5
――いよいよ明日が退院の日となった。
朦朧としていた意識は今では明朗としていて、普段よりも頭で色々考えてしまう。
初めての入院だったけれど、看護師の方は私にとても良くしてくれて、四肢は動かずともとても快適な一ヶ月だった。担当医の佐藤さん曰く、過労で入院される方は、本来なら長くても二週間程度で回復し退院するそうで、精神的な療養も兼ねて下さったようだ。ありがたい話だ。
動かない体で、ずっとこれからのことを考えていた。恒光さんにはいつ謝りにいこうか。メールはしたけれど、誠意を見せるなら直接会いたいとも思う。同時に怖いとも。怒っていないだろうか、とか。人をハメやがったな、みたいな。……ううん、彼女はそんな人じゃない。きっと、もの凄く心配してくれていると思う。だからこそ、顔を合わせ難い。一体どんな顔をすればいいのか。
要さんから聞いた話では私が教えていた時以上に勉強も頑張っていたようだ。
バイトも、私の穴を埋めてくれていたらしい。だから言ったじゃないですか。貴女はやれば出来る人なんだって。そう言って褒めてあげたい気持ちもあるけれど。
要さんは私がお店で働き続けることを望んでくれているけれど、要さんに甘え続けるのはもしかしたら良くないのではとも思う。今回も迷惑を掛けてしまったし。
そうだ、前々から居酒屋のアルバイトってどんな感じなのか興味があったし、未成年でも働けるのかどうか調べてみようかな。後は、就職出来そうな所があれば、そっちの方がお金も稼げていい筈だきっと。でも、高校中退の人間を正社員として雇ってくれる会社がどの程度あるのだろうか。それも調べないと。
「こ、こんにちはー……」
ベッドの上で窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、控えめな声が聞こえてきた。今病室には私の他に四人の人が入室しているが、タイミング悪く皆出払っている。
おせっかいかとは思ったが不安なそうな声を聞いた感じ、お見舞いに来たことがなくて戸惑っているのだろう、声を掛けて休憩所の方へ行ってみてはと伝えておくべきだ。
カーテンを開ける。その人を見て、固まってしまった。
「……あ、」
「あ、どもっす……ミネギシさん」
そこにいるのは間違いなく恒光さんだった。あぁそうか、今日でテストはおしまいか。この場所は要さんが教えたのかな。きっと成果報告に来てくれたんだ。
「……こんにちは」
「あはは……ごめん、来ちゃったや。少し痩せたね」
下手くそな笑い方だったけど、恒光さんらしい笑い方だった。気を遣ってくれている。こんなに優しい人だったなんて、最初は知らなかったな。
それにしても、そんなに痩せただろうか。確かに入院当初は点滴生活でお腹が凹んでいたけれど、体重はそんなに変わってない筈。
「……どうでしたか、テストは」
「うっ……ま、まぁなんとか……あんまり記憶ないんだけど……まぁなんとか……じゃなくって! もう、体調はいいんだよね?」
肩を落としてから、直ぐに立ち直り入り口から凄い勢いでベッドまで詰め寄ってくる。心配を掛けてしまって、本当に申し訳なかった。たった数週間の付き合いなのに、そんな風に思ってくれるのが嬉しくて、涙が溢れそうになる。それをぐっと堪えた。
貴女の前では、強い私でいたい。
「……はい。明日退院することになりました。その、色々とご迷惑をお掛けしました」
「違うって、ミネギシさんはあたしのせいで体調崩しちゃって……それで、学校のことも」
それは違うと、メールにも書いたのに。でも貴女がそういう人だということも分かってはいましたけど。
「安心してください。恒光さんのことは誰にも言っていませんから。丁度良いですし、私が戻れば無理にバイトに来て頂かなくても……」
「や、それがさ。あたし思いついちゃって」
初めて見る、イタズラを仕掛けた子どものような顔をして、恒光さんはあたしを手招きする。昔、母さんに内緒の話をする時にこういう風にしていたのを思い出して懐かしくなる。さながら私は母さん役ってことか。彼女は同い年だけれど。
