託された花

 志乃は駅の前のベンチに腰掛けて、旅の疲れを癒していた。

 琴音の地元は、大きな空襲を免れたようで、焼け落ちた建物なども殆ど見当たらず、戦争前と風景は変わってはいないようだ。偶にバスがやってきては、闇市で買ったものを詰め込んだのか、大きな荷物を背中に背負って、脇に抱えた人々を、その中に取り込んでは、駅から走り去っていく。

 風呂敷包みと鞄を足元に置いて、秋風に当たり、涼んでいると、一台の車が、荒い路面の上をガタゴトと揺れながらこちらに走ってくる。

 志乃は、琴音の母親からの手紙に

「是非とも行かせてください。それに、私の方も、実は里宮先生から預かった、先生の大切な形見の品があるので、そちらを、貴女に見てほしいです」

 と返事の手紙を出した。そして、今日の、琴音の生家への来訪が実現した。

 迎えの車を駅前広場に向かわせるので、駅前のベンチで待っていてほしいとの事だった。この地方の街で、自家用車まで持っているとは、琴音の生家は中々裕福な家であったらしい。

 車は、志乃の座るベンチの前で止まり、後部座席の扉が開いた。そこから、一人の貴婦人が姿を現す。

 秋の眩い日差しを背に、志乃の前に立った、着物がよく似合う彼女の姿を見た時、一瞬、志乃は、琴音の姿の幻視を重ね合わせた。それ程に、彼女は琴音によく似ていたから。

 「里宮杏子です。貴女が、琴音の手紙で何度も、その名前をお見掛けした、早坂志乃さんね」

 彼女の口が開き、零れ出たその声を聞いた時、志乃は、その声が琴音にあまりにも似過ぎていると感じた。もう聞く事は出来ないとばかり思っていた、琴音の声によく似た、その声を耳にして、志乃は不覚にも目頭が熱くなる。しかし、それを堪えて、志乃は、ベンチから立ち上がると、琴音の母親‐里宮杏子に、深々とお辞儀をする。

 「はい、私が早坂志乃です。今日は、私をお招き頂いて、本当にありがとうございます。琴音お姉…、いいえ、里宮先生の生前の頃には、先生から、本当によくして頂き…」

 「里宮先生なんて、かしこまった呼び方しなくてもいいのよ。琴音からの手紙に書いてあったのだけど、貴女と琴音は、特別な関係で名前を呼び合っていたんでしょう?貴女の呼びたいように、私の前でも琴音の事を呼んでくれて構わないわ」

 「…分かりました。それでは、琴音お姉さまって、里宮さんの前では呼ばせて頂きます」

 車の方に案内しながら、琴音の母親は「娘だけ下の名前呼びで、私は『里宮さん』呼びなのもぎこちないから、『杏子さん』でいいわよ。気を遣わなくていいから」と、あっさり、下の名前で呼ぶ事を許してくれた。後部座席に、杏子と二人で腰かけ、杏子が「車を出して」と運転手に声をかけると、やがて、車が走り出す。舗装されていない地面の上で、幾度か、車体が大きく揺れる。

 「ここが、琴音お姉さまの生まれ育った街なんですね…」

 志乃は、車窓の外を流れ去る彼女の郷里の風景を、目に焼き付けるようにして、見つめていた。市街地は本当に小さく、30分も走る頃には、大きな建物は見えなくなって、里山の、のどかな田園の風景が広がっていた。

 道の途中、草の緑の中に、赤い彼岸花が、彼岸を過ぎた今の時期になっても、まだ何輪か残って、咲いていた。他にも、幾つも野花が農道の脇に咲いているのが見えて、目に美しかった。

 幼少の頃の琴音も、こうした野花達に囲まれながら育ったのだろうと、志乃は思った。

 昔、この地で暮らしていた頃、毎日琴音が見つめていたであろうものと、同じ野花達を、今の自分も見ている。そう思いながら、食い入るように、見つめていると、

 「琴音もそうやって、興味津々な様子で野花を見ては、『お母様、あのお花の名前はなんていうの?』ってよく聞いてきてたわ。それで、あの子に、花言葉の本や、植物図鑑で花の絵を見せながら、花の名前も、持って生まれてきた意味も、教えていた。もう、何年前になるかしらね…」

