面会

 帝國陸軍航空隊の学徒兵‐、特別操縦見習士官第一期生として、辰巳はこの冬から、飛行兵としての猛特訓に明け暮れる毎日を送っていた。

 そこには、かつて、琴音の下宿で、琴音と、志乃と、自分。それぞれが自分の小説の原稿を持ち寄って、語らい、笑い合った、あの優しい時間とは似ても似つかぬ、汗と、オイルの匂いと、戦闘機のエンジンの立てる唸り声に満ちた、荒々しい日々だった。

 「いかに貴様が、大学での軍事教練をたるんでやっていたかがよく分かるな!」

 毎日のように上官や先輩兵士から、浴びせられるそんな罵声と、顔に叩きつけられる、鉄拳制裁の数々。終わりのない地獄に思えた。

 辰巳と出身校を共にする学徒兵の中には、その壮絶なしごきに耐えかね、航空隊の兵舎から脱走した末に、自殺した学徒兵まで出た。辰巳の所属する航空隊の上官は、学徒兵の自殺を隠蔽し、「飛行訓練中に、機体の故障により事故死した」と、遺族には送ったと、同期の学徒兵からは聞かされた。

 「何が、『学鷲』だよ…、勇ましい美名をつけるのだけは得意な新聞め…」

 美名からは程遠い、陰湿なしごきが蔓延する、航空隊での生活にも、初めて一筋の光が差した。ようやく、入隊後初の、面会許可が下りたらしい。同じ特操一期の学徒兵らは皆、喜んだ。

 「煙草を持ってきてもらうんだ。軍隊暮らしは、煙草と飯くらいしか気晴らしがないからな」

 「俺は、何か旨いもんを差し入れてほしいって手紙に書いた」

 「俺のところも郷里の父ちゃん、母ちゃんに、弟、妹も総出で会いに来る。山城、お前のところは?」

 兵舎でそんなやり取りがされていた時、辰巳にもお鉢が回ってきた。辰巳は答える。

 「僕も、郷里の家族が皆、会いにきてくれるってさ。それから…東京の大学に出ている最中に知り合った女性と、その友達の女の子も…」

 「顔のいい男だと思っていたが、やはり女がいたか!その女ってのは、べっぴんかい?年はいくつ?婚約はもうしたの?」 

 辰巳の回答に、他の学徒兵らも興味津々といった様子だった。

 兵舎の、狭いベッドの傍の小さな机に向かい、手紙を書くために、筆を持った時、辰巳は、不思議な感覚に陥った。思えば、入隊の為に、小説を書く事もやめざるをえなくなってから、筆を執るのは久しぶりだ。まだ、書き残した探偵小説が、琴音の下宿にある筈だった。トリックも、殺人を起こした犯人も、作中に出せない段階で、動員されてしまった。あの続きを、自分は生きて書けるだろうか…。

 「そういえば、山城、君はA大学の文学部の独逸(ドイツ)文学科?か何かだったな。それで君、入隊前は自分で小説も書いていたって聞いたが、あれは本当か」

 手紙の文面を考える辰巳に、隣のベッドを使っている辰巳とは別のB大学出身の学徒兵が、興味ある様子で訪ねてきた。

 「ああ、本当だよ。僕は、探偵小説を書いていた。いつか、江戸川乱歩先生にも負けないくらいの、探偵小説家になってやるんだ」

 「探偵小説ねえ・・・、僕は法学部法律学科で、小説なぞは大して読まんから、よく分からないな。江戸川乱歩ってあれだろう、怪人二十面相とか、子供向けの」

 「大人向けの小説も書いてるさ、二十面相は確かに有名だけれども」

 「二十面相や少年探偵団は、年の離れた弟が好きでね、郷里では、近所の子供らと少年探偵団ごっこ遊びに興じてたのを思い出してな。でも、子供向けじゃないものを書きたいのか」

 「大人向けとか子供向けとかの話ではなくて、僕は、探偵小説を、立派な文学作品として認めさせたいんだ。探偵小説は、奇術や手品みたいに、読む者を驚かせれさえすればいい。純文学より価値の低い読み物だっていう風潮を覆したい」

