に、秋風に冷えていた志乃の体は、柔らかく、温かい物に包まれて、執筆に疲れて、ささくれ立った心も安らいでいくのだった。あの下宿の2階の部屋で、志乃の体を度々、包んでくれた温もりと、それは寸分違わなかった。

 体に吹き付ける、冷たい秋風の中に、琴音の存在を確かに感じた。

 琴音が、辰巳が、志乃へと遺した言葉が、色鮮やかに蘇る。

 『身は滅んでも、魂は滅びない』

 という、あの言葉が。

 もう、志乃がいくら心の中で語りかけようとも、琴音の声が返される事はない。

 それでも、庭に差し込み始めた朝日を花びらに受けて、白の紫苑が、神々しく輝く光景。紫苑の花びらに触れた時、確かにこの身を包み込んだ温もり。

 それらを目にして、体で感じる時、志乃は、この花の中に、琴音の魂は生きていて、志乃が、夢に向かって歩き続けるのを、傍で見守ってくれていると信じられた。

 だから、志乃は、諦めずに書き続ける事が出来た。

 「琴音お姉さまは、目には見えなくても、きっと魂は、私の傍にある…。貴女が、私の傍にいてくれる限り、私は、書く事をやめない」

と。


 志乃の応募した作品が、とある文芸雑誌の目に留まり、志乃が商業作家としての道を切り開いたのは、終戦から、5年の歳月が過ぎ去った、昭和25年の事だった。

 琴音と辰巳。二人の存在が、自分をここまで連れてきてくれたのだと、志乃は信じた。

 志乃は琴音と辰巳に関する形見の品と、庭先で育てていた、白の紫苑の鉢植えだけを荷物に、家を出た。

 それが、志乃は本格的に女流作家としての道を歩み始めた、最初の一歩だった。 

 

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