業火に散る白紫苑

 ‐昭和20年3月10日。

 

 その夜の事を、志乃は生涯忘れる事は出来ないだろう。

 その日は、アメリカ軍の爆撃機による、本土空襲が始まって以来、最悪の規模の大空襲が帝都一帯に襲い掛かった夜だった。

 昭和20年の年明け頃から帝都は、軍事拠点の一切ない、下町、住宅街までも、アメリカ軍が容赦なく降らせる、焼夷弾の、炎の嵐で焼かれるようになった。誰の目にも、空襲が今までと違う段階に移行した事は明らかだった。しかし、3月上旬のこの日、帝都を襲ったものは、それらをも凌ぐ程の、文字通り、「全てを焼き尽くす」為の空襲だった。


 志乃の眼前に広がる景色の中、火がついていないところを探す方が難しかった。 

 防空頭巾越しにも、火の熱が頬に伝わってきて、その熱だけでも肌を焼き焦がされそうな程だった。

 昔、寺で見た事のある、罪人を火あぶりにしている地獄絵図ですら、今、志乃が見ている光景に比べれば、なんとあれは生ぬるいものだったろうと思えてくる。地獄よりも惨たらしい光景が、逃げても逃げても、視界を埋め尽くす。

 「ひ、避難所は…!それか、防空壕は何処だ…!くそっ、離せ…!」

 「ば、馬鹿っ!逃げるな!これだけの大空襲だぞ。もう、帝都に安全な避難場所などあるか!死にたくなければ、早く、貴様もホースを手に、消火活動にかからんか!逃げれば、防空法違反で貴様を逮捕するぞ!」

 逃げ惑う人々のうちの、一人の男を、血走った眼をした警防団員が捕まえては、喚いていた。空襲時の誘導や、消火活動の指揮を執るのは彼らの仕事だが、警防団も、想像を凌駕する規模の大空襲に完全に、大混乱に陥っていた。警防団員に胸倉を掴まれていた男が、団員を突き飛ばして、叫ぶのが見えた。

 「こ、これだけの空襲に、こんな小便みたいな量の水かけたところで、役に立つか!捕まったって構わん!ここで焼け死ぬより監獄に行く方がマシだ!」

 そう言って、男は逃げだして行く。警防団も、口調こそ勇ましいが、街全体を包み込むように燃え広がっていく、焼夷弾の大火災には、最早、手も足も出ないといった感じだった。

 警防団と男のやり取りの通り、もう、安全な退避場所など、何処にもなかった。

 「くそっ…アメリカの鬼畜共め!!何処もかしこも焼かれてる…。国民学校、女学校、公園…どこにも、逃げ場はない」

 国民服姿に、鉄製のヘルメットを被った父が、走りながら、忌々し気に吐き捨てる。

 焼かれていない家は、途中、一軒もなかった。焼夷弾の攻撃を受けた家屋は、窓から火を噴き上げ、既に、多くの家が業火の中で柱も折れて、倒壊している。

 両親と逃げ惑う途中、燃え盛っている家屋から転がり出たのか、道の傍らで、断末魔の悲鳴を上げて、火だるまになっている人を何人も見つけた。

 「た…助けて…!」

 そのうちの一人が、声を絞り出して、叫んでいた。髪の燃える、独特の匂いがした。全身を焼かれており、男か、女かさえも見分ける事は困難だった。

 その人が、必死に、志乃達に向けて、手を伸ばすのが見えた。志乃が咄嗟に立ち止まろうとしたら、父に頭を小突かれて、怒鳴られた。

 「馬鹿者!!あれに構うな!助けになどいったところで、お前に何が出来る。もうあれは助けようがない。あれだけの熱傷では、誰が手当てしようが手遅れだ。置いていく事しか、私達には出来ん…!」

 志乃は唇を噛んで、防空頭巾の上から、両手で耳を塞いで、「助けて…」という声を振り払った。「何もしてあげられなくて、ごめんなさい…!」と心の中で、何度も謝りながら。あれだけの熱傷の負傷者に、いつも持たされていた、応急処置用の救助袋など、何の役にも立ちはしなかった。

 この大空襲の中では、自分の力など全くの無力だという事を志乃は思い知った。

 何人も、火に包まれて悶え苦しんでいる人を見殺しにした。彼らの助けを求める声や「み、水を、飲ませて…!」という声も、聞こえないふりをするしかなかった。足を止めていれば、自分達が死んでしまうかもしれないのだから。その度に、断末魔の叫びに志乃は、必死に「ごめんなさい、ごめんなさい…!!」と繰り返す他、なかった。

  奇跡的に、焼夷弾のばら撒く業火から逃げ惑う人々の、大混乱の中、志乃は、琴音の事を想った。

 彼女の所在を知る術もない。果たして、彼女は下宿の老夫妻と共に、逃げきれているのだろうか…?

