南冥(なんめい)の墓標、琴音の慟哭

 昭和19年12月某日、辰巳は陸軍戦闘機「隼」に乗り込み、編成された特別攻撃隊「神武隊」の一員として、比島南部の飛行場を飛び立ち、ルソン湾を目指して、一路、僚機らと共に飛んでいた。

 作戦目標はただ一つ。比島の沖合に集結して、ルソン島に籠る友軍に猛烈な艦砲射撃を行っている敵艦隊‐、特に、アメリカ軍戦艦や、上陸したアメリカ軍の航空支援と、艦隊の防空などを担っているアメリカ空母等の大型艦艇‐を、「特別攻撃」、すなわち爆弾を腹に抱いた戦闘機の体当たり攻撃で、刺し違えてでも、海に沈める事…。

 辰巳が、航空隊の特操一期生らと共に、陸軍の特別攻撃隊として比島に到着する、直前‐、10月下旬。比島沖では、海軍航空隊の「神風特別攻撃隊」による初の特攻作戦が下され、見事に敵艦の撃沈を果たした、という知らせは、辰巳の耳にも入っていた。陸軍の航空隊関係者らも「海軍に後れをとってはならん」と戦功を焦っている節もあった。

 クラーク飛行場に最初に降り立って、そこで、特攻作戦の為の猛特訓が、この急造の陸軍特攻隊にも施された。飛行場では、地上の目標物をアメリカ艦艇に見立てて、高射砲や対空機関砲の嵐を潜り抜け、急降下。戦闘機と共に、敵艦の腹を食い破る…。その為の訓練を繰り返した。作戦決行までもう時間もなく、休む間などある筈もなかった。

 そうした訓練中にも、早速、アメリカ軍からの手荒い歓迎を辰巳達は受けた。空母から飛び立ったアメリカ軍機が、日本の飛行場を見つけると、機銃掃射と爆弾投下で、攻撃を仕掛けてきた。

 時には密林の中に身をひそめ、熱帯雨林の名前も知らない植物の影に隠れ、空襲をやり過ごした。

 出征前、あの下宿の、琴音の部屋で志乃と二人になった時に見せてもらった、小さな手帳‐「花日記」と志乃はそれを呼んでいた‐のページに描かれていた、幾つもの可憐な野花達の写生。色鉛筆だけで描かれた淡い色彩の花の絵には、どのページにも、見つけた日付。花言葉や、逸話。時には、花に因んだ和歌などが書かれていた。勤労動員の間の短い休憩時間、琴音に見せる為に描いたのだという。

 花日記を見せながら、思い出の話を聞かせてくれた志乃の様子に、彼女と琴音が、益々戦時色の濃くなる時代の中でも、文化を、花を愛する気持ちを無くさずに、支え合って生きている事が、辰巳にも伝わった。

 植物の緑の中に咲く、日本の繊細な色合いの野花とは全く異なる、南国の強い日差しによく映える、情熱的な彩りの花を見る度、『琴音さんなら、この花が持って生まれてきた意味も知っているのかな』などと考えた。

 志乃の前では、もう生への未練はないように振る舞ってみせたが、琴音、志乃に関する記憶は、彼に、ようやく固まりつつあった「特攻作戦で死ぬ事」意思を、この期に及んでも尚、揺るがしかねないものだった。だから、琴音、志乃との日々の事を、こちらでは極力、思い出さないように努めた。

 幾たびか、辰巳が配属された陸軍の特攻隊は、アメリカ軍の飛行場空襲に晒されたが、辰巳はその旅に、胸のポケットにしまっていた写真‐琴音と撮った写真。そして、志乃を間に挟んで、3人で撮った写真‐と、そして、白の紫苑の刺繍が縫われた、小さなお守りを、大事に持って、退避した。アメリカ軍機の執拗な攻撃を受けたが、特攻作戦に飛び立つまで、辰巳は絶対に死なないつもりだった。

 そうした辰巳の念が通じたのか、何度かのアメリカ軍の空襲も、彼は無傷で生き延びる事が出来た。

 必ず死ぬ作戦に出撃する事は決まっているのに、飛び立つ前にアメリカ軍機に撃ち殺されてはたまるものかと、一生懸命に身を隠し、退避して生命を繋ぐというのが、皮肉で、無意味な行動に感じられる時も、辰巳にはあった。

