「戦い」の意味。辰巳との惜別

 陸軍の、カーキの軍服姿の辰巳が下宿に訪ねてきたのは、昭和19年10月半ば。夕暮れの事だった。

 

 辰巳は琴音、そして志乃と共に、下宿の近くの道を歩こうと持ち掛けてきた。

 琴音は、前に航空隊の基地を訪ねた時と同じように、志乃がそっと、自分から離れて、辰巳と琴音が二人、並んで歩けるように身を引いてくれているのが分かった。

 こうして、辰巳、志乃と歩いていると、琴音の中には、幾つもの懐かしい思いが現れては、消えていく。

 辰巳は、こんな話を琴音にしてきた。

 「この前ね、航空隊の庭の、野草の中に、紫苑が咲いているのを見つけたんだ。琴音さんの好きな、白の紫苑ではなく、多い紫の方だけどね。とても、懐かしかったよ。白でも、紫でも、紫苑を見れば、琴音さんがそこにいるような気持ちになるし、あの下宿の部屋での日々がありありと蘇ってきたような気持ちがしたから」

 航空隊の庭。そこに咲く紫苑を見て、遠くにいる琴音の事を思ってくれていたのかと思うだけでも、琴音は、また目頭が熱くなる。

 木造の家屋や、小さな商店が立ち並ぶ、夕暮れの静かな下町。空は羊雲が散らばって、夕陽に染められている。時折、吹き抜ける風は日も落ちてくると、志乃の項を、冷たく撫でるような涼しい気候になっていた。

 空を見ても、すぐ身の回りを見ても、一見すると、昔の頃と何ら変わりはない。それなのに、僅か数か月の時間の間に、自分と辰巳、志乃を取り巻く環境は、一変してしまった。もう、後戻りは不可能な程に。

 辰巳の様子は、努めて、明るく話そうとはしているようだったが、やはり、何処か違和感を覚えた。何か、思い詰めたように、重大な事を話そうとしているように感じられた。そして、そのきっかけが中々掴めずにいるようであることも。

 三人は、とある、大きくはない川の、その川辺に辿り着いた。そこで、辰巳が急に足を止めた。彼の軍靴の立てた音が、彼の心の準備が出来た合図のように、琴音には聞こえた。

 ふっと、微笑みを消して、辰巳は、「今回の、比島への出征について、まだ、琴音さん、早坂さんには伝えていない、大事な事があるんだ」と、真剣な表情となって、琴音に告げる。

 そして、彼の口から語られたのは、琴音の想像を超えるものだった。


 「特攻作戦…⁉」

 辰巳の言葉を聞いた時、琴音が受けた衝撃は、言葉で表現しきれるようなものではなかった。琴音は、我が耳を疑った。敵艦に体当たりをして、刺し違えてでも撃沈する…。それが特攻作戦であり、辰巳らの航空隊も、此度(こたび)、比島へ襲来するアメリカの艦隊への特攻作戦に投入される事が決定した。辰巳も特攻作戦の兵士として、体当たり攻撃を行うと。辰巳はそう、琴音に告げたのだ。

 琴音も、志乃も、言葉が出なかった。

 それはつまり、辰巳が「必ず死ぬ」作戦に身を投じるという事だから。

 文学の夢も、琴音と志乃と、3人でもう一度紡ぐ筈だった、あの下宿での日々も、全ては、比島の海に散ってしまう。

 「もう、これ以上に敵に、有効な戦果を挙げられる可能性のある作戦はないんだ。少しでも、アメリカ軍が日本の本土に迫るまでに、特攻で出血を強いる事。それが、僕らに与えられた命令だ」

 琴音は、辰巳の言葉が薄く、透明な膜を張った向こうからような感覚に陥っていた。彼の放つ言葉の一つ、一つが、現実の物とはどうしても認められず、くぐもって聞こえるような錯覚を覚えた。必死に何かを言おうとしても、琴音は喉が塞がったように、言葉が出ない。

  

 どうして。どうして!どうして!!

