ヒーローの覚悟



 その日、カミオは部室に来なかった。

 がらくただらけで埃っぽい、でも居心地がいい部室で、僕とネコネは適当な雑談をしたりトランプで遊んだりしていた。カミオはいつもいつも僕らの遊びに交じるわけではないから、別段違和感はないはずなのに、なんでだろう。ふとした時に欠けている1ピースの存在が目立った。

 2つに分けたトランプの束をシャシャシャと1枚1枚弾いて重ねて、ひっくり返してぱらぱらと手の中に落とす。唯一僕が格好つけられるリフルシャッフルだ。努力さえすれば誰でもできるようになるけどね、なんて自分で自分にツッコミ入れつつ、苦笑した。誤魔化そうとしても気づいてる。ネコネとの会話がまた止まっていることに。

「……こんなの、初めてだね。あいつがいないの」普段は彼のこと、あいつなんて呼ばないのに。

「ね。風邪でも引いたかなぁ」

「だったら連絡ぐらい入れるんじゃない」

「それはそう」

 その時立ち上がったのは偶然だ。強いて言うなら腰を軽く伸ばそうと思っただけ。ぐるりと物たちの間を歩いて、僕は電話機の横で立ち止まった。

「ネコネ」

 つまみ上げたのは1枚のメモだ。カミオの大人みたいな走り書きで、どこかの住所と「クラノ マキ」という名前だけが書かれていた。僕の意識していないのに緊迫感を含んだ声に、ネコネが真顔で先を促した。

「あいつ──カミオ、1人で依頼受けてるっぽいよ」

 それだけ言ってメモに意味もなく視線を落としたまま、僕は押し黙った。どうしたらいい? どうするべきか──わからない、どうしよう。ぐるぐると思考が回りだしかけた時、ネコネが「行って」と囁いた。

「ワタルくん、書いてある場所に行って。あたしはここにいる。行き違いになるのは困るから」

 鋭さをはらんだ声色に、僕はぱっと我に返って頷いた。「わかった」



 走った。ただ走った。

 別になんてことない依頼だから言わずに1人で行ったのかもしれない。そんなことはわかっているのだけれど、なんだか嫌な予感が、胸騒ぎがして──。

 住所はこの前子どもたちと遊んだ公園のすぐ近くにあるアパートだった。小さくて、それから壁が汚れた古そうなアパート。ベランダに立てかけられたどこかの部屋の物干し竿が錆びて赤茶になっていた。204号室、204号室。頭の中で繰り返しながら敷地内の階段を駆け上がった。顔が火照って、首を汗の筋が伝う。胸が詰まるみたいに苦しい。

 2階にたどり着くと、メモの部屋がどこであるのかはすぐにわかった。扉が開いていたからだ。無防備に、誘うみたいに、舌を出して笑っているみたいに。

「──カミオッ!!」

 全力で怒鳴りながらドアに飛び込んだ。部屋の中はありえないほどに暑くて、薄暗かった。もわっと籠もった空気に包まれた──と思ってから数秒。ようやく視界が暗順応する。

 隅っこで自分の身を抱きしめるみたいにして震えている幼い女の子。押し入れのふすまにだらりともたれかかって白目を剥いた男。畳の上に散らかった食品の類とひっくり返ったちゃぶ台、横倒しの焼酎瓶、酒の臭い、何かわからない臭気。──倒れた男に向かって包丁を握り、肩を揺らして荒い息をする、見慣れた彼。

 「なにを」とも「なにが」ともつかない雄叫びを上げて、僕は彼に突進して包丁の柄をぶんどった。誰もいない方にそれを放り投げて、薄っぺらい彼の肩をぐらぐらと揺する。

「お前っ、何やって」

「ワタル……ぼく、は」

 何か言いかけたカミオが突然力を失って、とさ、と崩れ落ちた。



 公園のベンチで、横たわったカミオの隣に僕は腰を下ろした。

「ほら、ただの水で悪いけど」

 呼びかけて頭の横にペットボトルの水を置くと、瞼がゆるゆると薄く持ち上がった。何も映っていない瞳が、木々の上の光をただ表面で反射していた。

 ネコネには「カミオ見つけたからこっちまで来て」とだけ連絡を入れてある。きっと日焼けも暑さも気にせずダッシュで駆けつけるだろう。「いたの!? 何事もない!?」電話口で彼女は短く叫んだあとで「よかったぁ……」と脱力した声を出した。

