終戦。そして、白紫苑との出会い

 昭和20年8月15日。日本は、アメリカを中心とした連合国に降伏した。


 日本の勝利を最後まで信じていた、志乃の両親の、玉音放送を聞いた後の嘆きぶりは大層なものであった。

 しかし、いつまでもこの疎開先で、敗戦の悲嘆に暮れて、隠遁生活をしている訳にもいかず、志乃の両親は、9月には、志乃を連れて東京に戻る事を決めた。

 あの街に戻る事は、志乃にとっては、少なからず、辛いものであった。

 琴音、辰巳と過ごした、小さな幸せのあった日々を思い出させ、志乃の前に突き付けてくるから。

 変わり果てた、かつての志乃、琴音、辰巳が暮らした街を歩いた。ろくに復旧など出来ておらず、多くの家が倒壊したままの、焼け野原と化していた。

 それでも、志乃は、廃墟の街から、何とか、琴音、辰巳と過ごしたあの下宿屋の、焼け跡を見つけ出した。

 建物はもう、跡形も残ってはいなかった。焼け焦げた廃材が積み上げられているだけで、在りし日の面影はどこにもない。

 よく軋んだあの、2階に続く少し急な階段も。そこを上った先にある、琴音の部屋も。志乃の足音に気付いて、その襖を開けて、笑って出迎えてくれた、琴音の姿も。

 全ては、あの大空襲の夜に、志乃の手の届かないところへ、失われてしまった。

 

 大勢の人が水面に散った…、そして、琴音も、機銃掃射で命を落とした、あの川の河川敷にも足を運んだ。

 あの夜、街を焼く炎に照らされ、死んだ人々の流す血によって、赤く染められていた川の水は、澄んだ透明を取り戻している。およそ半年前、志乃が、ここで見た、地獄よりも凄惨な光景は、まるで夢だったかのように、秋風に、河川敷の草や、野花が揺れるばかりだった。

 この場所に来るだけで、志乃は、胸を引き裂かれ、そこから血を噴き上げるような思いがした。自分を庇って、機銃掃射に撃たれた琴音の、最期の姿が、頭の中に蘇ってくる。川面で、血を流しながらぐったりと浮いていた琴音。志乃の腕に抱きかかえられながら、掠れていく声で、志乃に、最期の願いを託した琴音…。

 拳を強く握りしめる。その指で、手の肉を貫いてしまいそうな程に。

 唇を噛み締める。そのまま嚙み切ってしまいそうな程の強さで。

 結局、琴音の亡骸は、あの後どうなったのだろう。本当は、この場所から、琴音の亡骸から離れたくなどなかった。しかし、彼女の亡骸を背負って、空襲の中を逃げ回る事など出来ないから、泣く泣く、琴音の亡骸は、この河川敷に残していくしかなかった。

 仮に、琴音の亡骸がその後、どうなっていようと、志乃には、少なくとも、何の知らせも、例えば彼女の家族から来たりはしないだろう。

 自分と琴音との関係。それは、あの、今は焼け跡と化した、下宿屋の2階の、あの部屋の中の世界でしか、許されないものだったのだから。辰巳と琴音は、紛れもない恋人であったが、それに比べ、志乃の立場は、どうしようもない程、あやふやで脆いものだった。琴音をこれだけ思い慕っていて、そして、彼女も、志乃の事を思ってくれていたのに、志乃は最後まで、琴音と「恋人」でも、勿論、「家族」にもなれなかった。自分が、琴音の恋人はあくまでも辰巳であり、邪魔してはならないと、身を引いた結果であるとはいえ。

 彼女の命が散ってしまった今、彼女と志乃を繋ぎとめるものは、現世にはもう何もない。

 河川敷に一人腰かけて、川の水面を見つめる。秋の日差しに水面は眩しく照り返されて、穏やかに吹く風に波打っていた。あの惨劇の夜に見た、血と炎の赤に染まった地獄の川と、同じものにはどうしても思えない。

 髪を揺らす風の中に、秋めく涼しさが混じるのを感じる。

 志乃は、琴音を「お姉さま」という形で呼び、慕うきっかけとなった秋の日の事を、思い出していた。

 琴音の唇に心奪われ…、過ちを犯しそうになってから、志乃は彼女に会わせる顔がないまま、過ごしていた。

 そんな二人を、再びくっつけて、話すきっかけをくれたものは、紫苑の花だった。あの時、見た花は、志乃が本当に見たかった色‐、白の紫苑ではなく、紫の紫苑だったけれど。

 あの日、琴音は、何か「恋人」とも違う特別な関係を望む志乃に、初めて「姉妹」という関係を提案してくれたのだった。志乃が書く小説から、着想を得て。

 あの時の胸の高鳴りが、今も、胸に蘇る。懐かしく優しい思い出なのに、今は、同時にそれが、痛くて仕方がない。この思い出で、笑って、語り合える相手である琴音は、もう、この荒れ果てた街の何処にもいないのだから。

 野に咲く紫苑を、志乃がこの目で見たのは、あの一度きりだった。あの時の紫苑は、志乃と琴音の結びつきが途絶えてしまわぬようにと、奇跡が咲かせてくれた花としか思えなかった…。