 志乃の家の近所であった、琴音の下宿も、焼夷弾によって既に焼かれている筈だ。彼女が、無事で済むわけがない。もしも、あの下宿屋から逃げ出す余裕さえなく、琴音が、炎に飲み込まれてしまっていたら…。

 志乃の心臓の脈が、乱れ打つ。道中で見た、何人もの、空襲の火災で、逃げ遅れて、生きながらにして、荼毘に付していった犠牲者たちの姿が頭をよぎる。琴音も、今頃、あれと同じ姿と化しているのではないかと思うだけでも、志乃は、いてもたってもいられなかった。

 辰巳に、彼女の事を託されたのに。ここで、琴音が命を落としてしまうような事があれば、志乃は、彼との約束も果たせない事になる。

 琴音を探し出さなければ…。そう思った志乃は、踵を返して、来た道を戻ろうとした。琴音が逃げきれているなら、同じ方向に向かって避難してきている筈であったし、彼女の姿を、志乃が見落とす筈がない。それなのに、まだ彼女らしい姿を見ていないという事は…、逃げきれずに、何処かで炎に囲まれている可能性は十分にあった。

 急に、来た道を引き返し、炎に包まれていく街へ戻ろうとする志乃に、仰天した母親が、志乃の腕を強く掴んだ。

 「待ちなさい、志乃っ…何してるの!!一体、一人で何処にいくつもり⁉」

 「私の大切な方を…琴音お姉さまを、探しに行くの!あの人は、きっとまだ、逃げられてない。助けにいかないと!だから、離して…!お願いだから、行かせて!」

 「貴女、正気⁉何を馬鹿な事を言ってるの⁉街の、この有様を見なさい!この炎の中に飛び込んでいって、助かるとでも思ってるの⁉お姉さまだか、何だか知らないけれど、そんな人、放っておきなさい!」

 志乃の行動の無謀さを、母親は激しく叱責する。

 両親にとっては、確かに、琴音はどうでも良い人間かもしれないし、そんな人の為に志乃が危険を冒す事など、許す筈はなかった。

 しかし…、例え、如何に無謀な行いであると知っていても、志乃は、琴音が置き去りにされて、炎に飲み込まれそうになっているのを、見捨てていく事など出来なかった。

 その結果、自分の両親を悲しませる事になってしまったとしても。

 「お父様、お母様、ごめんなさい!!」

 志乃は、母親の手を振り払うと、強引に二人を押しのけて、燃え盛っている家屋が立ち並ぶ真っ只中の、今しがた逃げてきた道を、反対の方向へと駆けだして行った。

 「馬鹿!!死にたいのか!戻ってこい!!」

 父も必死で叫ぶ。二人が追いかけてくるのが分かったが、ちょうどその時、黒く焼け焦げた電信柱が、根本から折れて、志乃と、両親の間に倒れてきた。

 それが志乃にとっては幸いした。倒れてきた電信柱に怯んだ両親が、一瞬、足を止めた隙に、志乃は二人との距離を引き離す事が出来たから。尚も、向こうで両親が叫んでいるのが聞こえたが、もう、それさえも志乃の耳に入らなかった。

 志乃は、吸い込むだけでも、喉を焼かれそうな程、熱した空気の中を走り続けた。もう、防空頭巾の下の髪は汗だくで、前髪が額に貼りついていた。火の手が上がっていない家など、一つも見当たらなかった。つい昨日まで、自分が暮らしていたのと同じ街とは思えない程、たった一晩、数時間の空襲で景色は変わり果ててしまっている。

