覚めない悪夢

 勤労動員からの帰り道。立ち寄った、琴音の下宿。

 そこで、志乃がまず目にしたのは、嘆き悲しむ老夫妻の姿だった。

 そして、二人の口から、つい先程、軍から人が見えて、辰巳が配属された比島の陸軍特別攻撃隊の部隊が、特攻作戦を敢行し、辰巳が戦死した事を伝えに来た、という話を聞かされた。

 

 「…琴音お姉さまは…、なんと仰っていましたか」

 視界がぐるぐると回り出しそうだった。真っ直ぐに立っているのも覚束ない。

 この下宿で、辰巳から別れを告げられたあの日から、ずっと、覚悟はしていたつもりだったが、それでも、倒れずにいられるのが不思議な程の衝撃を受けていた。

 辰巳は、最後の言葉通りに、南の海を墓標にして、本当に散ってしまった。

 一度散っても花は、再び蘇り咲き誇る。しかし、人である彼の魂は、散ってしまえば現世に二度と返り咲く事はない。彼が、この下宿に、琴音の部屋に、あの優しい笑顔を見せて、戻って来る事は、もう決してないのだ。

 志乃の問いかけに、老夫妻の夫の方が、苦し気に答えた。

 「しばらく、部屋で一人にさせてほしいって言って、それからずっと出てこないよ…。もう、私達も、何と言ったらよいのか、言葉も見つからない。ああ、可哀想に、琴音ちゃんも、辰巳さんも…。辰巳さんは、まだ22歳になったばかりだったというのに。私らみたいな老人はこうして生きてるのに、どうして、未来ある彼のような若人が、死ななきゃいけないんだ…」

 不吉な予感が、志乃の全身を駆け巡った。琴音が、あの部屋で、何をしているのか、気になって仕方なかった。このまま、彼女を一人にしていたら、大変な事が起きる気がしてならなかった。

 「私…、気になるので、琴音さんの様子を見てきます!」 

 そう言うと、志乃は、二階に続く、軋む階段を一息に駆け上がった。夕方までずっと工場で働いた疲れなど、吹き飛んでいた。琴音の元に一秒でも早く、行かなければ…。

 

 そして、志乃は襖を開け放った先…、部屋の一番奥の、窓際で、左手首を血に染めながら、ナイフで搔ききろうとしている、琴音の姿を見つけ、凍り付いた。彼女が、何を望んで、そんな行為に及んだかは、もう考えるまでもなかった。

 辰巳の後を、追おうとしていたのだ。

 「…琴音、お姉さま…?」

 志乃の来訪に、振り向いた彼女は、目を見開いて、こちらを見て、一瞬、動きを止めた。その時の彼女は、まるで、悪戯を母親に発見された幼子のような表情をしている。

 琴音の手首を染める血を見た時、反射的に、志乃の体は動いていた。

 気付けば、志乃は琴音に飛びつくようにして、その右手の、血に塗れたペーパーナイフをもぎ取ろうと、彼女の手を掴んでいた。

 そうして彼女から、ナイフをもぎ取った志乃は、

 「辰巳さんの後を追うつもりだったんですね…⁉」

 と、琴音を問い詰める。そして、琴音の肩越しに、机の上に一枚の便箋が広げられているのを見つけた。

 「それは…、手紙?」

 「…もう、志乃さんも、じいや、ばあやから聞いたでしょう…?辰巳さんが、比島で、特攻作戦に出撃して、戦死したって…。その手紙は、軍の人がさっき、持ってきてくださったの。私と、早坂さんに彼が書いてくれた、最後の手紙よ」

 志乃は、机の上の便箋を、手に取った。懐かしい、何度も原稿の上で見たものと同じ、辰巳の字だ。貪るようにして、辰巳の、生涯最後の直筆の文章を志乃は読んだ。

 

