「花日記」と、絶望の手紙

 昭和19年の4月、志乃は軍需工場での勤労動員へ身を投じる事となった。

 志乃が工場へと初めて勤務に行く日。まだ日差しが薄暗い、春の早朝。まるで、これから戦地に志乃が赴くかのような物々しさの中、父が、家の前で、志乃に激励の言葉を述べた。

 「戦地の兵隊さんに届ける銃弾や砲弾、飛行機の部品を作るのだから、お前も、戦地に行くのと同じ心地で勤務に励みなさい。国民学校、女学校の後輩達の見本となるような、増産の為に勤しむ先輩となるように。」

 そうした事を口を酸っぱくして言われた。

 恰好も、質素な私服に、スカートなどは許されず、慣れないモンペを履く事となった。春の朝、駅のホームでは、自分と同じように、工場へこれから送られていく、緊張した面持ちの、詰襟姿の男子学生や、女学生達でひしめいていた。男子はゲートルを足に巻いており、女学生もスカートから動きやすいモンペに履き替えている。

 男子、女子を問わず、学生もいよいよ、勤労動員の名のもとに、学生生活も形骸化していき、兵器増産の道具と化していた。殆どの学校が、週に1日しか授業の日はなくなり、それ以外は全て、学生も工場や農村地域の作業の手伝いに駆り出されているらしい。

 志乃の女学校もこの春から、週1日の授業日以外は全て、工場や農村に出向いての勤務に変わったらしい。つい先日まで志乃も着ていた紺のセーラーを上衣に着て、しかし、下はモンペに履き替えて、ちぐはぐな恰好をした、志乃の女学校の生徒らの一団を見つける。

 汽車が来るのを待っている彼女らは皆、まだ幼さの残る顔立ちの中に、不安を隠しきれていなかった。待ち受ける、軍需工場での過酷な勤務に対して。

 志乃は、この駅にいる、勤労動員に向かう学生達の中では、年長の方だ。制服姿の彼ら、彼女らを見つめながら、志乃は、3月、卒業の時に、琴音に言った言葉を振り返り、噛み締めていた。

 『もう、この春から自分は、女学生でもなくなるのだから…、琴音お姉さまに少しでも近づけるように、そして、辰巳さんが軍隊から帰ってくるまでの間、お姉さまを守れるような、強い大人の女になる…』

 甘えは許されない。表情を引き締め、その下に不安を覆い隠す。自分は、あの日、約束した通り、大人として、勤労動員の過酷な勤務にも耐えて、かつ、琴音を支えねばならないのだから。

 自分の母校の生徒らを引率する、教員達の姿の中に、琴音の姿を探す。そして、志乃は立ち並ぶ教員達の中に、一輪の花を見つける。たとえ、卒業式の日に見た、あの、白の紫苑の着物とは違う、質素な色の着物姿でも、志乃が、琴音の姿を見誤る筈がなかった。春の早朝の、柔らかい日差しが照らす、学生らでひしめくホームの片隅に、彼女という花は咲いていた。

 大幅に授業の時間も削られて、今、駅に集められて、琴音に引率されている、後輩の女生徒らは、きっと、彼女の国語の授業時間の途中に挟まれる、素敵な余談‐、花言葉の逸話を聞く機会も、この先、殆どないのだろう。そう思うと志乃は、後輩達の事が気の毒に思えた。彼女らは、人生で一番の多感な時期に、そうした叙情的な物に触れる事もないまま、鉄と油の匂いや機械の唸り声だけで占められた、軍需工場へ放り込まれてしまうのだから。

 朝日に輝く、琴音の尊き顔をもっと、よく見ていたかった。しかし、志乃は自分の目線を無理やりに、彼女の顔から引き剥がす。今はこんな甘い感情に浸っていてはならない。間もなくやってくる汽車が、自分を運んでいく先。そこでは、そんな甘い感情が入り込む余地など全くないのだから…。


 今まで触った事もない工具を持たされて、座る事も許されず、1日中立ちっぱなしで、何の部品かも分からない部品を作らされ続ける‐。送られた先の軍需工場で、そんな日々を志乃は送った。

 ようやく工場の勤務が終わる頃には、足の筋肉が引き攣るようだった。疲労から、全身が鉛のように重く、耳には、工場の中に響き渡っていた、名前も知らない機械の立てる金属音が、帰りの汽車の中でもまだこびりついている。汽車の中には、志乃と同じように、勤労動員で疲労困憊した顔の学生達がぎゅうぎゅう詰めで乗り込んでおり、座る余裕もなかった。 

