戦地への出発

 琴音へ手紙が送られる直前の事。

 辰巳の所属する航空隊に、緊急の呼集がかかり、辰巳達は兵舎前に集合させられた。軍刀を下げ、重々しい表情の将校らが立ち並ぶ、その様を見た時、辰巳は、これから下される命令の重大さをすぐに感づいた。

 そして、部隊長が一枚の紙を読み上げた。それは、その場にいた学徒兵全てに、衝撃を与えるものだった。

 「最早、戦況を覆す可能性があるのは、敵艦に対する航空機での体当たり、すなわち特攻作戦をおいて他にはないと、大本営陸海軍部は決断した。西太平洋でのアメリカ軍の動きより、今秋10月以降には、比島に敵艦隊の大部隊が集結するのは必至と考えられる。サイパンも失った今、比島を防衛する本作戦に、皇国の存亡はかかっている。比島での特攻作戦を我が部隊からも志願者を募り、決行する。志願するかの是非を問う紙を配るから、それに総員、必ず答えるように」


 敵艦に体当たりして、刺し違える、特攻作戦‐。技量も経験も乏しい、短い教育課程で急造された、辰巳達のような学徒兵の航空隊を「有効活用」し、効果的に敵の戦力を削ぐ為には、それ以上の作戦はないと、軍上層部は判断したのだ。

 兵舎に戻る間、他の学徒兵らも、皆、思い詰めた表情で、一言も口を開かなかった。

 恐らく、他の学徒兵らももう、皆が分かっているだろう。辰巳は、今回の「特攻作戦の志願者を募る」という告知は建前に過ぎず、実際には、拒否出来ない「命令」であると、居合わせた将校らの鋭い眼差しから、すぐに察していた。「志願せず、拒否などしようものなら、どうなるか」と言わんばかりの、彼らの眼差しから。

 配られた紙を、皆、しばらく、黙りこくって、見つめていた。

 「強く、志願する」-その文言を、辰巳は、何度も目でなぞった。

 目を閉じて、思い浮かべる。郷里にいる自分の家族を。両親、幼い弟、妹を。

 そして、東京に残してきた、愛する琴音の姿を。彼女の「妹」となり、辰巳にとっても、妹のような存在に感じられた、志乃の姿を。

 「戦争が終われば、また、三人で、お互いの小説について語り合い、穏やかに過ごせる日々が戻って来る」

 必ず死ぬ作戦である、特攻作戦に志願するという事は、そう信じて待ってくれているであろう、琴音と志乃に背く事になる。

 探偵小説家となるという夢も潰えてしまう。

 『それでも…』

 辰巳は、拳を握りしめる。

 『戦況は、厳しい方向に転がり落ちている…。このままでは、そう遠くないうちに、この内地までアメリカ軍は押し寄せてくるだろう。家族も、琴音さんも、早坂さんもいる、この国を全て焼き尽くすまで、敵はきっと止まらない。僕が征く事で‐、少しでも、敵の進軍を遅らせて、大切な人達が殺されるかもしれないのを、守れるなら…』

 きっと、辰巳と共にいる、多くの学徒兵らの脳裏にも、懐かしい顔が浮かんでいる事だろう。

 自分が身を投げ打っても、恐らく、日本は勝てない。しかし…「戦う事」の目的は、勝つ事だけではないのだ。自分の命と引き換えてでも、大切な物を守れるのなら…。

 

 辰巳は、鉛筆で、配られた紙に丸を付ける。そして、兵舎の廊下に置かれた木箱の中に、それを放り込んだ。辰巳に続いて、何人もの学徒兵らが、木箱に志願の有無を問う紙を放り込んでいく。

 もう、後戻りは出来ない。

 辰巳は、兵舎の庭に出た。しばらく、一人になりたかったから。

 あてもなく、ぶらぶらと歩いていると、彼は、庭の片隅に咲く、紫色の花を見つけた。その、中心の、黄色の筒状花を囲むようにして広がる、繊細な紫色の花びらの形を見間違う筈もなかった。それは、琴音も、志乃も好きな花と、色は違えど、同じ花だったから。

