第一章 不良少女と夏休み
1
「人が人の能力を試みるなんて、無礼だと思わない?」
それが、
大学に入学して、最初の夏休みが眼前に迫った八月の上旬。だだっ広い講義室で期末試験の回答用紙が配られるのをぼうっと待っていた私に、後ろの席に座る女はまるでテニスボールで壁打ちでもするかのように言葉を放ってきた。
初め、私は自分に向けられた言葉だと認識できなかった。当然であろう。名前も知らない女が訳の分からないことを喚き始めて、それが自分に向けられたものだと自身も持って言える人がいたなら、それは自意識過剰といものだ。私はどちらかと言えば謙虚な方なので、一度聞こえなかったことにした。しかし周囲を見回しても近くに座る学生は誰もいない。広さの割りに生徒数の少ない講義室は妙に声がよく通り、女の声は壁や机に反射して再び私のところへ戻ってきた。ような感覚がした。いよいよ自分に向けられた言葉だと腹をくくり、私は精いっぱいのエンターテイメントを凝らして答えてやった。それでもできるだけ素っ気なく。一見すれば独り言とも取れるような声量で。
「あたまが悪いなら素直に勉強すれば」
今にして思えばそれが間違いだったのだ。どうしてあの時の私は、名前も知らない女のわけの分からない戯言に反応してしまったのだろうか。無視を決め込むことだってできたはずだ。元来私はそういうことに首を突っ込む質ではなかったはずなのだ。それがどうしてあの時だけ……。
いや、後になってああだこうだ言うのは過去の自分にフェアじゃない。あるいは、明日から始まる夏休みに柄にもなく浮かれていたのかもしれない。大学生の夏休みは至極の怠惰と名高い。祭りと飲みは財布のひもを緩くする。休みと夏は心のひもを緩くするのだ。
とにもかくにもこれが私と硝子の出会いだった。
あの時の硝子の狐につままれたような顔は今でもよく覚えている。ビー玉のように大きな目をまん丸に見開いて、また、綺麗な八重歯がのぞく口もぽかんと開いて、ツチノコでも見るような目で私を見ていた。ツチノコはお前の方だと言ってやりたい気持ちを抑えて、私は配られた回答用紙に集中した。
試験が終わり、まずますの手ごたえを感じながら、私は足早に講義室を出た。先ほどの女が影のように引っ付いてくるが、無視して歩く。半地下の講義室を出ていくつか階段を上りエントランスを抜け、学生部や進路相談室を通り過ぎればガラス張りの自動ドアが見えてくる。私は逃げ込むように自動ドアを通った。
外に出ると猛烈な熱気とセミの鳴き声、そして正面の国道を走る自動車の排気音が全身を包んだ。空調のきいた室内との寒暖差で全身の汗腺が急ピッチで開いていくのが分かる。照りつける日光を遮断しようと日傘を開いてみるが、まるで意味がない。都心の夏は直射日光よりもアスファルトが溜め込んだ熱の照り返りの方が深刻なのだ。
私が次の一歩をためらっていると、先ほどの女が涼しげな表情で自動ドアから出てきた。
「いやー、今日は暑いね。こんな日はかき氷でも食べたくならない?」
女は黒のキャミワンピース(肩が紐状になっているワンピース)をなびかせ、前髪をかき上げるようにして空をにらみ、目を細めた。髪を触る左手はもちろん、右手も手ぶらな彼女はいったいどうやって試験を受けていたのだろうか。
「——コンビニでアイス買うからいらない」
私は大学の敷地を出てすぐ脇にあるローソンを指さして言った。反射的に出た言葉だったが、彼女のせいで本当にアイスが食べたくなった。甘ったるいバニラの奴じゃなくて、ソーダの氷菓を買おう。
女は少し考えるような仕草(わざとらしくあごに手を当てて)をしてから言った。
「クーラーのきいた甘味処があるんだけど……」
——少し揺らいだ。ロングスカートの中で腿から汗が膝裏をつたい
心の中でかぶりを振る。
「いや、遠慮させて……」
「私の奢りなんだけど」
「連れて行って」
そうしてひっかけられた私が連れられたのは、鹿威しの響く茶屋などではなく、大学内にあるサークル棟の一室、アニメーション研究会の部室だった。サークル棟は学内のはずれに建つ、ひときわ古い鉄筋コンクリート造四階建ての建物で、他の建物が近未来的な意匠を凝らしたデザイン建築であるのに対して、このサークル棟は収容数だけを追求したような無骨なレイアウトをしている。ここには所狭しと様々なサークルの部室が群雄割拠ひしめき合っていた。その様子はどこか「闘争」や「自主性」、「学生運動」といった単語を想起させ、忘れ去られた時代の活力の残穢が滲み出てくるようなおどろおどろしさを感じさせた。
アニメーション研究会はそんなサークル棟の三階の端に居を構えていた。二十四畳の部屋の中央に十字型に衝立を置き部屋を四分割している。つまり一つの部屋に四つのサークルが入っていることになるのだから、かなり手狭だ。
隣にはユニバーサルデザインサークル「歩み」とプリントされたコピー紙が網入りガラスの引き戸に貼られていた。何をするサークルなのだろうか。ユニバーサルデザインのコンテストに出たりするのだろうか。いや、そもそもそんなコンテストあるのか? あってもおかしくはない……か。
「就活の為の点数稼ぎだよ。ボランティアとかそういうのと同じ」
ユニバーサルデザインコンテストに想像を逞しくする私に、女は素っ気なく言った。そして、今度はにやりと笑いながら「ようこそ甘味処へ」と言い、アニメーション研究会の部室のドアを開いた。
