夢を繋いで

 父の実家に疎開してから、志乃は、勤労動員に出ている間以外は、ほぼ部屋にこもり切りとなった。

 疎開先にも、戦闘機の風防などを作る工場があった為、そちらに、地元の学生らと共に志乃は働きに出たが、義務とされていた動員の時間以外、志乃は、ほぼ、両親とも会話する事はなくなっていた。

 春が深まる昭和20年四月の頃、遂に、人が暮らす本土の土地である沖縄にアメリカ軍が侵攻を開始したとの報を、志乃はラジオで聞いた。人々の中で「遂に本土決戦となるのではないか」「一億総玉砕」の言葉が聞かれるようになり始めた。

 近隣の国民学校の校庭で行われる竹槍訓練に、両親や、近所の農家の婦人共々参加させられた。陸軍の将校らが見守る中、アメリカ兵に見立てた藁で編んだ的に突撃し、その胸を刺す訓練を、志乃は何度もさせられた。

 相手は、あの帝都東京を一晩でほぼ焼け野原に変えてしまうような、底なしの力を持ったアメリカ軍だというのに、こんなもので一体何が出来るだろう、と渡された竹槍を見ながら、志乃は虚しい思いに駆られる。

 この竹槍一本で、アメリカ兵達に向かって行って、銃弾に胸を撃ち抜かれて、それで息絶えられるなら、それも良いかもしれないとも、志乃は思っていた。もう、自分に居場所を与えてくれて、沢山の事を教えてくれた、琴音も辰巳も、何処にもいない。辰巳は、南の紺碧の海に。琴音は、凍てつく三月の川に。水底へと沈んでいく花のように、散ってしまった。志乃が下宿に琴音を訪ねる度に、出迎えてくれた、あの人が良い老夫妻も、大空襲の夜、アメリカの機銃掃射で死んでしまった。‐あの下宿の部屋で過ごした日々、そこで生きていた人々の中で、今、自分だけが無傷で生きている事が不思議でならなかった。あの空襲の晩、何故、自分は琴音と共に死ねなかったのか。

 自分だけが死ねなかったのが、運命のいたずらというありふれた言葉を使うならば、それは、あまりにも残酷過ぎるいたずらだった。

 琴音を失くした悲しみ。それだけではなく、辰巳と約束を交わし、琴音を守る事を誓ったのに、それを果たせなかった。その、身を引き裂かれそうな、という表現でも足りない程の、辰巳と、琴音への罪の意識と、何処までも無力だった自分を責め立てる意識による苦痛。

 あの大空襲の夜以来、そうしたものが、志乃の心を蝕んで、自暴自棄の方向へと、志乃の心も考え方も歪めつつあった。

 工場勤務で疲れた体を引き摺りながら、桜が咲いている、川沿いの道を歩く。昔、辰巳が練兵を受けていた航空隊基地に、琴音と二人で行った時、『戦争が終わったら、三人で花見に行こう』という会話をした事を、志乃は思い出していた。

 しかし、昭和20年の春、志乃の隣には、もう琴音も辰巳もおらず、志乃はたった一人で、無数の桜色の雪を散らしている、その木々を見つめている。土手の上から見下ろす川には、花びらを一面に敷き詰めたように、見事な花筏(はないかだ)が形作られている。いよいよ本土決戦の危機が迫る中であっても、桜の花は、そうした情勢など素知らぬ顔で、いつもと変わらない大輪の花を咲かせていた。

 また、別の記憶も蘇ってくる。

 『桜の花言葉はね、『精神美』『純潔』『優美な女性』。大和撫子の象徴として、こんなに相応しい花はないでしょう?』

 遡る事、4年前…、まだ、アメリカとの戦争が始まる前の、志乃が高等女学校3年に進級した春に、琴音と初めて交わした会話の一幕だった。あれから、志乃は、彼女の話す、花言葉達、それらに纏わる物語に心惹かれていったのだ。そして‐、今も志乃が肌身離さず持っている、白の紫苑のお守りを、二つ、掌に乗せてみる。琴音が愛していた花。その意味を教えてくれたのも、あの日だった。