 辰巳は、花の傍にしゃがみ込んで、そっと

 「紫の紫苑だ…。生憎(あいにく)、琴音さんの好きな白い方じゃなかったか…」

 色こそ違っても、その紫苑の可憐な花びらを眺めていると、入隊してから、抑え込んできた、甘やかな感情‐、あの、ほんの少し前まではあった、琴音の下宿の部屋での、細やかな幸せへの思慕の念が押し寄せてきて、辰巳は、地面に思わず、そのまま手を突いた。

 その花が持つ花言葉-、遠くにいる、貴方を想う。その言葉の通りに、辰巳は、琴音へ、そして、彼女の傍にいてくれているであろう、志乃へと思いを馳せる。

 きっと、南の島である、比島では紫苑も咲かないだろう。日本を発つ前に、もう一度、紫苑の花を見られて良かったと心から思う。そっと、その花に‐、まるで、琴音に触れるように、手を伸ばし、花びらに指先で触れる。

 「琴音さん…、この選択をした僕を、どうか、許しておくれ…」

 愛しさと、琴音に対する、心苦しさで、胸の中を掻き乱される。 


 辰巳が答えた、特攻作戦への志願の有無を問う紙。そこの、「強く志願する」に、辰巳は、丸を付けていた。

 

 特攻作戦には、航空隊の全員が志願すると回答していた。きっと、軍上層部はこれで満足だろうと、辰巳は苦々しく思った。せめて、自分はこんな、刺し違えの作戦しか立案出来ない軍上層部の為などではなく、愛する人達の未来を繋ぐ為に、死んでいくのだと思う事。それだけが、この、自らの体さえも兵器の一部に変え、敵艦に突っ込むという作戦に臨むにあたって、最後まで清らかに、人らしくあろうとする、辰巳の、細やかな抵抗だった。

 そして、辰巳は、自分が比島に出撃する事になった旨を伝えた。‐特攻作戦に志願した事だけは、それでも、どうしても書けなかった。


 志乃は、何度も、軍需工場で不手際を起こして、しまいには、怒った現場の監督者の男性から「貴様、やる気があるのか!!この役立たずが!」と平手打ちを食らってしまった。その、頬を張られた痛みもろくに感じない程、志乃は、心ここに在らずだった。

 あの、暮れなずむ、薄暗い部屋で、茫然自失となって、静かに涙を零していた琴音。彼女の前に投げ出されていた、絶望の手紙…。そして、そんな琴音に

 「お姉さま…、私が…ついていますから…」

 としか、かける言葉が見つからず、彼女の背を只管にさすってあげる事しか出来なかった、無力な自分。そうした物が、何度も頭の中に去来して、目の前にある、何に使われるのかもよく分からない部品になど、全く関心は向かなかった。

 あれだけ、物語の中では、主人公の少女から、愛する少女に向けられる、饒舌な言葉を綴ってきた自分が、嘆き悲しむ琴音に、ろくに慰めの言葉も見つけられなかった。琴音にもたらされた知らせは、志乃がかけられる言葉で癒せる程度の悲しみではなかったから。

 『こんな時に、お姉さまにかけるべき言葉も見つからず、傍にただ座って、見ているいる事しか出来なかったなんて、私が今まで小説を書いてきたのは、一体何だったの…?』

 花日記も、あの手紙がもたらされた日で、止まっていた。

 昼、工場の庭の木の下で、志乃はぼんやり、生い茂る野花を見つめていた。琴音に聞かなければ、自分は、この野花の花言葉も分からない。花日記を取り出してみるが、写生してみようという気力も起きない。名前も知らない野花の写生のページは、その下に添えられる筈だった花言葉はなく、空白のままだ。頭に蘇るのは、あの、薄暮の中で、静かに、涙を零していた、琴音の姿だけ…。

 

 志乃は、無力さを知りながら、それでも、また、工場の勤務が終われば琴音の家に足を運んだ。

 道の途中で、紫苑の花を探した。琴音を思い出させてくれる、白の紫苑を。

 しかし、未だ、本物の白い紫苑は見つけられずにいた。

 下宿の戸を叩き、開けてもらう。階段の軋む音と共に、2階に上がっていく。いつだったか、志乃の足音を聞けば、すぐに分かると彼女は言ってくれたのを思い出す。

 「琴音お姉さま…、志乃です」

 志乃がそう、部屋の襖の前で声をかけ、そっと襖を叩くと、やがて彼女が襖を開けてくれる。無理もない事で、琴音の顔色は良くなかった。目の下に、薄くくまが見られ、ろくに眠れてもいない様子だった。