 と、隣に座る杏子が、ポツリと呟いた。

 女学校での、授業の合間に、琴音が生徒らに聞かせてくれた、花言葉の余談。或いは、あの下宿屋の二階の部屋で、志乃が持ってきた、花日記を見て、描かれた花を見ながら、志乃に聞かせてくれたように。

 琴音もまた、幼い日は、杏子から、花に込められた言葉やその意味を聞かせてもらっていたのだろう。

 そのような事を考えていると、やがて、車は、郊外の、一際大きな、二階建ての日本家屋の、木製の大きな正門前でその車輪を止めた。表札を見れば、「里宮」と墨で書かれている。運転手が、後部座席の扉を開けてくれて、杏子に伴って、志乃も車から降りる。杏子が呼鈴を鳴らすと、お手伝いらしい女性がやがて現れ、正門を開けてくれた。

 「さあ、早坂さん。我が家へどうぞ」


 琴音の生家は立派なものだった。とりわけ、その庭の華やかさは、志乃の心を惹きつけた。

 一階の、来客用の間に通された志乃は、そこから見える、庭の花壇や、鉢植えに咲き誇っている花達に目を奪われる。杏子が、昔からこの庭の花達は全て、育てているのだという。日差しを受けて輝く、秋の花々の色が目に眩しい。

 そして、他のどの花よりも、志乃が心を奪われている花。白の紫苑の花も、花壇に咲き誇って、秋風に揺れていた。紫色の紫苑も、その隣で丈を伸ばして、淡い紫の花が開いている。

 お茶を一口運んだ後、志乃は、杏子が育てているという、その紫苑を見つめながら言った。

 「あのお花…紫苑の花を、本当に、琴音お姉さまは愛してらっしゃいました。特に、白の紫苑の花を。同じ花であっても、色が違えば、そこに込められる花言葉や、人の思いも全く違うんだって、紫苑の花を例に出して、お姉さまは話してくれた。白の紫苑の意味は、本来の紫苑の花言葉-『追憶』『遠くにいる、貴方を想う』。それに加えて、『何処までも、清らかに』ですよね。その意味を知った時から、私は、あの、白い紫苑が大好きになりました」

 「琴音は…、ずっと昔に、私が教えた、その花言葉を、いつまでも大切に覚えていたわ。そして、貴女と同じように、紫苑の花を、それも白い紫苑の花を、心から愛するようになった。あの子が、師範学校の課程を修了して、女学校への赴任が決まった時、記念に、呉服屋で着物を仕立ててあげるって言ったら、琴音ったら、いの一番に『白の紫苑の花を刺繍してほしいわ。私が、一番愛している花だから』って言ってね。折角、花を刺繍するんだから、もっと豪華な花でもいいのよって私は言ったけれど、絶対に、白の紫苑が良いといってね。それで、出来上がった、その着物を受け取った時の、琴音の喜びようは、今も覚えてる。まるで、幼い子供みたいに、姿見の前で着物を羽織っては、何度もくるくる回って、自分の姿を見て、『お母様、こんな、素晴らしい着物をくれて、ありがとう。一生、大事にするわ』ってね…」

 杏子は、そこまで、琴音の思い出について触れると、小さく、しかし、深く溜息をついた。その表情が曇る。娘が、この世の何処にもいなくなってしまった今となっては、彼女の思い出を語るだけでも胸が痛むのだろう。当然の反応だった。

 琴音は、死ぬにはあまりにもまだ、若すぎた。

 彼女はかなり無理をして、志乃に対して、気丈に振る舞っているように見えた。

 本当は、琴音の事を思い出して、話をするだけでも、杏子の心は、傷が開き、そこから血を流し続けているに違いないのに。

 志乃は、客の間に通される前に、通り過ぎた部屋の中に垣間見えた、大きな姿見を思い出す。その、姿見の前で、あたかも七五三の祝いの日に初めて華やかな着物を着た少女のように、真新しい、白の紫苑をあしらったあの着物を羽織っている、琴音の姿を思い浮かべた。

