パーソナルチャンピオンシップ

藤原くう

パーソナルチャンピオンシップ

 競技場内へ入った途端、規則的な歓声が降り注いできた。


 わたしは真っ青なタータンへなだれこむ。背後からは足音は聞こえてこない。それでも、徐々に迫ってくる後続の気配を感じた。


 42.195キロ先のゴールまでは400メートルもなかった。疲れ切った体にムチを振るって、腕を動かし、地面を蹴る。


 長い。あまりに長い距離を走ってきたわたしには、たった400メートルが永遠のようにさえ感じられた。それでも、何とか先頭を走ってきた。最後の最後で抜かされたくなんてない。ここまできて負けたくない。


 息が漏れて、うまく呼吸ができない。心臓が飛び跳ねているみたいにずきずきと痛んだ。脚は、トラックのタイヤをぶら下げられたみたいに重くて動こうとしない。


 それでも走ってやる。這ってでも何としてでも絶対に。


 こぶしを握り締めれば、頭の中に、あの時の言葉が聞こえてくる。


『一人でコソ練するなんてかっこつけてるつもりなの? ダサいよ』


『お前がいなければ先輩が選ばれたのに!』


 いろいろな言葉がぶつけられるたびに、心はぐらついた。走ることをやめようと思ったことは一度ではない。何回、いや何十回か。


 それでも、わたしは走り続ける。わたしにはこれしかないのだから……。


 たとえ、かけられている声援が機械によって制御されたものであったとしても、このために私は走り続けてきた。


 バックストレートを抜け、コーナーを曲がる。体はふらふらして、どこもかしこも軋んだ。走っているのか歩いているのか、自分でもわからなかった。青いタータンに引かれた白線は、真夏日というわけでもないのに、ゆがんで見えた。


 やっとのことでホームストレートへたどり着いた私を、さっきよりもずっと強い歓声が包み込んでくる。背後を振り返っても、そこには誰もいない。そもそもまだ誰も、競技場へはやってきていないようだった。


 一位は間違いなくわたしのものだ。だけども、順位なんてどうでもいい。タイムの方がずっと大切だ。世界新記録という、唯一無二の栄光の方が。


 体を捻って、トラック脇に置かれた黄色い時計へと目を向ける。タイムは、世界記録と同じくらい――いや、それよりもちょっと遅いか。もうよくわからないけども、少し速度を上げることができたら、もしかしたら。


 できるかはわからなかった。


 でも、バカにしてきたあいつらの鼻を明かすことができるのであれば、これ以上のことはない。


 心臓の痛みがなんだ。世界記録を更新できるのであれば死んだっていい。だから、わたしの体よ、もうちょっとだけ動いてくれ。


 腕を振り、親指の付け根に力をこめる。全身が悲鳴を上げる。それなのに、ほんのちょっと速くなったようにしか感じない。今のわたしに出せるのはこれだけ。たったこれだけだった。


 ゴール間際のタイマーを睨みつけながら、私はゴールへと走り、ゴールテープを切った。


 直後、私は足をもつれさせて、倒れこんだ。タータンに右半身をぶつけたが、痛みは感じなかった。焼けつくような熱しか体にはなかった。


 全身がだるくて、動き出せない。その場に倒れていたら、タオルを持った人が、わたしを抱きかかえるようにして、レーンの外へと連れ出してくれた。体温はおろか抱えられているという感触すらない腕に抱えられながら、わたしはSEIKOの時計を見る。


 点滅するタイムは、世界記録よりも十秒早かった。



 その後、後続が遅れてやってきた。軍隊みたいに足音を揃えながら、瓜二つのフォームでゴールをしていく。彼らは走り終えると、プログラムによってそう定められているかのように、軽く流すように走りながら観客席へと手を振っている。その姿からは、疲れというものを感じない。


「箱中選手? 聞いていますか?」


 アナウンサーが聞いてくる。ぼんやりと、彼女の方を見れば訝し気な視線がこっちへ向けられていた。どうやら、話を聞いていなかったことに不満を抱いているらしかった。悪いとは思ったけど、わたしだって疲れてるんだ。少しくらいは大目に見てほしい。


 いくつかの質問がアナウンサーから投げかけられる。わたしは、その質問に答えていく。わたしの声はJPEGやmp4に変換されて全世界へと拡散していく。


 そうして、人々は、わたしが世界新記録を塗り替えたことを知る。


 バカにしてきたやつらも、腰を抜かしていることだろう。もしかしたら、わたしにあの時のことを詫びてくるかもしれない。いや、そうに違いない。


「感謝したい人はいますか」


「……いません」


 わたしの答えを聞いたアナウンサーが目をぱちくりさせていたけども、どうしてだかはわからない。


 一礼して、アナウンサーから離れる。タータンのレーンから離れて、また一礼する。陸上部を辞めたにも関わらずやってしまう、フィールドを後にする際の癖。


 そして、設定されたコマンドを起動するための行為でもある。


 現実と見紛うばかりのテクスチャがはがれ、内側のポリゴンが露わとなる。選手たちやアナウンサーはては何万人もの観客すべてがプログラムの塊となり下がる。


 これがこの世界の真実。


 仮想空間に築き上げられた競技場と、そこで行われるタイムを競うためだけの競技会のすべて。


 最後には光を失い、栄光の競技場から四畳半の狭苦しい部屋へと引き戻される。


 わたしはVRゴーグルを外し、VR連動型ランニングマシンから降りた。二時間ちょっと走ったことで、乳酸が溜まり、重くなった体を引きずり、ベッドへ身を投げ出す。


 枕元にはスマホがあった。


 光が点滅していた。メールか電話か、とにかく着信があった。


 待ち望んでいた誰かからのメッセージ。


 わたしは体を起こして、スマホを操作する。


 セールスからの着信だった。


 わたしが望んでいたものではなかった。


 スマホを放り投げる。壁にぶつかって、ぱきりと音がした。割れたかもしれなかったけど、そんなことどうでもよかった。


 誰からも連絡は来なかった。


 世界記録を塗り替えたっていうのに、誰からも!


 褒める声も、いやそれどころか、高校でけなしてきたあいつらからの謝罪の声さえもなかった。


 なんで。


 どうして。


 すべてが、無意味なもののように感じられた。


「わたしは何のために走ってきたんだろう」


 呟いた言葉に、だれも返事してくれない。


 一体。何のために。


 ――箱中ちゃんの走る姿ってかっこいいよね。


 先輩の声が、空虚な心に響く。


 そうだ。


 わたしは、その言葉があったから、ここまで走ってきたんだ。


 選考会で蹴落としてしまった先輩のためにも走るしかなかった。何と言われようとも、いじめられようとも。


 スマホが光を放つ。


 ひび割れた画面が点灯し、SNSに着信があったことを、その内容を教えてくれる。


『かっこよかったよ』


 それだけで、わたしは嬉しかった。


 幾千幾万の歓声なんかよりもずっと。

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