どんなに暗くても、
サトウ・レン
明けない夜は
どんなに暗くても、明けない夜はない。
どこかで誰かが言っていた。もしかしたら学生時代に聴いていた曲の歌詞だったかもしれない。特別な言葉ではないけれど、結構、好きなフレーズだ。
きょう目覚めて、カーテンの隙間にかすかな光を見つけて、僕が最初に頭に浮かべたのが、そんな言葉だった。
寝不足気味の肉体はまだ、眠たい、と叫んでいる。視線だけを、壁時計に向けると、針は、いつもなら出社している時間を指していた。あぁ遅刻だな、と気付けば身体を起こしていた。もう会社なんてどうでもいい、さぼってやれ、と頭の中のなんらかの僕がささやいているのに。慣れ、って怖いな。
もうちょっと起きた時間が遅ければ良かったのに。そうしたら、きっと僕は仮病を使っている。こんな日に会社なんて行きたくない。こんな日に会社なんて行くべきではない。なのに、ぎりぎり間に合いそうだから、という理由で、僕は会社へ向かおうとしている。見たくないものに、目を逸らして。
夜が明けてしまったからだ。
簡単に身支度を済ませて、会社に電話する。「すみません。遅刻になります」と伝える。僕は普段そんなに遅刻するほうではないから、『そうか。分かった。急げよ。あと急ぎ過ぎて、事故に遭うようなことはするなよ』とだけ返ってきた。優しい上司だ。
玄関を出ると、雨が降っていた。小雨だけど長く降りそうな、ちょっと嫌な感じの雨だ。アパートの階段をおりて、駐車場に向かうと、学生服を見つけた。学生服を見つける、という表現はおかしいだろうか。だけど顔よりも前に、服を認識してしまったのだから、仕方ない。傘も差さずに、僕の車のそばでへたり込んでいる。僕の車の近くにいるから、といって、僕の知り合いではない。
高校生だろうか。
少女がいた。
先に心配すればいいのに、ふと僕はどうでもいいことを考えていた。高校生は少女で良いのだろうか。おとな、と言うよりは幼い感じがする。少女、と言うよりはおとなな感じがする。
僕は彼女の頭上に、広げた傘を掲げる。
「どうしたの」
と僕が聞いたところではじめて、彼女は僕の存在を認識したようだ。虚ろなまなざしを僕に向ける。僕を見ているはずなのに、どこか僕を見ていない。泣いているようにも見えるが、ぽたり、と垂れているものは、雨のしずく、かもしれない。
「逃げたくなって。どこでもいいから、遠くへ。とりあえず逃げてみたら、ここに辿り着いた」
「何から」
「私を取り巻く周囲から」
まるでいまの僕と同じような心境の彼女を見ながら、心配になった。無視したところで、彼女は僕を責めないだろう。だけどもうすこし一緒にいたい、と思った。
「これって誘拐だね」
ぬれた髪をかき上げて、すこし声に明るさの宿りはじめた彼女が笑って言う。彼女はいま僕の車の助手席に座っている。結局、僕は彼女を放っておけなくて、車に彼女を乗せたのだ。もちろん会社へ向かっているわけではない。優しい上司には申し訳ないが、やっぱりきょうは行けません、と心の声でちいさく添え、さぼり決定だ。まぁきょうはもともと、会社に行くような心持ちではなかったのだ。本来の行動に戻っただけだ。
「違うよ。相手の同意を得ているから、その言葉は正しくない。これは逃避行だ」
「どっちでもいいじゃない。言葉なんて」
「いや、大事だよ。僕の付き合っていた恋人は、こういうのにうるさくて、ね。僕が同じこと言った時には、だいぶ叱られたよ」
「へぇ、恋人いるんだ。浮気になるよ」
「浮気じゃないよ。だって僕はきみにそういう感情を一切持っていない。あと、付き合っていた、だから過去形だよ。きのう別れたばかりなんだ。だからきょうは何もする気が起きなくて」
「してるじゃない。逃避行」
「普段していることをしたくないんだよ。だから特別なことをしてる。逃避行」
「そっか」
「嫌なら、おろすけど」
いま僕のオンボロ車は、海沿いの国道を駆けている。
「こんなところでやめてよ。せめて駅近くで。っていうか、私は嫌じゃない。私もきょうは特別なことをしたい日。そうでもしないと、おかしくなりそうだから」