 「…折角、琴音の生まれ育ったこの家に来てくださったのだもの。あの子の昔使っていたお部屋も見ていく?」

 杏子が志乃に尋ねる。志乃は頷く。


 杏子の着物の、背中の帯を追いながら、二階へ続く階段を上がっていく。

 「志乃が階段を上がって来る足音を、聞くだけでも嬉しくなる」

 階段が僅かに軋む音を聞いていると、昔、あの下宿屋の二階の部屋で、琴音が、そんな事を志乃に言ってくれたのを思い出す。

 目にする花も、この耳で聞く、琴音の母、杏子の声や、踏みしめる階段の軋む音に至るまで、その全てが、志乃の中では、琴音の記憶へと繋がっていた。

 「ここが、琴音の部屋よ…。あの子は文学中毒だったから、見ての通り、本だらけよ。文学書と…、それから、花に関する本ばかりね」

 そう言って、通してもらった部屋は、畳数畳分の大きさに、本棚が壁際に所せましと並べられている。そこに並べられているのは、彼女の心を形作ってきた本達だ。

 琴音が、今の志乃よりも幼かった頃に手に取っていたであろう、少女向けの文芸雑誌や、数多の文学全集などを、そっと、志乃は手に取って、眺めていく。志乃の小説を読んで、感情を動かされると、琴音は、いつも、それを、表情豊かに顔に出してくれた。もっと幼く、多感な頃の琴音はさぞかし、情緒豊かで感動的な少女文学を読みながら、涙したり、微笑んだり、忙しく表情の色を変えていた事だろう。

 「よく…、文学を読んで、泣かれていたでしょう?琴音お姉さまは…」

 下宿で見た、琴音の表情を思い浮かべながら、志乃がポツリと呟く。杏子は首肯する。

 「ええ…。琴音の事、本当によく見ていたのね、早坂さんは。昔から、文学への感性は、本当に豊かな子だった。私が部屋に入ると、感涙に目を赤くしてる事もしょっちゅうだったわ。文学を読んでいるあの子の表情を見るのは、飽きが来なかった。それで、今度は、自分も、こんな風に人の心を震わせるような小説を書くんだって言って小説を書き始めたのが、女学校に入ってしばらくした頃…」

 しかし、彼女が熱中して読んでいたのは、文学書だけではなかった。一冊、付箋が幾つも貼られた本が、目に留まる。

 付箋には、紛れもない彼女の文字で、花の名前が書かれていた。表紙には「花言葉全集」と書かれている。

 「私が、色々と花言葉について聞かせるようになったからかしらね…、学生時代は花言葉について、その本を貪るように読んでたわ。興味を惹かれる花があれば、すかさず、その本で花言葉や、その花にまつわる逸話を調べてね。いつの間にか、もう、私以上に詳しくなってた」

 杏子は、そっと、その本の色褪せた表紙に触れながら、志乃に語って聞かせた。

 この本こそは、志乃の知っている琴音の姿に繋がる原点だった。

 「琴音お姉さまは…、学校でも、そしてあの下宿の部屋でも、花言葉について、沢山の事を教えてくれました。紫苑だけではなく、他の花も。そうした話をする時、お姉さまはいつも、その目は輝いて…、少女に戻ったかのように、はつらつとしたお顔をしていました。恋人の…、山城辰巳さんが学徒出陣で、航空隊に行ってしまわれて、辛く寂しい思いをしていた時でさえ、私が花の絵を見せて…、その花について、語ってくれる時だけは、瞳に光を取り戻していました」

 志乃は、この家に来て、初めて、辰巳の名前を口に出した。当然、杏子も、比島に発った彼の、その最期を知っていたのだろう。

 「山城辰巳さんの事は…、勿論知っているわ。娘の、大事な恋人だもの。あの人の名前もまた、琴音の手紙で、見ない日はなかった。辰巳さんからも、我が家には幾度か手紙を頂いたわ。辰巳さんの事は…本当に、私の口からは、なんと言ったらよいのか、言葉も、見つからないわ。早坂さんは、琴音だけでなく、辰巳さんとも、親交があったのよね」