 志乃と、琴音、辰巳。3人で、花見に行く事さえも、遂に叶わなかった。辰巳、琴音と叶えたい、細やかな夢が、幾つもあったのに、戦争は、その全てを志乃から奪って行った。

 今、志乃に遺されたのは、あの、琴音が息を引き取った河川敷で、彼女から託された『遺品』達…。志乃が持っている二つのお守りのうち、一つは、琴音から託されたものだ。そして、彼女が風呂敷に包んで、大切に持ち出してくれた、小説の原稿達。辰巳の出征前に、写真館で撮った写真。

 お守り以外のそれらの遺品は、今、志乃が間借りしている、父の実家の部屋の片隅に、風呂敷に包まれたままで置かれている。それを見返す気力など、とても、今の志乃にはない。ずっと包みを開けないままでいた。

 琴音の最期の言葉-「この身は滅んでしまっても、魂は必ず、志乃の傍にいる」-を、何度思い返しても、志乃は、心が癒される事はなかった。そんな言葉は、気休めにしか思えなかった。志乃は、自分の小説を読んでくれて、感動に目を潤ませたり、時に微笑んだり…様々な色を見せてくれる、琴音の顔が見たい。

 志乃の小説の感想を話す。または、志乃が、花日記に写生してきた、季節の野花を見て、その花の、花言葉や、その言葉が生まれた物語を教えてくれる、琴音の声が聞きたい。

 それが永遠に叶わなくなってしまった今、「魂だけは滅びない。志乃の傍にいる」と言われたところで、志乃の救いになりはしなかった。魂などという、実体のない、見る事も聞く事も出来ないものに縋って、何の救いになるだろうか。

 工場の勤務は、過酷さを増していたが、身も心も擦り切れるような労働に身を投じている方が、琴音と辰巳への追憶に沈まないで済むだけ、志乃にとってはずっとましだった。あの、父の実家の部屋で、亡き人の記憶と時間を共にするよりは、ずっと。


 それでも、夜は志乃は、ランタンの薄明かりを頼りに、花日記をぱらぱらと捲っては、自分が描いた拙い花の写生。それに付け加えられた文章‐琴音が教えてくれた、花言葉や、その逸話を、今も見返してしまうのだ。そのページを捲る度、彼女の話す声が、ありありと、耳元に蘇ってくるような気がしたから。

 この日記も、もう長らく、止まってしまっていた。もう、花日記をつける事も、ないだろう。志乃にとって大事なのは、花についての知識を得る事などではなくて、それについて、琴音が話を聞かせてくれるその時間だったのだから。琴音亡き今、もう、この日記を続ける意味も失せていた。今は、この日記は、琴音の追憶の為の、道具でしかなかった。

 いずれ、ここにも空襲でもあって、自分の真上にも焼夷弾でも落ちてくれれば良いのに…。布団に入る度、そんな事を、志乃は何度も思った。そうなれば、志乃は全く逃げる事なく、死を受け入れるだろう。琴音と辰巳の元に行けるのだから。

 この地域は、アメリカ軍の目標からは外れているらしく、空襲警報がラジオから流れる事は何度もあったが、この一帯にアメリカ軍機が襲ってくる事はしばらくの間なかった。

 だから両親も、「こっちにいる限りは、アメ公の戦闘機に襲われる事はないし、安全だ」と高をくくっているようだった。


 しかし、そんな束の間の安心も、呆気なく崩れ去る出来事が発生した。

 それは、いつものように工場で、延々と風防を作る作業をしている時だった。工場一帯に、東京でも何度も聞いた、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。

 ラジオの放送内容によれば、B29爆撃機と、それを護衛する複数の戦闘機が、この地域に向かって、高速で侵入してきているようだ。この工場も爆撃で破壊される恐れは、十分にあった。

 「一旦、総員退避!訓練の通りに、各自、工場近くの防空壕まで一時退避して、敵機が退いたのちは、すぐに被害状況の確認と、消火活動や、負傷者の救護に当たる事!」

 工場の監督から、その命令が下ると、作業中だった学生らは、一斉に、工場の建物から飛び出して、山の方に作られた防空壕の方へと退避を始めた。志乃も、その一団の中に紛れて、防空壕に退避する為、走っていた。

 ‐しかし、考えてみれば、何故、自分は「助かる為に」「生きる為に」防空壕へなどひた走っているのだろう。自分は、何度も、琴音、辰巳の元に行きたいと願った筈なのに。逃げずに、アメリカの爆撃にでも、機銃掃射にでも遭えば、その望みは叶うのに…。