 「どうぞ…、上がって」

 そう言って、通してくれたは良いものの、琴音の表情は、必死に、ともすればまた溢れ出してしまいそうな悲嘆を押さえ込んでいるように思われた。その唇も、きゅっと結ばれたままで、開く事はない。彼女のそんな表情をもう見たくはないのに、辰巳が死地に征くという現実の前に、志乃はあまりにも無力だった。

 女学校を去る日…、大人として、琴音の傍に立てる人間になろうと心に決めたというのに。圧倒的な、現実という力の前に打ちのめされてばかりだった。

 「辰巳さん…、この前、郷里のご家族にお会いしに行ったらしいわ…。内地を出る前に。同じ航空隊の皆さんも、郷里の家族や、お世話になった人達に挨拶に行かれているって」

 そんな話を、辰巳の近況を知らせる手紙をパラパラと捲りながら、彼女は言った。

 まるで、死出の旅に出る前の、別れの挨拶だ。志乃には、そう思えてならなかった。辰巳は、郷里に弟も妹もいる長男坊だと、聞かせてくれた事がある。彼ら、彼女らは、辰巳との別れの時を、どんな顔をして、過ごしたのだろうと想像するだけでも胸が痛んだ。

 「私達のところにも、次に外出の許可が下りれば、会いに来てくださるって…。この、3人で語り合った下宿に…。別れの挨拶を言いに。私達は…、笑顔で、辰巳さんを送り出しましょう」

 辰巳の手紙を、振り返るように見ていく、琴音の目。それが既に、この世にいない人を偲ぶような眼差しとなっている。彼女の目は、辰巳の手紙以外、何も映してはいなかった。

 志乃は、黙って、聞いている事など、もう出来ない。琴音の心が、寂しさ、悲しみで壊れていくのを。

 前にもしたように、志乃は、琴音に、背中から手を回してそっと、琴音を抱きしめる。これが、自分に許された、琴音への一番の密な触れ方だった。

 これ以上に…、彼女に触れたいと望んで、行動に移す事。それは、彼女への、今尚絶えない「恋心」による行動であり、「姉妹」の関係で長く落ち着いていた、二人の在り方を壊してしまうものだから。

 「そんな事…、無理です…。お姉さまが愛している人である、辰巳さんが、戦地に行ってしまうのを、二人で笑って送り出すなんて…。琴音お姉さまの心は今、こうして既に、壊れかけているのに…これ以上、自分の気持ちを封じ込めないでください。辰巳さんとの別れの時に、本当の気持ちを言わないまま、お姉さまに別れてほしくないんです」

 琴音の肩が、小さく、震えているのが分かった。

 「でも…、もしも私が涙して、引き留めるような事をしたら…、辰巳さんが、心残りなく、お国の為に立派な働きをして、戦えなくなるでしょう…?私は、愛している辰巳さんが、戦地で戦う時に、その気持ちを鈍らせる、心残りの存在になってしまいたくはないの。大人として、銃後を守る女として」

 「そんな…。たとえ本音を隠して笑顔で別れたとしても、辰巳さんが、お姉さまの事を忘れたりなんか、する筈ないじゃないですか…!心残りになってでも、お姉さまには、本当の気持ちのままに、辰巳さんを送り出してほしいです。きっと、辰巳さんも、彼が知っている姿のままのお姉さまに、送り出してほしいと願っている筈だから。笑顔で送り出す事なんて、考えなくていい。押さえきれない時には、私が一緒に泣いて、悲しさも半分こにしましょう…」

 どんな別れ方をしたところで、琴音への思いも未練も、辰巳がきれいさっぱり捨て去る事など、出来る筈がない。それならば、最後くらいは、涙してでも、琴音には、辰巳も志乃も知っている姿のままの琴音で、辰巳を送り出してほしい。

 最後という言葉を、無意識のうちに浮かべてしまっている自分を嫌悪しつつも、志乃はそう言った。

 

 そして‐、三人が愛する花、紫苑の花の咲く季節の只中の10月の事。

 所属の部隊から、一時外出を許された辰巳が、琴音の下宿へと、訪ねてくる日がやってきた。

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