 「はい…。辰巳さんも、私や琴音お姉さまと同じ、文学を志す学生さんでした。探偵小説家として名を上げるんだって…そう、夢を描いてました」

 その夢も、彼の操る特攻機、そして、彼の体と諸共に、比島の青い海の中へ、砕け散ってしまったが…。

 「私は、琴音お姉さまと、辰巳さんが、戦争が終わったら、無事に結ばれて、いずれは、夢見ていた文学の道で幸せになってほしいと、願ってました。でも辰巳さんは、私とお姉さまに、遺書で願いを託して、戦地に散ってしまわれた…。私と、琴音お姉さまに、どうか、何処までも清らかにあってほしいと願って。そして、この体は滅んでも、魂は決して滅びないという、言葉を遺して」

 志乃が放った言葉に、杏子は反応した。

 「身は滅んでも、魂は滅びない…」

 噛み締めるように、その言葉を繰り返す杏子に、志乃は頷く。

 「そして、それは、琴音お姉さまが私に、遺してくれた言葉でもある…。空襲が激しくなっていく中で、きっとお姉さまも、自分の身に何かあった時には、どんな言葉を私に遺そうか、考えてくださっていたんだと思います。あの、3月10日の大空襲でお姉さまが死の淵にあった時、傍にいた私に、辰巳さんと同じ言葉を遺してくれました」

 ここまで訪ねてきたからには、杏子には、琴音の最期の場に、自分も居合わせた事。彼女の最期の状況について、話さねばならないだろうとは思っていた。言葉にするのは、あまりにも凄惨な光景だ。今でも、あの空襲の夜の悪夢にうなされ、夜中に飛び起きる事は決して珍しくない。

 夢の中でも、火の海の底に沈む街、火だるまになりながら、助けを求める人の断末魔の声。そして、琴音が息絶えた、あの河川敷で見た、無数の川面に浮かぶ遺体や、夜空から降り注いだ、アメリカ軍機の機銃掃射…。そうした光景や、声や音が、生々しく、眠る志乃の頭の中に入れ代わり立ち代わりで、去来した。

 そんな夢で飛び起きた夜中には、爆撃機のエンジン音や、焼夷弾が降り注ぐ際の、空気を切り裂く音はないか、冷や汗をかきながら、耳を澄まさずにはいられなかった。そして、窓辺に近づき、そこから見える、空襲の傷痕が残る街に、火の手が上がっていない事を確認して、やっと胸を撫で下ろし、再び床に就く…。そうした夜の繰り返しだった。

 しかし、いくらあの空襲の夜を思い出すのが辛くても、杏子には、娘である琴音の最期について話さなくてはならない。それが、琴音の最期の状況を知る者としての、責任だと志乃は考えていたから。

 「早坂さん…、貴女、知ってるの?琴音の最期を…?」

 杏子は、驚きに、目を見開いた。


 そして、客の間に戻って、志乃は、あの夜、琴音の身に何が起きたかについて、その全てを聞かせた。

 あの大空襲の夜に見たものを、話しているだけでも、底知れない恐怖と、琴音を守り切れなかったばかりか、逆に自分が琴音に守られて、彼女を死なせてしまった、無念が蘇ってくる。

 脳裏に、機銃弾で胸や腹部を撃ち抜かれ、血みどろの、無惨な姿となった琴音が浮かんでくる。志乃の腕の中で、琴音が息絶えた時の光景だ。

 その光景を急ぎ、頭の中から振り払う。

 「…ごめんなさい…、私は、琴音お姉さまを守るって…戦死した辰巳さんにも誓ったのに、結局、何も出来ませんでした…。お姉さまは、空襲の時は、いつも持って避難していた、辰巳さんの形見の品や…、私達3人で過ごした日々の、思い出の品を、私に託してくれました…。杏子さんが、お姉さまに贈ってくださった。私とお姉さまを引き合わせてくれた、あの、白の紫苑の着物も」