 しかし、アメリカ軍機の上空からの空襲に晒されつつも、学徒兵出身の他の特攻隊志願者たちは、「敵の戦艦でも空母でも、一隻でも撃沈させてから死ぬ。郷里を守る為に志願したんだ。出撃も出来ないままに、地面の上で死ぬ事など我慢ならん」と、口々に固い決意を示した。「大切な人を守る為に」、例え、夢を捨ててでも。


 辰巳が乗り込んでいる機体の中には操縦桿にぶら下げるようにして、琴音と志乃が編んでくれた、白の紫苑の刺繍のお守りが揺れている。そして、胸のポケットには琴音、志乃と写真館で撮った時の写真も収めていた。

 こうすれば、敵艦に突入していくその瞬間まで、自分は琴音、志乃と共に戦っていた事になるのだから。二人の思いの籠った、お守りと写真があれば。

 まもなくアメリカ艦隊のピケットラインを通過する。艦隊の護衛につくアメリカ軍機が、やがて空母から上空へと、巣から蜂の大群が出てくるかのように、複数、迎撃の為に舞い上がってくるだろう。彼我の距離はもう、幾ばくもない筈だ。辰巳達を指揮する、この陸軍特別攻撃隊「神武隊」の隊長機が、鋼鉄の翼を動かして「突撃態勢作れ」の合図を送るのが、風防越しに見える。訓練を思い出しながら、機体の向きを変える。


 風防から見えるのは、紺碧の海。何もなければ、南洋の美しい海の色に見惚れる事も出来ただろう。しかし、そこには、鋼鉄の塊が、目視しただけで、何十隻も浮いている。その全てがアメリカ海軍の艦艇だ。辰巳からはまだ、洋上に浮かぶ点にしか見えない。しかし、もしもアメリカ軍機の迎撃を掻い潜って、あの艦艇らの懐に飛び込もうとすれば、土砂降りのような勢いで、艦艇の高射砲弾と機関砲の銃弾がこちらに飛んでくる事も、辰巳は事前に聞いて、知っていた。

 そして、日本軍機とは一目で違うと分かる、紺色の塗装に、翼には白い星を纏った、アメリカ軍機の大部隊が、空の向こうに現れた。


 「はぁ…はぁ…はぁ…」

 幾度となく急旋回、急降下などをして、アメリカ軍機の攻撃を振り切り、辰巳は汗だくだった。極度の緊張で、動悸も呼吸も早くなる。

 最初の接敵から30分余り。「神武隊」は、早くも壊滅に近い状態に陥り、散り散りになって、辰巳の機体を含む3機が、ぼろぼろになりながら飛んでいる状態だった。

 内地の航空隊の、教育課程から一緒だった隊員の操っていた機体も、上の位置を敵機にとられた彼は、そのまま敵機の機銃で脳天を撃ち抜かれて、がくりと風防の中で項垂れるのが、辰巳の機体から見えた。その僚機はエンジンからも黒煙と炎を噴き上げて、態勢を崩すと、ふらふらと海面に向かって落下していき…、海面に巨大な水の柱が上がった。

 そんな凄惨な光景を何度も見て、辰巳は、目を覆いたくなる。しかし、一瞬でもそんな事をすれば、あっという間に敵機に機体の後方や上空という、攻撃しやすい位置をとられてしまう。瞬き一つすら、命取りになりかねない。必死に空を、海を、雲の間を、視界を目まぐるしく動かす。

 特攻訓練に特化した訓練のみを叩き込まれた、若い学徒兵の辰巳達に、数で勝るアメリカ軍機と、機銃の撃ちあいなどで格闘して、渡り合えるような技量などある筈もなかった。これが「普通」の部隊であれば、戦闘継続は不可能として、撤退していただろう。しかし、特攻隊である「神武隊」に、一旦退いて態勢を立て直すという選択肢はない。