そっと耳を寄せると、小さい声で恒光さんが囁いた。
「先生にさ、あたしがミネギシさんにバイトやらせてたって言ってきちゃった」
「……はい?」
顔を離してからもう一度恒光さんを見ると、さっきまでの笑顔とは全然違う、今にも泣き出しそうな顔をして私を見つめていた。口がへの字になっている。私はその顔が面白くて、我慢出来ずに噴き出してしまった。
「ちょっとぉぉ……! なんで笑うのさぁぁあぁ……」
「ご、ごめんなさっ……ふふっ……」
あっという間に彼女の涙腺が瓦解し、号泣に変わってしまった。それがまた可笑しくて、大笑いしてしまう。
「だって、一生懸命やってるのに、こんなのってないじゃん……! めちゃくちゃテキトーにやってたあたしに色々教えてくれてただけなのにさ……! おかしいじゃん? で、じゃああたしがやらせて金寄越せっつって、それでお金がなくてバイトして必死に払ってたみたいにすればいいじゃんつって。ヤンキーとかそういうのじゃないけど、普通でないものを不良って言うわけだし、見た目だけでいったらあたし結構それっぽいし。で、それ言ったら先生怒っちゃってさ。作戦成功みたいな」
恒光さんは涙を拭いながら話してくれた。そんな作り話で、まさか本気で先生方を騙せると思っているのだろうか。唐突に恒光さんが愛しくなって、気が付くと私は彼女を抱きしめていた。
「ちょちょちょ……!?」
私の腕の中で恒光さんが暴れる。
「ちょっと黙っててください」
「お、うす……」
よっぽど恥ずかしいのか、私が言った後は体の動きはおさまったものの、ずっとうう、と唸っていた。髪を撫でてあげると、その唸り声が高くなる。あぁ、あたたかい。なんて、あたたかい人なんだろう、この人は。
涙が止まらなくなった。鼻水を啜る為に力が緩んだ瞬間、恒光さんは飛び跳ねるように私の腕をすり抜けて、ベッド脇で転んだ。汚い顔を見せるのは恥ずかしかったので直ぐにティッシュで拭き取る。
恒光さんは耳まで真っ赤にしてベッドの脇のイスで大人しく座っている。一度呼吸を整えてから、彼女の名を呼んだ。
「ありがとう、私の為に」
「ま、まぁ……恩返しっつーか、なんつーか……ミネギシさんより、あたしの方がアルバイト生活とかフリーター似合うと思うし……」
「そんなこと……まぁ、確かに」
「いやいや! そこはそんなことないとか言うとこっしょ!? ……いい夢じゃん、世界を巡るってヤツ。あたし応援するよ」
そう言いながら私に茶封筒を手渡してくる。受け取ってからこれは何かと問う。恒光さんはまた恥ずかしそうに言った。
「少ないけど、あたしのバイト代。あたしはこれからバイトするからお金溜まるけど、ミネギシさんはもうダメになっちゃったでしょ? そのお詫びってことで」
「何言っているんですか、これは貴女が頑張った報酬ですよ。今回の落ち度は私自身にありますから、気にせずに。どうかそのお金は、貴女が好きに使ってください」
「だから好きに使ってるんだって! 受け取ってくれるまであたし帰らないから」
二人で言い争っていると、不意にノックする音が響く。
「なにやってんだ恒光。お前、とりあえず謹慎っつったろ」
「……げ、先生」
「……こんにちは佐藤先生」
担任の佐藤先生が、入り口に立っていた。そう言えば、明日は先生の都合がつかないということで今日のうちに私の処遇について報告をして頂くことになっていた。恒光さんは佐藤先生に向かってファイティングポーズを取っている。そして先生の「謹慎」という言葉に、先ほど恒光さんが言っていた冗談のような話は本当だったのかと理解する。
「で、ここで何してたんだ、恒光。まさか峯岸の入院先を聞き出してお金を要求しに来たとか言わないだろうな?」
「え、お、あ、あぁと、そ、そそそそうそうそうそう! 丁度欲しい鞄が合ったから買いに行こうかなと思ってあいたぁっ!?」
慌てふためきながらもキャラを演じ続けようとする恒光さんの脳天に先生のゲンコツが振り下ろされる。そんなに力を入れていなかったのだろうが、痛いと感じるところがわかっているのだろう、恒光さんは頭を押さえて蹲った。
「で、その封筒が今回の上納金ってわけか?」