「……大丈夫なわけ?」

 問いかけがつっけんどんな言い方になってしまうのを自覚する。だって彼のやろうとしていたことは──いや、いい。あとで全部聞く。

 意識を失ったカミオをここまで運んで来てから、僕はもう一度あの部屋に戻った。あのふすまに倒れ込んでいた男は生きていた。昏倒していたようだ。多分カミオが、酒瓶で殴ったのだと思う。首の横が赤っぽくなって軽く内出血していたが、そこまで酷くはなかったからしばらくしたら目を覚ますだろう。散らかった部屋はそのままだが、瓶と包丁だけはきちんと指紋を拭き取って片付けた。カミオの殺意の痕跡は残さなかった。保身に走るのか、と責められたら言い返せない。これが僕の弱さだ。

 女の子は少し迷ったがここに連れてきた。蛇口の上の水飲み場から水を出して、噴水みたいにして遊んでいる。さっき名前を訊いたら、マキと名乗った。──クラノ、マキ。メモにあった依頼人だ。半袖から出た腕に青あざがあることに、僕は気づいていた。タイミングさえあれば、女の子が〈事件解決部〉に電話を掛けることは容易だっただろうと思う。だって街中にポスターが貼られているから。「ヒーローのカミオくんとその仲間たちがお助けします!」という文字とともに、電話番号入りで。

 なんとなく、見える。起こった出来事が。

 でも僕は何も言わない。

「ねえってば」

「それってさ……」カミオが僕のことを見上げた。さっきよりも目が澄んでいた。彼はそのままゆっくりと起き上がると、僕と並んで座った。まだ寝てなよ、と言う僕に首をふる。ややあってカミオが呟いた。「だめだって言っても、いいの」

「……え」

 その言葉が「大丈夫なわけ?」という問いかけへの答えであることに気付いて、目を瞠った。大丈夫じゃない、だめだと彼は答えた。

「話してもいい?」

 言葉が出てこなくて頷いた。彼は薄い唇を開いた。真っ青な空の向こうにもっと別のものを見ているような眼差しだった。

「別にそんなに長い話じゃないよ。独り言みたいなものだと思ってほしい」

 ぼくの親は、ネグレクトだったんだ。あくまで青くて透明な声。

「ネグレクトってわかる? 簡単に言えば育児放棄」

「……わかる」

「そう。うちは母子家庭だったんだけど……別に、殴られたり痛い目に合わされたことはない。だけど『あんたさえいなければ』なんて言葉は日常茶飯事。もっとはっきり、死ねばいいのにって言われたこともある。言葉ってすごいよね。ただ一瞬の声だけなのにずっとぼくの中に残っている」

 彼は決して「母は」という主語を使わなかった。ひたすらに自分主体で話し続けるのは、意識してのことなのか、そうではないのか。

「まともな食事をもらったことは、あんまりない。大体は床にダンボールを敷いて、その上に食材をぶちまけたようなのだったな。でも家に誰もいない日も多かったから、近所の人に分けてもらうことも多かった。そういう日のほうが幸せだったかな……。優しい人たちで、温かいご飯を持ってきてくれた。そういうこともあったから、案外悪いことばっかりじゃなかったんだよ。冬の寒い日に部屋に閉じ込められたときは流石に死ぬかと思ったけどね」

