第55話 新たな物語(最終話)

 晩夏の朝、未だベッドのフィオールは背後のルイルに声を掛けた。隣室にベッドを持つテオールとレナリアはとっくに起床し、今頃朝食を準備していることだろう。


「おい、起きろ」

「……んー……」

「ルイ。俺はトイレに行きたいし顔も洗いたい。腹も減ったしテオにも会いたい。さっさと起きろ。せめて放せ」

「んー……痛っ」


 もぞもぞと余計に抱き締められたので、フィオールはルイルの手の甲をつねった。おかげで拘束が緩み、寝癖付きの茶髪をかき混ぜながらベッドを抜け出す。十六歳になり大人びた目元はしっかりと開き、眠気は今晩に備えて息を潜めている。今の時刻は、八時に鳴らしたアラームを止めてから十五分後。二人の一日は、この茶番をプロローグとして始まる。


 ブランケットを引っぺがしたフィオールは、半ば力業でルイルを立ち上がらせた。その拍子に揺れるは、肩を越すくらいの銀髪。ただし、人によっては老人の色だと感じるかもしれない。長い前髪の下で瞬く碧眼は、家族であるフィオールとテオールを常に探し、見つけた途端星のように輝く。十八歳になれば背丈はすらりと伸び、いつの間にか大人の仲間入りをしている。しかし、その人懐っこい笑顔を一度披露してしまえば。美青年という畏まった評価は改まるだろう。


 狭い洗面所で順に顔を洗う。フィオールが自室に戻り着替えてからダイニングに出ると、その弟であるテオールがキッチンでトーストを焼いていた。兄と同じブラウンの、けれどふわふわとした髪に、同色のきらりと光る猫目。ただし、左目には眼帯を着けている。

 約一年前の怪我以来、テオールは鏡を見るのを疎むようになった。なぜなら、己の顔が父親によく似ているからだ。フィオールたちはテオールのほうが優しい顔立ちをしていると言うが、茶色の右目とくすんだ水色の左目は、誰がどう見ても父親の目元とそっくりだった。眼帯で隠しておかなくては、どうしようもない呵責に身が焼かれる。


 テオールはフィオールを認めるとへにゃりと笑い、パンくずが付いている手を水で洗った。


「テオ、おはよう」

「おはよう。ルイは?」

「着替えてるんじゃないか?」

「――テオール。こぼした」


 二人が話していると、傍らのテーブルで朝食の用意を手伝っていたレナリアが助けを呼んだ。毒々しい紫色はすっかりと抜け落ち、ミルクティー色のセミロングヘアを無造作に垂らしている。服も病的に白いワンピースではなく、テオールが選んだサマーニットと膝丈のスカート。四つ並んだコップの足下にあるのは、オレンジジュースが作った小さな水溜まりだ。

 レナリアは手と足を使うのが不自由だから、時々こうして小さな失敗をしてしまう。それでも、主な後始末役であるテオールが怒ったことはない。フィオールも、怪我などをおろおろと心配するだけで怒らない。ルイルは多少の小言を言うが、何だかんだ見守る。

 レナリアがこの三者三様の対応に慣れたのは、つい最近のことだ。最初の頃は、苛立ちを向けてこないことに戸惑ってばかりだった。だが、今はそういうものなのだと落ち着いて考えられる。助けられる度、ありがとうと礼を言うこともできるようになってきた。


「おはよー」


 テオールがテーブルを拭き、フィオールとレナリアが残りの準備を進めていると、ようやくルイルが食卓に現れた。髪はうなじで一束に結わえ、首元のリボンタイもきっちりと結んでいる。化粧を施した顔は華やかだ。

 この一年のうちに、ルイルはランロッド兄弟に身の回りのことをやたらと委ねなくなった。甘えはするものの、愛情を確かめるために試すことはしない。そうせずともランロッド兄弟は側にいてくれると、今のルイルはきちんと理解できているからだ。おまけにレナリアが付くことになったが、それも構わない。むしろ、テオールのためにはそのほうがいいと冷静に判断している。レナリアの存在は、ルイルからテオールを奪うものではない。


 小さなテーブルで、隣合わせにフィオールとルイル、その向かいにテオールとレナリアという席順で座り、各々自由な朝食を食べ始める。フィオールはヨーグルトを掛けたシリアル、ルイルはそれにチョコレートソースを加えたもの、テオールとレナリアはブルーベリージャムを塗ったトースト。その日の予定や夕食のメニューを話し合いながら、和気藹々と朝食を取る。この場所に、他の家族の姿は無い。


 およそ一年前のあの日。ジャスティーの死体を発見して警察に通報したのは、その妻でありランロッド兄弟の母親でもあるミランだった。ジャスティーが言っていた通り夜に帰ってくると、散乱したリビングで家族が死んでいたというわけだ。

 ミランは当然ランロッド兄弟に連絡を取ろうとしたが、スマートフォンは繋がらないうえ、学校に電話を掛けると自宅に帰ったと言われた。完璧な計画のためだろう、ジャスティーは子供たちの帰省を妻に教えていなかった。ランロッド兄弟が病院にいると明らかになったのは、それから数時間経った夜中だ。


 全てを知ったミランは、子供たちに謝った。泣きながら頭を下げ、ごめんなさい、と繰り返した。

 しかし、全てを受け入れたわけではなかった。日が経ち眼帯を外したテオールを見るや否や、ジャスティーに似ていると言って目を逸らした。

 親子の歯車が決定的に噛み合わなくなったのは、この瞬間だろう。フィオールとルイルは最初から何も期待していなかったが、テオールは「普通」の親子関係を築いていた分、悲しみが大きかった。初めから親に愛されなかったレナリアは、黙ってテオールの側にいた。


 ミランは実家へ帰った。一方、フィオールたちは進級の権利を与えられ次第、一年間の休学を決めた。これから先を生きていくためには、決して短くない時間が必要だった。以来、四人で小さなアパートメントを借りて暮らしている。


 今日は、夏の終わり。復学の日だ。


「ルイ、上着!」

「レナリア、やっぱりリュックも持つよ」

「フィオだって、スマホ忘れてる!」

「テオールはもういっぱい持ってるでしょ」


 慌ただしく荷物を抱え、玄関を出る。明るい光に照らされ、四人は空を見上げた。雲一つ無い快晴に、秋の気配を乗せた涼しい風が吹いている。物語の始まりにふさわしい、まっさらな空だ。


 決して無傷ではない。心にも体にも、それぞれが重い傷を負った。そして、それぞれが罪を背負った。されど、それでも生きている。新たな人生を、一緒に生きていくと決めた。

 今日は門出の日だ。誰の思惑でもなく、四人の意志で一歩を踏み出した。もう脚本は必要ない。まっさらなフィルムに、己が映した景色を焼きつけていく。これから記録されるのは、まだ誰も知らない、彼らだけの物語。



Child's Nightmare 完

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Child's Nightmare 青伊藍 @Aoi_Ai

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