 「馬鹿!!立ち止まるな!お前、死にたいのかよ!」

 志乃の足が止まりそうになったのを、足早に駆けていた男子学生が迷惑そうに交わして、そんな言葉を捨てていく。

 

 志乃の耳に、プロペラ機の、急降下音が響いた。空を見上げると、青く塗装された機体に、アメリカ軍の航空機である事を示すマーク…白い星が染め抜かれている。

 「皆逃げて!グラマンよ!」

 グラマンと呼ばれたアメリカ軍の戦闘機2機が、工場の方には目もくれずに、まるで、地上に獲物を見つけて、飛びかかっていく猛禽類のように、志乃と無防備な女学生達に真っ直ぐ向かってくる。

 誰かが、「固まらないで。皆、道の脇に散らばって、身を隠して!」と叫ぶ。その指示の通りに、道の脇の斜面にばらけて、そこに生い茂る草むらに身を隠す。

 志乃もそれに倣って、道の脇の草むらの中に這いつくばって、頭を守る姿勢を取る。

 ‐やがて、琴音が死んだあの晩に聞いたものと同じ、小刻みに、絶え間なく続く破裂音がダダダ…と鳴り響く。今回は、あの時よりも更に地上に近い高度から撃ってきている為か、その機銃の射撃音は、志乃の頭の中にも重く響く。

 そっと、薄目を開けると、銃弾が土砂降りのように降り注いで、もくもくと土煙を上げている。その銃弾の威力は凄まじく、道の脇の小さな木の幹に当たると、その幹が裂けて、木が倒壊した。

 もう一機も、地面に伏せている志乃達に向けて、機銃を撃ち始めた。道の脇に隠れているのは、アメリカ軍の操縦士からももう、とっくに見えているだろう。志乃達が伏せる草むらにも、銃弾が降り始めた。忽ち「きゃあ…!!」と、悲鳴が上がる。

 「も、もう…嫌あ…!!」

 一人の女学生が、斜面から身を起こして、走り出してしまった。

 「馬鹿っ!!訓練の通りに身を隠しなさ…!」

 班長的な役割を果たしていた他の女学生が、地面から半身を起こして、彼女を止めようとしたが…、次の瞬間、彼女の胴体を、上空から降り注いだ銃弾が撃ち抜いた。彼女は、血飛沫と共に、草の上に倒れ伏した。混乱して走り出してしまった女学生も、グラマンから逃げきれる筈もなく、機銃弾の直撃で片手を引きちぎられ、胴から、足からも血を噴き上げて、地面に倒れた。彼女の体の下、血の花が地面に咲いていく。

 二人の女学生が無惨に射殺される光景を見て、道の脇に隠れていた、他の女学生らも大混乱に陥っていた。「このまま隠れていてもどのみち撃たれるだけ」と判断した、多くの女学生らが、草むらを飛び出し、防空壕の方へ向けて、走り出してしまった。

 すると上空で悠々と旋回飛行していた、2機のグラマンは、再び、滑空して高度を下げ、地上にいる志乃や女学生達の方に向かってくる。そして、逃げ惑う女学生を、両翼の機銃から銃弾を浴びせ、殺戮していく。

 そこに何のためらいも感じられず…、草むらから少しだけ頭を上げた志乃の目に、飛び去るグラマンの風防の中、アメリカ軍の操縦士の顔が一瞬、垣間見えた。その青い目を細め、彼は、獲物を追って楽しむ猟師のように、口元に笑みさえ浮かべていた。

 「ああ…、あいつらは、大人も子供も、男も女も関係なく、日本人を殺す事を楽しんでるんだ…」

 幾つもの悲鳴が上がり、道の上にばたばたと女学生らが倒れ、血だまりを作っていく。その非情な殺戮の前に、志乃はそう、直感した。

 2機のグラマンの様子を見ていると、志乃の眼前、数十センチのところにまで、銃弾は命中した。土煙が顔のすぐ前で上がって、草が千切れ飛ぶ。もう少し、身を隠す場所がずれていたら、今の弾で志乃は頭を撃ち抜かれ、即死していただろう。