 

 頭の中では、その言葉が、鐘の音の残響のようにいつまでも響いているというのに。

 その問いかけだけが、琴音の中で、膨れ上がっていった。また、自分と志乃との3人で、あの下宿の部屋で語り合おうと約束したのに。どうして、その未来を捨て去ってしまうような決断を、彼はしてしまったのだろう。

 喉の塞がった感覚を突き破るようにして、強引に絞り出せた琴音の声は、殆ど、悲鳴に近かった。

 「どうして…、どうしてなの⁉そんな、必ず死ぬ作戦に身を投じるなんて…!探偵小説家として、大成するんだっていう辰巳さんの夢も、潰えてしまうのに、一体どうして志願なんて…!」

 感情の濁流の中で、ぐるぐると自分の身が、掻きまわされているような心地がした。もう二度と会えないなんて。そんなつもりで、辰巳のいない日々を、志乃と共に待っていたのではない。いつか、彼が帰ってくる場所を、二人で守っていたのに。彼がいなければ、そんな未来に、一体、何の意味が…。

 琴音は、頭を押さえ込む。

 「琴音さん、お願いだ。落ち着いて、話を聞いて…」

 嫌だ。聞きたくない…。そう叫びたい気持ちを、琴音は辛うじて噛み殺し、辰巳の言葉を聞く。

 「この作戦は確かに、琴音さんと、早坂さんには、命を自ら捨てにいく、無謀な戦い方にしか、見えないかもしれない。だけど、僕ら学徒兵の特攻隊が比島に行かなければ…、そこで、敵に少しでも傷を負わせて、進軍を鈍らせなければ、敵は、二人が暮らしている、日本本土まで迫ってくる。全てを破壊し、焼き尽くそうとね。僕が行けば、結果的には、二人が、この戦争を生き延びられる可能性は上がる。僕は、琴音さんと、早坂さんの未来を守りたいんだ。勝つ事だけが、戦う目的ではない。僕は…二人が生きる未来を繋ぐ為に戦うよ」

 辰巳の声にも、苦悩が滲んでいた。彼も、深く苦悩して、その選択をした事は、理解はする。

 琴音の感情は、辰巳がもうすぐ、この世からいなくなる事を、全力で拒否していた。

 「でも…、その未来に、辰巳さんがいなかったなら…、私は、何を生きがいにして、生きればいいの…?」

 かつての教え子でもある、志乃の前で、情けのない、弱々しい姿を晒してしまっているのは分かっていても、琴音はそう口にせずにはおれなかった。

 琴音の問いに、辰巳はこう答える。

 「僕の夢は、もうすぐ、比島の海に散る。だけど、二人はそれから先も、生きていく。二人には、僕の成し得なかった夢を、掴んでほしいんだ。文学を力に生きて、文学で、その名を轟かせてくれ。僕の分まで、琴音さん、早坂さんには、筆を執って、書き続けてほしい。それが、僕の今の夢であり、二人に送る、最後の願いだ…」

 

 琴音は、「無理だ…」という気持ちしか、出てはこなかった。彼は、琴音と志乃が夢を叶えてくれる事が、自分の夢であり、最後の願いだと言う。しかし、琴音も、自分の小説を世間に認めてもらうという夢が叶った時、自分の傍らで辰巳が、共に喜んでくれている光景を見るのをずっと、夢として、胸に抱いてきたのだ。

 辰巳がいなければ、見られない夢があったのに。

 「私…、辰巳さんが、特攻作戦に散ってしまわれるのなら、もう…、再び筆を執る力も…いえ、そればかりか、この先の未来を生きていく力も、残りそうにないわ…」

 激しく揺れ動く心の、その隅から、零れ落ちたように、琴音は、あらぬ言葉を口にしてしまった。

 努めて、冷静を保って話してきた様子であった辰巳も、足を止めて、琴音の顔を見つめた。その時の彼の表情に、初めて、悲し気な色が浮かんだのを見て、琴音は、自分の言葉で、そのような表情を彼にさせてしまった事を悔やんだ。

 

 琴音と辰巳。二人の傍で、志乃も、言葉を失くしたままで、立ち竦んでしまっていた。ただ、動悸だけは、激しく打ち始めていた。

 琴音の愛する人が、もうすぐ、特攻作戦という、絶対に生きては帰れない作戦に身を投じて、南の海に散る。その先に…辰巳の命が尽きた後に、何が起きるかは、容易に想像がついた。