 何が幸せだ、と僕は心の中で呟いた。ごく普通に育てられて、幸せなことも「ラッキーだ」としか思わずに生きていた僕なんかとは、全然違う道を歩んできたくせに。だって、と横目でカミオを見遣った。涼し気な表情、汗1つかかない体、白い皮膚。背負ったときの軽さを思い出す。君はまだ、その冬の日の中にいる。そうなんだろ。

 ──子どもは家から逃げることができない。

 そう言ったカミオの声を僕は覚えている。

「誰かに生きてていいって言って欲しくて、だから今ヒーローをやっているのかもしれない。こんなんだから虐待って聞いて許せなくてさ……。でも人を殺そうとするなんて、ただの悪人のやることだよね」

 カミオは僕に向かって肩を竦めた。舞台の上の道化師みたいな仕草。

「ワタルが今日来てくれて助かった。取り返しのつかないことをしていたところだった」

 以上、話は終わりとばかりに彼は口をつぐんだ。僕はようやく魔法が溶けたみたいに声を出せるようになって、勢い込んで叫んだ。

「だからって勝手なことして──このメモがなかったら、僕だって気づかなかった! 止められなかったんだよ!?」

 ああ、なんでこんな攻めるみたいな声しか出ないのだろう。言いたいことはもっと違うはずなのに。でもぶつけられたカミオは信じられないぐらい穏やかに微笑む。「知ってたよ」

「……っ?」

「完遂するためだったら、メモ書きなんて部室に置いておくべきじゃないことぐらい知ってた。でもね、ぼくの弱さが、それを置かせたんだ」

 僕は唇を噛み締めた。

 カミオはヒーロー。僕は凡人。

 そう言い続けてきた。でも、僕らの間には思っているように明確な差なんてなかったのかもしれない。あったのはきっと、覚悟の違いだけだ。カミオはヒーローだ。それと同時に「上尾かみお かなう」という1人の人間だ。僕と同じ、人間だ。

 カミオはヒーローであり続ける強さを持っている。その強さばかりに気を取られて、隠されようともしていなかった当然の弱さを、見て見ぬふりをしていたのは誰だ。道化師の頬に描かれた涙の意味を、ずっと考えようとしてこなかった。

 高く噴き上がった水を見上げて、マキちゃんがきゃあっと甲高い歓声を上げた。水飛沫の小さい欠片が、星のように細かく輝いて落ちた。

 叶。その名前は、一体誰がどんな思いを込めてつけたのだろう。

 彼は誰かを幸せにし、誰かの夢を叶える。でも僕は、それと同時にカミオ自身の夢を叶えて、カミオ自身もまた幸せになってほしいと思う。彼の過去を聞いた僕のエゴかもしれないけれど、それでも願わせてほしい。

 祈っていたい。

 ぱたぱたと走る足音が聞こえてきた気がした。「ワタルくん、カミオくん!!」そんな声と一緒に。

「ネコネには、さっきのこと、黙っておく」

 低い声で言ったら、カミオはきょとんとしたように目を丸くした。「どうして?」その表情は、なぜだかいつもよりも幼く見えた。僕は無表情を敢えて決め込んだ。

 愛すべき凡人──当たり前に生きる1人の人間。僕は多分、自分の都合の良さも、それからちょっと優しさも、知っている。悲しいかな、僕はネコネがカミオのことが好きであることぐらいわかってるのです。

「なんとなく。男には隠し事をしてもいい時があるんだ。友情だよ」

「なにそれ。男女差別では?」

 カミオが声を立てて笑った。

 日が沈みだす前の、空気の色。ちょっと金色のような。ひぐらしが遠くで鳴いている。誰かを探しているみたいだ。──もうすぐ、夏が終わる。

「君が無事で良かったよ」

 そう、僕は小さく呟く。


 ヒーローはいつも、優しく困っている人を助ける。

 ヒーローはいつも、飄々と笑っている。

 ヒーローはなんでもできて、無敵だ。絶対に負けたりしない。だけど。


 ヒーローはそんなヒーローであるために、きっと誰よりも頑張っている。






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カミオヒーロー 蘇芳ぽかり @magatsume

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