Goodbye, This World

「えー、そんなあ。僕、安くて稼げるバイトがあるってことで応募したんですよ。そしたらまさかこんなことさせられるなんて思ってもいないじゃないですか。えー、金も入んないなら完全に損ですよね。っていうかこの場合僕も共犯ってことになるんですかね」

 男の口はひたすら回り続け、同情を誘うように溜息をつく。廣瀬は床に倒れたまま男を見上げ、唇を舐めた。「いつまで茶番を続けるつもりだ」

 男は大仰に目を見開き口をつぐんだ。

「最初から目的は俺だった。違うか?」

 廣瀬はそう言いながらほぞを噛む思いだった。

 男の気配を消す能力。相手を一撃で仕留める腕前。そして埃の中でも感じる香り。その全てが、この男こそが主犯であると物語っていた。一瞬でも気を許しそうになった自分に腹が立つ。

 この近辺で犯行予告を受け取ったとしても、公に警察の世話になれない事情があれば評判の良い廣瀬たちのところへ駆けこむことは予想できる。標的である廣瀬自らが単身で敵の待ち構える場所に飛び込んでくる。これほどやりやすいことはない。仮に思惑通り事が進まなかったとしても、この男にとって失うものは何もない。

 男の目が細められ、冷えた笑みへと変わった。

「へえ。よくわかりましたね」

「痩せたやつはお前の仲間か」

「まさか。使い捨ての駒ですよ。今頃しょっぴかれているんじゃないでしょうか」

 事もなげに言い切った男に対し、廣瀬は額に青筋を立てた。男の酷薄さに反吐が出る。

「やだなあ。そんな怖い顔しないでくださいよ」

 熱くなった身体を落ち着けるように、廣瀬は腹に力を入れて声を低める。

「俺を生きて帰すつもりはないのか?」

「ご冗談を。そこまでわかっているならさっさと死んでもらいましょう」

「俺を狙う理由は」

「理由? あなたと同じですよ。あなたは守れと言われたものを守る。俺は殺せと言われた者を殺す。それだけです」

 以前廣瀬が潰した会社は反社会的勢力との繋がりもあった。この一件のみならず、裏社会の人間から恨まれる心当たりは山のようにある。命の危険に晒されることも数え切れないほどあったものの、そのたびに廣瀬は生き延びてきた。

 右手で左手を包み込むように握る。血の通った己の肉体の感触と、薬指の無機質な感覚。それらは市井に生きる人々、仲間、そして愛する人の存在を廣瀬に思い出させるに十分足るものだった。

 俺は往生際が悪いんだよ。

 廣瀬は冴え切った頭で笑う。廣瀬の異変に気がついた男が覗き込んだ瞬間、勢いよく上体を起こした。

 頭に強い衝撃が走る。


*****


 蛇口を捻ると赤く染まった水が排水溝へと流れていく。鉄臭さを消すために念入りに手を洗うのは男の癖だ。日夜仕事を繰り返すうちに男の手は荒れ、ドラッグストアで買った安いハンドクリームが手放せない。

 鏡で自分の姿を確認しても、仕事前と変わったところはなかった。人を殺しても何も感じない軽さに反し、男は慎重に事を運ぶ。己の体調管理もその一環だ。標的の調査に周到な準備。己の能力を過信することなく、念には念を入れることで、男は失敗しない。

 弱肉強食は不変の真理だ。強者のみが生き残り、弱者は容易く死んでいく。この世界を支配するのは失敗という弱さを超越した者だ。


 夜が深まると、胡乱うろんな店の立ち並ぶ通りは執拗な客引きや泥酔者で溢れかえる。鬱陶しい輩は殺しても良いが、報酬が発生しない以上仕事をするメリットはない。死体のように道路に横たわった酔漢の脇を通り過ぎ、早足で客引きを振り切った。

 男が入った定食屋には煌々と明かりがついており、客は誰もいなかった。そのくせ部屋の中を蝿が飛び回っている。

 カウンター席で注文の品を待っていると、店の隅に置かれたブラウン管テレビが目に入る。解体予定の廃ビルで爆発があり、一人が遺体で見つかったと報道されていた。無論、男のしたことだ。男に繋がるような痕跡は全て消し去り、最後には現場を爆破した。淡々と原稿を読み上げるのは若い女だ。

 男がそれを無感動に眺めていると、年老いた店主が現れた。仕事を終えた後の食事はいつも肉と決めている。安くて硬い肉を噛み切り、米を食らう。味わうのではなく、栄養を得るためだ。