 戦争が終わって、琴音が辰巳と結ばれて、夫婦で、作家としての道を目指す。その二人の姿を、隣で、琴音の「妹」として傍にいて、これから先もずっと見守る事が、自分の至上の幸せだと思っていたのに。

 そんな、志乃の夢見ていた、琴音と辰巳の幸せが、成就する未来‐。それが、実現する可能性は、戦争という非情な現実の力によって、潰えてしまった。完全に。

 琴音は、両手で顔を覆っていた。彼女の姿を見て、その悲痛な声を聞いているのが、志乃には居た堪れなかった。

 志乃が愛する花が、枯れてしまおうとしている。辰巳と歩んでいくと信じていた未来。その未来だけを希望の水源として、辛うじて咲いていた、白の紫苑の花が…。

 何か言わなければ…。琴音に希望を持たせられるような、何かを。

 そう思っても、志乃の中で、焦燥感は空回りするだけで、何の言葉も捻りだせない。今の状況で、自分が持っている程度の言葉が、一体何の力になるだろうか。

 幾度か、声をかけようと思い、琴音の方に、手を伸ばしかけたが…、それを引っ込める。

 今は、琴音には、気の済むまで、辰巳との、「最期の時間」をせめて、惜しませてあげるべきだ。自分が口を挟むべき時ではない。

 志乃は、そのまま、ゆっくりと、琴音、辰巳の二人から、気付かれぬように遠ざかった。

 そして、街路樹の傍に身を隠して、幹に背中を付けて、琴音と辰巳を二人きりにさせた。

 自分も泣きたい。辰巳が特攻作戦に行く事も、それによって、どれ程の喪失の痛みを、琴音が味わうかを考えただけでも。

 しかし、今、泣いていいのは琴音だ。だから、彼女には、辰巳の腕の中で…、二度とは触れられぬ、彼の体に触れて、抱きしめられて、惜別の時間を過ごさせよう。少しでも、悔いのない別れとなるように。そこに、志乃が介在する余地はない。

 『私は…、全然、大人になんてなれてなかった…。琴音お姉さまを支えるって決めたのに…、お姉さまに慰めの言葉一つ、見つからないんだから…』

 志乃は、現実に対する自分の無力さを恥じて、呪った。彼女の頬を、今頃は、とめどなく伝い落ちているであろう涙を止める術を、志乃は何も持っていない。

 志乃が立ち向かうには、あまりにも、戦争という残酷な現実の力は、巨大過ぎた。

 今、琴音を「姉」として慕う、「大人」として、志乃に出来る、彼女への精一杯の事。それは、愛する人-辰巳との二人きりの「最期の時間」を、せめて悔いなく過ごさせる事。そうして…、きっと、志乃に見せる事は、ためらいがあるであろう、琴音の涙は見ないように、こうして木の影に隠れて、背を向けている事だけだ。

 志乃は、白の紫苑の刺繍をしたお守りを掌の上に乗せて、見つめた。きっと、このお守りを大事に飛行服の中に入れて、彼は、比島の飛行場から飛び立つのだろう。彼の、最初で最後の出撃へと…。辰巳は、出撃の時も、そして、比島の海の底へと沈んでいく時までも、琴音と一緒にいた事になる。この花は、志乃だけでなく、辰巳にとっても、琴音そのものなのだから。

 志乃は、二人の様子を、そっと木陰から伺った。もう、日もだいぶ落ちて、街灯も少ない、この下町では、目を凝らさないと、二人の姿は見えない。しかし、周りに人は殆どおらず、静まり返っていた為に、二人の話す声はよく聞こえた。

