志乃の卒業

 昭和19年3月、琴音は、三度目の、この女学校で迎える卒業式を迎えていた。

 志乃が、3年前の春の日、好きだと言ってくれた、白い紫苑の花をあしらった着物に、袴を合わせた正装で講堂の教師の中に立っていた。

 琴音の身なりに、眉をひそめる教員もいなかったわけではない。戦時下、それも、益々戦況が悪化していく中での卒業式だから。しかし、この女学校の校風が比較的、この戦時下においても、教員の服飾に至るまで口やかましい方針をとらず、緩やかだったおかげで、まだ、校内で、花の刺繍がある着物を着る事が出来ている。婦人会の襷をした怖い形相の女性達に会ったら、裁ちばさみを持って「お洒落に現を抜かす非国民め!」と追いかけられそうだが。

 自分がこの学校に赴任してから3年。志乃とは女学校で一緒であったから、彼女とはもう間もなく、学校で会えなくなるかと思うと、それはやはり、琴音も寂しい。しかし、志乃とは、また下宿のあの部屋でなら、会う事が出来る。小説は、辰巳が無事に帰ってくるまでの間、願掛けで筆を置いていたが、彼女は小説に代わって、今度は、花の写生画を持ってきてくれるそうだ。日本に自生する花であれば、大概はそらんじて、話せる自信はあったが、間違いがないように、今一度、あの使い古した花言葉の全集を読み返しておこう。

 今日は、あの3年前の始業式で初めて、志乃に、自分の着物の花の刺繍を見られた時の事を思い出してか、志乃の視線をどうにも気にせずにはいられなかった。

 席についたままで琴音は、講堂内に着席している女学生らの中に、志乃の姿を探す。

 すると、忽ち、志乃と目が合った。きっと、彼女もこちらを凝視していたのに違いなかった。志乃と初めて会った、3年前の春の始業式の日と、同じ白の紫苑の花をまとった琴音の姿を。

 志乃も、琴音の着物を見てあの日を思い出したのだろう。琴音と目が合うや否や、顔を赤らめ、そっと視線を逸らして、俯き気味になってしまった。

 羽織袴姿の校長の、卒業生らに向ける祝辞は、殆どは「大東亜戦争下、三度目の本校卒業式の日となった。戦局は厳しさを極めているが、男も女も関係なく、必勝の精神を持って邁進すれば、如何に鬼畜米英が相手といえども、必ずや我が国は、最後には勝利出来る。戦場で、鬼畜米英を撃滅せんと軍務に就く兵士達が、銃後の憂いなく奮闘出来るかは、内地を守る、諸君ら日本女性にかかっている。卒業後の四月からは、いよいよ、内地を守る者として、物資生産など、如何にしてお国の為に自分を役立てられるか、考え、行動するように」という調子だった。

 卒業を祝う言葉などは殆ど聞かれず、国の為に、戦争に勝つ為に役立つ『銃後を守る女性』になれという事を、延々と聞かされた。『銃後を守る女性』になれ、とは、この大東亜戦争が始まってから、耳にたこが出来る程に、琴音も、志乃も聞かされた言葉だ。

 卒業後は、すぐに勤労動員で、弾薬、砲弾、その他の軍事物資増産の為に工場に行かされる生徒らは、志乃の他にも何人もいると琴音は聞いていた。自分が、授業の途中に、余談として聞かせた花言葉の逸話を聞いて、時には感動したのか、瞳を潤ませていた彼女らが、四月からは鉄と油の匂いが充満する軍需工場へ配属される。花言葉のような、叙情的な物など、そこには一切入り込む余地はない。ひとたび投げ込まれたら、彼女らは、ひたすら、工場の機械の一部となって、戦争遂行の為に、弾薬、砲弾の製造作業に駆り立てられる。

 そう考えると、琴音は、遣る瀬無い心地がした。

 人間が大切に守って、語り継いできた美しい文化の一端‐、花言葉。それらを女生徒達に聞かせる事で、文化という水脈が「戦争の役に立たない無価値な物」として枯れてしまおうとしている中であっても、女生徒らの心を少しでも、潤せていたと、琴音は信じたい。この女学校という場所を去り、学校の外に広がっている、文化という物が枯渇した砂漠に出て行く前に。

 琴音は、今一度、自分が赴任してから授業を受け持った覚えのある、懐かしい女生徒らの顔を辿っていく。そして、志乃の顔に目が留まる。先程顔を染めた薄紅を、その白い頬にまだ残していた。琴音の視線に、誰よりも敏感に志乃は気付くようであり、また、彼女はちらりと、琴音へと視線を送り返してくる。何だか、目配せで、密かに会話しているような気分になる。志乃が、今日はずっと照れ臭そうに見えるのは、琴音の着物の、白い紫苑の花を、強く意識してくれているからだろう。

