渚の漣にのせて

舞寺文樹

渚の漣に乗せて

 金曜日の授業とバイトを終えて、満員電車に揺られる。いつものこの時間の電車は普通座れる。しかし、今日は違う。なぜなら今日は金曜日だからだ。

 飲み屋街から続く酒の臭気は、この満員電車に運ばれて各地のベッドタウンまで運ばれる。僕はこの酒の匂いが飽和した金曜日の電車が大嫌いだった。

 若者たちの下ネタの大遠投。ワイシャツを汗でピタピタにさせた中年男性の上司への愚痴。カップルの濃厚なキス。金曜日の23:30発の大原行きは、羞恥を忘れた人間たちの博物館になっていた。

 「5番線の列車、茂原以降に参ります、最終列車です」

 駅員の声がかまびすしく繰り返される。理性の淵によろめく、千鳥足の酔っ払いたちはなんとかその列車に乗り込む。しかし一筋縄ではいかない。ドアが閉まらないのだ。バッグが引っかかったり、踵が挟まったり、絶対に無理なタイミングで駆け込んできたり。結局いつも5分遅れほどで出発する。

 

 やっとの思いで帰宅しても、家には誰もいない。少しカビ臭いキッチンが僕を出迎えるだけだ。掃除をしようと一念発起しても、カビてる箇所は見当たらない。だからずっと臭いまま。時刻は0時を回ったところ。シャワーを浴びて、弁当に詰めきれなかったおかずを食べる。大学生になってから始めた一人暮らしも、だいぶ板についた。洗濯も、掃除も、それなりにこなしてる。けれど孤独感からだけは抜け出せない。  

 寂しくなって、高校の友達に電話をかける。けれども誰も出ない。けれど僕は焦らない。なぜならあの子がいるから。

 

 うちの高校にはなぎさちゃんが2人いた。漢字も全く一緒の渚ちゃんだ。なぎさAは宮城渚、なぎさBは田中渚だった。なのでみんなは宮城渚のことをミヤナギちゃんと呼び、田中渚のことをタナギちゃんと呼んでいた。けれど僕はだけは宮城渚のことを「なぎさ」と下の名前で呼んでいた。

 僕は唯一なぎさと同じ中学だった。中学の頃からずっと「なぎさ」と呼んでいたので、今更変えるのも不自然と思ったのだ。そのせいなのかは知らないが、何度も何度も付き合ってる疑惑が浮上した。なぎさはその度に、「あいつとは付き合うわけない」とか「あいつの私服、ダサいんだよね」とか色々言って付き合ってる疑惑を叩きのめしていた。しかし、仲良しだったのは事実である。

 

 なぎさはとても頭のいい大学に進学した。僕は大学にいくつも落ちて、全く進学の予想もしてなかった大学に進学した。しかし、悲観的になる僕を慰めてくれたのもなぎさだった。

 別に付き合いたいとか、そのような感情を抱いたことはなかったが、何度も何度もなぎさに救われたことは事実である。一緒にご飯も食べに行ったし、カラオケも行ったし、誕生日プレゼントだってあげるもらうの関係だった。側から見たらカップル同然だった。

 けれど僕はなぎさのことを恋愛的に見たこともなかったし、普通に男の子と遊ぶのと同じ感覚だった。もう側にいる事が当たり前すぎて、側にいないなんてのはあり得なくて、なぎさを彼女にするという作業すら無駄に思えるくらいの関係だった。

 

 金曜日の酒まみれの列車から抜け出し、なんとか帰宅した僕は、孤食をYouTubeと共に楽しんだ。

 時刻は零時を回ったところ。もう日付は土曜日になって1時間経っていたいた。あの苦しかった酔っ払いまみれの満員電車はもう過去に葬られた。

 畳の上に仰向けに寝っ転がる。どこから入ってきたのかわからない虫が一匹電気の周りを飛び回る。まるで僕みたいなその虫は、しばらく飛んだ後、別の部屋に行ってしまった。

 男友達何人かに電話をかけるも誰も出ない。バイトかサークルだろう。しかし、ここまでは許容範囲だ。なぜなら、なぎさがいるから。なぎさの電話に出る確率はほぼ百パーセントだ。たまに、ごめん今忙しいと断られることもあるが、ほぼなぎさは電話にでる。