 「私…、辰巳さんが、特攻作戦に散ってしまわれるのなら、もう…、再び筆を執る力も…いえ、そればかりか、この先の未来を生きていく力も、残りそうにないわ…」 

 琴音の声で、そんな言葉が志乃の耳に飛び込んできた時、志乃は、胸を刃物で刺し貫かれたかのような、激しい痛みを覚えた。

 きっと、この痛みには、二つの意味が含まれていた。

 琴音が、辰巳亡きあとの未来を、生きていく力などないと言った事への衝撃は、言うまでもなく、その一つだった。

 しかし、それ以上に、志乃が痛みを覚えた、もう一つの意味は、琴音が未来を生きる力に、自分は今もまだ、なれていないのかという絶望だった。

 自分が、辰巳の代わりになどなれない事は勿論、百も承知のつもりだ。男性だろうと女性だろうと、彼の代わりなどは、世界の何処にも存在し得ない。けれども、今の琴音は、辰巳が必ず死ぬ作戦に向かうという事実への、絶望の濁流の中に飲み込まれてしまい、志乃を少しでも、心の支えにしようとは思いもしない様子だった。その事が、自らの非力さをこれでもかという程に、志乃に思い知らせていた。

 『私は…、琴音お姉さまの、何の力にもなれないの…?』

 ぐすぐすと鼻を鳴らす音がするのは、きっと、琴音のすすり泣く声だろう。

 彼女が、辰巳に、こう言うのが聞こえてきた。

 「辰巳さん…。もう、今日で、本当にお別れなのだとしたら…、最後に一つだけ、お願いがあるわ」

 志乃からは、彼女の表情も、辰巳の表情もはっきりとは見えない。琴音の頬は、泣き濡れている事だろう。

 この時、志乃は、直感で、彼女が、辰巳に何を求めているのかを、察する事が出来た。

 彼女は、辰巳の恋人だ。彼に会える最後の日。惜別の時に、彼に求める事といえば、もう、一つしか考えられなかった。

 辰巳も、察したように、そっと、琴音の肩に手を置いた。そして、琴音が顔を上げて、辰巳が、彼女の顔に、自分の顔を近づけていく‐。

 きっと、辰巳からの、餞別としての口づけだろう。

 幾度も、琴音の描く、甘酸っぱい、青春群像的小説の中でも目にした、若き美男と美女の口づけ。しかし、その書き手である琴音が、実際に辰巳と交わすそれは、彼女の描いてきた物語とは全く違う、あまりに悲哀の漂う光景だった。

 志乃は、そっと、目を逸らした。

 時間にすれば、2、3分に過ぎぬ程の短い時間でしかなかっただろうが、志乃には、それが酷く長い時間に思われた。

 次に、木陰から、顔をそっと出して、二人の様子を伺った時…、カーキ色の軍服に包まれた辰巳の背中、そして、彼の腕の中に身を預けて、抱き留められている、琴音の姿が、志乃の瞳に映った。


 そうして、3人で、琴音の下宿の部屋に戻った。彼が、厳めしい軍服姿でさえなければ、それはまるで、3人が、それぞれの小説を持ち寄って語り合ったあの日々が、刹那の幻のように、蘇ったかに思われた。

 下宿屋の老夫妻の二人は、目に涙まで浮かべて、彼の来訪を懐かしんだ。

 せめてもの気持ちに、今日ばかりは、貴重な配給の品で、送別の膳を用意させてもらうとの事であり、老夫妻の妻の方と共に、琴音は下の階に降りて、今は台所に立っていた。

 志乃は、卓袱台を挟んで、軍服姿の辰巳と向き合っていた。彼は、久しぶりに訪れた琴音の部屋の中を、じっと見まわしていた。この眺めを決して忘れないように、目に焼き付けようとしているように、志乃には思われた。

 そして、懐かしそうに、自分の原稿用紙を捲っては、「僕は、最初の頃の作品ではこんな風に書いてたのか、未熟で恥ずかしいな」などと、苦笑していた。

 「琴音お姉さま、本当に、辰巳さんが残して行かれた、幾つもの探偵小説の原稿を大切に残して、何度も見返していたんですよ」

 志乃が、自分の原稿を見つめている辰巳に言った。

 彼が軍隊に入って、この部屋を訪ねる事が途絶えてから、琴音が、彼の原稿を見ていなかった日は、志乃の知る限りでは、一日たりとてなかった。

 幾つもの原稿を、さらさらと流れるような速さで、捲っては、

 「このトリック、琴音さんが褒めてくれたな」

だとか

 「この犯人の、動機の告白の部分。琴音さん、それに志乃さんも、切なくて泣いたって言ってくれたね」

 とか、そうした思い出を志乃に聞かせるのだった。そうして、自作の小説を読み返す彼の目には、俄かに、学徒兵ではなく、文学という見果てぬ夢を追いかけていた一人の青年としての、情熱。その輝きが蘇るように、志乃には思われた。

