アオトリと夜の海の友達

斉藤なめたけ

本文

 夜の海に潜む化け物は、訪れる者を水底へ引きずり込み、その肉を喰らうという。

 その迷信に基づき、島の住民は夜の海辺に近づくことはまずない。

 二人の少女は、まさにその中で出会った――。


 一度目の出会いは、ほとんどお互いの自己紹介で終始した。

 こっそり村を抜け出した少女――アオトリは、海に先客がいたことにまず驚いた。

 その正体が自分と同年代の女の子とわかると、さらに面食らった。

 村には自分と同じ子供は何人かいるが、ここまで目を引く姿をした少女は見たことがない。

 先客の少女も、現れたアオトリの姿に目を見張ってみせる。

 瞳は昼の海を思わせる紺碧の色で、砂色の短髪はうねっており、十代半ばと思しき華奢な肢体は白のワンピースに包まれていた。裾からしゅっと伸びた足は、膝から下を浅瀬に浸けており、化け物が出ると言われている海で、彼女はまるで恐怖を知らないようであった。

 一方、後から来たアオトリは可愛らしいが年季の入ったパジャマを着込み、素足にサンダルを履いている。まっすぐ伸びた長髪と優しげな瞳は、星明かりの夜より黒い。息が荒いのは、全力で走ったのと村から抜け出した緊張感、そしてそこに夜の海という不気味な空間と、その場所に似つかわしくない謎の少女の存在――相乗効果も極めつきと言えた。

 年齢も身長もほとんど変わらない二人だが、主導権は明らかにワンピースの少女の方にあった。

 アオトリをまじまじと見ながら口を開く。

「ここって恐ろしいバケモノが出るんじゃなかったの?」

 これにはアオトリもさすがに黙ってられなかった。

「その化け物が出る場所で、あなたは一体何をなさっているのです?」

「あたしがそのバケモノよ」

 アオトリは息を呑み、浅瀬に浸かる少女をまじまじと眺めた。

 この愛らしいワンピースを着込んだ彼女が、恐れられていた化け物だって?

 呆然と立ち尽くしていると、バケモノと称した少女は冷ややかに言い放った。

「帰りな。今ならあんたのことを見逃してやるから」

 だが、アオトリは逃げなかった。

 やはり彼女は、村人の言うようなおぞましい化け物には見えない。

 とはいえ態度といい、村で見たことのない少女といい、異質な存在であるのは確かなようだ。

 あえぐように問いかけるのがせいぜいだった。

「あなたは……本当に化け物なのですか? 本当に村人を海に沈めてその肉を喰らうという……」

 聞かれたワンピースの少女も、逃げ出さないアオトリに興味を持った。

 少し考え込んでから質問に答える。

「あたしがあんたたちと違う存在なのは確かだよ。物心ついたときからこの海で過ごし、海から一歩も出ることができない。ここが、あたしがいられるギリギリってわけ」

 浅瀬を指し示してから、少女は短髪をがしがしと掻きむしった。水滴が飛散する。

 今さらながら、アオトリは浅瀬にたたずむ少女がワンピースごと全身が濡れていたことに気づいた。確かにこんな時間に水浴びなど、まともな人間の感覚ではない。

「名前がないと不便かな? あたしはこの村のお婆さんが呼んでた名前が気に入っててね。アリエって呼んでほしい」

「アリエ……さん? 私はアオトリと申します」

 アオトリが礼儀正しく頭を下げると、ワンピースを着た少女――アリエはいきなり不機嫌そうにぼやいた。

「確かにあんたたちから見れば、あたしは異質な存在だけどさ。おかの者を引きずり下ろして肉を喰らうバケモノだって? あたしは人を海に引きずり下ろすなんてやったことないね。高波にさらわれて勝手に沈んだヤツなら何人も見たけどさ」

 アリエの紺碧の瞳は中で陽炎がゆらめいており、それは怒りの表れのようでもあり、自分の領域に近づいた無謀な連中どもを嘲っているようでもあった。少なくとも人間が生み出せる眼光ではなかった。

 物騒な視線のまま、アリエはアオトリの姿をとらえる。

「それであんたは? まだ若いのにそいつらの仲間に加わろうっての? やめときな。水底に行っても特に面白いものはないし」

「い、いえ、私はただ……」

 狼狽しつつも、アオトリはどうにか自分の言いたいことを口にする。

「私はただ……本当に神様がいらっしゃるかどうか確かめたくて」

「神サマぁ?」

「はい、私たちの村は神様へ儀式を行うことで豊漁と収穫を願うのです」

 真面目に答え、アオトリはこの島の生活が漁と木の実の採取で成り立っていることを語った。

 アリエは少し考えてから、アオトリの信奉する神とやらについて訊いてみたが、その御仁が天上から島と海を見守られている存在と聞いて大いに呆れたものだ。

「それならここに来るだけムダってもんでしょ。その神サマは空にいるんだろ? 一応言っとくけど、あたしの知る限り海でそんなご大層なヤツは見たことないね。だいたいバケモノがいるという海に神サマまでいらっしゃるとかどういうことさ?」