 志乃は、肩が震え、涙が零れ落ちそうになるも唇を噛んで堪える。実の娘の最期という、あまりにも辛い話であるのに、杏子はまだ泣かずに、気丈に振る舞って、話を聞いているのだから。母親である彼女より先に、自分が泣く訳にはいかない。

 「そして…ここにその、白の紫苑の着物があります。今日は、このお姉さまの着物を、お姉さまのお母様である杏子さんにお返ししようと思って、お持ちしました」

 持ってきた風呂敷の結び目を解く。そして、その中から、畳まれた着物を取り出して、卓の向こうに座っている、杏子へと手渡す。

 「もう、空襲で焼かれてしまったのだろうとばかり思っていたのに…。この着物、早坂さんが今日まで持っていてくれたのね…」

 杏子は、手を伸ばして、その着物を受け取ると、自分の胸元に抱いた。

 「琴音…お帰り…。そして、早坂さん、ありがとう。あの子が大事にしていた、この着物を、ここまで持ってきてくれて…」

 そうして、まるで、その着物が琴音そのものであるかのように、大事そうに撫でて…、志乃と会ってから、初めて、涙を零した。そして、「お帰り、お帰り…」と繰り返し、囁いた。

 その再会を見つめながら、志乃は、空襲の中でも、白の紫苑の着物を守り抜いた甲斐があったと、志乃は心から思う。

 琴音の形見の着物を胸に抱いたまま、杏子は、琴音にこう言った。

 「早坂さんは、私に謝る事なんてない。どうか、そんなに自分を責めないで。貴女がいてくれた事で、あの戦時下の日々に、琴音の心がどれだけ支えられていたか。あの子の手紙を見て、私はちゃんと知ってるから。あの子の最期の時に、貴女が傍にいてくれてよかったって思うわ…」

 そして、杏子は、志乃に手紙の束を手渡してきた。「お父様、お母様へ」という文言で始まるそれは、琴音からの手紙だった。志乃の知らない、琴音の言葉達が並んでいた。

 手紙は昭和16年の春‐、琴音が、志乃のいた高等女学校に赴任した季節から始まって、今年の1月まで続いていた。

 そこに綴られた彼女の文字を読んでいく。彼女の小説の原稿で、すっかり見慣れた、清書のような綺麗な文字だ。文字達に視線を落としていると、綴られた文章が、懐かしい琴音の声に変換されて、志乃の胸の中、聞こえ始める。

 『今日、初めて、私の愛している花-、白紫苑に興味を持ってくれる、可愛い生徒と出会う事が出来ました。お母様のくださった、あの着物の刺繍の白紫苑を見て、『そのお花、とても先生に似合っています』『貴女を見た時、一輪の花を見つけたような気持ちになりました』と、それはもう、熱っぽい調子で。初めて赴任する女学校で、不安も沢山ありましたけれども、私の、花言葉の話にこんなに興味を抱いて、私の好きな白紫苑を、同じように好きになってくれる、可愛い生徒に会えたおかげで、それも何だか和らぎました。もっと、彼女の事を知ってみたいです。彼女とはきっと、仲良くなれそうだから』

 志乃が、琴音と初めて言葉を交わした、あの日の事を、手紙で伝えてくれていた。

 同じ花でも、色が異なれば、新たな意味が加わる事を、志乃に教えてくれた、あの日の事だ。そして、志乃が琴音と同じ花を愛するようになった日でもある。

 志乃と琴音、辰巳の三人で、あの下宿屋の二階の部屋で集うようになってからの事も、また別の便箋には書かれていた。

 『あの子‐早坂志乃さんも、私と同じように、小説を書く事が好きで、文学の道を志しているんですって。同じ花を好きになって、そして、文学という同じ夢もまた持っていて。この年になって、文学中毒の少女のような事を、と、お父様、お母様はお笑いになるやもしれませんが、あの子との出会いは、何か、運命めいたものを感じています。探偵小説家を志してる辰巳さんも、まるで、妹が出来たかのように、早坂さんの事を可愛がっています。私、辰巳さん、それに、早坂さんの三人で集える時間は中々多くはありませんが、それぞれが持ち寄った小説を読み合って、感想を述べあう時間は、私にとってこの上ない、至福の時間です。辰巳さんの小説も、早坂さんの小説も、お父様とお母様にも読ませて差し上げたいです。早坂さんは、まだ幼さは感じる文体ながらも、少女と少女の、心の渡し合いを描くのが、とても上手で、読んでいると、その感情に引き込まれていくような心地がします』