 琴音の一番好きな花を、志乃もまた好きになってくれた。琴音が語る白の紫苑の花言葉を聞いて、胸を打たれて。

 琴音の、「戦時下であっても、私の授業の時ぐらい、女生徒達の心には、文化的、詩的な水を与え、潤したい。私の語る言葉で」という願いは、志乃の姿を見れば、きっと叶っていると信じられた。


 多くの女生徒らが、他のどの教員よりも、琴音との別れを惜しんで、涙も流してくれた。「里宮先生が教えてくれた、お花と花言葉。忘れません。勤労動員に行っても、辛い時は、あの素敵な花言葉のお話の時間を思い出します」と、多くの生徒が言ってくれたのは、何にも代えがたい喜びだった。

 そんな、別れを惜しむ女生徒の集団の中には、しかし、今、琴音が一番、話したいと願っている人の姿がなかった。

 ようやく、琴音を慕う女生徒らも、最後の下校の帰路につき始め、少なくなってきた。琴音は、次第に減っていく、正門に向かって歩く女生徒の中に、彼女の姿を探す。琴音は、学舎から正門へと通じる、桜並木の一本道にずっと立っていたのだから、志乃が帰ろうとしていたら、見逃す筈はない。彼女はまだ、学び舎が名残惜しくて、中に残っているのだろうか。

 そして校舎の方に、一旦戻ってみる。すると…、志乃は、静まり返った教室にまだ帰らずに、一人佇んでいた。

 「待っていました、里宮先生。いや…、ここは学校だけれど、もう、卒業式も終わったし、もう、先生と呼ばなくても大丈夫ですよね…?琴音お姉さま」

 志乃は、初めてこの学び舎の中で、琴音をその呼び方で呼んだ。教室で志乃に、その呼び名で呼ばれるのは、今日が最初で最後となるだろう。

 「学校では先生と呼ぶようにと言ったのは、私だけれど、確かにもう志乃さんは卒業したのだし、今は…他の生徒もいないから、今日だけ、特別よ?」

 そう言って、志乃に許可を与える。

 志乃は、琴音の方へと歩み寄ってくる。

 「その白い紫苑の花の着物…、今日も、着てきてくれて良かった。何だか、3年前の始業式で、赴任したばかりの頃の先生を初めて見た時を思い出しました」

 「大切な、『妹』である貴女が好きだと言ってくれた花であり、着物なんだもの。今日という晴れの日に、着て来ない筈がないでしょう?」

 琴音のその言葉に、志乃は、まだ幼さを残した、形の良い唇の端をきゅっと上げて、微笑んでくれた。彼女の感じている嬉しさが伝わってくるようだ。

 しかし、その微笑みをすぐに引っ込めると、志乃は、急に真面目な表情に変わる。

 微笑みを形作った唇も、真一文字に引き締められている。何か、大きな決心をしたように。

 「お姉さま…卒業式も終わったから、今日は、大事な話をしようと思って、ここで、貴女を待っていました」

 「話って?」

 そして、志乃は、琴音に話を切り出した。

 「琴音お姉さま…、今日で私も、女学生としての身分も終わり、世間からはもう大人として扱われます。お姉さまがそうであるのと同じように。私は、正直言って、まだ、自分が大人になれたんだなんて実感は、全然持てないし、自信も何もありません。それでも、私は…、辰巳さんが軍隊に行って、寂しい思いをされている、お姉さまを、辰巳さんが再び帰ってくる日まで、支えになって、守れるような強い大人の、女になろうと、心に決めました」

 もう、保護され、守られるべき立場の学生ではなくなった。自分も高等女学校を卒業したからには、一人前の大人の女として、琴音を支えられるようになりたい。それは、志乃からの、卒業を踏まえての、大きな決意表明だった。

 そして、話しながら、志乃はぎゅっと、拳を握る。しかし、それは力を誇示するような素振りではなく、必死に、力を絞り出そうともがいているように見えた。

 「分かってます…。そうは言っても、今の私には、何の力もない事を。男性で、優秀な大学に行かれていて、優しくて頭も良い辰巳さんの代わりを務められるなんて、そんな思い上がった事は、考えていません。でも、私も、琴音お姉さまの、もっと支える力になりたいんです。こうして女学校も終えて、やっと大人に、一歩でも近づけたからには。それに…、何より、私は、琴音お姉さまの『妹』ですから」

 あの、2月のまだ寒さの強い日、辰巳のいる陸軍航空隊へ、二人で面会に行った帰り道でも、志乃は、真剣な表情になって、話していた事を、琴音は思い出す。『私には、妹として、琴音お姉さまを支える義務がある』と。あの時から今日まで、ずっと、志乃は、そうした事を考えていたのだろう。その細い腕に精一杯力を込め、小さな手をぎゅっと握りしめながら。

 愛おしい『妹』。そこまで、彼女は、琴音の事を考えてくれていたのか。

 そこまで、思い詰めなくて良いのに。そう言ってあげようとしたが、そう言われても、志乃は中々、肩の力を抜いてはくれないだろう。

 だから…言葉以外の方法で、彼女の、力を入れ過ぎて、固くなってしまいそうな体を、解きほぐす事にした。琴音は、目の前に立っている志乃に、愛しさを込めて、そっとその背中へと手を回した。優しく抱きとめる。

