身は滅んでも、魂は滅びない

 「じいや、ばあや!こっちよ!」

 琴音は、下宿の老夫妻の手を引いて、必死に導いていた。

 防空頭巾を被り、背中には風呂敷に、とある物を大事に包んで、抱えながら。

 昭和20年の一月の終わりの夜。東京へのアメリカ軍による空襲は昨年末までとは、比較にならない程の、激しいものとなっていた。

 無数の焼夷弾が、東京の下町へと降り注ぎ、家屋を焼き払った。

 距離は離れていても、遠くで火の柱が何度も噴き上がり、落雷のように轟音が鳴り響いた。空襲警報のサイレンが鳴り続けて、夜中の街は騒然となっている。警防団の男達や、サーベルを下げた巡査らも、住民の家々を回っては、退避の指示に当たっていた。

 しかし、何処に避難したら良いのかは、警防団や警察の間でもまとまっていないようで、混乱して、二転三転する指示に、退避する住民は更に迷走するばかりだった。

 「冗談じゃないわ…、あんなもの、バケツリレーで一体どうやって消し止めろっていうのよ…」

 琴音らの傍を、防空壕に向かって退避していた女性の一人が、青ざめた表情でそっと呟くのが聞こえた。

 琴音が、遠くに目を向けると、冬の夜空を、赤い舌で舐めるように、無数の燃え盛る火柱が、空爆を受けた地域から立ち昇っている。漆黒の夜空の下は、夕焼けの空と見間違う程に赤く照らされている。

 焼かれている範囲の広さに、琴音は戦慄を覚える。どれだけの家屋が焼き尽くされているか、想像もつかなかった。

 微かに、空爆の音とは違う、砲撃らしい音も聞こえていた。何処かで、陸軍の高射砲隊が、アメリカ軍の爆撃機に砲撃しているようだ。

 「琴音さん…‼」

 騒乱の中で、琴音を呼ぶ声が聞こえた。

 白の救助袋をたすき掛けして、モンペ姿。頭には防空頭巾を被った志乃がそこにはいた。志乃の傍には、彼女の両親も立っている。

 「早坂さん…⁉」

 「警防団の人達に、こっちの方向へ逃げろと言われたので、両親と共に逃げていたところです。琴音お姉さま達はどちらに⁉」

 「私達は、さっき会った警防団の人達に、早坂さんが来た方角に逃げるように、言われたばかりよ…!」

 警防団も、何処が空爆されていて、何処はまだ安全かなど把握出来ず、情報が錯綜しているようだった。お互いに、混乱した指示に従って退避しようとしていたら、鉢合わせたという事のようだ。

 志乃達も、何処に逃げれば良いのか、迷っている様子だった。

 それでも、志乃は琴音の手を掴むと、こう言った。

 「兎に角、一番近くの避難所か防空壕に逃げましょう。こちらにも爆弾が降って来る前に!私に、ついてきてください!」

 

 警防団の必死の誘導に従い、避難所へと退避する。この地区の住民らの、一時の避難場所として選ばれたのは、皮肉にも、かつて、志乃が、琴音の教え子として過ごした、あの高等女学校の校舎だった。木造の一般家屋に比べれば、まだ、鉄筋も用いている学校の校舎の方が、助かる可能性は高いと警防団も判断したようだった。

 志乃がいた、女学校の校庭も校舎の中も、肩を寄せ合う避難民でごった返していた。

 真っ暗な教室の中で、多くの人々が震えながら、身を寄せ合っていた。

 「志乃ちゃん、ありがとう、ありがとう…」

 下宿の老夫妻も、何度も、ここまで連れてきてくれた志乃に、礼を述べた。

 琴音も、教室に立ち込める、夜の闇の中、志乃と手を繋いだまま、遠くで幾度となく聞こえる爆発音に体を竦める。

 「大丈夫ですから…。琴音お姉さまには、私がついていますから」

 琴音を安心させようとしてくれているのか、志乃は、何度もそう言い聞かせてくれた。

 しかし、そう言う志乃の手も、小刻みに震えているのだ。

 志乃は、死への恐怖に耐えながら、琴音を必死に、守ろうとしてくれている。

 今までも、志乃は何度も、琴音を下宿に訪ねては、野花の絵を見せてくれて、琴音から、花言葉について聞きたがった。志乃が見た物と同じ、美しい野花を絵で見て、琴音は、その花にまつわる逸話を聞かせる。

 その時間だけは、この、出口の全く見えない暗闇のような、戦時下の日々の中で、光り輝いていた。

 志乃と過ごしてきた時間のおかげで、琴音はまだ、生きたいと思えている。

 

 焼夷弾の弾ける閃光が、幾度となく、教室の中を煌々と照らし、落雷のような轟音が、教室の窓硝子をびりびりと震わせる。そんな、恐怖が支配する暗い教室の中で、琴音達は身を寄せ合いながら、空襲の時間をやり過ごした。帝都の夜空を我が物顔で飛び回る、アメリカの巨大な鉄の猛禽達の、圧倒的な火力の前に、自分達は無力に等しかった。どうか、この校舎にだけは、焼夷弾も爆弾も降らないで…と、一心に琴音は祈る事しか出来なかった。