 部品にやすりをかける作業を延々とさせられていたが、そのやすりによって、自分の精神力までごりごりと、すり減らされていく心地がした。

 汽車の中でひしめく、坊主頭や短くまとめた黒髪の頭の、その向こうにかろうじて、車窓が見え、外の景色を見る事が出来た。汽車が走っていく途中に見える、沿道の桜の花だけが、志乃の心を癒した。

 卒業の日、琴音と話した事を思い返す。戦争はもうすぐきっと日本が勝って終わる。もしかしたら辰巳の訓練が終わって、戦闘機に乗って出撃するよりも早くに。そうなれば、また3人で、あの琴音の下宿の部屋で、お互いの小説を読み合い、感想を話す‐、あの穏やかな時間も帰って来ると。

 『来年の桜を見る頃には…、日本は勝って、戦争は終わって、辰巳さんもきっと帰ってきてる。そうして、琴音お姉さまは辰巳さんと幸せになって、私も、そんなお姉さまを見て幸せを感じて…、また、3人で小説を読み合って、過ごすんだ。この、身も心も削られていくような日々も、そう長くは続かない』

 そう信じる事でしか、志乃は自分を保てそうになかった。

志乃は、戦争が終わって初めての春。桜の下で、重箱の弁当を広げ、辰巳と琴音と、自分の3人で、のんびりと、花見を楽しんでいる姿を、車窓の遠くに見える桜を見ながら、夢想した。辰巳が何か冗談を言って、琴音が、その口元に、蕾が綻んで花開くように、微笑みを作る。それを聞いて、志乃も笑う。そして、それぞれが書いてきた小説を持ちだして、時折、原稿用紙の上に桜色の花びらがふわりと落ちる中、感想を述べあうのだ‐。

 

 志乃が軍需工場での勤務を始めてから、早くも3ヶ月が過ぎた。

 ラジオから、新聞からもたらされる、大本営の発表では、戦況が良い方向に向かっているとは、到底思えなかった。

 七夕の日、サイパン島の日本軍守備隊が、アメリカ軍との激戦の末、壮烈な玉砕を遂げたという報が駆け抜けた時には、多くの国民が悲しみに沈んだ。そして、益々、この戦争の成り行きを案ずるようになった。開戦当初、日本が占領していた西太平洋の島々は、アメリカ軍によって次々と陥落させられ、日本軍守備隊は玉砕が相次ぎ、最早、「無敵皇軍」という勇ましい呼び名も、虚しい響きを持つようになっていた。

 そんな、サイパン島陥落という、一段と暗い知らせと共に、昭和19年の夏は到来した。

 7月にもなると、工場の中の暑さは苛烈なものとなって、立ち仕事を続ける、動員された学生らにとって、より一層過酷なものとなった。

 志乃も、喉が渇いてたまらず、足の筋肉が悲鳴を上げて、頭がふらふらする時が何度もあった。視界が大きく揺れて、倒れそうになった事も一度や二度ではなかった。実際、少なくない学生が熱射病に倒れ、蒸し暑い工場から運び出されて、救護室に運ばれていた。

 昼の休憩を告げるサイレンが鳴るのが、志乃は待ち遠しくてならなかった。工場の中より、少しでも風を浴びる事が出来る外がまだましだったので、志乃は、疲れた足をモンペの上から擦りながら、工場の庭の木陰にもたれて、昼休みを過ごした。

 貴重な休憩時間、志乃は、常に携帯するように言われていた救助袋の中から、とあるものを取り出す。

 一つは、辰巳が出征する前、琴音と二人で刺繍を施して、作ったお守りの袋だ。そのお守りに縫い付けられた花を、志乃はじっと見つめる。「遠くにいる貴方を想う」という言葉の通りに、航空隊で訓練に明け暮れているであろう、辰巳の事を思う。そして、母校にいるであろう、琴音の事も。三人が繋がっている事を唯一、目に見える形で証明してくれるものが、このお守りだった。

 そして、小さな手帳を取り出す。そのページを捲っていく。志乃が、色鉛筆で写生した、季節の花々の絵が、そこには描かれている。そして、琴音が教えてくれた花言葉が、その花の下には添えられていた。

 お守りと、この手帳だけが、勤労動員に明け暮れる生活の中で、志乃の乾ききってしまいそうな心を潤してくれていた。

 勤労動員に明け暮れる中で、琴音の下宿を訪れるのは、簡単な事ではなかった。それでも志乃は、工場の庭にも小さく咲いている野花を写生しては、琴音にそれを見せに、僅かな時間でも惜しんで訪ねていった。

