夏の花園

藍﨑藍

夏の花園

 陽が傾き始め、それでもなお蒸されるような喧騒のなかで、白地に赤牡丹があでやかに咲いていた。

 浴衣の袖から肘を出して大きく手を振る彼女は、周囲の視線を一心に集めていたが、そんなもので霞むような眩しさではない。

「行こっか」栗色の髪を低い位置で結わえた彼女は破顔した。

 そう。いつだって、彼女は爛漫と輝いている。


「花火大会、行こうよ」

 何の脈絡もなく、彼女に誘われたのは七月上旬のことだった。

 私はパソコンの画面に向かって話し続ける教授の説明を、ラジオのように聞き流してさっと教室全体を見回した。大教室で行われている講義を熱心に聞いている学生は少ない。

 机の下でスマートフォンを操作し、猫が万歳をしているスタンプを送る。彼女からの反応は早かった。

〈既読つくの早すぎ笑 講義中でしょ?〉

〈それは香澄かすみもでしょ(笑)〉

〈残念。空きコマなんだな〉

 そこから先の講義内容は記憶にない。この興奮が彼女と花火大会に赴くことへの期待なのか、彼女との秘密めいたやり取りへの背徳感なのか、それとも彼女への罪悪感からくるものなのか、私にはわからなかった。そして私は今もその答えを出せずにいる。


 待ち合わせていた駅から会場までは一本道だ。河川敷を歩くのは家族連れか、私たちと同年代の多くは男女のカップルだった。

 彼女は会場に着くまでの間、立て板に水のごとく話し続けた。浴衣暑すぎて無理とかテストがやばかったとか夏のインターン落ちまくったとか就職は地元がいいとか、そんな他愛もないことをこぼし続ける。それを私がひたすら聞くのもいつものことだ。

 明るく交友関係も広い彼女はいつも大勢の人間に囲まれている。そんな彼女が花火大会に誘ってくれたのが誇らしく、同時に惨めでもあった。私たち二人が一緒にいる姿はきっと不格好で不釣り合いに違いない。


 会場の人の多さはそれまでとは桁違いだった。どこを見ても、人、人、人。

 昨日何度も確認した地図を頭の中で思い返す。この会場は二つの異なる路線の中間地点にあり、私たちが待ち合わせした駅は利用者が少ない方の沿線沿いにある。この近辺ではかなり大きな花火大会なので、少し離れたところから来る人も多い。

「花火が始まるまで時間があるから、なんか食べとこっか」

 彼女の声は淀んだ人混みの中でも風鈴のようによく通る。私は首肯し大きく息を吐き出した。

 出店が並ぶ界隈は、雑多な匂いに満ちている。鼻腔をくすぐる甘い香り、ソースの焦げた香り。獣のような汗の匂いや、それを隠そうとする制汗剤や虫よけスプレーの匂い。雨上がりの土や生臭い草の匂いにそれらが混じり合う、夏の匂い。

 生ぬるい祭の空気に身を委ねながら彼女と並んでゆっくり歩く。

「よくそんなに食べられるね」

 隣を歩く彼女はベビーカステラ、フランクフルトにポテトだけでは飽き足らず、たこ焼きを頬張っている。帯でお腹を締め付けていることもあり、私は焼きそばを少し食べただけですでに満腹だった。

「それ、嫌味? 百合ゆりは細いもんね」

「違うよ」

「冗談だって」

 ラムネの瓶を傾けると、弾けるような爽やかさが口の中に広がった。涼やかなビー玉が手元で転がるも、喉元を過ぎれば口の中にべたりとした甘さが残る。でも、今はなぜかその甘さが嫌ではなかった。


 彼女と別れ、用を足して戻ろうとしたときには、あまりの人の多さに身動きが取れなくなっていた。人の波に揉まれ、支流へ流されるように川の土手に押し出される。

 予約していた有料観覧席は、土手を階段状にしたようなつくりだった。視界は開けていて打ちあがった花火がよく見えそうだ。

 小高い土手の頂上から辺りを見回し、私たちの席を探す。中腹の辺りで目が止まり、血の気が引いた。彼女が二人の男に囲まれている。

 自分が走っているのか、足がもつれているのかわからなかった。浴衣で動きにくいことに加え、下駄の鼻緒は擦れて痛み、息を吸ってもうまく呼吸できている気がしなかった。ただ、曖昧に笑う彼女の顔だけが頭に浮かんでいた。彼女の笑顔はそんなものじゃない。あいつらに奪われていいものじゃない。

「やめてください」

 金髪の男は彼女の手首を握ったまま振り返った。つられて顔を上げた彼女は目を見開いている。

「お、お友達も美人じゃん。一緒に遊ぼうよ」

 長い髪の毛を一つに括った男が私の肩に腕を回す。怖気が走ったものの、気づいたときには男が肩を抑えてうずくまっていた。脇の下にいれた自分の腕を支点にして体重をかけたからだ。完全な技ではなかったものの、相手を怯ませるには十分だった。呆気に取られていた金髪を睨みつける。

「手を放してください。私の、大切な人なんです」

 金髪は私から視線を外すと、舌打ちをした。「なんだ、そっち系かよ」

 金髪に促され、長髪は肩をさすりながら忌々しそうに唾を吐いていった。

 私たちは注目を集めていたらしい。すぐ隣のカップルが拍手をしていたことに気がつき、顔が熱くなった。恥ずかしい。そしてそれと同時に腸が煮えくり返るようだった。

 スピーカーから割れるようなカウントダウンが始まると、私たちを好奇の眼差しで見る人はいなくなった。左隣から袖を引っ張られる。腰を下ろしたクッションは薄く、座席の硬さが直に伝わってくる。彼女が私の耳に口を寄せ、熱い吐息が肌に触れる。ふわりと巻いた彼女の触覚が頬をくすぐった。「始まるよ」