 もしも、この校舎に爆弾や、焼夷弾が降って来るような事があったら…、その時は琴音は、自分の身を盾にしてでも、守るつもりだった。愛する志乃と、そして…、避難する時に持ってきた、風呂敷の中に包まれている、辰巳の遺したものを。

 琴音が、風呂敷を胸元に抱きかかえていると、志乃が、それに気が付いた。

 「琴音お姉さま…、その風呂敷は?」

 「これは、辰巳さんが私の元に遺していった、小説の原稿達よ…。あの人が唯一私に遺していったものであり、そして、あの人の魂の一部。たとえ、彼の体は滅んでしまっても、彼は、その魂を削って書いた、この小説達の中で、生き続けているわ」

 志乃は、息を呑む。そして、琴音が抱きかかえている、原稿が包まれた風呂敷にそっと、丁重な手つきで触れた。それが、あたかも、辰巳の遺灰であるかのように。

 辰巳の亡骸は、比島の、名前も知らない島の沖、紺碧の海の底に眠っている。彼の体は、既に滅びてしまった。それでも、彼が出撃の前に、琴音と志乃に遺した最後の手紙の通り、辰巳の身は滅んでしまっても、魂は決して滅びない。

 辰巳だけではない。自分も、志乃も、たとえ、この身は滅んでしまおうとも、遺した物があれば、魂は生き続ける。琴音はそう思った。

 「辰巳さん、お姉さまと私に宛てた、出撃前の最後のお手紙でそう書かれていましたね。この身は滅んでも、魂魄は不滅だって…」

 「ええ。今になって、自分も、死と隣り合わせの日々の中で生きるようになって、辰巳さんが、何を思って、手紙にあの言葉を遺したのか。私達に何を願っていたのかを、私は、本当の意味で理解出来た気がするの。この身は滅んでも、魂は終わりではなく、記憶の中、遺した物の中で、生き続ける。そう自分に言い聞かせる事が、辰巳さんにとって、せめてもの救いだったんじゃないかって…。自分の生涯を終える事に、少しでも恐れや、迷いを断ち切る為に」

 出撃前の最後の日々の中、苦悩の末に、辰巳が導き出した答が、それだったのだろうと琴音は思った。

 「きっと、空襲はこれから更に激しさを増していく。私だって、明日も生きていられるという保証なんてどこにもない。それならば…、もしもの事があれば、私も、辰巳さんのように、志乃の中で、私の魂の一部だけでも、生き続けられるような、何かを遺せるだろうかと、考えるようになった」

 「そんな…、もしもの事があればなんて、不吉な事を言うのはよして…。私は、辰巳さんから、琴音お姉さまを託されたのに、もしも、お姉さまの身にそんな事があればもう、私は自分を許して、生きていく事なんて出来る筈、ないじゃないですか…。辰巳さんは、私達二人に、小説を書き続けてくれって、夢を託してくれたのに、その夢を掴めないまま、お姉さまの身に何かあれば、冥府で、辰巳さんもどれ程悲しむか知れません…」

 志乃の、琴音の手に重ねた手に、力が籠められる。生きていけないという言葉を発した時の、志乃の声の震え。彼女が、どれ程、琴音を失う事を恐れているかが、それだけでも伝わってくる。志乃は続ける。

 「私は、これからどんなに空襲が激しくなっても、琴音お姉さまと共に生きる未来を、諦めたくない。だから、どうか、自分にもしもの事があったら、なんて考えないでください。お願いです…」

 志乃は、必死に希望を繋ごうとしていた。辰巳から託された、文学の道の夢を、琴音と共に生きる未来を、彼女はまだ諦めていない。

 志乃は、琴音にそっと、夜陰の中、顔を近づけてきて、密かにこう言った。志乃と話す琴音の事を、訝し気に見る、両親に聞かれないように。

 「戦争が終わって、平和な日常が戻ったら、私は家を出て、両親からは自立します。そして、琴音お姉さまと一緒に暮らしたい。女学校も卒業したんだから、私はもう大人です。働き口さえ見つかれば、自分で収入を得る事だって出来る。そして、二人で、一度は、辰巳さんの為に折った筆を、もう一度執りましょう。小説を書きたくても、書き続けられなかった、辰巳さんの思いを繋ぐ為にも…」

 今しがた、琴音の言葉で感じたらしい、不安をかき消そうとするように、明るい未来を必死に、志乃は描いていた。

 志乃の言葉を聞きながら、琴音は、その未来を思い描いた。

 二人で、仕事の傍らで、小説を書き続ける。そして、その小説の、最初の読み手は、琴音にとっては志乃であり、志乃にとっては琴音である。あの、下宿の部屋で過ごした、短くも、確かな幸せがあった時間。平和が戻って、二人で暮らすようになれば、その幸せな時間が再び、今度はより多く、琴音と志乃の元に帰ってくる。きっと、生活は苦しくても、それは、何にも代えがたい幸せな未来となるだろう。