 幼い妹の頑張りを、称える姉のように。

 「えっ…!!」

 咄嗟の事に、志乃は一瞬、言葉が出ないようだった。

 「お、お姉さま…!何を…」

 「そこまで、私の為に、思い詰めさせてしまってたのね…。小さな体で。でも、私は大丈夫だから。私を支えようって、志乃さんが…頑張りすぎて、力を抜けない事の方が私は心配だわ。だから、気を張り過ぎないで。もっと力を抜いていいから…、妹として、志乃さんは、もう十分に、愛しい存在なんだから、私の横にいてくれたら、それだけでいいの」

 そう言って、今日で着るのが最後であろう、志乃の、紺のセーラー服に包まれた背を摩る。社会的には大人になったとはいえ、志乃はまだ十六歳。こうして触れてみれば、その体格も華奢さが目立つ。

 「嬉しい…、けど、悲しくもある。不思議な気持ちです、琴音お姉さま…。夢にまで見た、お姉さまの腕に優しく包んでもらっているのは凄く嬉しい…。だけど、これは…決して義理『姉妹』の関係以外の、何物でも、ないんだと思うと…、全く反対の二つの気持ちが、胸の中に一緒に現れてきて、ぐちゃぐちゃになりそう」

 ことんと、志乃は、その額を琴音の、着物の肩に当てて、頭を預けるようにした。

 今、志乃は、どんな表情をしているのだろう。この姿勢では、伺えそうになかった。

 「お姉さまの言葉…、嬉しいです。ただ、横にいてくれるだけでいいなんて、私には勿体ないようなお言葉です。だけど、私にも、頑張らせてください…。辰巳さんは、お姉さまを、この国を守る為に、学徒兵になられたのに、私はただ横にいるだけでは…、私、これでいいんだろうかってずっと思ってしまうから」

 俯いたままで、志乃はそう言った。今は、彼女はきっと表情は見られたくはないだろうという事は、その雰囲気から伝わった。

 「私も、志乃さんも…、今は精一杯、自分に出来る事をしましょう。戦争が終わって、辰巳さんが帰ってくるまでは。でも、この前にもいったように、志乃さんに、無理はしてほしくないわ。厳しい勤労動員の仕事にも行くのだから、尚更、体は大事にしてね」

 「はい…」

 このまま、ずっと二人でくっついている訳にはいかない。戻ってきた他の教員らに、今のこの光景を見られでもしたら、志乃も大変な事になる。

 しかし、志乃は離れようとはしなかった…。いや、志乃だけではない。琴音の方も、志乃から手を離したくはないのだ。

 この気持ちも、志乃への、義理の「姉妹愛」の感情だけだと思いたい。琴音の為に、強い大人になると言ってくれた志乃に対しての。

 「気を張りすぎなくても、大丈夫よ…。帝國陸海軍は、大本営が言っているように、無敵の軍隊なんだから、いずれ、アメリカとの戦争にも勝って、辰巳さんも無事に帰って来る。もしかすると、辰巳さんは今、航空隊の見習士官で訓練中だって言っていたから、辰巳さんの部隊が出撃する前に、日本が勝って、戦争は終わっているかもしれないわ。そう遠くないうちに。そうしたら、もう私達の生活も元通りで、きっと、またお互いの小説を見せ合いながら、楽しく過ごす生活に戻れる。私、また、志乃さんの、少女同士の恋物語を読みたいわ」

 そう、志乃に言い聞かせた。

 「戦争はもうすぐ日本が勝って終わる。辰巳は運が良ければ、戦場に行く事もなく帰れるかもしれない」というのは、半ば、志乃に対してだけではなく、自分にも向けた、都合の良い予想で、自己暗示でもあった。

 「私も、お姉さまの書く、甘酸っぱい青春の物語も、辰巳さんの書く、探偵小説もまた、読みたいです…。すぐに、そんな日々が戻れるといいですね…」

 そうして、二人は、3月の柔らかく、しかし昼日中でも中に、冬の名残りの冷たさを隠した風が吹き込む、静かな教室で身を寄せ合って、佇んでいた。


 しかし、「戦争はもうすぐ日本の勝利で終わる。辰巳の部隊は実戦に行く事もなく、彼は帰ってこられる」というのは、あまりにも、厳しい現実から乖離した、虚しい願いでしかなかった。琴音も本当は、そんな甘い空想とは正反対に、日本の戦況が向かっているのは分かっていたが、現実から目を背けたかったのだ。


 昭和18年の秋から昭和19年の初春にかけての頃-。アメリカ軍の大攻勢は、日本の勢力圏に入っていた西太平洋地域の島々へと迫っていた。日本軍守備隊が玉砕し、陥落する島も出始めていた。日本の絶対国防圏は、じりじりと、アメリカの圧倒的戦力の前に追い込まれつつあった…。

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