「え……っと」
恒光さんの下手くそな演技に先生が騙されているはずもなく、だからといって正直に全てを話してしまえば、恒光さんもバイトしていたことが分かってしまう。どう答えたものかと言葉を選んでいると、あのなぁと溜め息交じりに先生が言った。
「お前ら病院なんだからもう少し声を抑えろ。全部聞こえてたから。あと恒光は嘘下手くそ過ぎだから。後藤先生(生徒指導の先生だ)の前だったから、とりあえず謹慎っつったけど」
「え、い、いやいやいやマジだから先生! お、おおおらぁミネギシこらぁぼけぇ、お前からもなんとか言えやぁこらぁ!」
「……恒光さんにそんな風に言われると、なんだか腹が立ちますね」
にこっと微笑むと恒光さんのハリボテの威勢はあっという間になくなって、小さな悲鳴を上げている。静かにしろと、先生からまたゲンコツを頂戴していた。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだ。
「今バイト先の店長さんにも話聞いてきたよ。先生、なんか情けなくてよ。身を削って家族の為に頑張ってる子がいたり、一生懸命出来ないことをなんとかしなくちゃって頑張ってる子がいるのにさ。誰も俺を頼ってこないんだもんな」
先生の目には熱いものが浮かんでいた。でも、生徒の前だからか、それが零れないように懸命に唇を噛みしめている。そう言われると、少しだけ申し訳ない気持ちになる。恒光さんは先生の話を聞いていないようで、先生、待ってくれ先生、と先生の上着に縋り付いている。その姿を見ているとまるで今の私は死刑宣告の前の犯罪者だ。
ここにきて改めて、自分がしてきたことは周囲の人に迷惑を掛ける悪人の行為だったと恥じた。どんな理由があっても、それはルールを破っていい理由にはなり得ない。
「……幸いまだこのことは関係者数人しか知らない。生徒贔屓みたいなことは本当は良くないんだろうが、事情は分かった。学校としても、峯岸程の才ある人間の進路のことを思うと、な。恒光もテスト頑張ってたみたいだし。今回のテスト、先生方がビックリしてたぞ」
自分に縋る恒光さんを引き剥がしてから、先生は恒光さんの頭をポンポンと叩く。そういえば母さんも要さんも、私が何かするとああして褒めてくれた。
大人は皆、子供にあれをするのだろうか。
「……幾つか条件を付けるが、それを守ると約束するなら俺がなんとかしてやる」
「……え」
「それに、実はバイトもな。校則の見直しがあって、来年からは規則が変わる。きちんと学校に申請すればオッケーになる予定だ。今すぐは無理だが、来年からなら働いてもいい。まぁお前達は来年、受験勉強で忙しくなるだろうが」
先生の言葉一つ一つを理解するのにとても時間が掛かって、暫くそのまま固まって動けないでいた。恒光さんは傍らでフルフルと震えている。涙と鼻水でまた顔をぐちゃぐちゃにして。
「うわぁあああ先生ぇぇえありがとぉおおおうぅぅうー!!!」
「だから声がでかいって……おわ、抱きつくな、離れろ! 鼻水付けるな!」
「……ありがとう……ございます」
ようやく全ての言葉を噛み締めて理解したところで、また涙が溢れてきた。一日にこんなに感情が起伏したのなんて、いつぶりだろうか。
ああでも、悪くない。自分を偽ることなく、感情のままに涙を流して、笑って。
出来るならずっと、大好きな人と。ルールを破った悪人の癖に、こんな私の為に泣いてくれたり庇ってくれたりしてくれる人がいて。満たされている筈なのに、そんなことを願ってしまう私は、本当に、卑しい人間なんだなと思った。
※
夕暮れが世界を茜色に染める。寒空に浮かぶ雲が優雅に揺蕩うその様をぼんやりと眺めていると、そんな空気をものともしない元気な声が私の名を呼びながら近付いてくる。
「シューコー! お待たせー!」
私の隣まで走ってくると、膝に手を付いて息を整える。夏蓮、とまだその名を呼ぶのは少し恥ずかしい。だが、二人で約束したから、なんとか平静を装って愛しい彼女の名前を呼ぶ。
「いいえ、待っていませんよ……夏蓮」
