少女の覚悟
夏休みが明けたら、私が学校に行けるようにしてほしい──。
そんな依頼を受けたのは、7月の末日だった。電話を取ったネコネによれば、依頼人はここからバス2本ほどで行けるある私立中学校の女子生徒だ。名前は
部室内で三人、顔を見合わせた。
「行けるようにって、どうしたらいいんだろー」「そもそもどうして行けないのかが問題だよね」「いじめとか? あとは成績が落ちて嫌になったとか?」「ただ、僕たちがどうにかできるような問題じゃないと依頼してこなくない?」「それもそうだねぇ。まさかいじめっ子の撃退とか……」「通学の護衛かもしれないよ、何者かに命を狙われているとか」
僕とネコネがああでもないこうでもないと喋っている横で、カミオは何やら無言で考えていたが、ややあって顔を上げると、
「ネコネ、その依頼の電話っていうのは女子中学生本人がしてきたのかな、それとも親御さんが?」
ネコネは大きなアーモンド型の目をさらに大きく見開いて、上のあたりを見るようにした。
「んーっと、どうだったかなぁ、とりあえず女性の声だったんだけど。多分七海ちゃん本人だったんじゃないかな、高くてちょっと子供っぽい声だったと思う」
僕は首を傾げた。どうしてカミオはこんなことを訊いたのだろう。「私が学校に行けるように」と言ったのだから、本人に決まっているじゃないか。
カミオはネコネの答えに「ふうん」と頷くと、立ち上がった。彼はいつも通りの暑さを感じていないかのような涼やかな顔を、少し傾けて見せた。
「じゃあ今からでも、その御本人に会いに行って見ようか」
まさか電話を受けてすぐに動くことになるとは思わなかった。大概の依頼は「3日後に」とか「◯月◯日に」とか前もって日時を指定してくるので、突然出かけることになるなどということは少ない。まあ確かに今回の依頼に日付指定は無いし、今日は特に何も予定はなかったので別に問題はないけど。
アポを取ってから、教えてもらった住所を頼りに自宅までバス1本と徒歩20分で行った。熱をひたすらに吸い込んだコンクリートの上で溶けてしまいそうなほどに、何ならちょっとばかり溶けてしまったかのように、到着する頃には僕とネコネはグダグダになっていた。
ピンポン、とチャイムを鳴らすとほぼ同時に出てきたのは七海さんの母親らしき女性だった。
「こんにちは。〈事件解決部〉です。この度はご依頼ありが……」
「よく来てくれましたね。暑いでしょうから中入ってちょうだい」
女性はガバっとドアを開くと、挨拶も聞かずに家の中を指し示した。「ええっと……?」と僕らが軽く困惑するのにも構わず、「ほら、早く」と言う。
「冷たい空気が外に逃げちゃうでしょ。七海はもうリビングにいますよ」
「はあ」
どこか鬼気迫るような様子に、従うことを決意する。もちろん、ドアの向こうから漏れ出てくる涼しい風に釣られたわけではないことはちゃんと主張しておくことにする。
じゃあ失礼して、と玄関に足を踏み入れた僕に、「失礼します」「おじゃましまーす」と2人分の声が続いた。
リビングに入った瞬間、並べられた椅子の1つに座った少女と目が合った。僕が軽く会釈をすると、彼女は悪いことをしたみたいに目をそらした。あまりに自然──というか静かな動作だったので、本当に一瞬目が合ったのかどうかよくわからなくなる。狐につままれたような感覚で突っ立っていたら「はあああ、涼しー」と歓声を上げながらネコネが入ってきた。態度が正直すぎない?とカミオがその後ろで肩を竦めた。
「ほら、あんたのために来てくれたのよ。七海、挨拶でしょ」
リビングの出入り口付近から、少女──七海さんに向かって、お母さんは少し咎めるように言った。七海さんは俯いてごにょごにょと何事か呟いた。多分、こんにちはだ。お母さんは怒ったような顔で小さくため息をついてから、気を取り直したように僕らの方に向き直って、
