薄暮の手の甲

白原 糸

薄暮の手の甲

 昭和二年九月。友、皆川みながわ愁一しゅういちが死んだ。

 棺の中の友は安らかに目を閉じている。死んだというのが信じられないほどに安らかな死に顔だった。

 松永まつなが統吾とうごは棺の中で横たわる友の姿を眺めながら、生白い手の甲を見た。そこには自分が誤ってつけてしまった傷跡が残っていた。

 左の手の甲の真ん中に走る黒々とした真っ直ぐな線。浮き上がった傷跡に残る黒。あの頃よりほんの少し薄くなった線を指の腹でそうっと撫でる。

 冷たく固い感触が彼の死を告げていた。


 *

 愁一の傷跡は、統吾がつけた。仙台陸軍幼年学校時代の自習室での事故だった。

 万年筆を持ったまま、落とした辞書を受け止めようとしたのが悪かった。その時、隣にいた愁一が咄嗟に辞書を受け止めようと左手を出したのだ。受け止めようとした彼の左手の甲を統吾の万年筆が掠った。いや、掠ったなんてものじゃない。辞書が落ちて、愁一が手の甲を押さえる。指の間から血が流れて床にぽた、と落ちた。

 あの強烈な記憶を統吾は今も鮮明に思い出すことが出来る。血の落ちた床の色さえ鮮明に。

 あの後、愁一が統吾を庇ったことで自分はお咎めなしで済み、愁一は幸いにも表面だけの怪我で済んだ。それでも万年筆のインクは手の甲に残り、刺青のようになってしまった。

 統吾は愁一に申し訳ないと青ざめながら詫びた。だが、愁一は目を細めて手の甲に触れた。


 ――これで、戦争で僕が死んだ時、目印になって良いだろう?


 だから君はこの、手の甲の傷を忘れないでおくれ、と愁一は言った。統吾は分かった、と返した。そうして彼の、左の手の甲の傷に触れた。少し浮き上がった傷の、黒い線をつう、となぞる。愁一の小指が少しだけ身動ぎした。

 しかし、約束は叶わなかった。東京陸軍幼年学校の入校を前に愁一は退校した。訓練中の事故で右膝が動かなくなってしまったそうだ。

 別れの言葉も告げられないまま、愁一はいなくなった。

 統吾は東京陸軍幼年学校を卒業し、士官候補生を経て、陸軍士官学校に入校した。そうして日々を過ごし、愁一の手の甲の傷を忘れかけた頃、とある雑誌で彼の名前を見つけた。

 様々な小説が掲載されている中に、目を引く題名があったのだ。薄暮の手の甲。それは忘れかけていた記憶を呼び起こすには十分な文字であった。

 その薄暮の手の甲、とある題名の下に彼の名はあった。


 ――皆川愁一


 忘れようもない。自分が手の甲に傷をつけた彼の名であった。名前に誘われるようにして統吾は小説の書き出しを読み始めた。


 ――薄暮の中でもそれは見える。自分の、左の生白い手の甲に走る線……。まるで定規を使って線を引いたような真っ直ぐな傷跡だ。


 あの傷を、今も覚えている。日に焼けて浅黒くなった手の甲に刻まれた黒い線。確かに定規を使って真っ直ぐに引いたような線だった。

 小説は最後にこう、締めくくられていた。


 ――私は約束を守れなかった。なのに、いつか私が死んでも、彼が見つけてくれる気がしてならないのだ。


 もし、僕が死んだら手の甲の傷を目印に探しておくれよ、と言った愁一の言葉を思い出してしまい、統吾は身勝手な寂寥を覚えた。

 軍人になることが出来なかった愁一は今、小説家になっているのだ。

 その後、統吾は愁一に手紙を出した。愁一の書いた小説の感想と近況を書いた手紙の返信は意外にも早かった。そこから統吾と愁一の交流が始まった。

 愁一の家に訪れたのは昭和二年の七月のことであった。

 愁一の細君に案内されて入った書斎で統吾は愁一と久方ぶりに再会した。愁一はすっかり変わっていた。仙幼時代に日に焼けて黒かった顔は生白くなり、坊主頭は長髪に変わっていた。右足を伸ばして座る愁一に彼の右膝のことを思い出した統吾は怪我の具合を聞こうとして、呑気な声に遮られた。

