八、風雲

 往路と違い、半日ほどで寺の近くの芒野原に差し掛かった。草の群れは露に濡れ、土から湿気た腐葉の匂いが立ち上り一雨あったことを知る。たなびく鈍色の雲の底がぼんやりと茜に光るのを眺めていると、薄暗い寺で一人雨音を聞いている女の姿が思い浮かんだ。早く帰ろうと気を改めたところで、ジンははたと立ち止まった。

 

 珠景はお怜を送り届けろと言って、ジンが寺の外に出ることを許した。だが送り届けた後のことについては一言もなかった。珠景が命じ忘れていただけなのか、それとも意図してのことなのか。いずれにしても、

「……俺は自由か」

 気づき独りごちる。二度とあの狭い境内に縛り付けられることも、生意気な小言を聞くこともなくなる。それなのに、何故かあの寺に帰らなくてはという思いが胸中にこびり付いたままだ。思い出せないだけで、実は珠景から戻るようにとさりげに言いつけられていたのかもしれない。

 

 立ち尽くし悶々と思案していると、突風がジンの薄茶の毛をなびかせた。雨の残香に混じって、煙の臭いが鼻をつく。不審に思い周りを見回す。里で火事でも起きたかと思う隙もなく、寺の方から幾筋の細い煙が上がっているのが目に止まった。

 轟、と荒れ狂う風が芒を押し均し、ジンは寺へと急いだ。

 

 門は崩され、人間であれば跨いで立ち入ることも難しい有り様となっていた。半分ほど焼け残った本堂は雨で火炎が潰えたと見えるが、未だに煙は燻っている。境内の端にあった鐘楼しょうろうは落とされ、巨大な湯呑みが転がっているように見えた。

 珠景は中庭にいた。損壊の程度が軽い書院前の廊下に座り込み、葉桜をぼうっと見ていた。

「おい尼法師っ」

 姿を認めるや否や駆け寄ると、珠景はばつが悪そうに笑った。

「ああ、おかえり」

「なんだこれは!」

 こちらの剣幕に驚くでも怒り返す訳でもなく、彼女の表情は凪いでいた。

 

陣達お前さんがいないことに気づいて、町の過激な奴らが来たみたいでさ。あたしが里に降りてるうちに火をつけられるわご本尊を叩き割られるわ……」

 ほうっと息をつく女の目元が赤いのは、黄昏時のせいではないのだろう。

「どいつだ、お前の前夫か」

「殺生はするなと約束したはずよ」

「知るか。手を出したことを後悔させてやる」

 つま先から頭の毛先まで怒りが覆い尽くした。無意識のうちに口角が引き上がり、牙が空気に晒される。激情のまま一対の鎌の刃先を擦り合わせて研ぐと、背中に掌が触れた。

 

「やめなさいったら。泣いても喚いても仕方のないことだろう」

「やかましい、もっと喚かんか」

「やかましいのか喚いて欲しいのか、どっちなのよ」

「屁理屈で誤魔化すな」

 落ち着き払って諌める声が、無性に腹立たしい。

「なんでもかんでもお前一人で背負い込めば万事解決だと思っているのか。脆い人間のくせに強いふりばかりしやがって」

「……お前さんの言うとおりかもね」

 詰め寄り首筋に刃を立てても、珠景は眉尻を下げてにせの微笑を浮かべるだけである。彼女は自分の首にかかったくろがねをそっと撫ぜ、目を伏せた。

「けれど、うまくいかないことを嘆くのには、もう疲れたのよ」


 やっと分かった気がした。この女は何事にも動じないのではない。落ち着きを失わないのではない。苦難に慣れなければ、どん底ではないと己に言い聞かせて笑っていなければ、生きる気が保てないのだ。

 ジンはもう、珠景と問答する気は失せていた。鎌を下ろすと、彼女に背を向け声を低くする。

「おい、寺が燃えたということは、許しなく寺を出るなという約束は守り得ないな」

「確かにそうだね」

「俺は好きにするぞ」

「……ああ、お達者で」

 珠景の別れ言葉を聞かず、ジンは灰燼を巻き上げて去った。



 


 町の料理茶屋にて、座敷で料理を囲んだ四、五人の男達が赤ら顔で酒を酌み交わし談笑していた。

「鐘楼はいつ頃に」

 坂本屋の若旦那が、自分の月代を撫で上げて言った。いつぞや寺を訪れた役人二人が、ふきの天ぷらをつついて顔を見合わせる。

「近いうちに打ち壊し、藩の財源となるであろう」

「そのうち幾許かは、お役人様の懐を暖めることになるんですかい」

 役人達は応えず、代わりににやりと笑った。

 

「しかし坂本屋、聞けば寺はもぬけの殻であったとか」

「ああ、そうですよ。おたまの奴、尼達をみんな逃がしちまって。あれ自身も丁度里に降りていたもんですからねえ。悔しがる顔を拝むことができなかったのが残念で」

「またしても逃げられたということか」

「勘弁してください、昔の話です」

 それから、出家したのが勿体無い美貌だとか、いやいやあの剃髪が良いのだとか、三味線をはじく仲居が白けた表情をするのに目もくれず、男達はそんな話に花を咲かせていた。

 

 それを断ち切るようにして、強風が庭の回廊に面した障子戸を揺らした。あまりの激しさに仲居が演奏を止めるほどであった。

 しん、と静まり返った刹那、一陣の太刀風が戸を真っ二つに割った。仲居や坂本屋の短い悲鳴と、外にいるであろう曲者に呼びかける役人の怒声が重なる。彼らは腰の刀に手を添えながら、恐る恐る回廊を伺い見た。

 夕刻まで天に敷かれていた雲は、狂風が取り払ったようだ。はぐれた薄雲が月の光を包含して、藍色にぼうっと浮かびどこかへ急ぎ流れていく。


「奴は叢雲むらくもも風も悪くはないと思っているようでな。俺もその気持ちは少し分かった気がしたのだが」

 夜の薄明かりに照らされる男達の狼狽、怒り、そして恐れがない混ぜとなった表情を見下ろして、舌なめずりが抑えられない。風はまだ己の手中にあると確信して、牙を剥き出しにほくそ笑んだ。

「いっそ風が雲を散らして仕舞えば、見事な夜桜が見れるとは思わんか」

 向かいの棟の屋根の上、毛を逆立てた物怪は、鋭利な三日月を背負い凶刃きょうじんを煌めかせた。

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