四、化けの皮一枚
「ジン」
揺さぶられて薄目を開けた。桜の暖簾を背負った尼の、焦燥した面差しが映る。悪くない寝覚めだ。もう一眠りといこう。
「起きなったら、ジンっ」
今度は頭を叩かれ、ジンは掃除を放り出し転寝していたのだと思い出す。
「これは違うぞ俺は怠けとらん!」
弾かれたように身を起こすと、珠景が石畳に膝をついたままこちらを見上げた。
「
「何だって」
唐突なことで、思わず聞き返した。彼女は「隠れておいで、って言ったのよ」と膝をはたきながら立ち上がった。
「こっちに客を通すんだ。お前さんの姿を見られちゃ、化物を従えてると誤解されるよ」
「それは誤解なのか」
「いいからさっさと身を隠す」
手を鳴らして急かされたが、ジンは鼻の先を明後日の方に向けた。
「こんな狭っ苦しい境内に、俺が隠れる場所なんぞなかろ」
彼女の方もまた、「それもそうねえ」と唸って指を顎に当てた。
「中に入れると獣の毛を怪しまれるやもしれんし……そうだ、お前さん人に化けとくれ」
「断る」
「できないのかい」
安い挑発だと分かれば、なんてことはない。あちらのやり口を心得て、ジンの舌はよく回った。
「馬鹿言え、鼬は人心を写し化ける。
「だったら」
「俺が何故、お前の体裁のために化け術を使うてやらねばならん」
かかか、と高らかに笑い真上から見下ろした。喉を逸らしてこちらを睨み返す細眉が力んだ。
名残惜しむ間もなく、その涅色が細められる。引き絞られた弓を思わせる鋭さに、すっかり治った腹の矢傷がひりついた。
「なんだ、その目は」
「今後一切血肉を口にしない、という約束を加えようかしら。それこそ、あたしがくたばった後もずっと」
今度はジンが、黙って珠景を睨み返した。見上げているはずの女は、こちらを見下すように澄まして小首を傾げた。
「――性悪め」
「どうせなら強そうな男でお願いね」
勝ち誇った笑みに歯軋りしながら、鼬から人へと姿を変える。ジンが居たそこに、肩幅の広い坊主が現れた。
「あらまあ、結構立派じゃないの」
「ゆうただろ。鼬は人心を写し化けると」
「ああ、それで僧侶の姿なわけね」
胸の前で小さく拍手されるが、そもそも化けるのは本意でないので面白くない。尺が縮んだせいで近くなった珠景の丸い頭を一瞥し、口をへの字にひん曲げた。
「じゃあ、お前さんは泊まっている行脚僧ということで、よろしく」
上機嫌に背を叩かれてふらつく。久しく化けていなかった人の姿は、長い足を持て余すし、肘から下に刃がないのも落ち着かない。
「そうやって眉間に皺を寄せて、黙っていればなおよし」
ひとり満足して頷く彼女に向けて、ジンはこれまた久方ぶりの舌打ちをした。
言いつけどおり、ジンは濡れ縁に座った。しばらくすると、不躾な複数の足音が聞こえてくる。
本堂に続く廊下の奥から居丈高な役人風情が二人、羽織袴を靡かせてやって来た。
「客座敷はこちらに」
彼らを案内する珠景は、いつもの勝気な態度はどこへやら、楚々と微笑を浮かべていた。男にも引けを取らない頭身が、何故だか小さく見える。伏目がちに小股で歩く姿に、ジンは目を疑った。
「中庭は見事なものですな」
「表の躑躅は虫でだめにしてしまいましたので、泣く泣くあのように……」
会話を耳に正気に返る。珠景が瞬きの隙に、座りっぱなしのジンを横目で睨んだ。言われた通り、もとい目で訴えられた通り腰を上げ、男たちと向かい合う。
「昨晩からお越しなさった方ですよ。行脚僧の
彼らの背は珠景と似たり寄ったりで、無言で立ち尽くす図体のでかい僧侶を見上げ、ごくりと息を呑んだ。これこれ、これだ、とジンは内心でほくそ笑む。
「陣達だ」
わざと無愛想に名乗ると、彼らが無言で頭を下げた。人間の畏れは尻尾の先まで痺れるほど心地よい。悦に浸っていると、「そうだ」と珠景が手を打った。
「どうせなら、陣達殿にも座敷に居てもらいましょう」
「何だっ——」
言いかけたところ、役人には見えぬよう法衣の裾からくるぶしを蹴られる。人間の体は弱点が多く難儀だ、と詮ないことを思い出した。
不意を突かれたのは、ジンだけではなかった。役人二人も目を見開いて、おろおろと珠景とジンを交互に見た。
「我々は珠景殿に用が」
「庵主殿お一人で十分に……」
「寺社仏閣の行末に纏わる大事なお話とあらば、陣達殿のお耳にも入れて然るべきではございませんか」
「しかしですなあ」
そう言った役人の目が、珠影の涼やかな視線と交わる。彼女が目を細め袖で口元を隠すと、彼は口の端を歪めて腰の本差の柄を撫で回した。その仕草がジンの癇に障った。さらに、客座敷で一人、この役人たち相手にしとやかぶる女の姿を想像してしまい、腹の底が不快に疼く。足元で小さなつむじ風が起こり、役人達の袴に土埃を擦りつけていった。
「……是非お聞かせを」
ぬっと一歩近づいて見下ろすと、役人達は閉口した。
客座敷へ向かう道中、役人達の前を歩いていると、隣で珠景がこっそり吹き出す。
「案外興がるじゃないか」
「うるさい。付き合うてやるから黙ってしおらしくしてろ」
それでもくすくすと笑いを堪えるので、罰が悪くなったジンはわた雲漂う日和へと顔を背けた。
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