 何発撃たれても、僚機が自分以外は全滅しようとも、敵艦を一隻でも体当たりで道連れにするのが、目標なのだから。

 辰巳は、幸か不幸か、操縦の才能はある方だったようで、教官の将校からも褒められていた。その技術を遺憾なく発揮し、上手く、アメリカ軍の戦闘機の攻撃を振り切り、海面に目指して高度を落としていく。

 隊長機と辰巳の機体のみが生き残って、目視で、はっきりとアメリカ艦隊の艦種まで見分けられる程の高度まで降下していた。こうなると、次は艦艇から吐き出される、嵐のような対空砲火が次は辰巳の機体を出迎える。

 「くっ…!」

 風防の傍を、何度も砲弾、銃弾がかすめていく。その砲撃、銃撃の密度は凄まじく、まさに弾幕としか言いようがない。

 とても、突破など出来そうにない、銃弾と砲弾の嵐。しかし…、ここで一隻でも良い。この、紺碧の海を埋め尽くすような、大艦隊に傷を負わせなければ…、いずれ、あの敵は、日本本土にまで迫る。      

 脳裏に、懐かしい人々の顔や、場所を思い浮かべる。弾幕の前にひるみそうになった、自分を奮い立たせる為に。

 郷里の両親。残してきた、弟や妹。そして、琴音と志乃の、二人。彼女らと過ごした、あの下宿屋。

 その全てを焼き尽くし、破壊しつくそうと、アメリカ軍は迫って来る。ここで、自分がいけば…、その敵に、僅かでも傷を負わせられる。

 アメリカ人達に、『日本人は死に物狂いになれば、どんな戦い方をするか分からない、恐ろしい相手』だと、恐怖心を与える事も出来る。今日、命は潰えてしまっても自分の戦いは、無駄にはならない。

 『行くぞ…!』

 辰巳は、意を決して、多くの友軍機を空中で切り刻み、葬ってきたであろう、対空砲火の真っ只中へと突入していく。

 海面は、悲しい程に青く、澄んでいる。この紺碧の大海原の底で眠れるのならば、それも悪くはないだろう。

 機銃と高射砲の猛攻を掻い潜りながら、駆逐艦の一隻が、辰巳の目に留まった。

 そこだけが、アメリカ軍の猛烈な弾幕の中で、小さな穴のように、対空攻撃の火力が欠けていた。‐目を凝らせば、宙に向いている対空機関砲が、火を噴くことなく、沈黙して、駆逐艦の艦上で、その機関砲の周りにアメリカ兵達が、焦った様子で集まっている。

 その光景を見て、敵艦の機関砲が故障しているのを、辰巳は瞬時に悟った。まさに、神が、自分に僥倖をもたらしてくれたようにしか思えなかった。辰巳の標的は決まった。敵艦隊の弾幕の中の、小さな穴となった、その駆逐艦を標的として、辰巳は機体の高度を更に下げ、海面に近づく。そして、敵艦に向けて、突入していく。

 敵の駆逐艦のアメリカ兵達も、すぐに、自分達の艦が標的にされている事に気付いたらしく、故障した一門の機関砲を放棄して、まだ健在の高射砲と、対空機銃を全て、辰巳の機体へ向けて、一斉射撃で出迎えた。

 やがて、風防が目前で砕け散り‐、辰巳の腕に、足に、そして胴に、次々と機銃弾が突き刺さっていった。焼け付くような痛みが迸る。辰巳の目に、鮮紅色の噴水が噴き上がるのが見えた。銃弾で切り裂かれた、足の動脈から噴き上がった血だった。

 肺にも銃弾が命中したらしく、辰巳は、呼吸をするのもままならなくなっていた。程なくして、喉元に熱いものが込み上げてきて、口から、辰巳は鮮血を吐き出した。

 操縦席を見れば、何もかも血塗れだった。操縦桿に下げていた、琴音と志乃から託された、あのお守り‐「武運長久」と書かれた袋に、白の紫苑の花の刺繍が施されている‐も、血に染まっていた。そこに縫われている、白の紫苑を見た時、血を失い、もうろうとする辰巳の頭の中に、色鮮やかに、琴音と志乃、二人の姿が蘇った。