 そうして、川辺で、思い出に暮れていた時だった。志乃の視界の隅に、一輪の、白い花が、青々と茂った草むらの中で、風に揺れているのが映ったのは。

 「え…?」

 志乃は、地面から腰を浮かせて、その花に目を凝らした。

 自分のモンペの中に仕舞っていた、ある物を取り出す。

 琴音に教えてもらいながら縫った、白の紫苑が刺繍された、お守りだ。

 それに縫われた花と、今、志乃の瞳に映っている、白く、繊細な花びらの花をよく、見比べる。

 間違いない。あれは、白の紫苑の花だった。野花の中に、咲いているのを見つけるのは、これが初めてだった。

 その花に、志乃は急ぎ、駆け寄った。初めて見る、白の紫苑の花。その脆そうな花弁に、そっと指で触れる。

 琴音が、息を引き取った場所に咲いていた、彼女が最も愛していた花。

 本来、山間の湿った土地を好み、平地の川沿いに咲くような花ではないにもかかわらず、その花が、まるで志乃を待っていたように、咲いていた。

 それが、単なる偶然という方が、無理があるように感じられた。

 4年前の春の日も、そして、去年の3月、志乃が高等女学校を去る時も、琴音が着ていた、あの着物に縫われていた花と寸分違わぬ花が、今、志乃の手の中にある。

 

 「おかえりなさい…、琴音お姉さま…」

 志乃は、大事に、その花を手で包み込んで、小さく、呟いた。

 人が聞けば、笑われてしまうような、そんな連想だったかもしれない。

 しかし、志乃は信じた。この白の紫苑は、琴音の生まれ変わりに違いないと。

 この川辺に、最も愛していた花に生まれ変わり、咲いて、志乃が訪れるのを待ってくれていたのだと、志乃は思っていた。

 この川辺で息絶える直前、血を吐きながら、琴音は「身は滅んでも、魂は滅びない。志乃の傍に、この先もずっといる」と言った。

 この手で触れられる、この耳でその声を聞ける、琴音がいなくなって、どうして自分一人だけで生きていけるだろうとしか、あの時は思えなかった。

 しかし、琴音が命を散らしたのと同じ場所に咲いていた、この白の紫苑を見て、やっと、志乃は、あの時の琴音の思いが分かった。花に姿を変えても、琴音の魂は生き続けている。

 川辺で、花を手で包み込み、志乃は人目も憚らずに、声を上げて泣いた。


 志乃は、その日のうちに、川辺に一輪咲いていた、白の紫苑の花を、丁重にスコップで掘り出して、植木鉢に映した。そして、それを、かつての早坂家の焼け跡に立った、仮設の自宅に持って帰り、その庭で大切に育て始めた。


 志乃が、紫苑の花を家に持ち帰ってから、数日が経った、ある日の事だった。

 「志乃。貴女宛てにお手紙よ。名前は…、はて、一体どちら様かしら?うちと付き合いのある家ではなさそうね」

 母親がそんな事を言いながら、志乃に、一枚の封筒を渡してきた。

 その封筒を受け取った時、志乃は、差出人の苗字を見て、息を呑む。

 「里宮杏子」

 里宮という苗字を忘れる訳もない。琴音と同じ苗字だ。この人は、志乃と琴音の間柄を何か知っているのだろうか?

 志乃は、その封筒を開ける。一枚の便箋が出てきて、このような文面が書かれていた。


 『拝啓 早坂志乃様

 急なお手紙を差し上げて、申し訳ありません。きっと、驚かれている事と存じ上げます。

 私は、生前、貴女と親しくさせて頂いた、里宮琴音の母になります。貴女のお名前については、娘が女学校に赴任してから、郷里の私どもの家に送られてきた手紙で、目にしなかった事は一通たりともありませんでしたので、よく存じております。

 生前、空襲が激しくなった頃、『もし、私の身に何かあった時には、必ず、志乃にも、手紙を寄越してほしい』と、貴女の住所を伺っておりましたので、勝手ながら、手紙を差し上げました。

 実は、私達の元に、空襲で、行方がしばらく分からなくなっていた、娘の遺骨が届いて、この度、ようやく供養を終える事が出来ました。

 もしよろしければ、早坂様も、琴音の仏壇に、お線香を上げにこられませんか。さぞかし、娘も喜ぶ事と思います。

 お返事をお待ちしております。

 里宮杏子 拝」

 

 それは、琴音の実家からの手紙だった。

 彼女の遺骨は、無事に家族の元に送り届けられ、家族と再会出来たのだ。

 

 志乃は、急ぎ、返事の手紙をしたためる。そして、志乃が形見のように、自分の部屋に置き続けていた、琴音の遺品を、風呂敷の中に包む。

 彼女の文字が原稿用紙の上に踊る、懐かしい、彼女の小説達。

 琴音が、最後まで、風呂敷に包んで、大事に持っていた、白の紫苑の刺繍された着物。昭和16年の春、志乃と琴音を引き合わせてくれた白く、繊細な花達は、今も、着物の上に咲いている。秋の日差しの中で、その着物を両手に掲げて、着物の上に咲く白紫苑を見つめていた。

 女学校を去る、最後の日にも、彼女は、志乃の為にこの着物を着てくれた。二人だけが残された教室で、交わした約束。まだ少し冷たい春風が教室に吹き込む中で、この体に確かに感じた、彼女の温もり。

 今も、こうして、この着物を手に取り、見つめているだけで、琴音の声や温もりが、志乃の中に鮮やかに蘇ってくる。

 宝物を扱うような、神妙な手つきで、志乃はそれを、風呂敷の中に包む。

 

 琴音の生家、そこにいる彼女の家族を訪ねる為に、志乃は、闇市に買い出しに向かう人々でごった返す汽車に乗った。

 

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