 文面を読み終えた後、志乃は、涙をこらえる事など出来なかった。

 彼は、最後まで、敵への憎しみなどではなく、純粋な愛のみの感情で、戦いに赴き、そして散ったのだ。

 『琴音さん。早坂さん。何処までも、清らかにあれ。

 遠く南冥に在りても、私の魂は、貴女達の事を、久遠に思い続けます』

 最後の二行に、彼の、琴音、そして、志乃に託した思いは集約されていた。琴音が愛し、そして志乃も愛するようになった、白の紫苑が持つ、花言葉。その花言葉を含めた、彼からの、二人への最後の願いだった。

 「…。ごめんなさい。本当は、琴音お姉さまは、もっと泣きたい筈なのに、私が先に泣いてしまって…」

 ごしごしと、目を擦って、志乃は、まだ、左手首から血をたらたらと、流したままの琴音へと振り向く。彼女は、泣く事すらも忘れてしまったかのように、涙の代わりに、血を流し続けているように、志乃には思えた。

 志乃は、琴音の手首に応急処置を施した。必ず携帯するように、両親から言われていた救助袋の道具が、まさか、こんな場面で役に立つとは思わなかった。幸い、傷は深くない、ためらい傷だった為、すぐに止血は出来た。

 「志乃さん…、ごめんね。私は…、もう、辰巳さんがいない未来なんて、どうやって生きて行けばいいのかも、何もかも、一瞬、分からなくなってしまって…、それで、気が付いたら、こんな事をしてしまっていた。辰巳さんは、私と志乃さんに、生きてほしくて、命をかけて戦ったのに…、辰巳さんの願いに背くような事を、私は…」

 ようやく、我に帰った琴音は、今度は、激しい後悔と、自責の念に苛まれているようだった。志乃を置いて、辰巳の願いに背いて、命を絶とうとした事で。

 辰巳の死によって、身も心もぼろぼろに傷ついている彼女の姿を見ていると、志乃は、その傷も痛みも、全て自分が肩代わり出来るものなら、どれ程良かっただろうと思えてならなかった。自分が傷つく事などより、打ちのめされた琴音の姿を見ている事の方が、遥かに耐え難かった。

 さっき、下の階で老夫妻は「琴音ちゃんに、もう、かける言葉も見つからない…」と言っていた。それは、志乃も同じ事だ。志乃以上に、辰巳とは長い時間を歩んできた琴音が負った痛みは、志乃が今、辰巳の戦死の報を聞いて胸に覚えたそれとは、比較にならないであろう。だから、気持ちが分かるなどと安い言葉をかけるつもりはなかった。彼女の傷に、何の慰めにもならないだろうから。

 でも…、生きている辰巳と、この部屋で、二人で話した最後の晩を、志乃は思い出す。あの時、辰巳は、志乃に、遺される琴音の事を託した。『どうか、彼女の事を支えてほしい』と。

 だから、辰巳が託してくれた願いの為にも、愛する人である琴音を少しでも、痛みから遠ざける為にも、志乃は動かねばならなかった。言葉は役に立たないとしても。

 志乃は、琴音を、正面から硬く抱きしめていた。琴音の体が、小刻みに震えているのが、伝わってくる。その華奢な体の中に、どれ程の悲しみと痛みを抱えているか、計り知れない。彼女の心はきっと、凍り付きそうになっている。

 「私は…、この部屋に、辰巳さんが比島に発つ前、最後に来てくれた時、辰巳さんから、こう言われました。自分が散ってしまった後は、どうか、早坂さんが、琴音お姉さんの事を支えてほしい、って」

 「辰巳さんが…、そう言ったの?」

 「はい。だから、これからは…、お姉さまが寂しくないように、私が、精一杯の、支えになります。そして、この戦争が終わって、平和が戻ったら…、私とお姉さまで、必ず、辰巳さんが眠っている、比島の海に行きましょう。私と琴音お姉さまで、海の墓標に、花を手向けに。比島では咲く事のない、日本の、白の紫苑を…」

 琴音は、志乃の顔をまだ、ちゃんと見てはくれない。顔を、志乃の肩の方に逸らして、俯き気味で…、その表情を見せない。ただ、ずっと唇は、凍えたかのように震えていた。

 「本当なら…、元教え子と、教員の関係で、志乃さんからすれば、『姉』にあたる私が、志乃さんを支えないといけないのに…、こうやって、支えられてばかりで、情けのない『姉』でごめんなさい…」