 「志乃さん…、本当に、無理してない?顔色が悪いわ…、少しでも、時間があるなら、休んでいた方が…」

 「いいえ、少しでも、琴音お姉さまと会って、話が出来る事の方が、私にとっては大切な事ですから」

 志乃は、琴音の前では、疲れた様子を見せないようにした。琴音の愛する人である辰巳は、もっと危険で過酷な軍務に就いて、今日も操縦訓練に汗水垂らして励んでいるのだ。工場勤務程度で、疲れ切っているような弱いところを琴音に見せたくはなかったし、それで琴音を心配させるのも、どちらも志乃は嫌だった。出征した辰巳の身を案じる日々を送っている琴音に、志乃は、自分のせいで、更に心配をかけさせたくはなかった。

 「工場の中庭に咲いているのを、朝、見つけました。野草の濃い緑の中に、まるで青空を切り取ってきたような、青の花びらが咲いているのが、目に付いたので。あんな、趣(おもむき)なんて全く存在しない、工場みたいな場所でさえ、こんな綺麗で、儚げな花が咲くんですね。お昼には、この花は萎んでしまうし、写生に使える時間は少ししかないから、何日もかけて、記憶を頼りに描きました」

 志乃が手帳に色鉛筆で描いた花を見ては、その都度、琴音は、花言葉や、その花に託された願いや思いを教えてくれた。そのひと時の間だけは、志乃は、女学校の教室での、琴音の授業の時間に時が戻ったように思えた。志乃と琴音の、二人だけの授業の時間だ。

 琴音は、志乃の拙い写生でも、その花が何か、すぐに分かったようで、答えてくれる。夏の夕暮れ、琴音の部屋で、志乃の為だけの授業を彼女はしてくれた。

 「この青の花は、ツユクサね。夏によく自生している花で、すごく生命力が逞しくって、増えすぎて困ると農家の人とかからは嫌な雑草扱いされているけれど、志乃さんの言う通り、咲かせる花は、澄んだ青空のような色で、とても綺麗なの。それくらい、よく育つから、工場の庭にまで生えていたんでしょうね。ツユクサは、万葉集にも出てくる程、日本人には昔から親しまれてる花でね…」

 志乃は、彼女が教えてくれた、ツユクサの花言葉を手帳に、青の花に添えて、書く。ツユクサは「月草」とも呼ばれ、花言葉は「尊敬」と「懐かしい関係」。

 ツユクサにまつわる、万葉集の歌も聞いた。「月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも」という歌であるらしく、「移ろいやすい人の心」の象徴でもあるそうだ。

 「移ろいやすい心の象徴というのは嫌だけど…、でも、花言葉の方は、素敵な言葉で良かった」

 また一つ、手帳に新たな花と、その言葉や逸話が加わった。

 何も、志乃は花言葉や、その逸話を知り尽くす事が目的なのではない。それを琴音が教えてくれる事。その話を聞く間だけは、こうして、琴音の部屋で二人きりになれる事。それが大事だった。例え、それは勤労動員の帰りの、短い時間であっても。

 志乃がこうしてつけ始めた、「花日記」もだいぶ、描かれた花の種類は増えた。

 花の絵や、花言葉、花にまつわる短歌。そして、その花について話した時の、琴音の表情の移り変わりや、口ぶりまで、志乃は書き残していた。

 いわば花日記は、志乃の瞳に映る琴音の全てで、構成された日記だった。

 「こうして、琴音お姉さまとの思い出が、この花日記の中に増えていくのが、それだけが、苦しい勤労動員の日々の中での、私の楽しみです」

 志乃は、花日記を大事に胸に抱いて、琴音に言った。

 琴音から聞かされる、母校の現状も、今年に入って、学生の勤労動員の動きが活発になってからは、様変わりしてしまったらしい。

 「女学校も、登校日は殆どなくなって、今の私の教え子達も、皆、軍需工場に行ってしまったわ…。最早、学校もあってないような存在よ」

 琴音は、深く溜息をつく。国はもう、学生を兵士か、兵士に慣れない年少の男子学生、または女学生であれば、労働力としてしか見做してはいないようだった。

 「私も、教え子達が工場に汽車で向かうのを引率する仕事ばかりで、授業がちゃんと出来る日なんて、今では1週間に、1日あればいい方よ。大事な教え子にも殆ど関わる時間もない日々を送っていると、学校も、それに、教員である自分も、何の為に存在しているのかも、分からなくなりそう…」