「愛想のない子でごめんなさいね。どうぞそこのソファーにでも座って。麦茶でいい?」
僕らががくがくと頷くと、キッチンの方へと引っ込んでいった。リビングとキッチンは繋がっているようだが、敷居の板のようなものがあるので、お母さんの姿は見えなくなる。僕は無意識のうちに息を吐き出していた。
3メートルぐらいの距離を置いて、ソファーに座った僕ら3人対、椅子に座った七海さん1人の図ができ上がっていた。気まずい沈黙。いや、こっちがわで気まずく感じているのは僕だけ? ネコネはやんわり笑っていて、カミオは何かを考え込んでいる。2人とも状況になんて我関せずだ。知らない人の前でおどおどするようなタイプでもないし。
「どう思う?」ややあってから、カミオがキッチンの方に聞こえないぐらいには声を落として尋ねてきた。
「どうって……」
「この依頼についてさ。電話をしてきたのは七海さん本人だったんだろ。でも、今の様子を見るにお母さんの方がよほど積極的に見える。それから矛盾点もあるんだ。気付いた? お母さんはぼくらを家に入れる時、外を見渡したんだ。ぼくらがここに来ていることを近所の人には知られたくないみたいだった」
「ちょっと」淀みなく思ったことを話すカミオを、僕は思わず制した。そんな少し抑えた程度の声で話しては、キッチンのお母さんには聞こえなくても七海さん本人には聞こえてしまうじゃないか。
しかしカミオは片眉を上げると、いいのだ、と言うように上目遣いに小さく僅かに首を横に振って見せた。わざとなのだ。彼はわざと七海さんに言葉を聞かせている──。
「依頼は〈私が学校に行けるようにしてほしい〉だった。でも、七海さんが学校に行けるようにしてほしい、のは一体誰なんだろうね? つまりぼくが言っているのは、本当の依頼者は誰なんだってことなんだけど」
びくん、と椅子の上の少女の華奢な肩が揺れた気がした。カミオは一切視線すら動かさなかったが、僕とネコネは軽く目を
「七海、ちゃんと学校のこと説明した? ……してないのね。じゃあいいよ、わかってることだけ私から話します」
カミオとネコネがほぼ同時に「お願いします」と言ったのに倣って僕も再び頭を下げた。七海さんのお母さんは僕らから顔を背けると、閉じたカーテンがエアコンの風で揺れているあたりに視線を遣って、話し始めた。
「七海が学校に行けなくなったのは、6月からです」
私立中学校に受験をして入学し、それ以来ずっと楽しそうに通っていたのだという。友達もいたし、それに成績だって悪くはなかった。部活も書道部に所属し、何度か賞を取ったりもしていた。人並みに充実した中学校生活。それが絶たれる前触れなんて何もなかった。絶対にあったはずがなかった。七海さんが「お腹が痛くて学校に行けない」と言ったとき、お母さんは珍しいと思いつつもそういうこともあるだろうと休ませたという。中学生になってから七海さんが学校を休んだのは、何なら小学校から数えても自分から休みたいと言ったのは始めてだったにも関わらず。
七海さんは次の日も腹痛で学校に行けなかった。
その次の日も、更に次の日も。
一週間経った時、お母さんは気付いた。この子は、七海は体調を崩しているわけではなくて、学校に行きたくないのだと。
「夏休みって一つの区切りだと思うの。1か月学校に行けてなくても、あんまり不自然にならずにクラスにも溶け込めるんじゃないかって」
お母さんは僕らに目を合わせて、言った。「だから──」
「だからお願いします。こんなに黙ってますけど、七海が依頼したいと言い出したことなんです。なので夏休み明けから、この子が学校に行けるようにしてください」
「それが必ず可能であるかどうか、保証はしかねます」
さらりと声が割り込んだ。カミオだ。別段お母さんに張り合おうとしているわけでもないようなのに、彼の声はまっすぐに響いた。七海さんのお母さんはやり込められたかのようにぐっと顎を引いた。「どうして」