 「琴音お姉さまの下宿は…⁉」

 それでも、志乃は、炎に包まれる前の街の記憶を辿りながら、懸命に、彼女が暮らしていた‐、そして、志乃も、生前の辰巳も、何度も訪れたあの二階建ての下宿屋を探す…。


 そして、そこを見つけ出した時、志乃は、絶望に立ち尽くす他なかった。

 琴音のいた下宿屋も、炎に包まれて、琴音が借りていた二階の部屋も、激しく火を噴いていた。

 辛うじて読み取れた、塀に埋め込まれた下宿屋の表札がなかったら、志乃は、そこを、自分が幾度も訪ねたのと同じ場所とは認識出来なかっただろう。

 何処かで、鳴りやまない空襲警報のサイレンの音に混じって、火勢に耐えかねた家屋が、がらがらと激しい音を立てて、崩れ落ちていく音が聞こえてくる。

 その音は、今の志乃には、この状況下でも、自分が密かに胸の中に抱き続けていた、僅かな希望が、崩れ去っていく音のように聞こえた。

 アメリカ軍がばら撒いた、焼夷弾の冷酷な業火は、一切の情けをかける事なく、志乃が、琴音と、辰巳と過ごした記憶が詰まった場所である、あの下宿の2階の部屋も焼き尽くしていた。

 あの中で…、琴音も既に、火に焼かれているのではないだろうか。最悪の事態が脳裏に浮かぶ。この下宿屋に辿り着く前、幾つも見た、焼死体と同じように。

 「琴音お姉さま…!!」

 志乃は叫びながら、それでも、家に近づこうとしたが、火勢があまりに強く、玄関にももう入る事など出来なかった。家の木材から出た、黒煙が肺に流れ込んできて、志乃は激しく咳き込む。

 琴音に関する、不吉な想像を必死に振り払う。まだ、琴音があの下宿の中で、焼け死んだと決まったわけではない。何とか脱出は出来たが、この近くで、火に囲まれて、逃げられずにいる可能性もある。志乃は、少しでも、琴音が生きている可能性が高い方に賭ける。そうしなければ、自分の心を保てそうになかったから。

 ハンケチを口に当てて、煙を吸い込まないようにしながら、燃える下宿を後にする。

 そして、時折、そのハンケチを口から外し、大声で彼女の名前を呼びながら、駆け続けた。燃える家々の間を、炎と炎の間を掻い潜るようにしながら。


 「琴音ちゃん…。もう、わしらの事は、置いてってくれ…!若い貴女だけでも、逃げなくちゃ駄目だ…!」

 「そうよ…!もう、私達は十分に生きたから…。貴女まで、私達と運命を一緒にしては駄目…!琴音ちゃんは生きて!」

 二人の言葉に、琴音は激しく首を横に振った。

 「嫌…!じいや、ばあやの事を、置いてなんていけないわ…!さあ、私の傍に隠れていて…」

 3人は、火の海が広がる中、街の一角の小さな袋小路に追い込まれていた。

 下宿屋の老夫妻の二人を連れながら、焼夷弾が雨のように降り注ぐ街を避難するのは、容易な事ではなかった。夜空を火の雨が、夕焼けのように照らし、次々と木造家屋に着火していく。燃えやすい木造の日本家屋は、飲み込まれるように、あっという間に炎の中へと包み込まれていった。

 多くの人が火に巻かれていた。地面を転がりまわって、体を燃やしていく火を消そうとする者もいたが、やがて、動かなくなった。

 「誰か…助けてくれー」「熱い…、熱いよー!!」

 そんな、炎に体を生きたまま焼かれ、悶え苦しむ人々の絶叫を何度も、琴音達は聞いた。その中には、まだ子供の声もあった。琴音は、あまりにも凄惨なその阿鼻叫喚の声に、鼓膜を破って、声を聞こえなくしてしまえれば、どれ程よいだろうかと本気で思った。その絶叫も、やがて掠れた声になっていき、次第に小さくなって、聞こえなくなる。声の主が藻掻き苦しんだのちに、火だるまとなったまま、事切れたのを知る。

 アメリカ軍の焼夷弾の威力は、防空演習で琴音達が事前に聞かされていたものとは比較にならない程のものだった。演習、訓練の内容など何も役に立ちはしない。炎は、下町の家屋を瞬く間に飲み込んでいき、バケツリレー程度で消し止める事など不可能だった。

 燃える家屋から発生する黒煙にもまた、琴音と老夫妻は追い立てられた。炎と煙から、少しでも身を隠せる場所を…と思って、二人を連れて逃げ惑ううちに、琴音達は、石塀に囲まれた袋小路へと追い込まれていた。

 先程まで、この袋小路の、琴音達の耳にまで届いていた、空襲の炎に焼かれている誰かの、死に際の叫び声も、遂に途絶えた。息絶えたのだろう。誰の声も聞こえなくなり、聞こえるのは、鳴りやまない、サイレンだけだ。琴音は、身を盾にするようにして、老夫妻二人に覆い被さっている。三人とも、黒煙の中を何度か掻い潜ってきた為、顔は煤だらけだった。