 悩んだ様子の琴音を、黙って見ている事は出来なかった。花日記を、卓袱台の上に置く。志乃はそっと歩み寄ると、畳の上に膝立ちとなって、彼女の両肩に手を乗せる。そして、自分の身を寄せる。

 「悩み過ぎないで。琴音お姉さま。もう私は学校は卒業したけれど…、お姉さまのたった一人の、花言葉の授業の、教え子ではあり続けるから…。これからも、綺麗な花を見つけたら、こうして、花日記に書いて、お姉さまのところへ持ってきます。私が見た綺麗な花を、お姉さまにも見てほしいし、悩んでいるお姉さまに、花を見て、安らいでほしいから」

 卓袱台の上には、志乃と琴音。それに、志乃と琴音と、辰巳の3人の「繋がり」を示す物がいくつも並べられている。写真館で撮った写真。二人で作った、白の紫苑の刺繍のお守り。そして、季節の野花を写生し、それに、様々な事を添え書きした、花日記。

 それらを志乃と琴音は二人、身を寄せ合って眺めていた。

 戦争の激化により、どんどんと崩れ去っていく、当たり前だと思っていた日常。その中で、形ある、確かな物で、二人を、そして二人と辰巳を繋ぎ合わせてくれる証として、それらはあった。

 志乃が女学校を去る日。琴音が志乃を抱き寄せてくれた、あの時に感じたものと同じ安らぎが、志乃の胸に押し寄せる。その安らぎだけで、勤労動員の辛い一日の疲れなど、すぐにでも癒えてしまう。

 「今は、私にはこれぐらいの事しか出来なくて、ごめんなさい。私が、辰巳さんの代わりになんてなれはしないのは分かってるけれど…」

 「いいえ…、こうして、勤労動員で大変なのに、志乃さんが、私に会いに来てくれて、花日記も見せてくれて…、それだけで、私は本当に救われているわ。もしも、志乃さんがいてくれなかったなら、私は、辰巳さんが出征してしまった今、寂しさで、どうする事も出来なかったと思う。私ね、志乃さんが、ここのよく軋む階段を上がって来る時の、その足音を聞いただけでも、胸が弾んで、気持ちが淀んでしまっている時でも、ぱあって、曇り空が晴れ渡るように、気持ちが晴れていくのよ。今日も来てくれたんだって」

 琴音は、自分の肩にそっと手を伸ばして、そこに置かれた志乃の手の甲に、手を重ねてくれた。

 琴音の言葉は、本当に嬉しい。今日一日の疲れも吹き飛んでしまう程に。それ程、自分がここに来る事を琴音も嬉しく思ってくれているという事実が、嬉しくて仕方がない。

 だけど…、「琴音お姉さまの寂しい気持ちを埋め合わせる」という自分の役目は、戦争が終わり、辰巳が帰って来るまでの話だ。彼が帰ってきた時が、間違いなく、琴音の何にも勝る喜びの時であり、その時がくれば、志乃の「琴音お姉さまを支える」という役目も終わる。

 『でも、それでいいの…。琴音お姉さまが幸せになる事以上の、私の幸せなんて、きっと存在しないんだから。戦争から帰った辰巳さんが、琴音お姉さまをお嫁さんにして、それを私は祝福する。それが、一番の、私達3人皆が、幸せになる方法なんだ』

 志乃は、自分にそう言い聞かせる。

 「きっと、琴音お姉さまに最上の喜びが来る日は、そう遠くはないです…。辰巳さんが、戦地に行かなくても、その前に日本が勝って、戦争が終わればいい。その日は遠くないです」

 半ば暗示のように、琴音にそう語る。自分にもそう言い聞かせながら。


 しかし、3人を巡る事態は、更に厳しいものへと移り変わりつつあった。

 

 ‐日本軍が戦争初期から占領していたフィリピンへ、アメリカ軍が迫りつつあった。

 最早、戦況を覆せる可能性があるものは、航空隊による、軍艦への体当たり攻撃‐「特攻作戦」しかないと、大本営、陸海軍部は決断した。フィリピンで、秋にはアメリカ軍が押し寄せる事を見越して、昭和19年の9月‐、遂に、辰巳を含む学鷲‐特別操縦見習士官の、若き学徒兵らに、フィリピンでの特攻作戦遂行の為に、配属が決定されたのだった‐。


