さようなら、お姉さま

 全ては、時間にすれば数回の瞬目の間に過ぎない時間のうちに終わった。アメリカ軍の航空機の機銃掃射が、逃げ場を無くしていた、河川敷の避難民に加えられ、あとには、地獄が残されていた。

 川面には、既に浮いていた焼死体達に加えて、今しがた、機銃掃射から逃げようと川に駆け込む途中で撃たれて、息絶えた避難民達の、真新しい亡骸が何体も浮いていた。

 「痛い…、痛いよぉぉ…!!」

 「誰か…助けて…!」

 即死を免れた人々も多くが、体の何処かを撃たれ、痛みに泣き叫んでいた。

 そうした苦悶の声も、やがて、息絶えたのか、一つ、また一つと、聞こえなくなっていった。

 志乃は、死に物狂いで、琴音の体を抱きかかえて、川から、草をかき分けて、河川敷の土の上に這い上がった。3月の川の水は、凍えるように冷たく、志乃の体温を奪っていって、手も足も殆ど感覚がなかった。

 しかし、そのような事を気にしている余裕などなかった。志乃は、銃創から溢れ出る血で、服は血みどろとなり、変わり果てた姿の琴音の体を必死に揺さぶった。彼女の血色は、みるみるうちに、蒼白となっていった。

 「琴音お姉さま…、しっかりしてください…!!琴音お姉さま!!」

 琴音の体を抱えたまま、志乃は叫んだ。琴音は口からも血を流していて、志乃の言葉に、薄く目を開けると、何かを言おうとした。

 しかし、言葉の代わりに、彼女は激しく咳き込んで、開かれた唇の隙間からは、鮮血が溢れ出た。

 「し、志乃…。良かった…、志乃は、無事、だったみたい、ね…。ま、守られてばかりの、な、情けないお姉さまだったけれど…最後、に…、妹の、貴女を守れて、良かった…」

 「お姉さまの馬鹿っ!!なんで…、あんな事したんですか!!私を庇って撃たれるなんて…!!」

 「い、妹を、命に代えても守るのが、『姉』の務めだから…。志乃に、救われてばかりの、情けないお姉さまだった私も、やっと、最後に志乃の『姉』らしい事を出来たわね…」

 「琴音お姉さまは、情けなくなんかない…、沢山の事を教えてくれて、私に居場所をくれたじゃないですか…、全ての花に、背負って生まれてきた意味がある事も…、琴音お姉さまのおかげで知る事が出来たんだから」

 琴音の手が次第に熱を失っていく。彼女は瞼を閉じて、長い睫毛を震わせていた。大量の血液を失った事で、体温が下がって、凍えているのだろうか。

 その姿が、どんどん、死の底へと、彼女が引きずり込まれていく姿のように見えて…。

 志乃は、琴音の体を抱きしめて、必死に彼女の体を温めようとする。

 「嫌だ…!琴音お姉さまが死んでしまったら…、私の残りの人生に、意味なんてない!!お姉さまが、私の小説を読んで、微笑んでくれて…、私も、お姉さまの小説から、沢山の気持ちを貰って…、そんな未来が来る事を夢見て、この戦争もずっと耐えてきたのに…。お姉さまだけが、今の私の生きる希望で、生きる理由だったのに!」

 そう叫んでいる志乃に、そっと、琴音は手を伸ばして、志乃の頬を撫でてくれた。

 「そんな事を…言っては、駄目よ…、志乃。貴女は、辰巳さんと、私の、叶えられなかった分まで、未来に文学の夢を繋いでいってほしい…。貴女の小説を、待ってる人達がきっといる筈、だから…。志乃が、書き続けてくれる事が、私の、最後の願い…。私が、志乃の小説の最初の読者に、もう、なってあげられないのは、悲しいけれど…、貴女の傍で、私の魂は生き続けるから。この体が、ほ、滅んでしまって、も…私の魂は、終わりじゃ…ない、から」

 そこで、琴音の言葉は途切れ、彼女は胸を押さえて、一段と激しく咳き込んだ。再び、口から血を吐き出す。

 琴音が流した血で、自身も血だらけになりながら、志乃は、琴音が最後の力を振り絞って、かけてくれた言葉に、辰巳の遺書と同じ物を感じ取っていた。

 彼もまた、特攻作戦に散っていく前、琴音と志乃、二人に送った遺書で、同じ事を言っていたのだ。『南の海の墓標の下に骨は埋めても、魂魄(こんぱく)は不滅であり、二人の事を見守っている』と。