 このままでは、殺される。逃げなければ。そう思って、志乃は体を動かそうとした。

 しかし、志乃の頭の中で、声が、囁く。

 『どうして、死ぬのを恐れる事があるの?ここで死ねば、愛しい琴音お姉さまの待つ世界に行けるのに』

 腰を浮かしかけた志乃は、身動きを止める。暗い安堵が、志乃の心の中を満たしていく。そうだ。どうして自分は逃げようなどとしていたのだろう。ここで、グラマンの機銃の餌食になれば、志乃も、琴音の元に行ける。冥府の世界で、もう一度、琴音を抱きしめて、その手に抱きしめられて…、次は、戦争も何も邪魔する事の出来ない場所で、永遠に琴音の傍にいられるのに。

 「そうだ…、簡単な事じゃないか…」

 志乃は、草むらから立ち上がると、全く身を隠そうともせずに、ふらふらと道の中央へと歩き出る。女学生らの遺体で、死屍累々の有様となっている、道の中央で、仁王立ちとなり、志乃は、上空を飛ぶ2機のグラマンをじっと見つめる。間もなく、自分に死という救済をもたらして、もう一度、琴音に会わせてくれる。鋼鉄の翼をまとった、死神の姿を。

 

 「はっ!!何だ、あのジャップの小娘。撃ってくださいとばかりに、道の中央で突っ立ってやがるぜ。恐怖に気でも狂ったか?」

 グラマンの操縦桿を握り、眼下に広がる、日本人の女学生らの遺体の数々を眺めて、満足していたアメリカ軍のパイロットは、道の中央に無防備に立つ、一人の少女を見て、せせら笑った。

 機内無線で、僚機の声が入る。

 「お前の射撃に見惚れて、ハートを撃ち抜かれたいんだろ。お望み通りにしてやれよ。どうせ、ジャップの小僧や小娘共なんて、何人殺そうが軍からのお咎めなんかないんだからな。もう一人くらい殺したところで、構うもんか」

 「OK。あのクレイジーな小娘は俺が仕留める。お前は邪魔すんなよ」

 そう軽口を叩いて、グラマンのパイロットは、道の中央、虚ろな面持ちで立ち尽くす、日本人の女学生に、機銃の照準を合わせる。そのまま、高度を落として、地上の方へと高度を下げる。彼女は全く動こうとしない。微かに、表情が見えるくらいに近づいてきた。

 彼女の、まるで死を渇望しているかのような、虚ろで、生気の失せた瞳が、一瞬、グラマンのパイロットには見えた気がした。日本への本土空襲が本格化してから、何人かの学生らを遊びで機銃掃射し、射殺してきたが、あのような目でこちらを見つめてくる相手には会った事がない。

 「何だよ・・・あのジャップ。ピクリとも動かず、逃げようともしねえ。気味が悪いくらいだ。恐怖どころか、顔に薄笑いさえ浮かべてる」

 その異質さに思わず、背筋が冷える。しかし、やる事は一つだ。機銃の発射ボタンを押して、あの小娘の望み通り、あの世に送ってやるだけ。

 数秒後には、物言わぬ肉塊と化して、あの小娘も地面の上に倒れている。一瞬でかたが付く話だ。

 そして、機銃のボタンに指をかけようとした、まさにその時だった。


 突如、鳴り響いた機内無線が、パイロットの男の集中を削いだ。

 「10時の方向から敵機!!」

 その声は酷く動揺していた。まるで、幽霊でも見たかのように。

 「はあ?ジャップの戦闘機なんて、いる訳が…」

 僚機のパイロットの悪ふざけかと思い、10時の方向に目線を上げると…。

 そこには、緑の塗装をされ、両翼には、白丸の中に赤丸が描かれた‐、日の丸をあしらった、1機の日本軍機がいた。パイロットは、我が目を疑った。

 「ば、馬鹿な!!オスカー(※日本陸軍の戦闘機「隼」の、米側の呼称)だと?一体、どこから来やがった⁉」

 B29の護衛で、日本上空に入った時に、何度か見た事のある、こちらを迎撃しに向かってきた日本軍の機体。間違えようもなく、オスカー(隼)だった。

 「くそっ!!ジャップ狩りで遊び過ぎた。こっちは残弾が少ない。援護に回ってくれ!ゴーストか本物か知らんが、オスカーを迎え撃つぞ!」

 僚機に急いでそう伝えると、機体を急旋回させ、オスカー(隼)から距離をとった。


 志乃は、茫然として、上空を見上げていた。

 虚空から、突然滲み出るようにして、1機の、日の丸をあしらった日本軍機が出現し、グラマンに向かって行ったのだ。完全に気を抜いていたらしいグラマンは、数では勝っているものの、慌てた様子で、振り切ろうとして高度を上げて行った。