「情報があまりにも足りていないからです」
「情報……?」
「はい。お母さんは七海さんがどうして学校に行けないのかわかっていない、ということでしたね」
カミオはあくまでも微笑を浮かべて問いかける。
「それは……ええ、そうです。わかってません。原因がわからないものは解決できないと言うの?」
「ものによりますね。ただ、1番一緒にいる肉親であるはずのお母さんがわかっていないものを、軽く話を聞くだけでどうしてぼくら他人がわかるというのです?」
いや、わかるはずがない、と僕は心の中で思わず呟いた。最近国語の授業で出てきた反語法だ、となんの関係もないことが頭をよぎった。お母さんが「それは」と口ごもる。
「会話をさせてください」
そう、カミオは言った。お母さんは眉をひそめた。
「会話なら、もちろん、どうぞ? 今でもいいわよ」
「いいえ。ぼくたちと七海さんだけで、です。安直に言えば、保護者がいるところでなんて素を晒せるわけないと言っているんですよ」
近くの公園にでも行こう、と彼がさっさと立ち上がったので、僕とネコネは急いで麦茶のグラスを傾けた。半常温に戻された麦茶はどうにも生ぬるかった。
そういうわけで、公園。自販機の設置された休憩用の東屋のようなものの下で、2対2で向かい合った。カミオとネコネ、ぼくと七海さん、という形だ。さっきのような3対1では気詰まりだろうから、というわけだが、僕的には美男美女を固めて配置してどうするのだと厳重に抗議したい。
「……で」
役目は果たした、とばかりにカミオが何も言わないので、仕方なく僕が口火を切った。軽く隣に座る少女の方に顔をむけるようにする。
「七海さんはどうして学校に行けないの?」
安直すぎるだろうか。でも、カミオが「ワタルの飾らない言葉はなかなかいいよ」と前に言ってくれたことがあった。だから少しだけ信じてみる。
木々の枝が風に揺れる音を聴いた。原っぱの方から遠く人の声がした。少し暗くて涼しい日陰が心地よかった。数十秒の沈黙を、僕たちはゆっくりと待った。ネコネが優しく少女のことを見つめていた。
「私……」七海さんは決心したように、俯いたままだったが初めて声を発した。弱々しいが不思議と通る声だ。
「私、わからないんです。行きたいな、明日には行けるかなって夜に思うのに、次の日の朝になったら、無理なんです」
「無理っていうのは」
「お腹が痛いの。学校に行きたいのに。嘘じゃないの。本当なんです。でもお母さんは信じてくれなくて、それは学校に行けない口実なんでしょ、わかってるから嘘はつかなくていいのって言って、私、わたし……」
七海さんは声を震わせた。泣き出すのか、女の子に泣かれたら一体どうすれば、と僕はあたふたしかけたが、しかしそんなことはなかった。七海さんはTシャツの裾をぎゅっと握りしめてつま先を見ながら、ただ目を見開いていた。
「信じるよ」ネコネが静かに立ち上がって、その肩をゆるゆると引き寄せ、抱きしめた。
「七海ちゃんのこと、信じるから。だから、あたしたちのことも少しずつでいいから、信じてね」
握りしめたTシャツに寄った皺が少しだけ緩む。七海さんがぐっと目を閉じて小さく頷くのが見えた。
✵
それから僕たちは毎日のように会って、ただ一緒に時を過ごした。
僕やネコネが日々のことや好きなことについてひたすらに話すのを、七海さんは初めはただ訊いていたが、2週間が経つ頃には少しずつ言葉を発してくれるようになった。
「へえ、ボーカロイドの曲が好きなんだ?」
「はい。自分の部屋でよく聴くんです」
「あたしもたまに聴くかなぁ、Maticoさんの曲とかいいよね。なんか、なんていうの? 清々しい感じっていうか、透明感っていうか」
「あ、私もMaticoさん好きです」
「けっこう有名なの? 僕も今度聴いてみよっかな」