 このようなやり取りをするうちに、他の学徒兵にも、辰巳の噂は広がっていった。

 「山城の書いた探偵小説、ちょっと読んでみたいかもしれない」

 「いつか読めるさ。この戦争が終わって、自由に執筆が出来るようになったら、絶対、書店の店頭に置かせてやるんだ」

 そうしているうちに、2月の面会の期日が近づいていた。

 辰巳は、軍に入隊してから、想像以上に、帝國陸海軍の戦況が悪化しているのを知った。マリアナ諸島を初めとした太平洋の島々でも、アメリカ軍の猛烈な反攻作戦が行われ、昨年後半から、玉砕する守備隊が相次いでいる事。大本営が絶対国防圏に定めた地域の中にも、既にアメリカ軍が相当数、食い込んできているらしい事。

 戦況を知り、辰巳は、今後、自分を含む学徒兵達を待ち受ける戦場が、どれだけ厳しいものになるか、容易に想像が出来た。

 生きて帰れるかもしれないという、心の片隅にまだ残っていた甘い期待も、捨てねばならないような、悲壮感漂う戦況だった。


 数機の、白地に赤丸が染め抜かれた日の丸を、鋼鉄の翼に塗られた戦闘機が、頭上の青空を何度も飛んでいくのが、志乃の目に見えた。

 2月のとある寒い日、志乃は、琴音と共に、○○陸軍航空隊基地へと足を運んでいた。戦闘機は、いずれもその航空隊基地の方から離陸して、飛来しており、今は、訓練の最中のようだ。

 『あの戦闘機に、辰巳さんも乗って訓練してるんだ…』

 志乃は、飛行兵の恰好に着替えた辰巳が、操縦桿を握り、機体を操っている姿を思い浮かべる。戦争の為の、兵器の一部と化して。

 卓袱台の向こうで、いつも、興味深そうに志乃の小説を読んでくれていた辰巳。

 文学、とりわけ、探偵小説を愛していた、優しい兄のような、文学青年の辰巳。

 そんな彼の姿しか知らない志乃は、機銃を翼に備え付けた鉄の猛禽を操り、空を駆ける、勇ましい「学鷲」-飛行兵の姿の辰巳を、どうにも想像出来なかった。あまりにも、志乃が知っている、出征前の辰巳の姿と、それは隔たりが大きすぎた。

 航空隊基地の兵舎へと通じる門前には、冬用のコートを着た兵士が立っている。その手には、鋭く、冷たい光を放つ銃剣を着剣した小銃が握られている。その威圧感に、志乃は気圧(けお)されそうになるが、その門の方に着物姿の女性や、スーツ姿の男性、幼子らが並んでいる。恐らくは、ここの航空隊の兵士らの家族であろう人達を見るに、ここが、面会者の並ぶところで間違いはないようだった。

 志乃と琴音は、立ち並ぶ人々の中で、順番を待った。季節はまだ2月で、頬を刺すような冷たい風が吹き抜け、志乃はマフラーに顔を埋める。あと、残りひと月ほどで、着る事もなくなる紺のセーラーの上に着ているコートの、ポケットに手を入れて、時折暖を取る。

 琴音は、軍隊の基地を訪れるという事もあって、今日は華美な刺繍などもほどこされていない、落ち着いた青の色無地で、その上から紫の道行コートを羽織っていた。

 やがて、面会者の名前を確認する兵士達が座っている、机の前に二人はやってきた。

 「山城辰巳の知人の者で、里宮琴音と申します」

 琴音がそう答え、志乃もそれに倣った。二人は兵舎の方へと通された。

 兵舎の庭の方で待っていると、「琴音さん!早坂さん!来てくれたんだね!」と、二人を呼ぶ声が聞こえてきた。志乃が、声の方に目を向けると、カーキ色の軍服に身を包んで、軍帽を被った、辰巳が兵舎の入り口から、こちらへ手を振り、駆けてくるところだった。

