白狼

帆多 丁

白狼と蛇尾獅子

 何かを人間は叫んだが、白狼はくろうの知る言語ではなかった。白狼は人間をおろし、血と臓物でぬかるむ城の床を二本足で踏みしめ、拳を握り、牙を剥いた。

 白狼は巨躯の人狼であり、自らの言語を失いつつあった。


 「モンストロ不明なるもの」と自称した種々雑多な「彼ら」にとって、言語とはモンストロ魔物の王によって与えられた連帯の道具であった。

 この世からヒトを絶滅さしめ、世界を公平な秩序の元に戻す。そううたった王は、しかしヒトに敗れた。

 与えられた言葉を使うモンストロに対し、自ら言葉を発展させていった点で、ヒトは勝っていた。

 言葉は読まれた。言語は盗まれた。

 言葉を知るモンストロは言葉によってほだされ、強固な門は内側から開かれた。

 鉄を着こみ、鉄を手にしたヒトの群れがなだれ込み、戦いが始まった。指揮を執る王の首を背後からねたのは、モンストロの皮をかぶり、モンストロの言葉を話す人間であった。

 その人間は、一報を手に戻る途中でモンストロと間違われた。そして人間に殺された。殺した人間は歌姫鳥ハルピュイアに捕まり、落石の代わりに使用された。


 王が倒された今、モンストロ不明なるものたちは言語と連帯を失いつつある。

 だがこの時にはまだ、彼らは連帯していた。鉄を着た猿を根絶やしにするべく連帯していた。

 だからこそ蛇尾獅子キマイラの咆哮に勇気づけられ、焔鳥フェニクスの尾羽がく最期の光に奮い立った。



 いつかの夜、初めて覚えた連帯感に、この世に産まれた意義さえ感じ高揚した事が白狼にもあった。

 言葉によって想起された「今この瞬間」の向こう、未来、そして幾筋にも分岐する可能性の茫漠ぼうばくとした大きさに恐れをなし、おもわず穴を掘って隠れた夏があった。

 穴に潜ってなお恐れから逃げられず、雷の中をひたすらに駆けた。

 雨上がり、崖の上で夜明けを迎え、森の終わりはなお見えず、時間も世界も、この身ひとつには有り余るのだと悟った。

 しかし、同時に、この身ひとつにも世界は許されているのだと感じた。

 白狼は崖をおり、さらに森を駆けた。森の中で行く手を阻むものはなかった。

 川の流れに渇きをいやしていて、白狼は、人間に阻まれた。

 不快であった。

 ほふって進めば、森は終わり、かわりにヒトの群れがいた。

 見つけ次第屠った。そうすべく与えられた肉体である。使命を果たす快感があった。

 だがヒトは絶えなかった。ヒトの巣の中で白狼は落とし穴に落ち、責められ、傷を負い、命からがら抜け出した。

 小さく、ひ弱で、鬱陶しい生き物。

 根絶やしにすべしとの王の意思は正しいと感じた。

 白狼は王に付き従うべく、城に戻った。


 

 城に戻った白狼を迎えたのは、蛇尾獅子キマイラであった。

 蛇の尾が、三角形をした頭の先で、獅子ししあたまをくいくいと指して言った。白狼の様子がおかしいと思っていたら姿が見えなくなってしまって、探していたのだと。

 獅子の頭はそっぽを向いて、このオレがお前を探したりなぞするものか、とうそぶいたが、蛇の尾はおかしそうにしゅるしゅると息を吹いた。

 白狼よ、お前の匂いを覚えさせてくれ。そうすれば、またいなくなられても匂いをたどってお前を探せる。でなければ、こいつを夜通しなぐさめる羽目になってかなわんわ。


 その蛇はもう、蛇尾獅子キマイラの尾にいない。蛇の頭は切り落とされ、胴だけが血を流して垂れ下がっていた。

 蛇尾獅子キマイラが吠えて、炎を吐く。蝙蝠の翼でつむじ風を起こし、風は火を乗せて巻きあがる。死んだ蛇の代わりに、炎はとぐろを巻いてヒトを絞めた。


 白狼は空中に蹴り上げた人間を上下のあぎとで挟み込み、強靭な首の筋肉を躍動させて、みちみちと振り回す。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 ヒトの着込んだ鉄が牙を阻んでも、このにヒトの骨は耐えられない。

 四回目の揺さぶりで吐き捨てる。跳ぶ。曲輪くるわに溜まったヒトの群れの中に降り、かき乱し、屠り、駆ける。

 白い毛皮は黒く汚れ、飛び交う火矢に焦げている。

 