 『何処までも清らかに…』

 琴音が教えてくれた、白の紫苑の花言葉を思い出す。

 ここで命尽きても、自分は、戦いの相手である、アメリカ兵の若者達を憎まない。敵への憎悪の感情ではなく、ただ、大切な人達を守りたいという、清く、純粋な「愛」に殉じて、自分は散っていく。その思いは、今、自分の機体に向けて、機銃を撃ち続けている、アメリカ兵の若者達も同じだろう。

 「さようなら…、琴音さん…、早坂さん」

 辰巳は、必死に意識を保ちながら、敵の駆逐艦に向けて、撃たれても撃たれても、真っ直ぐに飛び続けた。機体はやがて火を噴き上げはじめ、辰巳の体も火に包まれていく。

 火の玉と化しながら、辰巳の機体は、駆逐艦のほぼ中央へと命中した。

 

 やがて、機体に括りつけられていた爆弾が炸裂し、艦上で大爆発が起こった。何人ものアメリカ兵が、炎と爆風に包まれて、一瞬のうちに命を落とした。

 忌々し気に、アメリカ兵が叫ぶ。

 「カミカゼにやられた!畜生、ジャップ野郎め!!」

 アメリカ兵達は、倒れた仲間の救護と、業火に包まれる艦艇の中央の消火作業に必死に当たっていたが、損傷はあまりに大きすぎた。

 やがて、辰巳の機体の残骸を乗せたまま、駆逐艦は大きく傾き始め、浸水していき、アメリカ兵らは、最早自分達の艦は助からない事を悟った。多くの兵らが、海に投げ出されていく。

 辰巳の機体と刺し違えた、アメリカ軍駆逐艦は真っ二つに折れて、爆炎と共に、あっという間に、比島の海の底へ、引きずり込まれるように沈んで行った。


 山城辰巳という青年が22歳にして、命を散らした瞬間だった。


 ‐琴音の下宿を、陸軍の軍服を着た2人組の男が訪ねてきたのは、12月の暮れの事だった。

 いよいよ、日本本土で、空襲警報が鳴り響くようになった頃だった。秋深まる11月頃から、次第に工業地帯や都市部が、アメリカの爆撃機に襲われるようになり、日を追うごとに、空襲の頻度や、被害は増し始めていた。空襲の危機が目前まで迫っていた。

 琴音の、学校で授業を行う時間は、ほぼ無きに等しかった。最近の仕事は、ほぼ、生徒らの勤労動員の引率ばかりで、彼女らは軍需工場の労働力となり、女学校は学びの場の機能を、完全に停止していた。 

 雪が降り出しそうな程、冷えた日の夕方、その二人は重々しい表情で、「こちらに、里宮琴音という女性はおりますか?比島の攻撃隊に配属していた、山城辰巳について、伝えたい事があります」と、玄関の戸を開けた老夫妻に言い放った。

 「琴音ちゃん…、軍人さんがお二人、お見えだよ…。辰巳さんの事で、お伝えしたい事があるって」

 琴音は、勤労動員に行く志乃が、寒くないようにと、マフラーを編んでいるところだった。しかし、軍人が、自分の元にまで、辰巳の事で伝えたい事があると、わざわざ訪ねてきたという事は…、最早、その内容は、一つしか考えられなかった。

 編み棒が琴音の手から滑り落ち、毛玉がごろごろと畳の上を転がった。琴音は、急いで階段を駆け下りると、玄関の三和土に立っていた、軍服姿の二人組を出迎えた。

 二人は、軍帽を取ると、琴音にお辞儀をして、一つの封筒を手渡した。

 「里宮琴音さん、ですね。比島の特別攻撃隊に配属されていた、山城辰巳陸軍少尉殿から、貴女への手紙を預かっていますので、お渡しします。そして、山城少尉の事で、貴女にも、お伝えせねばならない事があります…。山城少尉ら、陸軍特別攻撃隊『神武隊』は、本12月〇日、比島を占領せんと集結していた、アメリカ艦隊に壮烈なる特攻を敢行し、山城少尉におかれましては、見事、敵駆逐艦一隻へ特攻に成功。これを撃沈せしめました。その、戦死の報告となります。…おめでとうございます」