 正論を畳みかけられて、アオトリは神様を『ヤツ』扱いされたことにも気づかぬ様子でうなだれてしまう。

 だが無駄とわかっていても、アオトリはまだ帰る気にはなれなかった。

 なぜかはわからないが、このときは語りたいことを語らずにはいられない心境だったのだ。

「ごめんなさい……話の続きをしてもいいですか? 私は生まれたときから神様に祈りを捧げる巫女として育てられてきたのです」

「祈り、ねえ。その祈りを捧げる巫女さんが、神サマの存在を疑ってるってわけだ」

 アオトリは答えない。皮肉で言われたのはわかっていたが、巫女としてあってはならない思想だということはアオトリもわかっている。

 気まずそうにうつむいてしまうと、アリエはやれやれと濡れた短髪を掻いた。

「神サマが実際にいるかどうかはともかく、さ。あんたのとこの村はいる前提になってんだろ? 何をするかは知らないけど、とりあえず形だけでも儀式をやっとけば問題ないんじゃないの?」

「…………」

「それとも、その儀式になんか問題があるわけ?」

 アオトリは弱々しく首を振り、言葉を絞り出す。

「……儀式と言っても実際に何をするか、私はまだ知らないのです。でも、そんなことはどうでもよくて、ただ巫女として生きることが最近、すごくつらく感じられて……」

「ふうん?」

「私は生まれてすぐに両親から引き離され、神主様のもとで育てられました。あなたは特別だからという理由で、他の子供たちがするような遊びが一切許されず、ひたすら神への祈りと神社の手入ればかりの日々を送ってきました。今日は神主様に特にひどく叱られて、何のために自分が今まで頑張ってきたんだろうと思うようになって……」

 ぼやいてから、アオトリはアリエを見て、すぐさま縮こまってしまった。

「すみません。何か愚痴っぽくなってしまいましたね。けれど、このようなことを打ち明けられる相手も今まで誰もいなかったので……。聞いてくださって、感謝いたします」

「ま、おかの人間が大変なのはわかったよ。あんたみたいな良い子は特にね。引きずり下ろしたりしないから、話がしたいならまたおいで」

「あ、いや、何度もご迷惑になるわけには……でも、ありがとうございます」

 アオトリは丁寧に頭を下げた。立ち去る直前の表情が行くときより軽やかになっていたのは、浅瀬に残ったアリエにとっても悪い心地はしなかった。

(今度会ったら、何か海のお土産でも渡してやろうかな……)

 知らぬうちにアオトリとの再会を願いながら、アリエも沖に向かって沈むように夜の海から姿を消したのだった。

 彼女の願いが叶うのは、この日から二週間後のこととなる。


 二度目の出会いは、緊迫した空気の中で行なわれた。

 アオトリは巫女と称したとおり、白衣はくえ緋袴ひばかまの格好をしており、息を切らしてやってきたのは初対面のときと同様だが、顔は遥かに青ざめ、黒い目は泣きそうに潤んでいた。

 アリエは相変わらず白ワンピースの姿で浅瀬でたたずみながらアオトリを受け入れたが、呑気に挨拶をするどころではない。緊張した声で問いただす。

「何があったのさ?」

 アオトリは悲鳴まじりの声で訴えた。

「助けてください。村の皆に殺されてしまいます」

「はぁ?」

 唐突過ぎて、アリエは話についていけない。

 巫女装束をまじまじと見ながらさらに訊く。

「特別なあんたがどうして村の連中に殺されなきゃならないのさ?」

「儀式の内容を先ほど、私は初めて知ったのです。私は『顔のない巫女』として生け贄に捧げられることになります」

「顔のない……?」

 アオトリは呼吸を整え、あえぐように『儀式』の内容を語った。

「翌日、私は神主様の手で髪をすべて切り落とされ、顔の皮を削がれることになります。儀式に必要なのは健康な生娘の肉体だけで、顔は欲情をかき立てられるという理由であるべきでないと……」