 彼の軍服姿を見た瞬間、志乃は、『ああ、本当に辰巳さんはもう、学生ではなく「兵士」になってしまったんだ』と、より強く実感させられた。

 辰巳の姿を見た途端、軍隊の基地の中という慣れない場所で、緊張した面持ちだった琴音も、破顔して、ぱあっと笑顔を花開かせた。

 「辰巳さん…!」

 この爽やかな美男子と、嫋やかな美女の邂逅(かいこう)は、他の、面会に来る家族や知人を待つ青年兵士らの耳目を集めるのには十分だった。他の兵士らの視線が、こちらに集まってくるのを志乃は感じた。

 辰巳に案内され、兵舎の中の面会室に通される。木造の古い建物で、隙間風が吹き込むのを感じ、寒々しい建物だった。部屋の中には木製の机が一つと、椅子がいくつか置かれているだけで、その他は何もない。

 「入隊した後、辰巳さんからのお便りがしばらく来なかったから、心配していたわ…、軍隊生活をちゃんと送れているだろうかって」

 辰巳が入隊した、昨年の暮れから琴音は、辰巳が、入隊した後は送ると約束していた手紙が来るのを今か今かと、首を長くして待っていた事は、志乃もよく知っていた。だから、面会が許可されたから、部隊へ会いにきてほしいという手紙が来た時の、琴音の喜びようは並大抵のものではなかった。

 「心配かけてすまなかったね…、新兵訓練が大変で、しばらくは面会どころじゃなかったんだ。ここは特別操縦見習士官一期生、つまりは戦闘機乗りとしての訓練を受ける学徒兵の部隊だ。訓練が終わるまでは内地にいられるけど、僕は勿論、生まれてこの方、飛行機なんて操縦した事もないから、墜落させないようにするだけでも大変さ…」

 墜落…という言葉に、横で聞いていた志乃も思わず、表情が硬くなる。すぐに外地に送られる訳ではないから、まだ戦場で倒れる事はない。しかし、彼は戦闘機の操縦訓練中に少しでも操作を誤れば、それは即座に命取りとなる。地面に機体もろとも叩きつけられた辰巳の体は、無惨に引き裂かれて、そして炎に包まれるだろう…。

 志乃は、そんな不吉な想像をすぐさま、頭から追い出す。下げてきた鞄の中から、とある物を、志乃は取り出して、辰巳へと見せた。

 「辰巳さん…、これを、戦闘機に乗る時は、必ず持っていてください」

 「これは…、お守り?」

 志乃の掌の上には、「武運長久」と糸で文字を形作られて縫われた、小さな袋型のお守りが乗せられていた。辰巳は、そのお守りを志乃から受け取ると、しばしの間、それを見つめていたが、やがて、それにあしらわれた花の刺繍に目を向けた。

 「このお守りに刺繍してある花は、もしかして…、白の紫苑の花かな?」

 彼も、その刺繍を見て、すぐにそれが、何の花を模った物であるかは気付いたようだった。志乃、それに、隣に座っている琴音も、彼の言葉に頷く。

 「はい。実は、そのお守りは、辰巳さんとの面会の日が決まってから、会った時に渡せるようにって、私と琴音お姉さまと二人で作ったんです。その、白い花の刺繍も…、輪郭が崩れて、ガタガタな部分もあるかもしれないですが、白い紫苑を思い描きながら、私が縫いました。琴音お姉さまはすごく、刺繍もお上手だから、教えてもらって」

 辰巳は、お守りの袋の、紐の部分を親指と人差し指で摘まんで、宙に持ち上げた。そして、しばらく、お守りに刺繍として刻み込まれた、遠い初秋の頃に咲くその花を模る刺繍を見つめていたが、やがて、柔らかに微笑んだ。

 いかめしい軍服に身を包んで、兵舎から出てきた彼を見た時は、辰巳が遠くの存在になってしまったかのように志乃は感じていた。しかし、面会室の、小さな高窓から差し込む日差しの中で、紫苑の刺繍を見つめて優しく笑う、彼の表情は、琴音の下宿で何度となく見た、優しい彼のままだった。