 そして、今度は、志乃を守って、敵の機銃弾に倒れた琴音も、同じ事を口にしている。体は滅んでも、魂までは滅ばないと。

 琴音と辰巳は、やはり、惹かれ合った者同士、その根底にある、自己犠牲も厭わない精神はよく似ていた。

 でも…、琴音にそう言われたところで、どうして志乃が、受け入れられるだろう?志乃は、生きている琴音に、傍にいてほしいのに。

 琴音の体が滅んでしまうというのは…、自分を抱きしめてくれる華奢な腕。教室の隅々までよく通った、澄み渡った声。志乃が小説の上に紡いだ言葉で、文章で、物語で、色々な表情を、まるで野花の色が季節と共に移り変わっていくように、咲かせてくれる、その尊き顔。それら全てが、この世から滅び去ってしまう事だ。

 「だから…、どうか、泣かないで…志乃。た、辰巳さんと同じように、私も、志乃に…、悲しみではなく、喜びの涙を、流してほしいから。お願い。どうか…、私が死んでも、小説を書き続けて…。夢を、繋いで…」

 琴音の声が、いよいよ、小さくなっていく。呼吸も苦しそうに、浅く、早くなっていく。彼女に最期の時が近づいているのを、もう、認めずにいる事は出来なかった。

 悔いなく死んで行けるように、志乃に、言葉を遺そうとしていた。

 『もう、血を吐きながらまで、喋らないで』と、琴音を止めたい気持ちと、まだ、琴音の声を、残り僅かな時間でもいいから、聞いていたい気持ちとが、志乃の中でせめぎ合った。

 琴音は、志乃の頬を撫でながら、こう言った。

 「我儘、ばかりで、ごめんね…。私の…、下宿屋から持って、きた、宝物…。私と、辰巳さんと、志乃の、3人の、思い出の原稿も、写真も、全部、志乃が、もらって頂戴…。私と辰巳さんと、志乃が一緒にいた事を、いつでも、思い出せる、ように…」


 その言葉を最後に、琴音の体から力が抜け落ちた。志乃の腕にかかる重みが急に増した。

 彼女の首が、後ろに反り、志乃に、その白い喉笛を晒した。先程まで、苦し気に息を続けて、声を絞り出していたその喉が、再び動き出す事はなかった。

 志乃は、琴音の頭を抱え込んで、自分の顔の近くに持ってきて、その顔を覗き込む。瞼は閉じられて、微かに震えていた長い睫毛も、動きを止めていた。

 琴音お姉さま、と、最初は静かに呼びかけた。返事はない。琴音お姉さまと、二度目はより腹に力を込めて、声を出して呼んでみる。彼女の閉じられた瞼も、血を流したままの口も、もう微動だにしなかった。

 三度目。琴音お姉さまと名前を呼んだ時は、志乃の声は、泣き叫ぶ声と化していた。何度も、何度も彼女の名前を呼び続けた。物言わぬ亡骸と化した、琴音の血塗れの体を、自分も血塗れになるのも構わず、抱きしめたまま。

 もう一度、さっきのアメリカ軍機が戻ってきてくれるのを、志乃は願った。この場で、その銀翼に装着した機銃で、自分を撃ち抜いて、殺してほしいと熱望した。そうなれば、自分の体の一部が削がれる事よりも苦しい、この永遠の別れの痛みも、感じなくなるから。

 しかし、もう、アメリカ軍機が機銃掃射を仕掛けに戻って来る事はなかった。河川敷で、志乃は、琴音の亡骸を抱きしめ、土の上に倒れ込んで、尚も泣き続け…、いつしか、気を失っていた。


 朝日が差した頃…、志乃は、薄っすらと目を開けた。その真正面には、口元から血を流して、瞼を閉じたままの、琴音の死に顔があった。彼女の亡骸を抱いたまま、泣き疲れて、いつしか、気を失っていたらしい。

 その体が、顔が、血飛沫に染まっていなければ、彼女は眠っているだけだと言われても、疑わないような、穏やかな死に顔だった。琴音の口元だけでも、せめて綺麗にしてあげようと思い、志乃は、ハンケチで、彼女の唇についた血を拭い去る。

 もう、唇も冷え切っていた。二度と、花が咲いたように綻ぶ事のない、彼女の唇に指先で触れていると、志乃は、また、涙が零れてくる。

 あたりで、生きている人間は志乃だけのようだった。この河川敷に転がっている何人もの人は、皆、手や足が千切れ飛んだり、体中を蜂の巣のように穴だらけにされて、一目で、息絶えていると分かる人だけだった。

