七、守るもの
珠景は
今ではもう、寺には珠景とジンの他には、あの一番若い尼のお怜だけになった。
ジンは近頃、陣達の姿で境内をうろつくようにしている。敷地が狭く、来客があった時にうっかり物怪の姿を見せないためでもあるが、大きな理由はそれではない。
ジンは門から続く石段を見下ろした。降りた先に男が数人立っている。彼らはしばらく、階段の前で何かを話しながうろうろしていた。
「ジン、立ち呆けてどうしたのよ」
珠景のよく通る声は、彼らまで聞こえたようであった。男達はこちらを見上げてジンに気づくと、そそくさ去っていく。
「坂本屋若旦那の差金かね」
蟻ほどにもなった彼らの背を見つめながら、珠景は面倒そうに呟いた。
「お前を袖にした屑か」
「その屑よ。まあ、あまり乱暴しないようにお役人さんも目を光らせてんだ。下手に仕掛けちゃこないよ」
肩を竦めて、珠景は本堂へと踵を返した。
「ほらほら、昼にはお怜の支度が整う。あの子をしっかり送り届けておくれ」
人の姿のまま珠景の後ろ姿に追いつく。お怜を彼女の大伯母の屋敷に共するようにと言いつけられているのだが、ジンはこれに納得しかねていた。
「奴らはあの娘ではなくお前に執心しているのだろ。この寺に独りでよいのか」
「世間知らずのお嬢さんを一人で旅に出せない。それに、あたしはいいのよ。俗に還るその時まで、大事な寺を守るんだから」
「お前を守るやつはどこにいる」
肩を掴んで強引に振り向かせると、珠景は切長の目を丸く開いてこちらを見上げた。二人の間に沈黙が訪れる。
が、珠景が盛大に吹き出して、静けさはほんのひと時で破られた。
「お前さんが守るってこと? あたしの矢で気絶したくせに」
あっけに取られていたジンは、意地悪く細められた彼女の目に居た堪れなくなり、細い肩から手を離した。
「わっ笑うな貴様!」
こちらが怒鳴ると腹を抱えてますます笑い出してしまう。頭が茹蛸のようになってしまい、珠景がそれに気づく前に物怪姿に戻った。ひとしきり笑った珠景は、長い指先で目元を拭うとようやく落ち着き払った調子に戻った。
「ありがとね。でも、あたしはどうにでもするから、お前さんが気を揉む必要はない」
「気を揉んでなどいない」
「素直じゃないったら、面倒臭いねえ」
その場を離れる珠景は、結局はジンの問いをのらりくらりと躱し切った。そうとも知らないジンは、紫紺の法衣から漂う沈香を、梅雨前の風が消し去ってゆくのに一抹の不安を覚えるだけであった。
「ジン……陣達殿、お迎えが出せずご迷惑おかけしました」
「全くだ」
お怜の大伯母の屋敷に辿り着いたのは、寺を出て三日目の昼前であった。丘の上の屋敷に続く石段の麓で、深々頭を下げる娘に短く返すと、顔を上げた彼女がやや不満げに口を窄めた。不満なのはこちらの方だと、ジンは腕を組んでそっぽを向いた。人間の娘の歩みに任せてやきもきするのも、これで仕舞いと思うとせいせいする。
「用は済んだ。俺は帰るぞ」
「待ってください……」
互いに語ることもないと、元の姿に戻ろうとした時、小さな手に袈裟をぎゅっと掴まれた。見ると、お怜はもう片方の手で編笠を引き下げて顔を隠し、俯いている。
「寂しいです」
「何ぃ?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。堪えきれなくなったのか、お怜はめそめそ泣き出してしまった。
「珠景様に会えないの寂しい……」
「驚かせるな紛らわしい!」
「だって、だって、珠景様とのご縁が切れる気がしてしまって。あなたとの別れすら惜しいんです」
「すら、とはなんだすら、とは」
しゃくり上げながら小憎らしいことを言う娘を睨みつつ、一方でひょんな話に繋がらないことに胸を撫で下ろした。
「あの尼法師のことがそんなにいいか」
一向にべその止まないお怜に話しかけてやると、彼女は袖で目元と鼻を乱暴に拭って顔を上げた。
「もちろんです。あなただってそうでしょう」
思いがけない返しへの上手い言い逃れが思い浮かばず、とりあえず無言を決め込む。お怜はさして気にする素振りを見せず、珠景の外貌から心根に至るまで、思いつく限りの長所を捲し立てた。語るうちに元気を取り戻したのか、ジンが欠伸をし始めると、控えめにしつつもむすっとした顔でこちらを覗き込んできた。
「あの、聞いてましたか……?」
「聞き飽きるほどにな」
「あんなに気さくで強かで、完璧なお方は他にいないんです」
「お前は知らんだろうが、奴は意外とだらしないところもあるぞ」
長話に辟易するあまり、珠景が酒に呑まれていた晩を思い出しつつ言い返すと、お怜が小さく悲鳴を上げた。
「す、珠景様のだらしないお姿を……」
わなわなと肩を振るわせる娘は、虫でも見るかのように顔を顰めている。
「なんだ急に」
「ふしだらっ」
「なんの話だ!?」
「破廉恥っ」
「妙な了見ちがいをすな、小便くさい小娘のくせして!」
なおも疑わしげに眉を潜めるお怜を、「さっさと屋敷に入れ」と追いやった。人の姿を解くと、疲れがどっと背中におぶさる。ジンは嘆息し、早く帰ろうと疾風を起こし田園を引き返した。
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