終、月花

 珠景は燃え残った書院で眠りについた。散り散りに破られた写経や書物の屑に囲まれて、体を折り曲げて布団にくるまり、丑三つ時の冷気に耐えていた。絹の如く薄く柔い月光が、剥がれた障子の隙間から彼女の疲れた白い顔を冷たく照らしている。

「珠景」

 乱雑にその戸を開け放ち声をかけると、女が細い眉を歪めて身じろぎをした。

「ジン……お前さん、戻ってきたのかい」

「暮れには戻って来ていただろう」

「そうじゃなくて」

「寝ぼけとるのか」

 珠景は気だるげに半身を起こすと、はだけた胸元や脚を隠して欠伸を噛み殺した。

 

「……それは」

 寝起きのとろんとした目が、ジンの鎌に引っかかった手提げに留まる。ジンは「これか」と呟き、手提げ――藩役人からひっぺがして風呂敷がわりにしている羽織を、中身ごと足元に落とした。重く濡れた音がして、珠景の表情が怪訝に曇る。

「何が入っているの」

「土産だ」

「え?」

「殺めてはいない。俺は生かすつもりでやった」

 中のものを少々、いや半分、いや三分の二ほど摘み食いしたことは、流石に伏せた。

「何の話よ」

 ほんの僅かに語気が強くなった問い。澄まし顔も彼女らしいが、強気で少し怒ったようなその顔の方が好ましい。これで調子を乱されているようであればなお良し、といったところだ。

 

「両手をすぱっと切ってやったわ」

 ジンがにたりと得意げに言い放つと、彼女の表情が言外に信じられないと物語った。

「どうしてそんな」

「お前は寺も仏具も何もかも奪われて、仏に祈れなかろ。奴らも同じ目に遭わせてやったまでよ。両手が無ければ二度と神仏に祈れまい」

「馬鹿なことを……」

 かかかと高らかに笑うと、珠景が呆れながらもその口の端を上げた。ジンが安堵したのも束の間、彼女は重そうに立ち上がったかと思えば、きゅっと眉を引き締め詰め寄ってきた。

 

「あのねえ、何も解決になってやしないじゃないか」

「仕返しして溜飲下がっただろう」

「馬鹿おっしゃい、寺を壊された報復だとすぐにばれる。追われるのはあたしだよ、気分は晴れてもお先は真っ暗だ」

「……じゃあ付き合うてやる。それなら文句あるまい」

 こちらを射抜かんと見上げる視線から顔を逸らし、ぶっきらぼうに呟いた。横目で珠景の様子を伺うと、彼女の表情は花開くように綻んでいた。あっけに取られて口を開けていると、悪戯な肘がジンの胸を小突く。

 

「しおらしくしていたら付き合うって?」

「いつの話だ」

「寺はもう無いんだし、自由にしていいんだけどねえ」

「だから自由にしとる。悪いか」

「お前さんがあたしといる理由はないんじゃないの」

「鬱陶しいな、いいから早く逃げる支度をしろっ」

 噛み付くように悪態をつくと、肩を竦めて「着替えるんだから庭で遊んどいで」とあしらわれた。彼女が相手だと恐れも畏敬も得られず、思い通りに事は運ばない。しかしそれが嫌いじゃないと思えてしまうのだから、己も大概どうかしている。心内に育ち始めた萌芽は邪魔くさくも摘み取るには惜しい。けれども今はまだ、それを認めたくはなくてジンはただ唸った。

 

 質素な小袖に頭巾を被った珠景が書院から姿を現し、風呂敷にまとめた荷物をジンに放った。持てということらしい。

「ほら行くよ。お前さんも人の姿におなり。用心棒風が丁度いい」

「男の好みを変えろとゆうただろ」

「悠長なこと言ってんじゃないよ。この際顔は坂本屋でも」

「お前の肝は鉄でできてんのか」

 矢継ぎ早のやりとりが遠ざかり、荒廃した宵の境内にしじまが訪れた。

 やがて二人が姿を消した中庭に暁光が差す。葉桜に残った最後の花弁が颯々と舞い上がり、月の沈んだ西の空へと姿を消した。



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月に叢雲、俺に君 ニル @HerSun

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