 帰らない日々が、頭の中に蘇る。戦争が激化していく前の、束の間の平穏のひと時。文学だけが、三人の心の拠り所であり、戦時下の日々で乾ききってしまいそうな精神を潤してくれた。柔らかい日差しの差し込むあの部屋で、志乃の小説を、読んでくれていた時の、琴音の、豊かに移り変わる表情が、ふっと思い浮かぶ。

 琴音が遺した手紙を読んでいく事。それは、志乃にとって、琴音と過ごした時間の節目、節目に置いて、彼女が何を思い、その瞳に、志乃がどのように映っていたかを追体験する事。そして、生前の彼女の声や表情を『追憶』する事に繋がっていた。

 文字が、何度もぼやけて霞む。目尻が熱くなり、瞳に透明な膜が張り詰めていく。それを零して、自分の涙で、彼女の遺した文字のインクが滲んでしまわないように、ハンケチで目元を拭いつつ、読み進める。

 志乃が、琴音の唇に触れかけた日-、それからしばらく、女学校でも、まともに彼女の顔を見られなかった日々の事についても、彼女は書いてくれていた。

 『早坂さんが、所謂、女色を好む人なのだろうという事は、分かっていました。彼女の小説から感じる、引きずり込まれそうなくらいの、生々しくて激しい感情の渦。その感情は全て、一作品の例外もなく、彼女の小説の中では、強く恋焦がれる相手の少女、女性に向けられていましたから。でも、お父様、お母様、どうか勘違いはなされずに。早坂さんが、私に対して、そう言った意味での思慕の感情を抱いている事を知った今でも、私は、彼女を嫌悪も忌避もするつもりはありません。私は彼女の『恋人』となる事は出来ないけれど…『恋人』以外でも、強く、特別な結びつきを、早坂さんとは、持っていたいから。私は、早坂さんと『姉妹』になります』

 琴音と、『恋人』になる事は出来ない志乃が、せめてもの、二人だけの特別な結びつきが欲しくて、導き出した答‐「姉妹」の契りを交わした時の事だった。

 この手紙も読んでいるという事は、琴音の母親は、志乃が「そちら側の人間」である事は、当然知っていたのだろう。それでも、志乃を遠ざけようとする様子は見られなかった。

 志乃が見入っている一枚の便箋に、卓の向こうから目を向けた杏子はこう尋ねてくる。

 「その手紙を最初に読んだ時から、早坂さんに会ったら聞いておきたい事が、一つあったの。貴女は…、今でも、琴音の事を、変わらずに愛しているの?」

 直球の質問だった。しかし、杏子の声色には、志乃を蔑むような響きは一切感じられない。ただ、彼女は、志乃の素直な気持ちを知りたがっている。

 志乃は、その言葉に…迷う事なく頷いた。

 「はい。その通りです、杏子さん。私の琴音お姉さまをお慕いする気持ちには、今も、一点の曇りもありません。死によって、この世と冥府に、私達が分かたれてしまっても、何処までも清らかな気持ちのまま、私は、お姉さまを想い続けます」

 「もう、琴音は、この世の何処にもいないって、知っていても?琴音の事を、そこまで、純粋な心で慕い続けてくれている事は、あの子の親として、嬉しいし、女が女にそんな気持ちを抱くなんて…とか、そういう気持ちも私にはない。だけど、まだ若い、17歳の貴女に、この先もずっと、琴音の事に囚われ続けてほしくはないの。やっとの思いで、あの悪夢のような戦争を生き延びられて、平和が還ってきたのだから…新しい平和の時代は、早坂さんには過去に囚われる事なく、どうか新しい恋を見つけてほしい」

 この恋心が成就する事は、最早、決してない。琴音という花は、先に南の海に散っていった恋人-辰巳の後を追うように、あの空襲の夜、川面に散ってしまった。どれ程、もう一度、琴音の温もりを感じたいと願っても、それは詮方ない事だった。