 そして、志乃が彼と、琴音と、3人で持ち寄ったお互いの小説を読んでは、感想を言い合った、あの日々も、走馬灯のように、色鮮やかに志乃の頭の中を駆け抜けた。

 遣る瀬無い思いばかりが募り、志乃は座布団の上で、手を握りしめる。許される事なら、その輝く情熱で、特攻機の操縦桿ではなくペンを握って、辰巳は、生きて小説を書き続けたかっただろうに。

 この部屋の中でだけは、兵士から、一人の夢を追いかける青年の姿に戻っている辰巳を見て、志乃の中に湧き起る思いは、尽きる事がない。

 彼が、この場所に、同じ、小説という夢を抱く仲間として、志乃を迎え入れてくれたから。琴音と志乃の関係も、受け入れてくれたから。志乃はここに居場所を作れた。女を愛する女が存在する事実など、想像もしないようなこの国にありながら、女を愛する女の気持ちを書く小説。そうした物を、琴音と同じく、辰巳も受け入れてくれて、そればかりか、文学として、褒めてくれた事。

 二人の存在がなかったら、志乃の小説はただの、満たされる事のない自分の思いの捌け口にしかなり得なかった。誰にも読ませる事のないまま、志乃は、原稿を焼却炉の中にでも突っ込んでいたかもしれない。

 しかし、琴音と、辰巳が、そこに価値を認めて、与えてくれたから、志乃の小説は、感情の散文から、小説足り得ることが出来た。

 二人で、琴音の部屋で過ごす間、志乃は、これまでの、そうした感謝の念を、辰巳に述べた。

 そして、かねてより、ずっと、心の底では持ち続けていた疑問を、辰巳に投げかける。

 「今更…と思われるかもしれないのですが、私は、辰巳さんが、その…、私が、女をしか愛さない種の女である事を知りながら、琴音さんの傍にいる事を許してくれて、受け入れてくれたのが、いくら感謝しても、したりない事ですが、今も何故なのか理解出来ないところがあるんです。辰巳さんは…、私の事を、気持ち悪いとか、汚らわしいとは、本当に、全く思わなかったのですか?」

 「早坂さんが、汚らわしいって…?そんな事、思う筈がないよ。君は‐僕も負けたつもりはないけれど‐誰よりも、琴音さんの事を大事に思ってくれていて、僕が軍に入隊した後も、琴音さんが寂しい思いをしないように、ずっと傍で支えてくれていたよね。琴音さんからは、幾度も航空隊に手紙が届いて、その中に、君がいかに頑張って、支えになろうとしてくれてるのか。そして、それが、戦時下の日々で、琴音さんにはどれだけ、救いになっているのか、手紙で、読まない日はなかった。誇張でも何でもなく、ただの一通も、君の名前が出てこない手紙はなかったよ。琴音さんの手紙を通して知る君は、琴音さんのもう一人の恋人のようだった」

 恋人…、その言葉が出てきた時、志乃は、一瞬、背筋が冷える思いがした。

 しかし、辰巳の瞳に、志乃を責めるような色合いは一切なかった。

 「もう、君と…、早坂さんとも話せるのは、これが最後になってしまうから、聞くね、早坂さん。君は…、本当は、琴音さんの事を、姉のように慕うだけではなくて、やはり、今もずっと愛しているんだよね。それはきっと、君が琴音さんに初めて会った、3年前の春の日から、変わらずに」

 辰巳の言葉は、志乃の核心を突くものだった。

 校庭の隅で、琴音と、「私達は姉妹の関係になりましょう」と言われ、その関係でこの2年あまり、満足してきたつもりだった。琴音の「恋人して、愛する人」はあくまで辰巳ただ一人。自分が成すべきは、居場所をくれた恩人でもある、琴音と辰巳の関係が無事に成就するように支える事であるし、それが成就するのを見る事が、一番の幸せだと思ってきたから。