 きっと、学生服から軍服へ姿は変わっても、琴音が愛するようになった、彼の姿ままで、変わってはいないと志乃は思った。

 「ありがとう…、軍に入隊して、まだ3ヶ月そこらだけど、ここでの生活は、頭がどうにかなりそうだと感じる瞬間が、幾度もあった。だけど、琴音さん、早坂さんが僕の為に祈ってくれて、そして、白の紫苑の花の事も思い出させてくれて、僕はまだ、正気を保っていられそうだよ…」

 お守りを、繊細な手つきで握ると、それを胸に押し当てて、辰巳は言った。

 彼の言葉の中は、学生の身から突然、軍隊での生活という全く異質の世界へと放り込まれた事への、秘めた苦悩が、志乃にも垣間見えるものだった。正気を保つのも厳しい程の世界なのか、この、軍隊という場所は…。

 「辰巳さん…、航空隊での訓練に明け暮れる日々の厳しさは、女の私には想像だに及ばない程の物があるだろうけれど…、どうか、私達が、あの下宿の部屋で、帰りを待って、一日足りとて欠かさずに、戦争から帰還出来るように祈っている事をお忘れにならないで。苦しさに心が折れそうな時は、どうか、このお守りの、花の刺繍を見て、思い出して。白の紫苑の花言葉と、私達3人の繋がりを」

 『何処までも清らかに』、そして『遠くにいる、貴方を想う』。そんな思いが込められた白の紫苑の花は、琴音が、軍務に就いている辰巳に贈るには似合い過ぎている花だった。皮肉な程に。

 「忘れるわけないさ…。二人の事。琴音さんが一番好きな、このお守りの刺繍の、花に込められた言葉も。内地での訓練が終われば…、僕はきっと、南太平洋か、フィリピンの激戦地の島の航空隊に送られて、南の空で、アメリカ軍と戦う事になる。でも、このお守りがあれば、遠い南の島に行っても、紫苑の花をいつでも見られるね」

 内地での訓練が終われば…、いよいよ、彼は遠くに行ってしまう。帝國陸海軍が、アメリカ軍と血みどろの戦いを、今も繰り広げているさなかの南方へと。

 その時までに、志乃と琴音は、あと何度、辰巳とこうして話をして、彼の顔を見られるだろうか。


 殺風景な面会室の中だけで話すのもなんだから、という事で、その後、辰巳に伴われて、航空隊の基地の隅の、並木道を軽く、彼と琴音と、志乃の3人で歩いた。

 季節は2月で、木々もまだ木の葉を落としており、春は、その兆しさえ見つけられそうにはなかった。その木々の梢をじっと見つめて、辰巳は言った。

 「ここの木々は、どれも桜なんだ。『同期の桜』じゃないけど、『同じ航空隊の庭に咲く』ってやつだね。まだ、僕ら特別操縦見習士官はひよこみたいなものだから、訓練期間はまだまだかかるし、外地に飛ぶ前に、今年の日本の桜は幸い、見られそうだよ」

 「桜の咲く頃にも、面会に来るわ、辰巳さん。志乃さんも勿論連れて、3人でお花見にしましょう」

 琴音が答える。「それはいい。今から、すごく楽しみだ」と辰巳は答えている。二人の一歩後ろに下がって、志乃は歩いている。今は、琴音は志乃とではなく、辰巳と話すべき時間だからと思って、意図的に、二人の後ろに下がって歩くようにしていた。志乃は、仲睦まじく話す、軍服姿の辰巳と、紫の道行コートに身を包む着物姿の琴音。二人の頭上の、今は蕾さえもまだない桜の梢に、桜色の雲海が出来上がっている光景を想像する。それはきっと、絵になる風景だろう。

 しかし、辰巳の言い回しが引っ掛かった。彼は「今年の」桜は幸いにも見られそうだと、「今年の」の部分を、強調して言ったように思われたから。それはまるで、「来年の」桜を見る事は、生きて、見る事は出来ないかもしれないと思っているかのように…。