 そう言う、琴音の唇に、志乃は指先を当てて、そっと、それ以上、謝りの言葉を言わないようにさせる。

 「私にはもう謝らないで…。お姉さまは、何も、情けなくなんてありません。私にとっては、琴音お姉さまは、沢山の事を教えてくれて…、居場所なんてないと思っていた私も、受け入れてくれた人なんですから。私という人間も、私の書く小説も。琴音お姉さまがいてくれたから、花を好きになれて、沢山の、花に込められた言葉も知る事が出来たし、私は、自分という人間を許す事、自分の小説を許す事も出来た。もう、十分過ぎるくらいのものを、お姉さまからは貰って、支えられてきたんです。だから…、次は、私にもお姉さまを、守らせて、支えさせてください」

 そう言って、琴音の頬にそっと手を当てて、志乃の方へ、顔を向けさせる。

 頬も唇も、涙に濡れている。その頬の涙を指先で拭ってやると、後から、後から、琴音の涙はとめどなく流れてくる。長い睫毛にも、涙の粒が点々とついているのが見える程、二人の顔は互いに近くにあった。

 琴音の唇に目が留まった時、志乃は、気持ちが一瞬、よろめきそうになった。

 幾度も、思い描いて焦がれた、彼女の唇という薄紅の、柔らかな花びらが、雨に濡れ、雫を乗せた花びらのように、涙に濡れて、咲いている。

 しかし、彼女の口元、涙に濡れているその花びらに…、指先ではなく、自分の唇で触れる事は、決して許されない。それこそは、辰巳に背く行為だ。彼女の唇に触れて良いも人間は、辰巳だけ。そして、彼がいなくなった今、琴音のそれに触れる事は、誰にも許されない。

 だから、志乃はぐっと、自分のそんな不埒(ふらち)な気持ちを噛み殺す。

 そうして、志乃は、彼女の唇からは、強引に視線を引き剥がし、理性のあるうちに、彼女の体から、そっと体を離れさせる。

 琴音の、傷を負った左手首に、包帯の上から、志乃は、そっと口づけた。

 「傷が、早く治るようにというおまじないです」

 志乃は琴音にそう言った。

 そして、志乃は、琴音の肩に両手を置いて、彼女の涙に濡れる瞳を、長い睫毛を、白桃のような、白い頬を、正面から見据えると、こう言った。

 「お願いです、琴音お姉さま。どうか、これからは、私の事も見てください。私も、誰も、辰巳さんの代わりになんてなれはしないけど…、それでも琴音お姉さまの事を支えて、お姉さまの、生きる糧となり、希望となれるように、必死で頑張りますから…。だから、もう、死のうとはしないで。生きる力は残っていないなんて、そんな悲しい事も、もう、言っては駄目です」

 これからは志乃が、琴音の生きる希望となる事。

 それだけが、先に散っていった辰巳への、志乃が出来る精一杯のはなむけであり、同時に、今、目の前にいる琴音への、変わらない愛を伝える手段だ。 

 「ありがとう、志乃さん…」

 今度は、琴音が、志乃の体に手を回して、抱きしめてくれた。

 

 陸海軍特別攻撃隊による、比島で、昭和19年の秋から行われた、「特攻作戦」に、立て続く西太平洋の島々での日本軍守備隊の、玉砕の知らせに打ち沈んでいた国民も、束の間の歓喜の声を上げた。

 辰巳を含む、海に散っていった特攻隊員らは、「軍神」として国民の賞賛の的となった。大本営も、若き学徒兵の決死の特攻による戦果を、連日、報じるようになった。

 志乃の両親も、辰巳が戦死した部隊も含まれる、陸軍特別攻撃隊がルソン島沖のアメリカ艦隊に少なくない損害を与えたという、大本営の発表をラジオで聞いた時は、茶の間で久々に高揚した声を上げた。志乃の父親などは、敵艦の損害を聞き終わった後、こう言ったものだ。