 いますべきことは、ヒトを屠ることである。そしていますべきことは、ヒトを屠ることである。さらにいますべきことは、ヒトを屠ることである。

 いまこの瞬間に、ヒトを屠るのだ。

 

 左脚が突如として冷える。

 理解する前に跳ぼうとし、同時に激痛が走る。分厚い脚の皮がべろりと向けて、地面に張り付いている。

 凍らされた。凍てついて張り付いた皮膚を、自ら引きはがてしまったようだ。

 倒れ込む。他と違う匂い。人間のメス。奇妙な棒を持ち、鉄を着ていない。

 お前か。

 髭の先で再び、空気が冷えるのを感じた。白狼はおかの魚の如く跳ねた。すぐ下で、空気に霜が光った。

 人間の雌が棒を構え直すよりも、前脚の爪が雌を引き倒すのが速かった。甲高い鳴き声が聞こえたが、鳴き声ごと牙にかけた。

 皮の剥けた左脚は走るたびに邪魔だ。もっと速く駆けなければならぬのだ。屠るのだ。屠るのだ。

 しかし火の手が回る。

 火は恐ろしい。火を吐いている獣が見える。あの獣は何か。金色の毛皮に蝙蝠の翼。匂いに覚えがある。

 だが火は恐ろしい。

 逃げなければならない。

 猿の群れが奇声を上げて群がってくる。逃げなければならない。



 白狼は城壁に跳び、矢を射かけられながらよじ登る。遠くから次々と巨大な火の玉が投げ込まれている。

 ヒトの投石器カタパルトが投げる火の玉は、中にいるヒトも巻き込んで燃え上がる。この時、この場所に「今後」という概念はなかった。ヒトもモンストロ不明なるものも双方ひたすら、目の前のことを恐れ、暴れていた。

 白狼の耳は獅子の悲鳴をとらえたが、それが何を意味するのか狼はもう理解できなかった。獅子はもたもたと蝙蝠の翼で飛び、そして城壁の外にだらしなく落下した。

 

 過去をとどめる言葉は失われた。可能性を思う言葉は失われた。

 白狼は城壁伝いに逃げた。猿の群れが上げる奇声が恐ろしかった。

 

 城の堀へと飛び込み、滝から落ち、血を流す足で必死に逃げた。逃げる途中で人の巣をかぎつけ、飢えを満たし、また逃げた。

 追跡の手は緩まなかった。

 遠い同胞である犬どもさえ白狼に歯向かった。次第に傷は増え、足は鈍った。

 

 ある夜、崖の上で白狼は遠吠えを繰り返した。

 そこは以前、世界と時間と自分とを悟った崖の上だった。この場所の匂いは、白狼に本能と異なる欲求をもたらした。その欲求に対して、最も素直な行動は遠吠えであった。白狼には遠吠え以外に表現する手段はなかった。

 崖の下は果てのない闇。崖の向こうも果てのない闇。

 白狼は膝をついた。仰向けに倒れ、耳を澄ませ、鼻を膨らませた。

 満点の星が無数の目となって見下ろしていた。

 遠巻きに、気配がある。

 遠吠えに集まった狼たちが、手負いの獣の死を待っている。



 夜明けに、白狼は喰われた。

 

 

 その後、白狼を喰った狼の群れで、雌が身ごもった。

 五匹の仔のうち、一匹は白い毛皮を持っていた。その狼は長じて群れを離れ、つがいの雌を探した。

 そうしてまた新しい群れをなし、ときおり白い狼が生まれる。

 白い狼は必ずオスであり、群れを離れるのが常であった。そうして長い時が立ち、狼は一匹の、金色をした獣と出会った。

 お互いにまず警戒し、距離をとってぐるぐると回り合った。

 二匹の獣が回る円は次第に小さくなっていき、おそるおそるお互いの鼻の匂いを嗅ぎ合った。

 狼はお互いの鼻を嗅いだ後に肛門周りを嗅ぐのが習性であったので、そのようにした。金の獣の尾は、そんな狼の耳の後ろあたりで、しゅるしゅると音を立てた。

 獣の尾は蛇であった。

 蛇は棒のように突っ張った体をゆらしては、狼の耳の後ろで盛んに舌をひらめかせていた。

 しばらくして狼と金の獣は、お互いの首をこすりつけあった。

 匂いが移ったことに満足して、二匹の獣は森の奥へ去り、そのあと会うことはなかった。

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白狼 帆多 丁 @T_Jota

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