 軽快なリズムが携帯から流れる。もうすでに僕の頭の中はあのなぎさの塩っけある言葉遣いと声に胸を躍らせていた。

「たっちゃんはさー、ほんとに服ダサいよね、でもキメすぎない感じがいいんたよねー」

「たっちゃんはさー、ほんとにモテないよねー、でも、お話しちゃんと聞いてくれるから私は好きよ、あ、友達としてだからね」

「たっちゃん、料理上手だね、でもね、私卵食べれないんだ」

 どこかサバサバしてるんだけど、たまに褒めてくれる。なんだかそれが心地よくて、大学生になってから、住む距離が県を二つ跨いでも、なぎさと電話をすることはやめられなかったし、あっちから電話をかけてくることもあった。けれど本当に恋愛的な目で見たこともなかったし、僕に他に好きな人がいたし、その相談もなぎさにたくさん聞いてもらった。このまま永遠に友達として生きていくものだと思っていた。

 

 軽快なリズムが四周したところで、電話は切れた。なぎさは、電話に出なかった。いつもと違うイレギュラーな状況にすこし戸惑ったが、なぎさももう大学生だ。バイトとか、友達とカラオケとかしていていてもなんもおかしくない。少し胸がギュッとなるのを抑えて、布団に入った。

 土曜日は何も予定がなかったので、ご飯の時にみたYouTubeの続きを見ることにした。

 お尻にペットボトルロケットをつけて飛べるか検証したり、美味しいラーメン屋さんの紹介動画を見たり、ゲーム実況を見たり。気の向くままに色々な動画を見た。けれど、ずっとなぎさが電話に出ないという状況が、頭の中をグルグルと周り、僕の心をかき乱した。

 

 ほぼ寝落ちをしかけていた時だった。けたたましくスマホが鳴る。画面を見るとなぎさだった。時刻は午前3時。いつもならお互い寝てる時間だ。

「もしもし、まだ起きてたの?」

 しかし、返事が返ってこない。

「もしもし、大丈夫?」

 なぎさの声が遠くの方で聞こえるが、全く聞き取れない。

「もしもし、もっと大きい声で喋れる?」

するとなぎさはいつもとは全く違う口調で話しかけてきた。

「ねぇーたっちゃんー?」

 いつもなら「おい。ワンコール以内にでろよ」とか、「さっき出なかったから寂しかっただろ」とかおちょくってくるのに、今日は甘えるような声で、話しかけてくる。なんだか様子がおかしかった。

「どうしたの?」

「ねぇーたっちゃんきいてよー」

「うん、なんか、様子が違うけど」

「うるさいー、いいから聞いてよおー」

「どうしたの?」

「わたしー、処女卒業しちゃったあー」

「え?何いきなり」

「いや、わかんないんだけどーめちゃくちゃイケメンと飲んでてー、そしたらいきなり押し倒されちゃって……」

 そこからは何も覚えてない。いきなりのカミングアウトに、返す言葉も見つからず反射的に電話を切っていた。何度も何度もなぎさから電話がかかってくる。しかしそのベルの音すらも聞こえない。

 ただ僕の心臓が、ドクっドクっと大きく鳴る。あの喋り方、そしてその内容。いつもと違う口調のなぎさの声が頭の中を何回も往復する。

 

 板張りの天井が段々と滲んでいく。木目が見えなくなって、茶色じゃなくなる。もう天井なのかもわからない。ぼやけた世界になぎさがいる。そしてもう1人、知らない男がいる。金髪マッシュの男がいる。背が高くて、ガタイもいい。2人の顔の距離は五センチもない。男がなぎさの頬を触りながら、甘い言葉を浴びさせる。そんな光景、僕は見たくない。なぎさのそんな姿見たくない。