 笛のようなかん高い音とともに、暗い空に金色の筋が伸びていく。地面が震えるような衝撃とともに光が弾け、内側から外側へと色が移り変わるように花が開いた。光の尾を残しながら散り始めたところで、次々と小さな花火が上がり始める。

「ごめん。誤解されちゃったね」

 彼女は私には目もくれず、次々と上がる花火の方を向いていた。花火に照らされた彼女はとてもきれいで、鼻の奥がつんと痛くなる。

「謝らないで」

 きっぱりと言い切ったつもりだったが、私の口から漏れたのは弱々しい涙声だった。私に顔を向けた彼女は少し笑った。

「なんで百合が泣くの」

「怖くて。……香澄が傷つくのが」

 少し腕が立つくらいで、男性に力で勝るとは欠片も思っていなかった。本気で向かって来られたら手も足も出ないだろうし、声をかけてきた男たちも本気で私たちを傷つけようとしたわけではないことも理解していた。でも、彼女の笑顔が奪われるのは何よりも怖かった。

「百合はやっぱり優しいね」

 そう言って彼女は寂しげに笑った。


 変わり種の花火が続き、やや食傷気味だったところで彼女が口を開いた。

「覚えてる? 私たちが初めて出会ったときのこと」

 忘れることができるはずもなかった。自分の殻にこもりがちだった私を外の世界へと連れ出してくれたのは彼女だ。

「あのときは自棄やけになってたからさ、行きずりの男についていきかけたんだよね。それを助けてくれて、泣きながら叱ってくれたのが百合だった」

 コンビニでのバイトを終え、アパートに向かっているときのことだった。なんとなくいつもとは違う道を通って帰っていると、彼女が酔っぱらった男に絡まれていた。

「違う。同じ日の般教で声をかけてくれたのが香澄だった。だから知ってただけ」

 人付き合いが得意ではない私は、夏になっても友人らしい友人がいなかった。一人で授業を受けてテストを受けるだけならまだいい。でも、周りの学生と討議することを求められる授業が苦痛でたまらなかった。一人でいるときよりも、自分が一人であることを突き付けられるからだ。だから自然と輪に入れてくれた彼女の優しさが身に染みて、他の学生と分け隔てなく笑い合う彼女が眩しかった。

 そう言うと、彼女は決まってこう言う。

「それは、たまたまいつもとは違う席に座ってて、たまたま目に入ったから」

 もしこれが運命なら、私と彼女は結ばれるに違いない。 


「浴衣、似合ってるね」

 彼女の言葉に、私は視線を落とす。紺地に朝顔の浴衣はバイト代をはたいて買ったものだ。何も言わない私を見て、彼女も察したのだろうと思う。

「これ着るの、つらくなかった?」

 私は涙を拭って首を振る。

「香澄と一緒に来られて嬉しいよ」

 これを買ったのは六月のことで、私はこの浴衣を着て一緒に歩くのが彼女だとは微塵も想像していなかった。当時付き合っていた男性は、同じ学部の物静かで穏やかな人だった。

 彼女と出会って少しずつ他人と接するようになった私は、この人だけでなく数人の男性と付き合った。でも、どの人とも長続きはせず、私から別れを告げることが多かった。

 この人となら。あるいはこの人となら。

 そう思って付き合ってみても、結果は同じだった。他人に体を触られるのは嫌だったし、気持ちが良くなるはずのことも、私はしたいと思えなかった。

 私は正しく人を愛せない。だから愛した人をこの手で傷つけてしまう。それならば、親密な関係になる前に離れてしまった方がいい。

 そうわかってはいても、私は彼女から離れることができなかった。あまりにも彼女の隣が心地よかったからだ。

「来年も、再来年も、その次の年も、ずっと、ずっと、私は百合と一緒に花火を見たい」

 震えるような地響きと歓声があがるなかでも、彼女の声ははっきりと聞き取れた。

 彼女から思いを告げられたのは初めてではなかった。カミングアウトされたときはそれほど驚かなかったのに、その対象が自分であることはひどく動揺したし恐ろしかった。

 誰よりも大切なあなたが、他の誰でもない、私自身の手で傷つけられるのが怖い。

「百合の世界は百合が思ってるよりもはるかに広い」

「違う。世界は広いって教えてくれたのは香澄だから」

「そんなことないよ。だからね、百合が遠くに行ったり誰かと結ばれたり、結婚したりすることもあると思う。でもね、夏が来るたびにこの花火と私のことを思い出してほしい。そうすれば、私たちはずっと一緒にいられる」


 花火大会は終盤に差し掛かっていた。息をつく間もなく、次々と打ち上げられる花火で夜空は昼のように明るかった。

 彼女のことは世界中の誰よりも大切だ。でも、私は正しく人を愛せない。

 これまでのどの花火よりも高く上がった光の筋は大輪の花を咲かせた。散りかけたところで、金色の小ぶりな花火が連続して生まれる。消えゆくそれを名残惜しげに見つめる香澄の横顔は、どの花よりも愛おしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の花園 藍﨑藍 @ravenclaw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