「…………」

「神様の望みは優れた子供を孕ますことのみで、その考え方のもと、村では長い間、何人もの……いや何百人もの女性が顔を失い、身体は供物として神火というもので焼かれてきました。『儀式を果たさなければ、村は神様の怒りによって沈められる』という名目で。そんなことが村でずっと行われてきたなんて、私は今まで知らなかった……」

「…………」

「私は巫女です。神に捧げられるべき巫女として育てられてきました。村の大人たちはこのときのために、私に色々と尽くしてくれました。私は、村の安心のために、皆の期待に応えなければならない。ですが、それでも、それでも……」

「もういい」

 静かな声だった。アオトリの顔を気遣わしげに見ながら、アリエはさらに言った。

「もっと近くに来て。あたしは海から出ることができないんだから」

 うながされて、アオトリはその通りにした。草履と足袋が浅瀬に浸かり、緋袴の裾が濡れてしまったが、もはや構うものか。

 至近距離で向き合うと、アリエはアオトリの目元を指でぬぐった。海の怪物らしく、しなやかな指先もしっとりと潮水で濡れていた。

 自分が涙を流していたことに今さら気づいたアオトリだが、アリエの同情するような顔を見た瞬間、感情が一気に崩れた。濡れたワンピースにしがみつき、顔を奪われそうになった少女は大きな声を上げて泣きじゃくった。

 号泣するアオトリの黒髪を撫でながら、バケモノの少女は優しく訊いた。

「あたしは村の考えに興味はないし、考えたくもない。でも、あんたは必死に村から逃げてきた。そうなんだろ?」

「……はい」

「あたしは神サマがいるとは思えない。けど村の皆はそれに納得せず、いるかどうかもわからない存在のために大勢の女性を惨たらしく殺してきた」

「…………はい」

 アオトリは濡れた顔を上げた。彼女としても、村を擁護する気にはもはやなれない。村側からにどのような事情があれ、女性の顔を剥ぎ取ることがどうして許されようか。

 アリエの声にも決意が込められた。紺碧の両眼は義憤の色に燃えていた。

「あたしは神サマじゃない。けど、あんたたちの言う神の真似事ならできるかもしれない……」

「やめてください。村の皆を沈めるような真似はしないで」

「なんで⁉」

 水を差されて、苛立ちの炎がアオトリにはじけ飛ぶ。

 だが、アオトリの主張は村をかばうためのものではなかった。

「沈めるなら私一人にしてください。海の底まで村の因習につきまとわれるのはもうたくさん……」

「なんだ……そういうことか。それなら言われるまでもない」

 安堵の息を吐いたアリエだが、島の中心部を見る紺碧の瞳は相変わらず鋭い光をたたえたままだ。

「長年この海で過ごしてきたけど、おかでこんなおぞましいことをしてるなんて知らなかった。そんな連中が、あたしのことをバケモノ呼ばわりしやがって。あっちの方がよほどバケモノじみたことしてるじゃないか」

 アリエのうなりは、遠方から響く別の声にかき消された。

「アオトリ! どこだ⁉ 巫女の役目から逃げんじゃない‼」

 男の怒号は森の奥から轟いた。アオトリが青ざめた声で「神主様だわ」と告げた。

 複数の足音が近づいてくる。

「どうやら、あたしたちに猶予はないようだね」

 アリエはむしろ楽しそうな口調をつくり、濡れた腕でアオトリの巫女装束を抱き留めた。村人に恐怖感しかないアオトリは、視線をアリエの顔へ向けるしかなかった。

 みずみずしい笑顔だった。アオトリも赤面を忘れ、つられて微笑みを返した。

「おいで、アオトリ。あたしがこっちへ連れてってあげる」

 しっかりと頷く。次の瞬間、アオトリは腕を掴まれ、少女とは思えない力で暗黒の海面へと引きずり込まれた。

 アリエの世界は、星明かりさえ届かない本物の闇の世界だ。

 水の中にいるはずなのに、不思議と息苦しさは感じられない。

 何だかずっと宙に浮かんでいるような気分だったが、理屈を考える余裕はなかった。

 と、いきなり激しい海流が起こり、叩きつけるように少女二人の身体を打つ。

 嵐のような勢いに耐え切れず、アオトリは思わず、アリエの手を離してしまった。

(……‼)

 心臓が潰れるかと思った。

 何もかもがわからない闇の中、アオトリは一人取り残されてしまった。

 海流に翻弄されて、どこに向かうかも知れたものではない。

(いやっ……アリエ、いかないで!)

 アオトリはもがいた。何もわからない海中を死に物狂いで泳ぎ続けた。

 怖いのは、このまま死に行くことではない。

 真の恐怖は、彼女アリエとのつながりを失ってしまうことだ。

(どうして……私を連れてってあげるって言ったのに!)