 「でも、琴音さんが幸せになる姿を見るのが、君の幸せという事は、琴音さんを、真に大切に思っていなければ出てこない言葉だよ。君は、姉妹の関係で、私は満足していると言うけれど、本当は、僕と琴音さんが結ばれたのを見て、幸せになる事を以てして、自分が果たせなかった幸せの、せめてもの代わりにしようとしていたんだよね。君と琴音さんが結ばれるという幸せのね」

 辰巳の観察眼は、志乃の心の機微を見逃す事なく、読みつくしていた。探偵小説を書く為に磨き上げられた、彼の推理力のなせる技だった。

 「探偵小説家になるのを目指して、書いてらした辰巳さんの目は、やっぱり、誤魔化せませんね…。辰巳さんが、探偵さんなら、私は、探偵さんと対峙する犯人になった心地です。探偵小説なら、きっと今が山場の、犯人の独白の場面でしょう」

 そんな返しをして、志乃は、軽く溜息をついた。迂遠な言い回しになったが、辰巳に確かめられた事が、事実だと認めているに等しかった。辰巳は、探偵を書くだけではなく、自分が探偵になる素質もあったのかもしれない。

 「…私の中で、琴音お姉さまを、お慕いする気持ち…、いいえ、正確には、恋い慕う気持ちは、辰巳さんが仰る通り、変わった事はありません。初めて、お姉さまの着物の、白の紫苑を見初めた日から。でも、辰巳さん。貴方が、もう琴音さんにはいる。貴方は素晴らしい人で、琴音さんと一緒に、私の居場所をくれた人だから、貴方に背くような事は決してすまいと思っていました。そんな行動に私が出れば、お姉さまも傷つける事になるのだから。だから、姉妹という、一緒にいる事がおかしくない関係になれた時、もう私はこれ以上の幸せは望むまい。結ばれぬ恋に、お姉さまを巻き込むのもよそうと身を引いたつもりでした。だけど…」

 モンペに包まれた太腿の上で、手をぎゅっと握りしめる。

 勤労動員で心身をすり減らしながらも、志乃が写生してきた野花を見せて、それに由来する花言葉や、逸話や、和歌を教えてくれる。その時の琴音の、綻んだ笑顔。

 彼女の口元が緩んで、花開く時。

 志乃の心にも花が開いたような甘く、心地よい香りと共に幸せが広がった。

 一方で、琴音が嘆き、悲しむ姿を見た時。

 志乃の心も暗くなり、深い海の闇の中にいるように、寒くて、心細くて、共に泣き出しそうになった。

 感情や感覚を渡し合う、不思議な能力を持った双子が、稀人であるが世間にはいると聞く。そうした存在と同じように、琴音と、志乃は多くの感情を共に分かち合ってきた。

 それは、今までの短い16年余の志乃の人生で、少しはいた友人達とは、比較にもならない程の、熱い感情の共有だった。

 こうした事が出来る相手が、恋人でないとするなら何だろう。

 「今も、本心は…、琴音お姉さまの事、愛しています。友愛でも姉妹愛でもない、愛情で」

 辰巳は、志乃の言葉を聞き終えると、

 「やっと、君の、遠慮も何もない、本当の気持ちを聞く事を話してくれたね」

 と言った。

 「琴音さんにも告げたように、僕はもうじき、比島に飛ぶ。そこで、アメリカの艦艇へ体当たり攻撃を行い、そして、比島の海の底に、骸を埋める事になるだろう…。だけど、琴音さんは一人にはならない。それは、琴音さんを、それだけ愛して、大事に思ってくれている、早坂さんが傍にいるから。早坂さん、これは、出撃の前に、僕からの、君への最後のお願いになる。どうか、僕が比島の海に散ってしまっても…君が琴音さんの傍にいて、心の支えになってほしい。彼女を守ってほしい。僕がいなくなった後、君以上に、琴音さんの事を理解し、支えられる人はいないんだから。僕という存在が、琴音さんの足枷になったり…ましてや、僕の死の為に、琴音さんが、生きる希望を失うのは、自分が死ぬ事以上に耐えられない。彼女をどうか、頼んだよ」