ぽたぽたと小雨降る、朝の海浜公園には、誰の姿も見当たらなかった。この場所を選んだのは、僕だ。彼女は大きな悩みを抱えているようだったから。悩みに効くのは、やっぱり静かな海だ。
「海を見ていると、なんて人間ってちっぽけなんだろう、って思わない?」
砂浜で、僕がそんなことを語っていると、彼女が呆れたように笑った。
「安直だね。羨ましい」
「で、どうする?」
「何が?」
「悩み事、吐き出してみる?」
「初対面のひとに?」
「ちょっとした知り合いよりも、名前も知らない相手のほうが、気楽に話せたりしない?」
僕たちはまだ、お互いの名前を知らない。どうせきょうで会わなくなるわけだから、自己紹介なんてしないほうが良いに決まっている。
「まぁそれは、そうかもね。でも、引くよ」
水際に寄せる波の音が、耳に届く。
「引かれるくらいなら、別にいいじゃないか。旅の恥はかき捨て、とか言うだろ」
「こんな近場で、旅?」
「旅は、距離の問題じゃなくて、心の問題だよ」
「そっか。でも私の言い方が悪かった、かも。私の話は引くどころか、倫理的じゃない話」
「良いよ。倫理的じゃなくても、論理的じゃなくても」
「良いの」と彼女が驚いた顔をする。
「なんで駄目なのかが、僕には分からない。僕は警察でもなければ、探偵でもない。真実を言っても構わないし、嘘をついても構わない。どうせきょう限りの関係なんだから」
「良いひとだね」
「たぶん悪いひとだよ」
「大丈夫。私も悪いひと、だから。あぁだから気が合うのか」
話しはじめる決心をした彼女が、ちいさく息を吸った。
私、ひとを殺したの。お母さんを殺した。私たちは家族だけど、うまくいってなかったから。お父さんがいた頃はそうでもなかったけど、ね。お父さんが消えてからの、私たちは、本当にひどかった。お父さんは、死んだ、じゃなくて、消えた、だよ。行方不明。まだ生きている可能性もあるから。まぁ死んだ可能性もあるけど。私、疑ってた。もし殺されているとしたら、犯人はお母さんじゃないか、って。もちろんそれはただの妄想。だってお父さんがいなくなってから、お母さんは豹変しちゃったから。虐待? 毒親? さぁ知らないよ。どういう言葉が適切かなんて。分かりやすい言葉って嫌いなんだ。個人の人生が分かりにくくなるからね。って、これお父さんの受け売りなんだけどね。まぁとりあえず、うまくいかなくて、私はお母さんを殺して、死体をそのままにして逃げてきた。そしてあなたに出会った。
彼女のきょう一番の饒舌だった。
聞きながら、あぁ本当に倫理的じゃない話だなぁ、と思った。彼女の目が、どう警察に電話でもする、と告げている。もちろんそんなことはしない。百人中、九十九人がそういう行動を取ったとしても、僕だけは決して。ままならない世界に拗ねている、という点で、僕たちは共鳴し合っている。
「で、あなたのほうは?」
「僕は悩みがあるなんて、一言も」
「気付かない、と思った。そっちが気付いているってことは、大抵、こっちも気付いているもんだよ」
「僕は、やめとこうかな」
「怖くなった、言うのが?」
彼女が、からかうように笑う。
「いや、きみと大体、同じだから、だよ」
ふと頭に浮かぶ。部屋のベッド横で、仰向けになった恋人が。
一夜を明けてもまだ、手には感触が残っている。首を絞めた時の、あの嫌な感触が。
僕たちはこれから、もう戻れない暗がりへと向かって、歩いていく。
ちいさくため息をつく彼女に、僕は伝える。
「好きな言葉があるんだ」
「何?」
「『どんなに暗くても、明けない夜はない』ってね」
「それ、信じてもいい言葉?」
「さぁね。どこかで誰かが言っていた、だけだから。でも他のひとには言っちゃ駄目だよ」
「なんで?」
「いまの僕たちは、倫理的じゃないからね」
どんなに暗くても、 サトウ・レン @ryose
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