Goodbye, This World
藍﨑藍
Hello, This World
重いまぶたを持ち上げる。
がらんとした部屋には何も置かれていない。向かって左に位置する窓からは光が差し込んでいるものの、ひどく暗くかび臭い。コンクリート製の壁はところどころ大きくひび割れ、天井の壁が剝がれたところからは鉄骨が見えている。ここはどこか使われなくなったビルの一室だろう。
幸い指先は動かせる。左手の薬指にはめられた硬くて冷たい物質を感じ、廣瀬は安堵した。
視界の自由も利くので助けを呼ぶことさえできれば勝機はある。そう考えた廣瀬は後ろ手に縛られた手首を動かし、スラックスのポケットを探る。どこか想像通りとはいえ、凹凸のない感覚に嘆息する。
「ケータイなら僕が持ってますよ」
場違いなほどあっけらかんとした声が背中越しに聞こえた。
「目が覚めましたか。すみませんね、不自由な思いをさせてしまって」
黒いパーカーを着た若い男は床に転がる廣瀬の身体を悠々とまたぎ、保険会社の営業よろしく廣瀬を安心させるように笑う。対する廣瀬は口の自由が利かないため、上手く笑い返すことができなかった。いや、そうでなくとも笑えなかっただろう。
いつ現れた。廣瀬が目を覚ましてから部屋の扉が開く音はしなかった。つまり、最初からこの男は部屋にいたということだ。スーツの中に着たシャツの下で、背中に汗が流れるのを感じた。
廣瀬の目の前で男は腰を下ろした。
舞い上がる埃にパーカーの袖で口を覆った若い男は苦笑した。「汚すぎですよね、ほんと」
男の年齢は二十代だろうか。室内の薄暗さゆえ判別は難しかったが、明るい茶色の髪は大学生のように見える。
「なんか、ボスからの連絡があるまで見張っとけって言われてるんすけど、ヒマなんでおしゃべりしましょうよ。ね」
そう申し訳なさそうに言いながら、男は廣瀬の顔に手を伸ばした。猿ぐつわの外れた廣瀬は埃っぽい空気を大きく吸いこんだ。ふんわりと花の香りがしたのは、柔軟剤か何かだろう。
「俺を誘拐して、どうするんだ」
男は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに取りなして肩をすくめる。
「そりゃ、身代金をいただいてですね」
「聞いて喜べ。お前たちが身代金を手にすることは絶対にない」
男は鳩が豆鉄砲を食ったように、瞬きを繰り返した。
「え、なんでです」
「お前たちは誘拐する相手を間違えたんだよ」
*****
駅から歩いて五分。雑居ビルの並ぶ薄暗いオフィス街に廣瀬の職場はある。カーキ色のフライトジャケットを羽織り、ジーンズに手を突っ込んだまま道を急ぐ。
廣瀬は私立探偵事務所で働いている。探偵事務所と銘打ってはいるものの、「困っている人の力になる」という方針のもと何でもやる。浮気調査に人探しといったオーソドックスな依頼内容から、ボディガード、果ては子供の留守番見守りに至るまで。小さいながら、小回りや融通の利く機動力と手厚いフォローにより、巷での評判は上々だ。
廣瀬は依頼人の力になれることに喜びを感じていたし、この仕事に誇りを持っている。彼の能力を見込んで高待遇で引き抜こうとする者もいたが、廣瀬はその手の話を全て断っていた。
事務所はビルの二階に位置している。部屋に入りきらない段ボールが隅に積まれ、階段は狭くなっている。そこを廣瀬が小走りで上がっていると、不釣り合いなほど質の良いスーツに身を包んだ初老の男が下りてきた。本来ならば廣瀬が道を譲るのが道理だが、その男の所作は流れるようで、気づけば廣瀬は会釈をしながら壁際に立つ男の前を通り過ぎていた。
事務所のガラス戸を無言で開いて部屋の窓際まで進む。無遠慮に窓から外を見下ろすと、先ほどの男がちょうど建物から出て行くのが見えた。
「依頼内容は?」背筋を伸ばしたまま歩く男の背中を見たまま廣瀬は問うた。
書類が机に置かれる音とともに、所長であり廣瀬の親友が答える。
「社長令息のボディガード」
「令嬢じゃねえのかよ」
「奥さんに言いつけるぞ」
好きにしろ、という気持ちで廣瀬は鼻を鳴らす。
「誘拐するという予告状が届いたんだと」
廣瀬が思わず振り返ると、友人は煙草に火をつけようとしているところだった。一見して安物とわかるライターは火のつきが悪いらしい。何度か試したのち、ようやくありついた煙をくゆらせながら友人は口を開いた。
「俺だって警察に届けることを勧めたさ。俺たちだけでは手に余る。それに」
「きな臭すぎる」
