六、彼女の光芒
珠景は問いに答えず放心している。かと思えばすぐ様目に焦点が戻り、力のかぎり耳を引っ張られた。ジンは堪らず悲鳴を上げた。
「痛いわ、やめんか暴力尼法師!」
手を退けようとするも、びくともしない。今し方のか弱げな雰囲気はなんだったのかと、痛みの中で混乱した。
「薄気味悪いから、早く元に戻っとくれ」
「言われずとも」
ようやく解放された耳をさすりながら、鼬の姿に戻った。軽く襟元を正した珠景が、疲れた顔で一息つく。こちらの問いへの返答は未だなく、顔は逸らされてしまった。
二人の間に長い沈黙が降りた。虫が鳴く時季にはまだ早く、風の止んだ中庭はひっそりとしている。時折、酒を呑む濡れた音が耳をくすぐるだけだ。
「あの男は誰だ」
悩んだ挙句、率直に聞いた。ふ、と吐息の漏れる音がして傍を見ると、彼女の口元は少しだけ緩んでいた。
「知らずに化けたのかい。人心を写すなら分かるだろう。そいつが誰なのかも、あたしがそいつをどう思っているのかも」
「たわけ、姿形を写すだけだ。心なんぞ読めんし、知りたくもない」
「物怪らしく淡白だこと」
「知りたくば、聞くしかないさ」
人の心など知りたいと思ったことはなかった。だから尋ね方の持ち合わせはないし、自らの心変わりにひたすら困惑していた。ジンは落ち着かなげに冷たい廊下に寝そべると、躰を丸めて尻尾と前足に顔を埋めた。ちらと見上げると、珠景は猪口を口元に寄せたまま目を瞬かせた。
「なんだ」
「いいや、なんでも。お前さんは可愛いね」
やがてその表情が綻んだ。居た堪れなさと安堵が胸を締め、ジンは悪態をつくのも忘れて見つめ返した。
「昔の夫。といっても、輿入れ半年で離縁したけど」
「お前のような女、並の男は持て余して当然だな」
我に返って茶化してみせると、珠景はからから笑い、ジンの背を軽く叩いた。
「これでも、立てば芍薬座ればなんとかと評判だったんだよ。鎌倉の縁切寺に逃げ出す寸前で、それじゃあ夫の面子が持たんと三下り半を突きつけられたってわけ」
「勝手な野郎だ。嬲り殺すなら手を貸してやるぞ」
「物騒なことを言うんじゃないよ。ああ、でもあの人は、あたしが寺で楽しくやってるのが気に食わんみたいでね。寺の弾圧に一枚噛んでいるようだし、いざとなれば……なんてね」
少し早口で言い切って含み笑いをこぼすと、彼女は酔いにほんのり耳を染めて飲み口に唇をつけた。その表情に曇りはなく、晴れ晴れとしていた。
「それにしてもまあ、惹かれる姿があの人だなんて、自分で吃驚だ。生涯唯一の夫だったし、顔だけは立派とはいえ……」
「気に食わん」
気楽な調子で管を巻き始めた女に対し、ジンは腹立たしげに吐き捨てた。
「なんだい急に」
「気に食わんとゆうとるのだ」
「聞きたがったのはお前さんだろう」
「やかましいっ。この俺に、顔だけが取り柄の屑を象らせやがって。今すぐ好みを変えろ」
「馬鹿なことを……」
苛立ちのまま捲し立てると、頭上から呆れた声が降った。
「屑というのは否定しないけれどね、あたしは別に夫を恨んじゃいないさ。出家してこの寺が居場所になって、今ではあたしが尼達に居場所を作ることができている」
「お前はそれで仕合わせなのか」
珠景は風に目を細めて「十分にね」と呟いた。
「それに、こんな身分でなければ、お前さんと出会い月見酒をすることもなかったのだから」
「……す」
呼ぼうとすると、酒に火照った体がくたっと背中にのしかかった。尻尾で薄い肩をさすったが、彼女はむずがるように顔を埋めて起きあがろうとしない。
「おい尼法師。月も翳った、寝巻きのままでは夜風で冷えるぞ」
「月の
「寝ながら返事をするな。部屋に引っ込め飲んだくれ」
「しおらしくしていたら、付き合ってくれるんだろう」
「それは昼間の話だ。こら、俺を枕にするな」
珠景はすっかり躰から力を抜いて動かなくなった。ジンは唸りながら大きく嘆息した。
「物怪の背で寝る僧侶なんぞ聞いたことないわ」
言いつつ、珠景を書院に運んでやることにした。人に化けようとしたところで、うっかり珠景の「好みの形」を取りかけ、また唸る。
どうしてもあの姿が気に入らないが、鎌を持ったままでは珠景を抱えられない。どうしたものかと思案して、昼間の大柄な僧侶、陣達の姿を取った。珠景はこの姿を「強そう」だとか「結構立派」だとか評していたし、それなりに好ましくは思ってくれていたのだろうと踏んだ。別に珠景の好みに合わせる必要はどこにもないということに気づかないまま、ジンは刃のない腕を彼女の背に回した。
廊下を軋ませ歩みながら、ふと宵闇を仰ぎ見た。曇天の切れ間から月影が一筋、地へと降り立っている。
「確かに悪くはないかもな」
寝息を立てる女に、今更
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