 だから、志乃は、歩を前に進めて、辰巳の方に駆け寄ると、付け加えるように、こう言った。

 「今年だけじゃなくて、『来年』の桜も、一緒に見に行きましょう、辰巳さん。ううん、来年だけじゃなく、再来年も、またその次の年も、ずっと。春が来る度に琴音さんと、私も一緒に、この3人で。必ず。あともう一年も経った頃には、この戦争もきっと日本が勝って、辰巳さんも帰ってきていますから」

 この春が、辰巳にとっての「最期の桜」になってしまう事を、志乃は、こうして約束を交わす事で、回避しようとしたのだ。その約束が、多分に、志乃の願望や、希望的観測の入った約束だとしても、辰巳と琴音が死別するという最悪の結末を回避する事に繋がるならば、と思って。

 否定的な言葉、悲し気な反応を、辰巳から返されるのが怖かった。それを見て、聞けば、琴音もどれだけ悲しむか分からなかった。

 辰巳は、志乃の言葉を聞いた時、表情が一瞬固まり、様々な迷いの念が駆け巡ったようだった。それは、学徒兵である以上「生きて帰りたいなどという甘い期待は捨てて、国の為に死ぬべし」という建前は守らなければならず、一方で、琴音、志乃と共に来年の春も、更にその次の年もまた、再び、桜が花咲く時を見たいという、彼の、素直な気持ちのせめぎ合いだったのだろうと、志乃は思う。

 やがて、辰巳は言った。

 「…そうだね。日本が勝って、僕が外地から帰ってきたら、来年は花見に、千鳥ヶ淵にでも行こうか。今度はもっとゆったりとして、お花見弁当でも下げて。勿論、僕と琴音さん、そして早坂さんの3人でね」

 辰巳の返事に、琴音も、そっと指先で目元を拭いながら、「ええ。志乃さんの言う通り、日本が戦争に勝って、辰巳さんが帰ってきたら、その時は思いっきり、お花見を楽しみましょう。重箱でお弁当、作っていくわ。私と志乃さんで。下宿のばあやにも料理を教わらないといけないわね」と、空元気交じりに、そう言った。辰巳が、ひと時でもいいから、琴音に希望を持たせてくれるような、返事をくれたのを、志乃はありがたく思った。

 そして、琴音は、辰巳に「さっきのお守り、実は、私達も、同じ白の紫苑の刺繍の物を、一つずつ持ってるの」と言って、下げていた巾着袋から、お守りを取り出した。辰巳の物とは違って、「必勝祈願」に文言は変わっていたが、刺繍された花は同じだ。

 「じゃあ、出征前に、3人で撮った写真に加えて、このお守りも3人でお揃いだね。軍隊生活でも、僕はいつでも、君と、それに早坂さんの事を身近に感じていられる。例え、敵との戦いの真っ只中であっても。ありがとう。このお守り、飛行機に乗り込む時は必ず、機体の中に持っていくよ」

 辰巳はそう言い、お守りを、軍服のポケットの中に収めた。

 「それでは、名残り惜しいけど、今日はこのあたりで…。実はこの後、郷里から、家族の方が来てくれてるんだ。そっちの面会にこれから行ってくる。妹のやつが、寂しがってるって、家の方から聞いてね…。妹に、お兄ちゃんは兵隊として、ちゃんと元気にやっているよって姿を見せて、安心させてあげないといけないからね」

 そして、軍帽を取り、ペコリと琴音、辰巳へと一礼をして、彼は、枯れ枝が続く並木道の向こうへ去って行った。

 

 面会の時間が終わった後、二人は並んで営門までの道を歩いた。

 琴音が志乃に尋ねてきた。

 「今日は、志乃さん、あまり話さなかった気がするけど…大丈夫?あまり、元気がないように見えて…」

 今日、志乃の口数が少なかったので、琴音は志乃の事を心配しているようだった。

 「だって、今日は、辰巳さんと琴音お姉さまの貴重な面会の日ですから。私はあまり、間に口を挟むべきじゃないと思って。それに、ずっと、何処か表情が優れなかった琴音お姉さまも、辰巳さんのお顔を見られたおかげか、久しぶりに表情が晴れた気がするから、それを見られただけで、私は幸せなんです」