8月中旬、まだまだ夏は盛りだ。茹だるような暑さを少しでも軽くしようとするかのように、ガラス張りの向こうのプールではたくさんの人が泳いでいる。今日はバスに乗って市民プールまで来た。別に泳ぎに来たわけではなく、建物にあるクーラーの効いた休憩所でアイスでも食べようよとネコネが言い出したのだ。「なんか夏っぽくない?」と。ちなみに彼女は25メートルも泳げない。水遊びは好きだけど、苦しいのは嫌だとかなんとか。
「ボーカロイドね……」カミオはこういうところに来たのが初めてなのか物珍しげに辺りを見渡していたが、不意に口を挟んだ。「ぼくはあまりよく知らないんだけど、好きになったきっかけってあるの?」
七海さんは少し首を傾げた。
「きっかけ、ですか。何かあったかな……強いて言うなら友達に勧められて聴いてみたらハマっちゃったって感じ、ですかね」
「友達」
「はい。同じクラスの」
ネコネが驚く気配があった。見ると、「気づいてる?」と言いたげな視線を寄越している。気づいてるよ、と僕も内心で返した。カミオは今さりげない風に学校の交友関係について聞き出したのだ。七海さんはなんの陰りもなく「同じクラスの友達」と言った。つまりこれは、学校に行けないことが、少なくともいじめや友達関係のせいではないことの証明。
七海さんと会って話すようになってから2週間。お互いに慣れてきたところで、そろそろ解決の段階に入るぞというわけなのか。
僕が軽くドキッとしたのに構うこともなく、カミオは少し目を細めて微笑んだ。
「そっか。いいね。勉強しながら音楽とか聴くタイプ?」
「んー、それはあんまりないかな。歌詞がある曲も、クラシックみたいなのでも、私は音楽があると集中できないんです」
カミオが砕けた感じで笑った。「それもそうだよねー。わかるな、ぼくも音楽聴くのに夢中になっちゃう」いつもと言葉遣いすらも変えていた。
それに釣られたように七海さんも「ですよね」と表情を崩した。
「私、いつも勉強はリビングでしているんですけど、だから音楽は2階の自分の部屋でしか聴かないです。それに……」
口調から急に快活さが消える。笑ったままの顔だから、簡単に聞き流してしまうぐらいの違いだ。でもわかる。さっきまでとは違ってマネキンに貼り付けたみたいな表情。僕だって伊達に〈事件解決部〉として沢山の人に会ってはいないのだ、と思う。
僕は「それに?」と聞いた。
「それに、私のお母さんは私がボカロが好きだっていうのに、いい顔をしないんです。なんで近頃の子ってこういうのが好きなんだろう、全然ついていけないって呆れたみたいに言って。だから、それ以来私もお母さんの前でボカロの話はしません。うちではボカロ曲って、異質で良くないものみたい」
ふふっと七海さんは笑おうとした。でもできなかったみたいだ。彼女は視線を逸らすとバツが悪そうに俯いた。
「でもさぁ」とネコネがいつもの間延びした声ですかさず場を繋いだ。
「そんなふうに隠さなきゃいけないことなのかなぁ、それって。だって別に、七海ちゃんはお母さんに迷惑をかけてるわけじゃないじゃん。まさか大音量で流してたわけじゃないんでしょ?」
「それは……はい」
「だったら別に、好きなものを好きっていうのは罪じゃないと思う。理解されなくても縮こまる必要は無いと思う。七海ちゃんはボーカロイド、好きなんだよねぇ?」
「……そんなのっ」
七海さんが突然カッと目を見開いてからネコネを睨みつけた。
「綺麗事なんて、聞きたく、ないです。私にとって、母の信用がどれだけ大切なのかわかりもしないで。母のために、私は一生懸命勉強していい成績を取って、友達と遊びたくても我慢して早く帰って」
自分の「好き」なんかより、母の信用のほうが大事だ、と彼女は小さく叫んだ。
「だって、家で居場所がなくなる。ううん、違う。期待を裏切ってるなって思うたびに、窒息して死にそうになるの」