 「やはり、神州日本は不滅だ。勇ましい若き軍神たちが、今も鬼畜米英に打撃を与え続けている。必ずや、彼らの死をも恐れぬ戦いぶりは天佑神助に繋がり、かつて蒙古の兵達を玄界灘の底に葬った、元寇の時と同じく、この戦争も神風が日本に吹く事だろう!」

 志乃は、いくら、ラジオで伝えられる戦果を耳にしても、喜ぶ気になど、到底なれず、そっと、茶の間を後にした。戦果に喜ぶ両親の姿を、見ているのも嫌だった。

 一隻のアメリカの軍艦を撃沈する為に、辰巳と同じように、夢を捨てて、愛する人も残して、南海に散っていった兵士が、何人いたのだろう。そして、琴音のように、遺され、心に深い傷を負った人々が、日本中にどれだけいるのだろう、と考えれば、喜ぶ気になどなれる筈もなかった。戦争支持者の両親の二人は、考えた事があるのだろうかと。


 昭和19年も年の瀬に入った頃になると、いよいよ、アメリカによる空襲が、志乃の身近にも迫ったものとなっていった。辰巳が決死で立ち向かった「敵」が、遂に、志乃や、琴音の日常生活の中にも、侵攻してきたのだ。

 「空襲警報が発令されました。敵飛行隊一個梯団は、現在○○方面に向けて、飛行中…。○○時頃、関東地方に侵入するものと見られます。」

 勤労動員で疲れ切った体で、床に就いている最中にも、空襲警報がなり、叩き起こされ、解除されては、また床に就く事が日常茶飯事となっていった。

 学生から徴収された工員らは、警報が解除されるまで、防空壕へ一時退避。警報解除となれば、再び仕事に戻る、という、神経をすり減らされるような日常が続いた。

 敵の攻撃に晒された際は、避難はあくまで一時的なものであり、爆撃が治まれば、必ず消火や救助活動にあたり、被害拡大を防ぐ事。けが人の救護に当たる事…、そう、志乃達にも厳命された。救護も消化も行わず、空襲から逃げたり隠れたりした者には厳罰を課すとも言われた。

 

 昭和19年も暮れの頃になると、帝都、東京にも、遂にアメリカ軍機による空襲が起きるようになった。

 早坂家でも、空襲警報を聞き逃さぬように、深夜もラジオをつけたままにする生活が日常の光景となった。警報で叩き起こされ、防空頭巾を被ったまま、固唾を呑んで、ラジオ放送に耳を傾け、解除されたら、ほっと胸を撫で下ろす。そんな夜が、ありふれた物となっていった。

 空襲という脅威は、志乃の神経をすり減らしていったが、それでも、志乃は、琴音の事を想えば、強くいられる気がした。

 辰巳に、琴音の事を託されたのだから。自分は琴音を守り、支え続けなければならない。

 

 その思いだけを、自分を支える糧に、志乃は、更に高い生産量を求められ、過酷さを増していく勤労動員の、過酷な労働にも耐えた。戦闘機の風防を、銃弾を、砲弾を、工場で作り続けた。


 季節が移り変わり、冬が深まっていっても、志乃は、工場での勤労奉仕の合間や、終業後の僅かな時間を惜しんで、手帳と色鉛筆を持ち、野花を描き続けた。

 そして、自分が見つけた、美しい野花を、花日記に描き、琴音の元に見せに行く事を続けた。

 辰巳が戦死して、寂しく、悲しい思いを胸に抱き続けている琴音。彼女の心の傷。その痛みを、志乃の描いた野花の姿で、少しでも鎮める事が出来れば良いと願いながら。


 年が明けて、昭和20年に入ると、いよいよアメリカの空襲も激しさを増していった。アメリカの空襲が、今までのような軽微な被害では済まない、大規模な無差別爆撃に変わりつつあった。辰巳の死の悲しみ。その心の傷も冷めやらぬうちに始まったそれは、覚めない悪夢を、延々と見せ続けられているような、地獄の日々だった。

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