 しかし辰巳は遺書で。そして、琴音も、志乃の腕の中で、息絶える直前に言ってくれたではないか。

 「この体は滅んでしまっても、魂は終わりではない。貴女の傍に居続ける」と

 もう二度とその体を抱きしめる事も…、その頬や、唇に触れる事も叶わなくても、琴音の魂は滅びてはいない。それは、辰巳も同じ事だ。二人の魂は、この先の人生で志乃が、二人の事を強く思う時、傍に再び、いつでも蘇るだろう。

 志乃は、焼け跡に再建した自分の家の庭で、秋風に揺れていた白の紫苑の花を想う。琴音が息を引き取った場所に咲いていた、まだ丈の小さい花を。

 戦争末期、自分を撃とうとした、アメリカ軍のグラマン戦闘機に向かい、突っ込んでいった、一機の日の丸をまとった戦闘機。その風防の中に確かに見えた、志乃に手を振っていた辰巳の顔を。

 この二つの不思議な経験が、二人の体は滅んでしまっても、魂は生き続けていると志乃が信じる証拠となっていた。

 志乃は、過去の優しい思い出に縋って、琴音への絶えない思慕に囚われたまま、生きるのではない。

 この先の人生で、琴音と辰巳の魂の存在を節目、節目に感じながら、二人に託された「文学の夢」を掴む為に生きていく。

 その思いを、志乃は、杏子に打ち明けた。

 「これが、あの戦争で生かされた私の、琴音お姉さまと辰巳さん、二人に報いる、私の人生の在り方だと考えています。だから…、琴音お姉さまの為に、私が、過去に囚われるのではないか、という心配なら、大丈夫です。私は、これからも、琴音お姉さまの魂が傍にいると思って、生きていくつもりですから」


 里宮家を出る前、最後に、志乃は、早坂家の仏壇の前で手を合わせた。

 そして、「よろしければ、こちらもどうぞ。辰巳さんが、出征される前に、三人で写真館で撮った、最後の写真です」と、丁度2年前に撮った写真を、杏子に手渡した。琴音が東京に出てからの写真は、殆ど杏子は持っていなかっただろうと思って。


 里宮家を去る間際、杏子は、志乃に、思わぬものを玄関で渡してきた。

 「この着物…、もう、我が家では、着る人もいないから…、あの子と同じくらいに、この紫苑の花の着物を愛してくれた、貴女が着て頂戴」

 志乃が、先程、琴音の母親である彼女に返すつもりで渡した、あの着物だった。

 「え!そんな…、これは、杏子さんが、琴音さんに贈ってくれた、大切な着物なのに、私が貰ってしまっていい訳が…!」

 そう言い、志乃は勿論、最初は固辞した。しかし、杏子は首を横に振る。

 「いいえ、私は、貴女にこそ、この着物は持っていてほしいの…。着物も、きっと愛してくれる人に袖を通してもらえた方が嬉しいものだと思うから。このまま、亡き娘の形見として、暗く冷たい押し入れの中に仕舞っておくくらいなら…、その方が、ずっとこの着物も、幸せだと思う。人生の節目で、今度は、貴女がこの着物を着て…、そして時には、私や夫にも見せにきてほしいわ」

 自分が、果たしてこの着物を、着こなせるだろうか。自分の両手の上に返された着物。その上に咲く、白紫苑の花達を見ながら、志乃がそう言うと、

 「大丈夫よ。貴女のように、この花の事も、着物の事も愛してくれている人は…、琴音が、もう、亡くなってしまった今、他にはいない。胸を張って、この着物を着て。そして、ここを貴女の実家と思って良いから、この着物…、琴音と一緒に帰ってきてね」

 志乃は、着物を硬く、胸元に抱きしめると、

 「分かりました…。こんなに大事なもの、私などが貰ってよいのかという気持ちはありますが、絶対、この着物は、大事にします。そして、この着物が似合うような女性にも、なってみせます。絶対に…」

 そう言って、志乃は、何度も杏子に頭を下げた。

 

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