 それは、辰巳から志乃に託された、「遺言」だった。自分亡き後、琴音がどうなるのかを、きっと、彼は特攻作戦に出撃を志願した後も、悩み続けたに違いなかった。

そして、彼はここに来る前に、志乃に、この事を伝えるのを決めていたのだ。

 「そして…、最後にもう一つだけ。二人への、お願いというよりは、僕の我儘なお願いになってしまうけれど…この戦争が終わって、平和が戻ってきた暁には、世にも美しい、比島の青い海に、二人で会いに来てほしい。その海底に僕は、砕け散った愛機と共に、骨を埋めて、君達を舞っているだろう。紺碧の海が僕の墓標だと思って、琴音さんと君の二人で、手を合わせてきてくれ。どれ程、先になっても構わない。僕は、熱帯魚が舞う、竜宮城のように美しい、南冥(なんめい)の海底で、いつまでも君達を待っているから」

 それが、僕からの最後のお願いだ、と話を締めくくった時には、それまでずっと気丈に振る舞っていた辰巳も、ふと、寂しげな表情を見せた。‐それもほんの少しの時間の事で、志乃が幾度か瞬きをした後には、元の、気丈な顔つきに戻っていたが。

 琴音も、きっと先程、辰巳と二人きりになった時に、この、彼の最後の「我儘」を…、自分が骨を埋める事になる、比島の海にいつの日か、会いに来てほしいと、きっと言われた事だろう。

 「会いに、行きますよ…。当たり前じゃないですか。辰巳さんの事、忘れられる筈がないじゃないですか。必ず、比島の海まで、辰巳さんに会いに行きます。琴音さんと一緒に」

 辰巳に答えながら、目頭が、鼻根が熱くなる。目尻に熱い雫が溜まっていくのを感じる。今日の自分は、最愛の人である辰巳との惜別の時を迎えて、悲しみに打ちひしがれている琴音を、「妹」として支えなければならない立場の筈だ。だから、そんな立場の自分が泣いているような場合ではないのに。琴音は間違いなく、志乃以上に辛く、悲しいのに…、志乃は涙を押さえきれず、零していた。

 必ず死ぬ作戦にこれから向かうというその時においても、自分の事よりも、琴音と志乃の二人が、自分亡き後も、健やかにやっていけるようにと、二人の事を気遣う彼の、人としての器に、志乃は心を打たれていたのだ。

 「ごめんなさい、私は…、私以上にもっと、嘆き悲しんでいる琴音お姉さまの事を、今は支えないといけないのに、涙を流したりして…。でも、辰巳さんの思いを、聞く事が出来て良かったです」

 「僕も、内地を発つ前に、琴音さんだけでなく、早坂さんともこうして、話をして、僕の願っている事を、全て話す事が出来て良かったよ。僕のお願い、早坂さんは、聞き入れてくれる?」

 「ええ…、勿論です。辰巳さんが…南の海に散ってしまっても、私が、琴音お姉さまを絶対に支えます。そして、辰巳さんにも、必ず、会いに行きます…」

 軍服姿の彼は、志乃の言葉を聞いて、安心したように頷いた。

 「早坂さんから、その言葉が聞けたおかげで、僕はもう、思い残す事なく、戦いの地に行ける。ありがとう、早坂さん。そして、僕がいなくなった後も、琴音さんを、どうかよろしく頼む」

 思い残す事がないなんて、嘘だ。どれだけの言葉を連ねても、未練が尽きる訳もなかった。先程、志乃に、いつの日か、比島の海に、琴音と共に会いに来てくれと話した時の、あの寂しげな表情。その表情にこそ、辰巳の気持ちは、詰まっているように思えた。

 志乃は、少し気を抜けばまた、涙が零れそうになるのを、唇を噛み締めて堪える。惜別の悲しみに、いつまでもめそめそとしている事は許されない。自分に出来る事は、辰巳亡きあと、絶望の淵まで追い込まれた琴音を支える事なのだ。たとえ、驚くほどにか細く、頼りなく見える、この細腕ででも。

 「はい…。辰巳さん。私…、琴音お姉さまを、これからは、私一人でも、支えられるよう、頑張りますから」


 そうして、明くる日の早朝、辰巳は原隊に帰り、程なくして、比島に向けて、彼の所属する航空隊は出撃した。

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