 「え…、何…、あの飛行機は、陸軍さん?でも、一体何処から?」

 「と、とにかく、皆、今のうちに防空壕まで逃げましょう!陸軍さんが、グラマンと戦ってくれてる間に」

 志乃の後ろでは、まだ生きている女学生らが、慌ただしく言葉を交わして、次々と、道の脇から立ち上がって、防空壕の方へと走り去っていく。もう、上空のグラマンは、こちらに構っている余裕はないようだった。

 

 そして…、志乃は、距離で、上空数百メートルは離れており、はっきり見える筈はないのに、その日本軍機の風防の中に、間違いなく、見たのだ。

 懐かしい、山城辰巳の顔を。

 志乃の方に目を遣り、そっと、手を振る、彼の姿を。

 「辰巳さん…⁉」

 志乃は、彼が、最期の手紙で、「身は滅んでも、魂は必ず、琴音、志乃の傍にいる」という言葉を遺してくれたのを、思い出した。彼はその約束を果たしたのだ。

 志乃を守ろうとして、彼は死しても尚、操縦桿を握って、アメリカ軍機に立ち向かっている。

 「辰巳さん…、私を守ろうと、帰ってきてくれたの?」

 志乃は、届く筈もない、機体の中の辰巳に向かって、そう問いかける。

 グラマンへ向かい、飛んでいく最中、風防の中に垣間見えた、彼の表情は優しく微笑んでいた。戦闘機用の飛行服に身を固めていても、その顔は、あの琴音の下宿で何度も彼が見せてくれた微笑みと、全く同じだった。

 

 次に我に帰った時、志乃の視界からは、グラマンも、辰巳の操縦する機体も、掻き消えていた。あたりには、静寂と…、痛ましい、女学生らの遺体だけが残された。

 あの機体に乗っていたのは、見間違えなどでは決してなく、辰巳だった。遥か、比島の海の底に身を沈めても、志乃を守ろうとして、日本の空に舞い戻ってきてくれたのだ。


 死を選ぼうとしていた志乃を、本当は生きたいと願いながらも、特攻作戦の為に死にゆくしかなかった、辰巳の魂が、救ってくれた。

 志乃は、自分の考えの身勝手さに気付き、そして、地面に手を突き、むせび泣いた。生きたくても生きられなかった辰巳の無念も忘れて、琴音が自分に託してくれた「夢」も捨てて、自暴自棄になって、ただ琴音の元に行きたい一心で、死ぬ事を願っていた、自分の事を恥じて。

 

 「辰巳さん…、私は…、なんて、身勝手な事を…。辰巳さんの無念も、琴音お姉さまから託された夢も忘れて、いっそ死んでしまおうなんて。ごめんなさい、ごめんなさい…!」

 琴音の命を守れなかった志乃の事を、それでも辰巳は、こうして守ってくれた。志乃は、本当なら辰巳に恨まれても仕方ないと思っていたのに。先程見た、志乃に向けて手を振る、辰巳の表情に、志乃への恨みは微塵も感じられなかった。志乃の知っている、優しい微笑みを浮かべた、彼のままだった。

 グラマンの機銃で撃たれて、死んでも構わないなどと、自暴自棄に陥りかけていた志乃を、死してなお、辰巳は救ってくれた。

 地面の上に、幾つも、涙の粒が落ちては、しみを作っていく。志乃は、固く拳を握りしめ、誓った。


 自暴自棄になって、死のうとするような事はもうしない。

 辰巳、そして琴音。二人の犠牲の上に、自分は今も生きている。琴音から、「生きて、文学の夢を繋いで」と、託された思い。志乃に、幸せを掴んでほしいと願いながら、志乃を庇って死んでいった琴音の為にも、自分は生きて、筆を執り続ける義務がある。

 志乃は、涙を拭って、立ち上がった。

 

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