 アリエもわざと手を離したわけではないから、いずれ連れ戻してくれると信じているが、このときアオトリの中で思い浮かんだのは、まったく別の観点からの恐怖だった。

 もしかして、アリエの存在がそもそも、自分の都合の良い幻覚だったのではないか。

 最初から彼女などおらず、村から逃れたい一心で生み出した妄想のたぐいではないのか。

 狂気に駆られて海に飛び込み、手にしたと思ったつながりは全部まやかし、自分は最初から最後まで独りぼっち……。

(違う!)

 アオトリは幻想を払おうと必死に首を振る。

(アリエは幻覚なんかじゃない、妄想なんかじゃない、絶対いるの……お願い、出てきて‼)

「ごめん!」

 いきなりアリエの声が頭に直接響くように聞こえた。

 そして、アオトリの前にアリエの顔が逆さま・・・に映った。

 海中だから驚くことではないかもしれないが、アリエはアオトリと目を合わせるなり、そのまま下方へ流れてしまった。そのまま頭から海底へ沈みゆくというわけではなさそうだ。ワンピースに包まれた身体はひっくり返ったまま、アオトリと同じ高さでとどまる。

 アオトリの目の前にあったのは、アリエの白い足だった。

 思えばアオトリがアリエの足を見たのは、これが初めてである。

(……きれい……)

 彼女の足は何も履いておらず、それにもかかわらず足首から爪先までみずみずしさを保っている。穢れというものをまるで知らないようだ。

 その足の持ち主が、慌てふためいた声を上げた。

「悪い! 海流が激しくて思わず手を……すぐに持ち直すから……」

 だがアオトリはアリエの声など頭に入らぬ様子で、その足にひたすら見入っている。

 そして無意識にその片方を両手で包むと、そのまま引き寄せ、甲に唇を押し当てていた。

(やわらかい……)

 触感自体よりも、アリエがここにいるという事実にアオトリは涙が出るほど嬉しかった。

 一方、いきなり足に接吻されたアリエは逆さまの顔で驚いた表情になる。それを見たアオトリはほくそ笑みを返したかったが、安堵のせいか、体力の限界が来たのか、彼女の意識は急速に、眠るように薄れていった。


 それからどれだけ時が流れたことだろう。

 一人の探検家の男が、この無人島・・・に上陸した。

 奥に進むまではそこそこ自然に恵まれていた。だが中心地に足を踏み入れた途端、そこは一面焼け野原となっていた。特に集落跡がひどい。

 惨憺たる光景を見渡しながら、男は先人の遺した手記をめくる。

 この島唯一の村は、巨大な落雷によって一夜にして崩壊したという。神社に直撃し、中の人間は全員即死。瞬く間に火の手が周辺に回ったらしく、残された住民も海に出ることすら叶わなかったという。

 気の毒だが、もともと邪教めいた儀式を長らく執り行ってきた一族だ。『神罰』と書かれてしまうのも仕方ないところだ。

 集落跡を抜け、そのまま海辺へ訪れる。こちらも殺風景だが、痛ましかった村の跡に比べればかなりマシだ。波は穏やかで、浜辺には砂に混じって大粒な石がいくつも埋まっていた。

 何気なく男はその一つを拾い上げた。

 それは例えるならば、砕けた石板の欠片に近かった。平らな面が磨かれたような光沢を放っており、男の顔が映り込むほどだ。色は単純な黒ではなく、あたかも夜の海を封じ込めたようで……。

「……⁉︎」

 ぎょっとした。表面に映り込んだ自分の顔以外に、二人の少女の顔がいきなり浮かび上がってきたではないか。

 慌てて振り返り、それどころか全方向までくまなく見渡したが、視界にあったのは自然の中の空虚だけだ。

 気味が悪かった。少女たちの笑顔がいくらまばゆくて無邪気だろうと、非業の死を遂げた者が多い無人島では何の救いにもならない。

 畏怖に駆られ、男は石の欠片をそっと元の場所に戻すと、そのまま慌ただしく浜辺を後にした。

 最後に、男が島を出る瞬間、頭に知らない少女のやり取りが響いた。心当たりはまるでないが、フラッシュバックしたかのように響いた会話は次のようなものだった。


「アリエ……あなたは本当は化け物でなく神様だったんじゃないんですか?」

「だから違うって。あんたは格上の存在とお友達になりたかったわけ?」

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アオトリと夜の海の友達 斉藤なめたけ @namateke3110

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