五、廃仏毀釈

 広く張り出した軒の上に寝そべり、ジンは眼下の枝垂れ桜が夜風に揺れる様を眺めていた。昼下がりの藩役人と珠景のやり取りを思い返し、妙に眠れない。



 

 藩内寺院をすべて廃寺、または神社と統合すること。それに伴い僧侶は皆還俗げんぞくし俗人に戻ること。端的に言えば、役人たちはこれを告げに来たのだった。

「藩は無血遂行を望んでおりますが……町の方では弾圧を煽る声も」

「特に坂本屋の若旦那を筆頭に」

「庵主殿ともゆかりがある者と耳に挟んでおりますゆえ、懸念しているのです。我々としても穏やかに事を運ぶことができればと」

 人間のまつりごとやら思想やらに一つも関心はなく、欠伸を噛み殺しながら聞いていた。傍の女はそうではなかったようだった。

 

「お話は承知しました」

 高くも低くもない品のある声が、客座敷の八畳間を引き締めた。珠景の横顔は真っ直ぐ役人たちを見据えて、背筋はしゃんと伸びている。

「けれども、せめて、寺の尼たちの身の振り方を考えるいとまをくださいませんか」

 佇まいに反して、語尾は掠れて脆かった。役人たちは顔を見合わせ、それから曖昧な笑みを彼女に返した。

 

「と言いましても。いつまでも待つわけにはいかぬもので」

「それも承知しております。半年あれば……」

「それに、この寺の尼は若い。還俗しようといくらでも貰い手はありましょうに」

「それもそうだ、庵主殿だってまだまだ」

 冗談めかした物言いだった。ジンは額の血管が切れたような感覚がした。膝の上の拳の内から鎌の先が飛び出そうになる。一陣の風が障子戸を揺さぶり、役人たちがびくりと肩をすくめた。

 その隙に、珠景がジンの黒い法衣の袖を摘んだ。ぶすくれたまま横目で見遣ると、何もするなと言うように首を横に振られる。

 

 ただの風だと胸を撫で下ろした役人は、「何の話だったかな」と頭を掻いた。

「皆、仏に拠って立つしかない、傷ついた者ばかりです。それを取り上げるというのですから、深いお心遣いを賜りたく存じます」

 珠景の眼差しはなおも凛々しく、裏腹に声はいつもの張りがなかった。

「我々だけではなんとも」


「そこをどうにか。この通りでございます」

 指を揃えて床に滑らせ、彼女は額を低く伏した。

 澄ました態度を崩してやりたいと思っていたはずであった。いざそれを目の前にしたジンは、小ぶりな頭を鷲掴みにして無理にでも起き上がらせたかった。不様を晒すなと、いつもの威勢はどうしたと怒鳴りたくなった。


 見るに耐えず目を逸らした先で、向かい合う役人たちが床に伏す彼女を見下ろしていた。困り眉を作っているが、視線は紫紺から僅かに覗くうなじに向けられている。顎を撫で膝をゆっくりさするばかりで、面を上げるように促す気配はない。ジンが大仰に咳払いをして見せると、彼らはようやく珠景に声をかけたのだった。

「まあまあ、今日明日で寺を去れというつもりはございません。ただし、民衆の動きもありますので、くれぐれもお気をつけなすって」




 役人二人が去った後、「やっぱり、男が隣にいるとお役人の態度も違うね」とやけに明るい調子で労った。その虚勢がまた、ジンの虫の居所を悪くしたのだった。

「下衆どもに頭など下げおって」

 二人まとめて首を一刀両断すれば手っ取り早が、珠景がそれを望まないので考えても仕方がない。悶々とした思いばかりが燻って落ち着かず、まだ低い位置にある朧月を睨んでいると、書院の方から引き戸の開く音がした。書院は珠景の私室となっているはずだ。


 首を伸ばして軒から見下ろす。案の定、寝巻き姿の珠景が部屋から出て来たところであった。彼女は手に何かを持ってふらりと一歩踏み出し、らしくない様子で敷居に蹴つまずいた。ぎょっとして、その次の刹那には転ぶ寸前の珠景の躰を抱き止める。駆け寄った名残で、鋭い強風が庭を騒がせた。

「何をやっとるっ」

「すまないね、夜は足元が暗いから」

「刃が当たってしまう、早く自分で立て」

 珠景から熟れすぎた果実に似た匂いがする。手元を見ると、彼女は丸みを帯びた徳利と猪口を持っていた。

 

「僧侶が酒を呑むのか」

般若湯はんにゃとうだよ」

「それは酒のことだ」

 珠景は返事をしないまま廊下に座り、徳利の中身を猪口に注いだ。顔色に変わりはなく、表情はいつも通り澄ましている。ジンは所在なげに虚空へと目を泳がせ、やがてぎこちなく半人分空けて腰を下ろした。その間を詰めて、珠景が怠そうにもたれかかってきた。やはり酔っているのだろうか。

 

「桜の香り」

「なんだと」

 聞き返すと、珠景は大きく息を吸い込んだ。

「お前さんは、陽だまりの猫みたいな匂いだと思っていたよ」

 久々に触れた人の肌は、記憶よりもぬくい。月光に白く浮かび上がる桜を眺めながらそう思った。

「ここで寝起きすれば、桜の香くらい移って当然であろう」

「物怪は皆そんなものかしらん。今日の化けようといい、お前さんはやっぱりただの鼬じゃあないんだねえ」

「馬鹿にしとんのか貴様」

 こちらは真剣なのに、女は声をあげて笑う。その目尻に光るものを見つけて、虚勢の笑顔ではないことを悟った。知らぬうちに、尻尾が機嫌良さげに一振りした。

 

「どうせなら、普段から可愛い童にでも化けといておくれよ」

「がきは弱くて無力だ。だから化けん」

「……そう」

 何かいいたげではあったが、こちらがそれ以上答える気はないと察したのか、珠景は深追いしなかった。

 

「しかし、お前を誑かすくらいは造作もないわ」

 気まずい沈黙が訪れ、ジンは思いついたことをそのまま言った。珠景が鼻で笑った。

「中身がお前さんで、誑かすも何も……」

「いちいち腹の立つやつだな。お前の最も好む姿形になり変わることなんぞ容易いことよ」

「ああそうですかい」

 全く取り合わずに酒を舐める横顔が恨めしく、ジンは半ば意地になって化けた。物怪から人へ体躯が萎み、ジンに寄りかかっていた珠景が驚いて身を引いた。

 

「こんなものよ。どうだ」

 目を丸くする珠景を見下ろし胸を張った。彼女は口を空けて呆けていたかと思うと、尻を滑らせジンから間隔をとった。動揺する姿が愉快で、空いた距離をすぐに埋めて迫った。

「声も出ぬほど見惚れたか、うん?」

 腕を引き寄せ顎を反らせる。見つめ合った涅色が、朧月の鈍い光をたたえて揺れた。化けた己を捉える揺れの中に、驚きと、僅かばかりの艶と、堪えきれない怖気が見えた。端正な表情が強張ったまま、白い喉が鳴る。


「知った男か」

 間近に見合ったまま、ジンは苦々しく尋ねた。

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