 胃に固形物を入れながら、男は今回の仕事を思い出した。

 ヒロセ、と言っただろうか。昏倒したヒロセを解体予定の廃ビルに運ぶ間に、ヒロセの携帯電話に留守番電話が入っていた。電話口の男は慌てふためいた様子で「病院に来い」と繰り返していた。産まれるぞ、とも。

 男は自分が殺す相手には微塵も興味が湧かない。物言わぬ肉塊に成り果てることが確定しているからだ。

 肉を食いながら「この豚や牛にも親や子がいたのか」などと考える人間はいない。種が異なるだけであり、人間もそうだ。そのためこれから自分が殺すヒロセに妻子があろうと、それは男にとって無関係なことだ。相手の身の上を知って同情をしようと、男のやることは変わらない。

 安い金で人を雇ったのはただの保険だった。幾重にも保険をかけて万全を期すのは今回に始まったことではない。ただ、ヒロセが目を覚ますまで手を下さなかったこと。それは男の興味からだった。ヒロセに多額の報酬がかけられていた理由が気にかかった。

 闇に片足を突っ込んだような仕事に反して、華やかな実績を持つヒロセの噂は簡単に手に入った。幾度となくヒロセは多方面から抹殺対象にされてきたらしいが、そのたびにヒロセは生き延びてきたらしい。殺し屋を返り討ちにし、人質も無事に救出することもあったという。

 殺しても死なない不死身の男。

 そんな異名を持つヒロセに対し、男はひそかに尊敬の念を抱くようになった。これは猟師が山の主たる大物を狙う心境と似ているかもしれない。

 しかし、ヒロセに実際に会い、男は失望した。

 人間の急所を叩けば呆気なく倒れ込んだ。床に転がるヒロセは薄汚かった。起死回生の一撃とばかりに身体をのけぞらせた姿は、死にかけの虫のようだった。

 ヒロセも結局のところ無力で弱い者だったということだ。これまで生き延びてきたのも、ただ運に恵まれ、運を呼び込む生への強い執着心があっただけのことだろう。

 一瞬の違和感は抱いたものの、男はヒロセの攻撃をかわして頭を殴りつけた。大方顎を狙ったつもりだろうが、直情的な動きほど読みやすいものはない。怯んだヒロセの喉をナイフで掻き切ると生温かい液体が吹き出した。しばらくしてぴくりとも動かなくなったヒロセの周りには血の海が広がっていた。

 冷めてしまい一層硬くなった最後の一切を口に運んでいると、テレビでは速報が流れ始める。先程までとは打って変わった、いかにも慌てた様子は経験不足ゆえだろう。

「……市中心部の飲食店で、何者かが銃を乱射した模様です。警察によりますと、犯人は依然逃亡中で行方を追っているとのことです。繰り返し……」

 現場の映像が到着したのか、急に画面が切り替わった。規制線の張られた一角に、警察と思しき多数の人物が出入りしていた。肉を咀嚼しながら漫然とテレビを眺めていると、皿を洗っていた店主が声を張り上げる。

「ここから割と近いところやんね。はよう捕まってくれたらええねんけど。いやあ、怖いわあ。お兄さんも気ぃつけんと」

 泡だらけの指でテレビを指さされ、男は曖昧に苦笑した。

 会計を終えて店を出たところで、店主が息を切らせて走ってくる。

「これ、お兄さんの大事なものやろう? フードから落ちるんが見えたで。ちゃんと仕舞うなおしとかんと」

 勢いに押されるようにして出した手にのせられたのは、銀色に光る指輪だった。

 もちろんこれは男のものではない。自分が殺したヒロセが身につけていたものだ。それが今、なぜここに。

 栄養を摂取したはずだが、男の体温は急速に下がっていくように感じられた。

 血の海に浸かった死体は指輪を着けていただろうか。いや、着けていなかった。

 いつ、外れた?

 偶然ヒロセの指から外れたものが、偶然男のフードに入ったのか?

 いや、それとも。

 突如として手が、全身が震え出して止まらなかった。

「ちゃんと大事にしいや」

 指輪を拾い上げた店主は、男にそれを強く握らせた。背中を軽く叩き、店主は店の中へ消えていく。

 何故自分はこれほどまでに強い恐怖にさらされているのか。

 男の脳裏に浮かぶのは、死の間際に見せたヒロセの壮絶な笑みだった。

 生への強い執着。仲間や市民も守ろうとする正義感。そして地獄の果てまでも相手を追う執念。

 息苦しさに喘ぎ、早鐘を打ち始めた心臓を手で抑え、男はその場に膝をついた。

 誰かが男の前に立っていたが、男は顔を上げられなかった。物言わぬ肉片と化したはずの男がそこに立っているように思われたからだ。

 遠くからサイレンの音が近づいてきた。

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Goodbye, This World 藍﨑藍 @ravenclaw

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