 琴音は、今日も、風呂敷包みの中に、無くしてはならない大切な物を詰め込んで、逃げてきていた。

 辰巳の遺した小説や、志乃が渡してくれた小説の原稿。それに、辰巳の出征前に、3人で撮った、あの写真。そして…、志乃が、好きだと言ってくれた、あの、白紫苑の着物も、風呂敷の底に仕舞っている。

 しかし、最早これまでかもしれない。助けなど、誰もくる気配はなかった。少し前までは、地区の警防団の男達が、慌てふためいた様子で、「逃げるな、戦え!住民は、すぐに消火活動に当たれ!防空演習の通りに、空襲に立ち向かえ!」などと喚いて、駆けまわっていたが、その声ももう聞こえなくなった。他に、まだ逃げ遅れた近くの住民が、火の中を彷徨っていたとしても、琴音達に手を貸している余裕など、全く無いだろう。

 周囲の家屋が、火の中で、崩れ去る音が何度も響いた。火勢は全く衰えを知らず、空気は、焼却炉の中にいるかのように、熱を孕んでいた。口を迂闊に開けば、喉も、その奥の肺までも焦がされてしまいそうだ。

 琴音は、「最早、これまでね…」と、目を閉じて、諦めかけていた。

 この袋小路も、炎と、黒煙に埋め尽くされるのは時間の問題だ。しかし、逃げ場も、救助の手もない。琴音の元には、疲れ切った様子の老夫妻もいる。東京に来て、女子師範学校の生徒であった時代から、琴音の親代わりのように、面倒を見てくれた二人が。二人を置き去りにしていく事など出来ない。

 「せめて、最期に一目だけ…、志乃に会っておきたかった…」

 そんな言葉を口にした時だった。

 「…さま。琴音お姉さま!いますか⁉いたら、返事をしてください!!」

 目を閉じて、そう遠くない死を迎え入れようと、覚悟を決めていた時だった。琴音は自分の耳を疑った。この絶望的で、極限の状況と、志乃に一目会いたいという渇望が、自分に志乃の声の幻を聞かせたのかと、最初は思った。

 しかし、それは幻などではなかった。確かに、再び聞こえた。それも、今度はより近くで。

 彼女を声を限りに、叫んでいた。

 「琴音お姉さま!!私です!志乃です!!助けに来ました!いたら、どうか返事を…!!」

 琴音は、さっと顔を上げる。志乃が、自分を探している。この、空襲で焼き払われている只中の街で。自分も、志乃に負けないくらいに、声を張り上げて叫ぶ。

 「志乃!!私は、ここよ!!」

 耐え難い断末魔の悲鳴に、鼓膜を破ってしまわなくて良かった。愛しい志乃の声を、再び聞く事が出来たのだから。


 志乃が琴音の姿を見つけた時、彼女は、下宿屋の老夫妻と共に、三方向を石塀で囲まれた、小さな袋小路の奥に追い詰められていた。夫妻を、火の粉や煙から守るように、自分の背を盾にして、二人を守っていた。

 志乃の姿に気付いた、琴音がこちらへと振り向く。

 防空頭巾越しに垣間見えた、彼女の頬は、すっかり煤で汚れていた。どれだけの激しい火災の中を、逃げ惑ってきたか、一目で分かった。

 琴音はまだ生きていた…。その事実に、涙が零れそうになる。

 「琴音お姉さま…!!」

 志乃は、琴音の元へと駆け寄る。

 「志乃…!どうして、ここに?」

 「琴音お姉さまを探しに戻ってきたんです…!もしかして、逃げ遅れているのではないかと思ったから。助けに来ました」

 「無茶な事を…。私を見つけ出す前に、志乃の身に何かあったら、どうするつもりだったのよ…!」

 琴音は、志乃にそう言ったが、志乃は首を横に振る。

 「琴音お姉さまを見つけて、助け出すまでは、私は絶対、死にませんから!早く、ここを出ましょう!ご夫妻方も一緒に…!」

 ここから脱出する事は、簡単な事ではないのは分かっている。こうしている間にも、倒壊した家屋などで、この地区からの逃げ道はどんどん塞がれていっている。

 ここの袋小路も、いつ、炎に飲み込まれるか、もう時間の問題だった。この季節特有の、関東に吹く、乾燥した強い風によって、焼夷弾による炎の火勢は更に強まり、炎の暴風があちらこちらに吹き付けている。