「七海さん」
カミオが名前を呼んだ。その瞬間、ぱちんと音がしたように七海さんは我に返った。数秒。「私……。すみません」それだけ言い置いて走って行ってしまう。喧騒が耳に帰ってきた気がした。
「あたしのせいだね」とネコネが呟いた。僕が違うと否定する前に、カミオが「いや、おかげだよ」とはっきりとした声で言った。
✵
3日後、僕らはまた皆川家に行った。
チャイムを押すとお母さんが出てきて、「今日はうちで話すのね。私に聴かれたくないんじゃなかったの」と軽く皮肉を言いながら上げてくれた。
昨日と一昨日で、七海さんについては散々3人で話した。彼女が学校に行けないのは、重度のプレッシャーのせいだ。「母の望む自分でなければいけない」とひたすらに思い続けた彼女はストレスを溜め込んだ。
「でもそれなら学校に行けなくはならないんじゃない?」と反論した僕に、カミオはつと目を
いつかのように2つ並んだ椅子に七海さんとお母さん、斜めにテーブルを挟んでソファーに僕たちが座った。喧嘩別れのようになってしまって気まずいのか、七海さんはにこりともせず居心地悪そうにこちらを見ていた。でも頑なに目を合わせてくれなかった最初とは明確に違うのだ、と思えた。意味があることができているというのなら。
ゆっくりと間を置いて、「では」とカミオが言った。
「今日でこの活動は、おしまいです。七海さんのことに関しては、もう解決したと言えます」
「「──!?」」
七海さんがカン、と殴られたように軽くのけぞった。お母さんの反応はもっと顕著だった。
「ほんとうに──本当に、この子はもう学校に行けるんですか。ちゃんと治ったのね!?」
「治った」って。まるで学校にいけないことが病気みたいに。
なんとなく色んなことを照らし合わせて見た時に思ったことがある。多分、七海さんのお母さんはすごく自分に厳しい人だ。娘はこうやって育てなきゃいけない、こういう家庭を作るべきだ、という青写真があるのだろう。「娘が不登校になった」のはきっと大問題で、近所の人にもできる限り知られたくないに違いない。僕らを家に入れる前に辺りを見回したのもそのためだ。
ネコネが「お母さん」と呼びかける。
「七海ちゃんは本当にいい子ですね。たくさんお喋りして、すごくそう思いました。すごく一生懸命なんですよ」
お母さんは訝しげに首を傾けた。「? そのくらい、わかってますよ?」
「この子は真面目で、誰よりも努力できる子です。母親ながら、いい子だとは思っていますよ」
ネコネが微笑む。ちょっとだけ泣きそうな表情に見えた。
「それは誰のためですか」
一生懸命、誰のために?
お母さんの顔が歪む。言葉が吐き出されるのを、待った。昼前の優しい光がカーテンを透過して差し込んでいた。
「……わかってます」
僕は静かに冷えた麦茶を飲み込んだ。七海さんが驚いたように自分の母親を見つめた。
お母さんは痛みを
「わかってます。この子が私のために頑張ってるってこと。でも今更どうしていいか分からなくて、自分のせいだって思ったら認めたくない気もして」
ごめんね、と小さく吐息とともに呟いた。ごめんね、許してね。ずっと苦しめていたのに、それに気づかないふりをしていた。七海、ごめん。
椅子の上で体を丸めた少女に視線を遣った。母の告白を聞いた、君はもうわかっているはずだ。大事に思っているからこそ、思いすぎているからこそすれ違ってしまった似たもの親子。ただ少し歯車が合わなかっただけなんだ。
「七海さん」と僕は呼んだ。さあここからは僕の番。
七海さんは恐る恐るこちらを見た。その戸惑った顔に、僕は言う。君は大丈夫なんだと。
「友達がいて、学校に行きたくて、好きなものがたくさんあって、お母さんのことも好きで。七海さんはもう、大丈夫だよ。元に戻らなくていい。先に進めるよ」
凡人の言葉でいい、ありきたりでいいから、今はただ伝わってほしい。