 最後の「おめでとうございます」という言葉の前に、彼は一瞬、言葉に詰まって、葛藤する様子があった。こんな言葉は言いたくないとでもいうように。せめてもの、特攻作戦をとても受け入れられない気持ちの現れだったのだろう。

 全身の、あらゆる感覚が痺れてしまったような、奇妙な感覚に琴音は襲われた。

 二人の軍人が、辰巳の戦死の証拠として持ってきたのは、一通の彼の「遺書」のみだ。彼の遺骨も遺髪も、何もない。

 それだと言うのに、彼がこの世から、本当に消えてしまった事実は、誤報などではなく、揺るがずに存在している事が、奇妙であり、そして、受け入れがたかった。

 

 老夫妻は、「ああ…、なんて事だ…」と悲愴な声を上げて、琴音を見守っていた。

 そうした、聞き慣れた二人の声が奏でる、嘆きの調べも、全て、透明な膜の向こう側で響いているかのように、琴音は、一切の現実感を覚えられなかった。

 受け入れられない。しかし、否応なく、受け入れざるを得ない現実を叩きつけられた時、人の心はこのように、感情が麻痺してしまうのだという事を、琴音は知った。

 「…分かりました。お手紙、はるばる比島から、ここまでお持ちいただきありがとうございます。私は…、山城少尉の恋人であった者として、名誉の戦死を喜んでおりますと、上官の方々にも、お伝えください」

 そう言って、琴音は、二人組の軍人に、深々とお辞儀をした。何の抑揚もない口調で、まるで事務作業のような流れで。

 

 二人組の軍人が帰っていった後、火鉢の弾ける音だけが響く、薄暗く静かな部屋の中、琴音は、机の上に辰巳の手紙を広げて読んでいた。彼の死が、特攻作戦で散華した事が事実である事を証明するのは、この「遺書」だけだ。


 「この手紙が、貴女のところに届く頃には、私はもう、比島の、美しい紺碧の海の底に、愛機と共に沈んでいる事でしょう。

 比島は、海だけでなく、自然も、夜空も美しい場所です。南国の色鮮やかな花が、数えきれない程の種類、咲き誇っています。花言葉や、花の逸話を心から愛していた貴女が、この花達を見られたなら、どんな授業を私にしてくれただろう、などという未練がましい気持ちに、幾度も駆られました。

 

 夜になれば、敵機の襲来がなければ、世に有名な南十字星を見る時間もありました。こんな、美しい景色が溢れているのに、それを貴女や、それに早坂さんとも、一緒に見る事が出来ないのは惜しまれます。

 

 小説家として名を成すという私の夢は潰えましたが、しかし、私は、希望を失ってなどはおりません。私が身を捨てて、それで、貴女と、早坂さん。同じ、文学の夢を持っていたお二人が戦争を生き延び、その夢を叶えてくれる事。それに勝る、私の幸せは存在しません。

 

 私はもう傍にいないからと言って、悲しんではなりません。私の身は滅び、南の海の墓標の下に骨は埋めても、私の魂魄(こんぱく)は不滅であり、貴女と早坂さんの事を常に見守っています。どうか、お二人が涙を流す時は、私の戦死の知らせを受け取った時ではなく、夢を掴んだ時の、歓喜の涙であってほしい。

 

 貴女と、早坂さんのお二人は、どうか支え合って生きていってください。早坂さんは、きっと、貴女と喜びも悲しみも、分かち合える存在となってくれる事でしょう。

 

 そして、戦争が終わった暁には、どうか比島の、南の海の墓標に花を手向けにきてください。最後に、未練がましいお願いになるかもしれませんが、それが、最後の私の我儘です。比島の花々は美しいけれど、私と貴女、早坂さんが愛した花-紫苑の花は、ここには咲いてはいません。どうか、日本の、紫苑の花を、白の紫苑の花を、海に手向けに来てください。いつまでも、紺碧の海を墓標として、二人の事を、華やかな熱帯魚や珊瑚の彩る、南海の底の竜宮城でお待ちしています。

 