 段々と薄くなってく、なぎさの服。下着の隙間から見えるなぎさの胸。それを鷲掴みにする男。男の手は段々と下半身に伸びていく。

 もう目を覆いたくなった。なぎさのあんな姿見たくない。いや、違う。この男が許せない。この男がなぎさをうまく口説いて、この状況を作ったのが悪い。

 自分の容姿をいいように使って、1人の女をおもちゃみたいに使いやがって。

 

 木曜日の朝9時前。友人は浮腫んだ顔をに真っ赤な目を携えて教室に現れた。

「昨日のクラブはどーだった?」

「とりあえず成功。しかもOL」

「え、OL?」

「うん、OL」

「えぐ、お前やるやん」

 なかなかのプレイボーイな彼は昨日OLと一夜を共にしたらしい。正直僕にはそのような世界を覗きに行く勇気もないし、そこまでの興味もない。その友人にクラブに行けば、簡単にお持ち帰りできるよと誘われるが、愛のない性交に興味なんかないと言う綺麗事を並べて断り続けていた。だからと言ってその友人のことが嫌いというわけでもない。なんなら、そいつの話を聞くのは面白い。自分の知らない世界を垣間見れる、いわば江戸時代の出島のような感じだ。

 僕の知らない世界。経験したことのない世界。唾液と唾液が入り混じり、嘘の好きと本物の性欲が入り混じる。溢れる吐息が耳をかすめて、嘘の愛の言葉が空っぽの心を埋めていく。

 友人の浮腫んだ顔。赤く充血した目。不純な世界がひしひしと伝わってくる。OLが、そして友人の彼が渋谷の裏路地の怪しいホテルのベッドの上で交じりあう。その光景が朝9時の小鳥の囀りと共に青空を舞う。別に不自然じゃない。気持ち悪くない。全く嫌悪も抱かない。なぜだろう。なぜだろう。

 

 なぎさのカミングアウトは嫌悪しか抱かなかったのはなぜだろうか。

 なぎさの行為は愚行としか思えないのに、友人のその行為は愚行とは思えないのはなぜだろうか。

 何人もの女をクラブで捕まえてホテルに連れていく友人には全く嫌悪を抱かないのに、なぎさを襲った彼だけは許せないのはなぜだろうか。

 

 大学生なんてそんなもの。性欲に正直に、それが許されるのは今だけだから。高校三年生になりたての頃、先輩が大学生になって早々に発した言葉だ。そしてそれをキラキラと輝くキャンパスライフと比喩したのも覚えてる。これは一体全体本当か。少なからず、友人にとっては本当だ。では、なぎさにとってはどうなのだろうか。なぎさにとっての愛のない性行為は、大学生の忽然と輝く奇天烈なキャンパスライフの一部分となってしまったのだろうか。そんなの僕は受け入れられなかった。

 

 火曜日の23:30発大原行きは静かに発車の時を待つ。ガラガラの車内に、羽虫が飛び回る。人がいない代わりに虫が縦横無尽に飛び回る。外房の海風にさらされて錆び始めた車体は、なんだか僕の心みたいだった。

 ここ最近よくわからない気持ち悪い風が僕に吹きつける。その風は外房の海からの風ではない。もっともっと遠くから。湘南の海からの片道切符で吹きつける。

 目を瞑って理性と本能の臨界を泳ぎ回る。そこには僕の友人となぎさが2人手を繋いで立っている。ネオンが輝く通りの一つと二つとさらに奥。薄気味悪い裏路地の、換気扇から漏れる豚骨スープの臭気が2人を包み込む。友人がなぎさの頬を指でなぞる。本能が理性を少しだけくすぐる。そしてそのまま腰に手を回す。すると本能が理性を叩く。だんだんと友人の顔がなぎさに近づいて、唇と唇が触れ合う。そこにはもう理性などは跡形もなく存在していなかった。

 そんな光景もう見たくない。なぎさの唇がいとも簡単に奪われてしまう。けれどもう目を瞑ってしまっているから、これ以上は瞑れない。目を背けたくても背けられない。僕の目の前で、彼女と彼の淫らな行為が繰り広げられる。ただ僕はそれを呆然と眺めているしかなかった。