 向こうで、志乃も、琴音も可愛がってくれていた、下宿屋の老夫妻も、無惨に撃ち殺された姿で、転がっていた。昨日の一晩の間に、志乃の世界を構成していた物の全てが、破壊されてしまった。あの、帝都を襲った無慈悲な、数えきれない程の鋼鉄の猛禽達‐アメリカ軍の爆撃機によって。

 志乃は、朝日に照らされる中、琴音が大事に抱えてきた風呂敷包みを開いた。

 彼女と二人で作った、白い紫苑の刺繍の、お守り。懐かしい文字が躍るのは、辰巳、琴音、そして、志乃。三人それぞれの、小説の原稿だった。

 そして、パラッと、原稿の間に挟まっていた写真が出てきた。二枚の写真。

 一枚は、琴音と辰巳の写真で、もう一枚は、琴音と辰巳と、志乃の三人で撮ったものだ。辰巳の出征前に、三人で写真館で撮ってもらった、あの写真だった。

 三人が繋がっていた事を証明するものは、琴音が、戦火の中でも守り抜いてくれた、これらの品だけだ。

 彼女は息を引き取る前、最期の言葉の中で、志乃に、この「宝物」をどうか、守り抜いてほしいと、志乃に託してくれた。

 三人の小説の束を、お守りを、二枚の写真を大事に、もう一度風呂敷の中に包み込む。

 琴音を守れなかった自分が、この戦争の中で、まだ、守り通せる物があるとするなら、それは、これらの品だけだ。

 志乃は、地面に倒れたままの琴音に目を移す。彼女の体の下の地面は、血を吸って、赤黒く染められている。

 アメリカ軍の爆撃機達は、一夜の悪夢のように消え去ってしまっても、琴音の亡骸に目を移せば…、もう二度と、志乃に応えて、声を聞かせて、名前を呼んでくれる事のなくなった彼女の有様を見れば、あの大空襲の夜は悪夢などではなく、現実だったのだと否応なしに突き付けられる。

 本当なら、あの機銃掃射に襲われた時、志乃が、琴音を守って、撃たれなければならなかったのだ。何故なら、辰巳との最後の、別れの夜に、彼から、琴音の事を任されたのだから。志乃はあの時、辰巳が散ってしまっても、自分が必ず、琴音を守るのだと誓ったのに、辰巳との約束も果たせなかった。

 そう思うと、志乃は、辰巳に対する罪の意識に、身も引き裂かれるような心地がした。

 「ごめんなさい…、ごめんなさい!!辰巳さん…!琴音お姉さまを、私は、守り切れなかった…!本当は、私がお姉さまを庇って、撃たれなければいけなかったのに…!」

 立ち上がる気力も湧かず、草むらに突っ伏して、何度も、辰巳への謝りの言葉を述べて、泣きじゃくった。何度も、何度も、握った拳を土の上に叩きつけて。

 琴音の元に、這うような無様な恰好で近づく。

 もう、決して、志乃の名前を呼ぶ為に。或いは、あらゆる花に込められた、思いを乗せた言葉の話を聞かせる為に。言葉を紡ごうとして、動く事はない、その、冷たく固まりつつある、彼女の唇に…、志乃は、自分の、涙に濡れた、唇を、そっと重ねた。

 罪だと分かっていた。琴音の唇に、そのような事をするのは。それは、亡き辰巳だけが触れて良い場所だと思っていたから。

 しかし…、その唇に決して触れる事もないまま、琴音と、このまま、生者の世界と死者の世界。その二つの世界で、永遠に引き裂かれてしまうのは、志乃にはどうしても耐えられなかったのだ。

 だから永遠の別れの前に、志乃は生涯で、最初で最後の‐、琴音の生前には、交わす事のなかった、彼女との口づけを交わした。

 触れる唇は氷のように冷たく、少ししょっぱい。それは彼女の唇を染めた血の味と、自分の涙の味が混ざり合って、そう感じられたのだろう。

 息絶えている彼女は、反応を示さない。その顔に、驚く事も、赤らめる事も、何の変化も現れない。琴音の死というものを、またも、痛感させられる。

 

 これは、志乃からの、琴音が死出の旅に出る前の、別れの挨拶の口づけだった。

 「さようなら…、琴音お姉さま」

 琴音の亡骸の両掌を組ませた。そして、世話になった、下宿屋の老夫妻二人の遺体にも、同じようにした。

 彼女の亡骸を、ここに置いていくしかないのは、断腸の思いだった。志乃は、彼女の亡骸の傍に跪いて、両手を合わせ、祈りを捧げた。

 志乃は、そう、別れを告げた。

 