 志乃の手は、本当であれば、戦場に送られて、敵兵の命を奪う銃弾や砲弾を軍需工場で作り続けるよりも、彼女が愛してやまぬ物語‐、女性と女性の恋物語を綴るのが相応しいのだから。

 戦争さえ終われば、志乃の手は、女性達の恋物語を再び綴れるようになる。琴音も愛していた、志乃の物語の世界の、その続きを。

 その時…、志乃の傍に自分がもし、いなかったとしても、琴音は、志乃には書き続けてほしいと願っている。琴音と二人で生きる未来を語る、志乃の前では口に出来なかったが。

 きっと、今の琴音の、志乃に対するこの思いと同じ物を、辰巳も琴音に対して抱きながら、敵艦へと突入していったのだろう。今になって、辰巳が最後の日々の中で、抱き続けていたであろう心情が、ありありと、琴音の心情へと変換されて、伝わってくる。

 この戦争を生き残るという、僅かな希望に縋りたい。それ以外の可能性は考えたくない志乃と、これからも続くであろう、激しい空襲の中で起き得る、最悪の事態までも、既に考えている琴音。二人はすぐ隣にいながら、考える事の中に、小さな隔たりがあった。

 「そして…、平和が戻ったら、私の大好きな、あの、白の紫苑の着物を、また着て、私に見せてください。4年前の春に、私を琴音お姉さまに引き合わせてくれた、あの愛しい花をあしらった着物を」

 琴音は、自分の風呂敷の中に、白の紫苑をあしらったあの着物も、包んで持ってきている。辰巳の原稿と共に、この着物も風呂敷に包んで、枕元に置いて、空襲警報が発令された際には、いつでも持ち出せるようにしていた。

 志乃と初めて話した時、好きだと言ってくれた、大切な着物だから。空襲で焼き払われたくはなかった。

 志乃は、先程から自分ばかりが、願いを話して、琴音からの返事が帰ってこない事に、不安な表情を浮かべた。自分の思いばかりが、一方通行となっていないか、不安となったのだろう。

 そんな表情を、自分の隣で、見たくはない。だから琴音は、たとえ、それが脆く、儚い希望であったとしても、志乃の希望に、今は、精一杯応えようと思う。

 「ええ…、また、華やかな着物も、外でも大手を振って着ていい時代が来たら、また、着てあげるわ。志乃の前で。それに…私も、志乃と二人で暮らしたい。私は、志乃が書く小説が好きだし、お互いの小説を、読み合う時間も好き。それに何よりも、完成した志乃の小説を、私が一番最初に読む読者でいたいから」

 琴音の答を聞いて、志乃の、不安な表情もようやく、少しだけ緩んだ。

 夜陰の中、密かに琴音の片手を握っている、志乃の手に一際、力が入る。感動したように。

 近くにいる両親に聞かれぬように、声の大きさに気をつけながら、志乃は答える。

 「その言葉を聞けたなら、私は、希望を無くさずに、この戦火の日々を生きていけます。でも私が、琴音お姉さまに感想をもらうばかりでは悪いから…、お姉さまの小説に、私が、花の挿絵を付けるのも良いですね。花日記を描き続けたおかげで、花の絵を描くのも、だいぶ上手くなれましたから…。二人で、一つの本を作るのもいいですね」

 遠くで爆音と共に、夜空を紅く照らす焼夷弾の炎しか、光のない、灯火管制の暗闇の中。少しでも、明るい未来の灯火(ともしび)を、心の中に灯そうと‐、そして、暗い未来への予想は打ち消そうと、志乃は、琴音に語り続けてくれた。

 志乃が傍でこうやって、希望を与えようとしてくれているだけでも、琴音は、空襲の恐怖を束の間でも忘れる事が出来た。志乃と同じ未来を生きたいという願いも、本物だ。

 しかし、この先、激化していくであろう空襲で、もしも自分の命が散ってしまった時には…、琴音がいなければ生きていけないとまで言った志乃が、果たして、生きて、筆を執り続けてくれるのか、それだけが、琴音には心残りだった。

 『私の存在が、志乃の足枷になってはいけない…。もしも、この先の空襲で、私が死ぬ事になっても、どうか志乃だけでも、生きて、書き続けてほしい…』

 志乃を遺して、今度は、琴音が命を散らしてしまう事…。それは志乃が、意図的に目を逸らし、考えないようにしている、最悪の事態だ。

 その事を口にすれば、志乃から、『そんな不吉な、悲しい事はもう言わないで。お姉さまは悲観的過ぎる』と、また怒られてしまうだろうけれど。

 志乃の命が、空襲に危険に晒されるような事があれば、その時は‐。琴音は、自分がすべき行動は決まっていた。

 

 そうして、夜明けまで、仮眠をとる心のゆとりもないまま、琴音と志乃は、避難民と共に、眠れぬ一夜を過ごした。


 この夜の空襲を転換点に、琴音が恐れていた通り、アメリカによる、本土空襲は更に激しさを増して行った。

 

 

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