 「ありがとう…、でも、もう無理よ…。ここから、脱出をするのは…。何処に逃げても火の壁が、火の柱が、ゆく先々で立ち塞がるの」

 琴音はそう言うが、志乃は強く首を横に振って、

 「琴音お姉さま、諦めては駄目です!早く、さあ、私の手を掴んで…」

 志乃は、琴音の手を掴むと、彼女の体を引いて、立ち上がらせる。そして、老夫妻にも手を伸ばして、「一緒に逃げましょう!」と声をかける。

 くるりと振り向いて、袋小路の出口の方に目を向けると…、そちらは火の海と化している。風に煽られた火炎が、時折、竜巻のように渦を巻いて、吹き付け、延焼を更に広げていた。あの、竜の吐く火炎のような、火の渦に巻き込まれれば、人間の体など一たまりもなく、焼き殺されてしまうのは明らかだった。

 炎の熱で、全身に、炙られているような熱を感じるのに、その地獄絵図よりも悍ましい光景を見て、志乃は、血が凍り付くような恐怖を感じた。しかし、志乃は今一度、自分のすべき事は何かを思い出す。

 『諦めては駄目…!!私が成すべき事は、ただ一つ。琴音お姉さまを、何があっても、守り抜く事。そして、二人でこの戦争を生き抜いて、琴音お姉さまが幸せになっていく姿を見る事なんだから。先に、冥府に行かれた辰巳さんも、それを願っているのだから…』

 先程、琴音に投げかけたのと同じ言葉を、自分の中でも繰り返して、自らを奮い立たせる。火の壁だろうと渦だろうと、自分は琴音と共にここから脱出する。


 志乃、琴音、それに、下宿屋の夫妻は、炎の中を、絶対にはぐれないよう、お互いの服の端を掴みながら、彷徨い続けた。

 倒れた家屋の柱や、塀などがあちらこちらに散乱していて、足の踏み場もない。その上、強く吹き付ける風と、炎が混ざり合ったものが何度も、志乃と琴音達の前を塞いだ。琴音の言った通り、火の巨大な柱か、壁と表現するしかないそれに、何度も逃げ道を阻まれ、志乃と琴音達は方向を変えては、逃げ惑うしかなかった。

 もう、自分は今、どの方角に向かっているのかも分からない。志乃は、熱くてたまらず、喉は渇ききっていた。

 炎に巻かれた人々が、息絶える寸前に、「みず・・・、水を・・・」と、口を揃えて呻いていた気持ちも、よく分かった。

 今ならば、どぶの水であっても、顔を突っ込んで飲んでしまいそうな程の、経験した事のない渇きだった。

 その時だった。琴音が、志乃の肩越しに、前方を指さして、こう言った。

 「志乃、見て…、川よ!!水辺の近くにいれば、少しは火災からも逃げられるかも…!」

 火の赤で真っ赤に、血の色のように照らされて、何かが流れているのが、焼け落ちた家々の狭間に見えた。確かに、それはよく見れば水面だった。

 琴音の言う通り、水辺の近くならば、火災もいくらか遠ざけられるかもしれない。

 志乃達四人は、力を振り絞って、河原へと降りていく階段を駆け下りる。そして、川の近くへと駆け寄っていく…。

 「え…?志乃、あ、あれは…?」

 その時だった。志乃の隣に来た琴音が足を止めて、川面を見た瞬間に、その表情が凍り付いた。志乃も、何事だろうと思い、火に照らされている川面をよく見た瞬間…、背筋が凍った。

 川面を、何体もの遺体が流れていた。その多くは黒く焼け焦げており、一目で、空襲の炎に巻かれて、苦しさのあまり、川に飛び込んで、そのまま息絶えたのだと分かった。焼夷弾のガソリンも多く川に流れ込んでいるようで、水面は時折、炎を受けて、不気味な色に光って見えた。

 河原にも、多くの遺体が打ち上げられている。焼かれていない遺体も多く、それらはきっと、着の身着のまま、火から逃れようと川に飛び込んで、溺死した人達だろう。

 もう、目に映る何処にも逃げ場はない事を、見せつけられた瞬間だった。

 地獄と化していた、川の河川敷に、志乃、琴音、老夫妻は座り込んでしまった。

 「ああ…、何てことなの…」

 琴音は顔を両手で覆って、呻いた。

 よく目を凝らせば、志乃達と同じように、川の河川敷には、焼け出された多くの人達が退避してきているようだった。この避難民達も、水辺の近くにいれば、火災から助かるかもしれないと思って、逃げてきたのだろう。