「おお、君、大きくなったねえ」

 愁一は座ったまま、統吾を見上げて言った。

「……ああ」

 統吾は記憶の中と違う愁一の小ささに驚いていた。目線が下にある不思議さに戸惑っていると、愁一が呆れたような笑みを浮かべた。

「君、もしかして僕を小さいと思っていやしないかい?」

 胸の内を言い当てられて何も言えぬ統吾に対して、愁一は声をあげて笑った。

「困らせて悪かったよ。……座ったままで、しかもみっともない格好で悪いね。ここの所、怪我した右膝がまともに動かなくてね……お陰で散髪にも行けずにこの様だ」

 そう言って愁一は頭を叩いた。

 そして近くから座布団を引き寄せると統吾に座るように勧めた。

「いやあ、久しぶりだ。嬉しいなあ」

 座布団に座った統吾を見つめながら、愁一は本当に嬉しそうな表情を浮かべていた。

「仙幼以来だから……七年ぶりかい?」

 愁一に問われて統吾は頷いた。

「ああ。七年ぶりだ」

「そうかあ。君、本当に大きくなったねえ。覚えているかい? 仙幼で大きいやつがいただろう。あいつくらい、あるんじゃあないのかい?」

 仙幼の大きいやつ、という言葉に懐かしさが滲む。統吾は自然に笑顔になっていた。

柳原やなぎはらだろう? あいつ程はないよ」

「そうだ! 柳原だ。本当に大きい男だったなあ。で、悔しい程に良い男だったよな」

 愁一は端整な顔を悔しそうに、それでもどこか楽しそうに歪めて言った。統吾は柳原の顔を思い出して頷いた。

「違いない」

「本当にいい思い出だったなあ……。今も歌えるよ。あの歌。山紫に……」

 その後、続く歌につられるように統吾も声を重ねた。雄々しく凛々しい歌があの日を思い起こさせる。仙台での日々は濃密で、忘れられない思い出となって記憶に深く刻まれている。

 歌い終えた愁一は嬉しそうに目を細めて、統吾を見た。

「なあ。柳原は今、何やっているの?」

「近衛兵師団に所属したと聞いている」

「へえ。君は?」

「俺か? 俺は第一師団だよ」

「そうかあ」

 そう言って愁一は右膝を撫でた。

「……右膝、大丈夫なのか?」

 愁一は驚いた表情を浮かべたが、直ぐに笑顔になった。

「ああ。普段は動けるんだけどね、たまに駄目な時があるんだ。……いやあ、酷い怪我だったからね。命あっただけ、幸いだよ。でも、たまに思うんだ。あの時、死んでいたら、良かったのかな、と」

 明るい口調での告白に統吾は目を開いた。

「君、馬鹿なことを言うものじゃあないよ」

 戸惑う統吾に対して愁一は微笑んだ。

「約束。覚えているかい?」

 そう言って愁一は左の手の甲を見せた。

 生白い肌色の左の手の甲の真ん中を走る黒い線。自分がつけた傷跡だった。

「……覚えている」

「本当に?」

 そう言った愁一の左手を統吾は取った。

「忘れる筈がない……」

 愁一の手は滑らかなものだった。訓練で鍛えた面影はどこにもない。生白い男の手の甲の真ん中に走る線を統吾は親指でなぞった。愁一の小指が身動ぎしたのが手のひらに伝わった。

 統吾は俯く愁一を見たが、その表情は長い髪に遮られて見ることは出来なかった。

「……君に見つけられたかったな」

 愁一はぽつりと零した。零れた言葉を統吾は受け止め損ねた。指の隙間を通り抜ける水のように愁一の言葉は静寂の中に溶けていった。



 *

 愁一が死んだのはその二ヶ月後のことだった。

 大量の睡眠薬を飲んで自殺を図ったところを見つけたのは統吾だった。約束の時間に来たというのに愁一の細君が居らず、不審に思って部屋に上がったのだ。愁一の書斎へと続く縁側を歩いた時、彼の部屋から手が伸びていた。縁側に倒れ伏した手の甲の真ん中に走る黒い線が愁一の手であることを告げていた。


 *

 愁一の顔が見えなくなる程に暗くなった部屋の中で、畳の上に落ちる薄暮の色がこれから訪れる夜を告げた。

 最後に棺の中で眠る愁一の、もう見えなくなった顔を見つめながら、統吾はぽつりと呟いた。

「君は、そんなに俺に見つけて欲しかったのか……」

 薄暮の中でも分かる。生白い手の甲の真ん中に走る黒々とした線が無言の肯定を告げていた。

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