 長文とはなりましたが、私が、貴女、そして早坂さん。二人に望む事は、これだけです。それさえ叶うなら、もう思い残す事なく、私は戦いに赴けます。

 

 貴女の、愛していた花の、花言葉を、別れの挨拶として。そして、二人が今後、生きていく人生への願いとして、残します。


 琴音さん。早坂さん。何処までも、清らかにあれ。

 遠く南冥に在りても、私の魂は、貴女達の事を、久遠に思い続けます。

 昭和19年12月〇日 陸軍特別攻撃隊 神武隊 山城辰巳」


 幾度となく、彼が見せてくれた小説の原稿と寸分たがわぬ文字が、そこには並んでいた。本物の、彼の書いた遺書だった。

 辰巳からの遺書がもたらされた時から、麻痺したように動かなくなっていた琴音の感情が、急に、動き出した。

 そして、胸を圧し潰されるような、悲哀の波が、琴音に襲い掛かった。琴音は自分の口を手で覆い、必死に声を押し殺した。呼吸が早くなる。いくら、息を吸おうとしても、上手く吸えない。

 無理だ。辰巳がいなくなって、もう、自分は、今この瞬間にも崩れ落ちてしまいそうなのに、これから、彼のいない時間を生き続けていくなんて。癒えない傷を抱いたまま。

 辰巳の遺書は、最後まで優しさに満ちていたのに、今の琴音には、何よりも、残酷な事を命じられているように思えた。

 

 琴音の頭に、あらぬ考えが過ぎったのは、その時だった。机の上、本や手帳のページなどを切り取るのに使う為に、木製の筒形のペン立てに一緒にいれていた、金属製のペーパーナイフ。ペン立てに建てられたそのナイフの、微かに見える銀色の刀身は、室内を照らす電球の薄暗い照明を受けて、鈍く光っている。発作的に、そのナイフに、琴音は手を伸ばしていた。

 『もう…、いいわ。このナイフで、手首を切ってしまえば…、私も、辰巳さんと同じところにいけるかしら』

 そう、暗い情念が、琴音の中で囁いたのだ。辰巳の手紙で、絶望の底に追い落とされた、今の自分には、偶々、目に留まったそのナイフは、この覚める事なき悪夢からの救済に思われた。

 ナイフを手に取り、震える右手でそれを持って、自分の左手首。動脈が走っているあたりに、冷たい刃先をそっと、添えた。一階の老夫妻に、苦痛の声を聞かれないように、ハンケチを噛んで、ナイフで左の手首を搔き切る。しかし、非力な彼女の力で、震える刃先で突いた傷は深くはなく…、しかし、彼女の傷を負った心の流す血が、そのまま、具現化したように、手首から鮮血が流れ出た。それは、忽ちに、琴音の手から滴り落ちて、机の上に血だまりを作った。

 『まだ…、もう少し、深く切らないと…。そうすれば、私は、また、辰巳さんと一緒になれる。冥府の世界で…』

 ナイフをもう一度握って、我を忘れ、再び、左手首へと突きたてる。暗い衝動を止めるものは、今の琴音の中にはなかった。

 ‐そう、思っていたのに。

 何度も、何度も聞いてきた、よく軋む、二階への階段を駆け上がる足音。

 その足音の主を、今更、聞き間違う訳もなかった。琴音の右手が、一瞬、止まった。

 今日は、襖を叩く余裕もないと言った感じで、襖が勢いよく引かれた。

 

 「…琴音、お姉さま…⁉一体、何をしてるんですか!!やめてください!!」

 血塗れの手首に、尚もナイフを当てて引き切ろうとしている琴音の姿に、志乃は、凍り付いたように固まっていた。しかし、すぐに、我に帰ったようで、彼女は、琴音の方に、殆ど突進するような勢いで、琴音の、ナイフを握る手に飛びついてきたのだった。

 琴音は、

『ああ、どうして、この子の存在を、一瞬でも忘れて、自分を止める物はもう、何もないなどと思ってしまったのだろう』

と、自分を恥じた。何処かで、志乃という存在が腕ずくでも、止めてくれる事に、安堵を覚えていた。

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