七海さんが僅かに笑った気がした。まっすぐにこちらを向いた瞳がきらきらと光って、1粒の涙がぽろっと溢れた。ずっと追い詰められて渇いた目をしていた少女の、涙だ。
「ありがとう」
七海さんは泣きながら、笑った。なんだか、もう、大丈夫な気がします。色んな感情でぐしゃぐしゃなのに、不思議と綺麗な顔だった。
これからも友達だよぉ、とネコネが言って、場が和んだ。
「またなにかあったらいつでも。なんならどうぞ部室まで遊びに来てください」
カミオが戯けたようにお辞儀をしてみせた。舞台の上で見事にショーを収めた手品師みたいだ、と思う。本当に彼は魔術師のようだ。
カミオにはこの未来が見えていたのだ。1日目、初めて七海さんと喋ったときから、彼は「本当の依頼人は誰だ」と繰り返し問いかけていた。だからこそ、七海さんは精一杯に考えたのだ。自分は本当はどうしたいのか、と。
きっとこの依頼はお母さんが主体だったのだろう。でも、きっと最初にそうしたいと言ったのが七海さんだった、というのも本当なのだ。彼女には「このままじゃいけない」という思いが「変わりたい」という願いがあったのだ。
だから。
それを自分で見つけられたからこそ──前を向けた。
太陽がもうすぐ、真上に上る。きっとそれは、眩しくて暑いほどに力強く光を降らせてくれるだろう。きっと見ていてくれるのだろう。向かい合って歯車を合わせた、この家を。
✵
のんびりとネコネと歩いて帰った。
「なんか幸せだなぁ、あたし」とカバンを持った手をぶらぶらと振ってネコネは言った。
「今日の、七海さんのこと?」
「全部だよーん」
まだ暑いけれど夕方だ。カナカナカナ……とひぐらしがどこかで鳴いている。この声を聞くと、盛ってまだまだ続くと思っていた夏に終わりが見えてきたことを感じる。
あれから学校の部室に帰って、いつものようにオセロなんかをして遊んだ。いつものように楽しかった。5時になって、僕らは帰ることにしたが、カミオはまだ残って1人瞑想にでもふけっているのだろう。それもまたいつも通りだ。彼は僕やネコネよりも先に帰ることはない。
ぱた、と突然にネコネが歩くのをやめた。足元に視線を落としている。僕は数歩先まで行きかけてから方向転換をして「どうした?」と彼女の見ている地面を見た。別に何もなかった。
「ワタルくん」
と。不意に呼ばれた。驚いて顔を見た僕に、ネコネはくいと口角を上げてみせた。猫のように大きな目を僅かに細めていた。いつもぼやーっとした表情の彼女にしては、珍しく殊勝な顔。ちょっと痛みをこらえて「平気」と言うみたいな。
「このまま」
「……」
「終わらないで……続くといいのにね」
なにが、とは言わなかった。瞬きをして立ち尽くす僕に、彼女は全部幻だったかのように目を見開いて、
「なーんてねーっ」と尖った糸切り歯を見せる。「ちょっとどきっとした?」
僕は何も言い返せなかった。
✢✢✢
ルルルルルルル……。ルルルルルルル……。
「はい、もしもし。事件解決部です」
[ヒーローのかみおくんですか]
「……そうですが……?」
[わたしのこと、たすけてくれますか]
「お名前を訊いてもいいかな?」
[わたし、クラノ、マキです。たすけてください。おとうさんがね、いつもわたしのことたたくの。いたいの]
「お母さんは?」
[ずっとまえに、いなくなっちゃった。びょうき]
「お父さんは今」
[おさけ、かいにいくっていってた。……あ、かえってきた]
ガチャン。
突然に絶ち切られた通話。握りしめた拳。
歯を食いしばっていたことに気付いて、はっと顔の前で手のひらを開いた。爪が食い込んでいた細い痕が3本、三日月のようについていた。
静かに呟く。「絶対、助けるから」
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