言葉を引き継いだ廣瀬に対し、友人は頷いた。部屋の中央には来客用の二対のソファーと低いテーブルが置かれている。ソファーに腰を下ろした友人は、テーブル上の灰皿を手元に引き寄せて煙草を押しつける。廣瀬が窓を開けると風が吹きこみ、厚い書類の端がめくれ上がった。
窓枠に肘を置き、姿の見えなくなった依頼人の姿を思い返す。
そもそも誘拐が目的であれば事前に知らせるのは無意味なことだ。劇場型犯罪を好む犯人だろうか。とはいえ、宝石を盗むのと生きた人間を連れ去るのでは難易度は段違いだ。むやみに警戒を厳しくする理由がない。それとも誘拐ではない何か別の目的がある可能性があるのだろうか。まだ廣瀬たちの知らない、何かが。
「でも、引き受けたんだろう」
廣瀬がそう言うと、友人は目を伏せ煙とともに溜息を吐き出した。「今月の家賃が、な」
「経営も大変だな」
「茶化すな、死活問題だぞ」
経営の才のない廣瀬は、この親友に事務的なことを全て任せ切っている。その代わりといっては何だが。
「俺が担当する」
今この事務所は神経質なこいつと廣瀬、の二人しかいない。残り一人の捜査員は別の案件にかかりきりだ。
「お前はついこの前でかい仕事を片付けたばかりだろう」
一週間ほど前まで、廣瀬はとある会社に潜入捜査を行っていた。依頼通り癒着の証拠を押さえ、警察とマスコミを焚きつけた。今頃は壊滅していることだろう。
「金が必要なのは何もお前だけじゃない」
廣瀬は薬指に収まった指輪をするすると動かし弄ぶ。にやりと笑うと、友人は「そうだったな」と言い、机上に書類を所狭しと広げ始めた。
依頼内容は、令息の安全が確保されるまで無期限の身辺護衛。外出時はもちろんのこと、在宅時も可能な限り側を離れないこと。だが依頼人にとって、気の休まらない期間は短い方が望ましい。そのため依頼人を脅迫する犯人特定も行うことになった。
短期決戦、すなわち囮捜査。幸いなことに護衛対象と廣瀬は背格好が似通っている。事前にそれらしい衣服とかつらを準備しておけば、遠目には判別がつかないだろう。時おり変装した廣瀬が一人で街をうろつき、相手の動向を探るということで落ち着いた。
早速準備に取り掛かろうと立ち上がると、深刻そうな声色で名を呼ばれた。
「何て言うか、すごく悪い予感がする」
「何の話だよ」
こと野生の勘に関しては、この友人よりも廣瀬に軍配が上がる。とぼけた振りをしたが、廣瀬の勘も危険だと告げていた。
仕事上、廣瀬も死線を何度もくぐり抜けてきた。たとえ危険が待ち構えていようと、そこに飛び込まない理由にはならない。それが廣瀬の仕事であり、生き方だからだ。困っている人の力になりたい。そして人の笑顔を取り戻したい。廣瀬はそのためにこの仕事を選んだ。
「気をつけろよ」
「最後に言っておきたいことが一つだけ」
「縁起でもないこと言うな」
勤勉実直を絵にかいたような友人は眉をひそめる。あまりにも想像通りの図に、廣瀬は笑った。
「禁煙中だからさ、俺の前で煙草吸わないでくれよな」
依頼人の家で仕事を始めてからというもの、しばらくは何も動きがなかった。調査のため廣瀬の素性を知る者は少なく、表向きは新しい使用人という体で働いている。事態が大きく動いたのは一週間後、すなわち今日の午後のことだった。
護衛対象を家まで送り届けた後、廣瀬はブランドもののスリーピーススーツを身にまとい、人目をしのぶようにして外を歩いていた。異変に気がついたのは歩き始めてすぐのことだった。
跡をつけられている。
それにしても気配を消すのが下手すぎる。振り返らずとも尾行に不慣れな者だとわかった。
巻くか。それとも直接相手にするか。
華やかなイメージとは異なり、探偵の基本は目立たないことだ。自分のためにも、周りを巻き込まないためにも、直接相対するなら人通りの少ない場所が望ましい。
この辺りの地理は細い路地や抜け道も含め、完全に頭に叩き込んである。廣瀬は駅へ向かうふりをしながら、人通りの少ない道を進んだ。
手頃な丁字路に差し掛かった瞬間、廣瀬は走り出した。案の定相手も慌てて走り出すのがわかった。ブロック塀越しに窺うと、交差点中央で痩せぎすの男が辺りを見回していた。
あれくらいなら廣瀬自ら締め上げて吐かせられそうだ。
そう考えて出て行こうとすると、甘い芳香が鼻についた。殺気に気がつき振り返ろうとした瞬間、廣瀬は意識を手放した。
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