申し訳なさそうにする彼女に、笑顔で答える。数秒待つと息が整ったのか、行こっかとなんでもないように手を差し出してくる。その手を自然に握り返せるようになるには、まだ時間が足りない。
あれからまた数か月が経ち、もう直ぐ冬が訪れる。
結局、私達へのお咎めはなくなった。ただ佐藤先生から出された条件というのが、生徒会の仕事を卒業前まで手伝うこと、ちゃんと学校に来て授業を受けること、バイトは内密に、且つ体調を崩さない程度(校則が変わるまでも、こっそりやっていいことになったのだ)にすること。テストで赤点を取ったらバイト禁止の三つだった。
先生方の寛大過ぎる措置に、ただただ感謝するのみだ。要さんにも話をして、シフト調整をして頂いた。土日祝日と、平日は比較的忙しい火、金を中心に、すっかり戦力となった夏蓮と二人でやりくりすることになって、今日は久し振りに平日に二人揃ってのバイトとなる。
「ほら、早く!」
迷ったまま空を彷徨う私の右手を無理矢理掴んで、引っ張るようにして彼女は歩き出す。その手を離さないように、力を込めた。
「そ……そう言えば、もう直ぐ期末テストですけど、どうですか調子は?」
信号待ちでようやく息を整えられた。夏蓮に質問すると、え、と声をひっくり返した。多分テストが近いことを忘れていたのだと思う。
最近の夏蓮は出会った当初とは別人のような生活を送っている。授業で分からないところは手を挙げて積極的に質問するし、それでも納得が出来なかったら休み時間や放課後に先生に聞きに言って教わる。
一日を一生懸命頑張っている姿には色んな人からとても好感を持たれているけれど、本人にそう伝えたら「だってテスト赤点だったらバイト出来ないんだもん、必死になるっしょ」と顔を真っ赤にして言っていた。
相変わらず褒められるのには慣れていないらしい。
「……正直ヤバイんだよね……授業の内容についていくのに必死過ぎて覚えた順に忘れてっちゃってさ……」
肩を落としたまま青信号を歩いていく。
彼女は勉強だけでなく、バイトも頑張っている。図書館やネットで花を調べ勉強しているようで、最近は土日のバイト帰りによくフラワーガーデンに行こうと誘われるのだ。花については私も、恒光さんに遅れを取らないように日々学んでいるところでもある。
その成長が喜ばしくもあり、反面少し寂しい。
ふと、名案を思いついたので提案してみることにする。
「私、来月が誕生日なんです」
「え? あ、そうなんだ……?」
素っ頓狂な顔をして、夏蓮は私を見ている。あぁ、どうか素直になれない私を許して欲しい。
「来月お祝いしてくれるなら、勉強、教えてあげますけど」
教えてあげるだなんて、なんて偉そうなんだろう私。え、本当、と私の両手を掴んで夏蓮は喜んでくれる。しかしその後、彼女は私の想像と違う反応をした。
「や、いつまでもシューコを頼ってばっかじゃダメだと思うし、大丈夫! ……あ、でも誕生日はちゃんと祝うからさ、任せてよ!」
両手を頭の上で組みながら彼女は笑う。その台詞に彼女の成長を感じる反面、そこはまた前のように一緒に勉強したいんだという私の思いを汲み取って欲しいとも思った。思わず大きな溜め息が出てしまう。
「え、え、なんで落ち込んでんの……!?」
「いえ、別に。知りません。いい心掛けだと思います、ガンバッテクダサイ」
「えぇえちょっとどういうこと!? ねぇ、シューコー!」
歩く速度を速めて、夏蓮を置いて歩いていく。別に私だって本気で怒っているわけじゃない、でもまだまだ夏蓮には私のことを追いかけて来て欲しい。本当は不安なだけだというのも分かっている。どんどん変わっていく彼女が、そのうちに私のことを追い抜いて、そのままどこか遠いところへ行ってしまうのではないかと。
「なんでもないですってば」
「ウソだウソ、絶対怒ってるー!」
こんな時だけ神様に願うのはずるいと思うけど、どうか神様。
願わくばどうかもう暫くの間、この時間が続きますように。
オルタネイト 清野勝寛 @seino_katsuhiro
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