 自分と琴音と辰巳。この、他人から見れば、奇異な関係にしか映らないであろう関係‐少女と、その少女が恋した女性と、その女性が愛している男性が3人で、関係を深めている‐は、今のこの形で正解なのだ。志乃は、琴音を「姉」として慕い、「姉妹」として繋がって、「妹」として支える。琴音は、辰巳と思い合う「恋人」として、彼が軍から帰って来るのを待つ。辰巳と琴音は、志乃の琴音に抱く特別な気持ちも理解したうえで、現状を維持し、受け入れてくれる。志乃は、そんな二人の幸せを心から望み、琴音が幸せになる事が、自分の幸せだと思う。

 いくら、他人がもし知ったなら、奇異な関係に見えたとしても、志乃にとっては、これ以上の正解で、これ以外の選択肢は他にない。

 じゃあ、琴音と辰巳が、明らかに「恋人」としてのやり取りを、目の前でしていても、何も志乃は感じないのかと問われれば…、それは、嘘になる。志乃が、彼女の顔に咲かせた以上の、笑顔の花を、易々と辰巳は、琴音の顔に咲かせてみせる。そうした場面を見れば、今でも、志乃は一抹の寂しさを感じる。それ以上、引き摺る事はない大人に、この2年で成長したと、自分では思っている。

 「だから、心配はしないでください、琴音お姉さま。私の気持ちは、もう、割り切っていますから。今以上の関係は望まないと。私のお姉さまへの思いがなくなる事はない。だけど、今の私の幸せは、お姉さまの尊きお顔が、辰巳さんと会って、話して、幸せそうに笑うのを見る事。そして、この戦争が終わったら、二人が結ばれてくれる事。それに尽きます」

 話しながら歩く、二人の前に営門が近づいて来る。屈強な兵士が、来た時同様に銃剣を鋭く煌めかせながら、直立不動で立っている。

 これ以上、志乃は、今の自分と、琴音、辰巳の3人の関係に関しての話は、する気になれなかった。だから、思いついた話題を出して、話を切り替えた。

 「でも…、もうすぐ、女学生として学校で、『里宮先生』としてのお姉さまには会えなくなるんですよね。それは、やっぱり寂しい。お姉さまの尊きお顔を見つめて、お姉さまの声で、時々聞かせてくださる、花言葉の授業。それは聞けなくなるんだなって思ったら…」

 「また、いつか、蝋梅を絵に描いてきてくれた時のように、花を見つけて描いてきてくれたら、その花の花言葉について、聞かせるわ。あの下宿の二階の部屋で。志乃さんだけの為の、特別授業をね。だから、寂しがる必要はないわ」

 「女学校を卒業して、四月からは…、私も、国への奉公として、勤労動員に出すと両親からは言われています。軍需工場の方へ。だから、その合間に…となると、きっと、卒業したら、琴音お姉さまと過ごせる時間は、やはり、うんと短くはなると思います…」

 志乃は、手を握りしめる。この春で、志乃はもう女学生ではなくなる。銃後の、大増産の掛け声のもとに、勤労動員に、志乃も駆り出される事が決まっていた。

 両親としては、兵隊になる男子を出せない早坂家として、国に出来る最大限の奉公のつもりなのだろう。

 砲弾や銃弾を製造する工場で働き詰めになるだろう。そうなれば、琴音と会える時間は大きく減る。

 「だけど…、私には妹として、お姉さまを支える義務がある。辰巳さんが帰ってくるまで、琴音お姉さまが寂しくないように、勤労動員の合間も、時間を作って必ず行きます。小説は…辰巳さんが帰って来るよう、願掛けをしているから、書かないけど、代わりに、野花の写生をして、どんなに疲れてても、お姉さまに見せにきます」

 「無理をしては駄目よ…。勤労動員は、本当に過酷だと噂では聞いているわ。どうか無理だけはしないで」

 琴音はそう言ってくれたが、志乃は、例え工場での過酷な作業で体が鉛のように重くなっても、体を引き摺ってでも、どんなに短い時間でも、琴音の下宿を訪ねるつもりだった。


 

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