 

「まもなく、蘇我、蘇我です。京葉線はお乗り換えです」

 車掌がそうアナウンスをするや否や、ドタドタと多くの人が電車に乗り込んできた。京葉線からの乗り換え客だ。僕はだんだんと現実の世界に引き戻される。さっきまでガラガラだった景色が、多くの人で埋め尽くされている。

 さっきのことが夢であったことに胸を撫で下ろす一方で、何かものすごいモヤモヤが僕を追い抜かしていった。蘇我駅は快速も特急も全部止まるはずなのに、そんなのお構いなしに、ものすごい勢いで僕のことを追い抜かしていった。

 

 何が追い抜かしたかもわからないままそのモヤモヤをトートバッグに詰め込んだ。鍵穴に鍵を差し込んで、玄関のドアを開く。相変わらずカビ臭いキッチンが僕の鼻をつく。

 カビ臭いキッチンで、炊飯器を早炊きにセットし、湯を沸かす。今日の夜ご飯はお茶漬けだ。母の作るカレーや唐揚げや麻婆豆腐が恋しくなる。そんな思いをシャワーで洗い流し終わる頃には米は炊けていた。ゆらゆらと湯気が立ち込めて、僕のモヤモヤも立ち込める。取り留めもつかなくなった世界でも卵焼きと白ごはんの味は変わらない。

 でもなぜだろう、僕の中のなぎさは前までのなぎさじゃない。あの電話以来、常になぎさは変化する。でもあのサバサバしたなぎさを失ったわけでもないし、この前のカミングアウトを聞いて嫌いになったわけでもない。

 しかし、なんだかさっきの電車の中の夢を見た時から、確信しかけていることがある。けれどそれを認めたくないというか、今までの僕となぎさの均衡が崩れるというか、今以上の変化を求めてないのに変化を求めてる気がする。いや、変化したいのか……。

 自我の喪失。なぎさへの渇望。いや、違う。違うと信じたい。けれど、なんだか、なんだか……。

 

 スマホがなる。孤独の食卓に一名様のお客さん。画面を見るとなぎさだった。なぎさとはあの日以来喋ってない。スマホの向こうからいつものなぎさの声がする。

「もしもし?たっちゃんいま大丈夫?」

「どしたの?」

「この前はいきなりごめんね」

 なぎさが謝罪などらしくない。けれど、まあ無理もないだろう。

「うん、大丈夫。大学生なんてそんなもんだよ」

「たっちゃんもそんな感じなの?」

「いや、俺は違うけど……」

 「大学生なんてそんなもん」ってのは僕の高校までのステレオタイプで、実際そんな生活をしているのは一握りしかいない。けれど、悪いことだとも思わない。

「俺の周りにもそーゆーことしてる友達何人もいるし」

「え、本当に?」

「うん、本当」

 何人もいるわけでもないが、無意識的になぎさの保身に走っていたのは、その後冷静になってから気づく。

「私、あの日初めてお酒飲んで、なんだか全部がふわふわしてきて。自分でも良く覚えてないんだけどさ、そのと男の子が……」

「ねえ、その話やめて」

「え、」

「だから、やめて。聞いてられない。そんな話」

「ごめん、こんな汚い話……。わたしダメな女の子だから……」

「いや、違う」

「違くない。愛人でもない男の子と、その場のテンションで……。こんな軽い女最低だよ」

 

 遠くの方で蛙が鳴く。隣の家の犬の遠吠えが響き渡る。バイクが家の前を走り去る。夜風に葉がザワザワとなる。蚊取り線香の煙が立ち上り、扇風機の風に乗って飛んでゆく。スマホの画面は真っ暗。なぎさからまた電話がかかってくることもなければ、会うこともないだろう。何かとても大切なものを宙ぶらりんにしたまま、なぎさは外房の海の離岸流に乗って遠くへ遠くへと消えていった。沈黙の漣にのって、湘南の海へ流されていく。湘南の海に着く頃には、もう僕の世界では死んでいるのだろう。

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渚の漣にのせて 舞寺文樹 @maidera

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