 先に河川敷に逃げていた人々は皆、服もボロボロで、頬は煤に塗れ、疲れ果てた表情をしていた。

 そして、それは志乃達も同じ事だった。

 老夫妻は、ひたすらに、川面に浮かぶ遺体達に向かい、手を合わせ、念仏を唱えていた。

 その傍らで、志乃と琴音は座り込み、互いに背中を合わせたまま、お互い、立ち上がる気力もなかった。


 しかし、空を覆い尽くしている、アメリカ軍機は、そんな僅かな時間の休息さえ、こちらに与える情けなど、持ち合わせていないようだった。


 突如、空気を切り裂いて、航空機が降下してくる音が響き渡った。

 「な、何、あの音は…⁉」

 怯えた声で、避難民らが空を見上げた、その直後。

 そして、赤く染まる夜空から、焼夷弾が降る音とは全く別の、甲高い破裂音が立て続けに鳴り響く。

 次の瞬間、川面に無数の水柱が上がり、河川敷の地面の上にも土煙が立った。志乃と琴音達のすぐ近くにいた、避難民がばたばたと、血飛沫を噴き上げながら、河川敷の地面の上に倒れて行った。

 「み、皆、伏せろ!!機銃掃射だ!!」

 誰か、男が咄嗟に叫んだが、また次の瞬間には、その男も腕が千切れ飛び、胸から血を噴き出して、地面に倒れ込んでいた。

 それは、アメリカ軍による攻撃だった。焼夷弾だけではなく、身を寄せ合っていた避難民を追い立てるように、機銃掃射を加えてきたのだ。今夜のアメリカ軍機の、民間人への攻撃の執拗さは、異常な程だった。避難民らは大混乱に陥り、「川だ!川に飛び込んで、機銃に狙われないようにしろ!」という、また誰かの声が響く。

 志乃は急いで立ち上がり、

 「くっ…、琴音お姉さま!ご夫妻!早く、逃げて…!!」

 と叫んだが…、次の瞬間-、立ち上がる間もなく、河川敷に座っていた、老夫妻に機銃弾が降り注ぎ、その首を吹き飛ばし、胸を撃ち抜いていた。

 二人の体から迸る、鮮血の噴水が落ちる中、志乃は一瞬、何が起きたのか理解出来なかったが…、次の瞬間、悲鳴が喉を突き破るようにして出た。

 「い、嫌ああああ!!」

 悲鳴を上げた直後、志乃は、何か強い力に引っ張られて、そのまま、冷たい川の中へと…、琴音と共に身を投げていた。

 「志乃…、こっちよ!!」

 川に飛び込む寸前、琴音の声がそう聞こえた。

 琴音が、志乃を機銃掃射から守ろうとして、志乃を引っ張って、川に身を投じたのだと分かるのに、時間はかからなかった。

 そして、琴音は志乃を、川の底に向けるようにして、自分の体から強く突き放した。川は思ったよりも深さがあり、志乃は川底へと落ちて行った。

 琴音が取った行動の意味を、志乃はすぐに知る事になる。


 二人が飛び込んだ川の水面にも、機銃弾は叩きつけるように撃ち込まれていった。

 一瞬、志乃の瞳に映った、赤く煌々と照らされる空の下、機銃弾が降り注ぐ水面は、川の中から見れば、あたかも土砂降りの夕立に打たれているかのようだった。

 

 そして、アメリカ軍機が放った機銃の弾丸は、水面では止まらず、琴音の手を、足を、胴を容赦なく撃ち抜いていった。

 

 志乃よりも、水深の浅いところにいた彼女は、勢いの止まらなかった銃弾を、体に受けてしまったのだ。やがて、琴音の体のあちらこちらから、血が流れ始め、水面に紅く広がっていく。琴音は、だらりと手足を下げて、ぐったりした様子になった。

 『琴音、お姉さま…⁉』

 志乃は、水面近くで広がるその光景を見て、水中で、声にならない悲鳴を上げた。悲鳴の代わりに、志乃の口から、泡が無数、水面に向かってブクブクと立ち上がる。

  

 志乃の脳裏を…、焦がれ続けた白紫苑。その花が、血に染まって、散っていく姿の幻影が過ぎ去った。

 

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