 そうして、放心状態のようにして、琴音が遺した品を包んだ、風呂敷を背に、志乃は土と血に汚れ切った姿で、荒れ果てた街を歩いた。

 世界の終焉の日というものがあるならば、きっと、このような光景がその時は、世界中に広がっているのだろう。志乃は、痺れた脳の片隅で、そのような事を想った。

 至る所に、丸焦げとなった遺体の山が築かれていた。男か女かさえも判別が困難な程に黒く焼け焦げた遺体が、道のあちらこちらに転がっていて、それを、軍や、警防団の人間達が忙しなく、荷車などに乗せて、回収に回っていた。

 途中で見た家屋や建物で、焼かれていない、無事なものなど一つもなかった。多くは、焼夷弾の威力の前に焼き尽くされて、倒壊していた。

 昨日の惨劇を辛うじて生き残った人々も、多くは、煤で真っ黒に顔を汚していて、道に座り、この先、どうしたらいいのか分からないというように、頭を抱え込んでいた。家を焼け出されたらしい人々が、憔悴しきった表情で、道の端にたむろしている。

 そうした街の光景を横目に、志乃は、ふらふらと彷徨い歩いた。そして、その途中で、空襲の被害状況を確認に回っていた巡査に呼び止められ、保護された…。

 そこから後の事は、志乃の記憶にない。

 幸い、常に携帯していた救助袋の中に、身元を証明する物があったおかげで、志乃の身元はすぐに警察も分かり、彼女の身は、両親の元に帰る事は出来た。


 ずぶ濡れとなって、顔も服も血飛沫と土と、煤で汚している志乃の姿を見て、両親は驚愕していた。

 そして二人からは、勝手に単独行動して、一体今まで、何処で何をしていたのか。姿を消す前に言っていた、「琴音」という人物とはどういう関係なのか。山ほど、勝手な行動について詰問されて、激しく叱責された。しかし、いくら詰問されても、志乃は、自分が何をしていたのか、琴音とはどういう関係なのかを、両親に話す気にはなれなかった。らちが明かず、困り果てた両親は、最終的には、「志乃はきっと、昨日の空襲のあまりの恐怖で、一過性に気が触れて、理解不能な行動に及んだのだろう」と結論づけた。

 いっそ、本当に気でも触れてしまえたのなら、どれだけ良いだろうと、両親の勝手な言い草を聞きながら、志乃は思った。それなら、この胸の痛みも、何も感じなくてよくなるだろうにと。


 ‐3月10日の、この帝都への大空襲から程なくして、志乃の両親は、志乃を連れて、父の方の地元へ、疎開を決めた。アメリカとの戦争が始まった頃は、「神州日本は米英に必ず勝つ」と、勝利を信じて疑わなかったあの両親でさえ、最早、帝國陸海軍にこの帝都を、日本本土をアメリカ軍から守る力がない事は認めざるを得なかった。

 

 ‐志乃だけは、機銃掃射から守らなければ…。そう思った時、琴音は、考えるよりも先に、体が動いていた。

 志乃の体を引っ張るようにして、業火に照らされている紅い水面へと、琴音は飛び込む。そして、川底に向けて突き落とすようにして、力いっぱい、志乃を押した。

 水の厚みが、銃弾から志乃を守ってくれるかもしれないと、咄嗟に判断したのだ。

 水中も、燃え盛る街の炎で照らされて、まるで血を垂らしたように、薄い紅に染まっていた。川底に落とされて、志乃が驚きに目を見開いていた。

 そして、次の瞬間、水面近くにいた琴音の耳に、ダダダ…という、小刻みな破裂音が飛び込み、川面に無数の水柱が噴き上がった。琴音、志乃と同じように、逃げようとして川に飛び込んだ人達から、次々と悲鳴が上がる。