 道端に咲く、彼岸花が、幾らか涼しさを感じるようになった夕方の風に揺れていた。

 それを見つめながら、今日も、軍需工場での勤労動員で疲れた体を引き摺りながら、志乃は、琴音の待つ下宿へと歩いていた。この疲れも、琴音の微笑みを一目見る事が出来たなら、きっと消え去る。

 下げている袋から取り出した、花日記‐。女学校を終えて、琴音と会える時間も大きく減ってしまっても、この日記を開く時、志乃は、ありありと、彼女の声を耳元に、安らいだように微笑む顔を脳裏に、蘇らせる事が出来る。今日も、この日記に写生してきた花について、琴音に教えてもらうつもりだった。

 異変は、琴音の下宿の戸を叩いて、すぐに、志乃も感じ取る事が出来た。

 いつも、戸を開けて、志乃の顔を見れば、孫娘が来たようににっこり、笑ってくれる、下宿を営む老夫妻。その二人の顔が、今日は青ざめていた。何処か、おろおろとしているようにも感じられた。

 「どうされたのですか…?」

 その只ならぬ気配に、志乃は、この下宿屋の2階で待ってくれている人の顔が、真っ先に頭を過ぎった。老夫妻の、夫の方が口を開いた。

 「それが…、今日、辰巳さんから、手紙が届いてね…、それを見た途端に、琴音ちゃんは、顔を真っ青にして倒れてしまったんだ。ああ、なんて事だろう…、こんな事になるなんて…」


 琴音が倒れた。その言葉を聞いた途端に、志乃も、つい先程までは、速足で歩いてきた為に、暑い程だったのに、体中の熱が奪われて、凍えるような心地がした。それ程の衝撃を、琴音が受けるという事は、辰巳からの手紙が、只ならぬ知らせである事も予測出来た。鼓動が早くなる。

 志乃は、二階へと続く、古くギシギシと軋む階段を駆け上がった。

 今日ばかりは、襖を叩く事も忘れて、志乃は琴音の部屋へと駆けこむ。

「琴音お姉さま⁉何があったんですか?辰巳さんから手紙が来たって…」


 琴音は、茫然自失の様子で、卓袱台の上に投げ出された、一枚の便箋を眺めていた。日が落ちるのも早くなり、既に部屋の中に差し込む日差しは弱まっているのに、電球をつける事すらも忘れているようで、部屋の中は薄暗かった。

 志乃の声に、はっとしたように彼女はこちらを向いてくれたが…、彼女の瞳の中に、光を見出せない事に、志乃はぞっとした。頬には薄く、涙の痕があった。

 「あ…、志乃…、さん…」

 声の出し方も忘れてしまったかのように、琴音は、ぎこちなく、志乃の名前を呼んだ。

 志乃は、卓袱台の上の便箋に目を落とした。夕陽の日差しを頼りに、原稿の上で何度も見た、懐かしい辰巳の文字をたどる。そこに書かれてあった文章は…、琴音を絶望の淵に追いやって、納得の内容だった。

「比島(※フィリピンの事)にまで、敵の魔の手が迫りつつあります。比島防衛作戦への参加を任せられ、その栄えある大任を、この度、特別操縦見習士官第一期生である私は、陸軍航空隊少尉への任官と共に賜りました。秋の訪れと共に、私は比島の最前線の飛行場へと立ちます。戦況は益々ひっ迫し、最早、一刻の猶予も残されてはいません。攻撃隊を編成した後、幸いにして、部隊から、最後の外出の許可を頂けるとの事でした。内地を発つ前に、貴女に。それに、早坂さんにも逢いたい。また、便りを送ります。山城辰巳」

 志乃は、畳の上に膝を落とした。腰に力が全く入らなかった。

 がくがくと、体が震え出すのを感じる。琴音が感じている絶望が、伝染したように。声が、上手く出せない。

 「辰巳さんが、比島に…、出撃…?」

 志乃の愛する人が、愛している人。志乃を妹のように、見守ってくれて、居場所を作ってくれた人。その人が、ついに、死地に赴こうとしている。

 「志乃さん…。私は…、これから、どうすればいいの…」  

 琴音が、ポツリと呟く。その声と共に、部屋の薄闇の中でも、彼女の頬を伝って、ポロポロと雫が零れ落ちるのが分かった。


 志乃と琴音が心の何処かで、抱き続けていた、「辰巳が出征する前に、日本の勝利で戦争が終わればいい」という願いは、残酷な現実にいとも簡単に打ち砕かれた。

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