 自分の背中に、急に火が付いたような熱を感じた。そして、琴音は、喉元に何かがせり上がってくるのを感じて…、血を吐き出した。

 自分が機銃掃射に撃たれた事を悟った。琴音や、川の水面近くにいた人々に銃撃を加えたアメリカ軍機の、プロペラとエンジンの音が遠ざかっていく。

 琴音は、川底にいる志乃が、口をぱくぱくと動かし、泡を散らしながら、こちらに向かってくるのを見た。その表情は、絶望に歪んでいた。

 志乃の体は何処も撃たれていない。銃弾も、川底にいた志乃にまでは、届かずに、彼女の体は無傷であった。

 やがて志乃は、水面に対してうつ伏せの姿勢で浮いていた琴音を抱きかかえて、河川敷の方へと引っ張ってくれた。

 「琴音お姉さま…!!しっかりして!お姉さま!!」

 そんな言葉を、悲痛な声音で繰り返し叫びながら。そして、河川敷の草の上で、琴音は、志乃の膝の上に身を預けるようにして、抱きかかえられた。琴音の流した血がついて、志乃も、服も顔も血塗れになっていた。

 良かった…。志乃はまだ、生きてる。自分に向かって、叫んでいる彼女の声を聞いて、それを実感し、琴音は心底、安堵した。

 結局、お姉さまたるような事は、殆どしてあげられなかったように思う。寧ろ、琴音の方が、情けない姿ばかり、「妹」である志乃には見せてしまっていた。こんな、頼りない「お姉さま」であっても、最後には、大切な「妹」の為に、身も命も、投げ出す事が出来た事に、琴音は、不思議な、満ち足りた気持ちとなっていた。

 自分は、情けのない「お姉さま」だったという事を話すと、志乃は強く、首を振ってそれを否定した。

 琴音は、自分に沢山の事を教えてくれた。あらゆる花に、背負って生まれてきた言葉がある事を。そして、女をしか愛さない人間の自分の事を、琴音は拒絶せずに受け入れて、自分の居場所を与えてくれた事を。志乃は、一生懸命に話して、聞かせてくれた。

 志乃の中に、自分という存在が深く、根を張る事が出来ていたのを、嬉しく思った。

 琴音は、出血で、遠のきそうになる意識を奮い立たせ、彼女に、最期の願いを託す事にした。もう、この傷では、何をしても助かりはしない。もうすぐ、辰巳の元に自分も旅立つ。辰巳の生還を願い、願掛けとして、小説を書く事を断った日から、遂に、この手で、再び筆を執る事は叶わなかった。

 志乃に約束してもらった、自分の小説の最初の読者となってもらって、その感想を聞かせてもらう事も…、二人で、働きながら一緒に暮らして、書き続けていく夢も、ここで潰える。

 こんな願いは身勝手な押し付けでしかないと、分かっていても、琴音は、自分の果たせなかった、文学への夢を、志乃に繋いでいってほしかった。この願いは、志乃にしか託せない。

 自分がいなくなった後の未来でも、志乃には、筆を執って書き続けてほしいという、琴音の願いに、志乃は「そこに、私の小説を一番に読んでくれる琴音お姉さまがいないのであれば、書き続ける意味なんてない!」と、強く拒んだ。

 琴音の存在が、志乃の小説を書く理由の全てとなってしまっては、ならない。彼女の小説は、きっと、この戦争が終わった、その先の時代でも、「志乃と同じ形の愛」に苦悩する少女、女性達の救いにもなり得る力があると、琴音は信じていたから。それを、琴音の為に、志乃が捨て去ってしまってほしくない。自分の死が足枷となってほしくもない。

 だから、琴音は、辰巳から遺された言葉の一節を改めて思い出す。「身は滅んでも、魂は常に、見守っている」と、魂魄不滅を信じた彼の言葉を。

 どんどん、呼吸が浅くなり、苦しくなっていく。志乃に、まだ伝えていない言葉があるのに、声を出すのも苦しい。それでも、琴音は、志乃に告げる。

 「私の身は、ここで滅んでも、志乃が書き続けている限り、貴女の傍に、私の魂はいつでもいて、志乃を見守っている。死んでも、魂は終わりではないから」

と。

 血と煤が混ざり合って、汚れた、志乃の頬を、幾筋もの涙の粒が零れていく。琴音の表情を見つめながら。

 このような事を言われても、今の志乃がすぐに受け入れきれる道理がない事も、勿論分かっている。だけど、この場で受け入れられなくてもいい。琴音の言葉を忘れないでいてくれて、いつか、志乃が、琴音の魂を確かに、その傍に感じられるようになってくれるのなら。

 せめて、この感触を忘れまいと思い、力を振り絞り、震える手で、志乃の頬をそっと撫でる。

 薄れゆく意識の中、最期に見る事が出来たのが、志乃の顔で良かった。

 志乃の温もりの中で、琴音は、そっと瞼を閉じていった。

 『さようなら…、志乃』

 

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