アニメーション研究会の部室は一言で言ってゴミ山だった。雑誌やら漫画やら文具やら、まではまだ分かるが、大仏の頭や信楽焼の狸の置物まで転がっている。幸い生ものが腐っていたりはしないようで、臭いはしなかったが、私の座る場所はなかった。突っ立っている私を見て、女は「ごめん、いまかたすから」と言い、腰の高さくらいあるエッフェル塔の模型を蹴り飛ばし、雉の剥製のようなものを放り投げ、一抱えもある深緑色の
女が言う通り、部室は涼しかった。と言うより少し寒いくらいだった。急に冷やされた汗が、首筋をつたい薄手のブラウスの襟元に染みていく。見上げると大きな配管が天井付近にあり、そこからごうごうと冷風が流れ込んできている。一つの部屋を四分割しているのなら空調はどうなっていいるのかと不思議に思ったが、どうやら一つのエアコンの吹き出し口に配管をつなぎ、各部室へ冷風を届けているらしかった。
しばらくすると、女はかき氷機を見つけ出してきてテーブルの上に置いた。そして部室の隅に置かれた小さな冷蔵庫から平たい円柱状になった氷を取り出して、ごりごりとやり始めた。「やっぱり夏はこれよね」と上機嫌な鼻歌が静かな部室に響く。
「はい、これ私の奢りね」
と置かれたかき氷には、青いシロップがかけられていた。
もう身体は涼しくなっていたが、それでもかき氷はおいしかった。
しばらくは二人とも黙々とかき氷を食べた。
「あなた、
女が切り出したのは、二人がほぼ同時にかき氷を食べ終えた頃合いだった。
女はどこからか持ってきた大きな達磨の上に腰を下ろしている。ジェンダーレスのこのご時世、男を尻に敷く女性は多いだろうが、達磨を尻に敷く女は全国探してもこの女だけだろう。そして女は達磨の上の足を組みなおして、私を試すような笑みを浮かべている。
——先ほどの講義室でのことを言っているのだろう。
あれは太宰治の小説『ダス・ゲマイネ』の一節。登場人物の馬場という男が主人公に対して言った台詞だ。自分が何年も留年していることについて、まだ一度も試験に出たことが無いとからだと嘯き、その後すぐに、ただ頭が悪いだけだと訂正するくだりがある。女が言っていた「人が人の能力を試みるなんて、無礼だと思わない?」も馬場の台詞をアレンジしたものだ。だから私は同じく馬場の台詞で返したのだ。
……だからと言って馬場のファンとはならないだろう。
「それを言うなら太宰の。じゃなくて?」
因みに私は太宰治のファンでもない。『走れメロス』とか『斜陽』だとか有名どころには目を通しているが、別に全作品を読んでいる訳でも無い。それに登場人物の台詞なんて基本的には覚えていない。ただ、『ダス・ゲマイネ』は偶然にもよく記憶していた。というのも中学生のころに夏休みの課題図書として『走れメロス』を読む必要があり、中古で文庫本を買ったことがあったのだが、その文庫本の一番初めに収録されていたのが『ダス・ゲマイネ』だったのだ。短編集という存在を知らなかった当時の私は表紙に『走れメロス』と書いてあるのを見て、一ページ目からメロスが始まるものと勘違いして、佐野次郎がトチ狂って電車にはねられるところまで読み進めた。いったいメロスはいつから走り始めるのだろうかと思っていると、一つの物語が終わってしまったようで、いよいよこれはおかしいぞと勘づき目次まで戻ると、どうやらメロスが走り始めるのは後百ページ近く先のことだと知った。貴重な夏休みの数時間を無駄なことに浪費してしまったと落胆したが、いまにして思えば、私は『走れメロス』より『ダス・ゲマイネ』の方が断然好みであったので、こんな事さえ無ければ一生読むことがなかったと考えれば怪我の功名とも言えるだろう。まあそんなそこそこの思い出があった事もあり、彼女の言葉が馬場の台詞だとすぐにピンときたと言うことだ。
女は顎に手を当てて、少し考えるような仕草をしてから、うねる様に言った。
「私は太宰よりも馬場数馬の方が魅力的なんだよね。あーいや、まあ太宰の著作なわけだけど……。どこか、作者の太宰自身も制御できない怪物性を秘めているような」
「怪物?」
「そう、怪物。——まあいいや、そんなことは。それよりさ。明日、何か予定ある?」
驚くべき切り替えの早さである。大きく柏手を鳴らしたことで、彼女の中では『ダス・ゲマイネ』も馬場数馬も終わった話になったらしい。
別に予定は無かったが、夏休み初日のスケジュールが埋まってないことが少し恥ずかしくて、つい「いや、明日はちょっと……」と答えると、
「じゃあ、明後日は?」と返された。
やはり、この時の私はどこか心の紐が緩んでいたのだろう。でなければ、こんな初めて会った相手と出掛ける約束するなんておかしいではないか。祭りと飲みはなんとやら。休みと夏はなんとやら。後者は私の造語だが……。
そうして私の無為で怠惰な大学生初めての夏休みに、一点の歪みが生まれた。そしてその歪みが、夏の小川の淀みに止まる黒い薄羽陽炎が次々と水面に波紋を広げるように、私の空白だったスケジュールを埋めていくことになるとは、この時の私には与り知らぬことだった。
2
その女の名前は森下硝子というらしい。
かき氷を食べたあの日の帰り際。女は私の名前を聞くついでに名乗った。
「森林の森に上下の下で森下。硝子はガラスって書いてしょうこ」
「へー、ユウ、か。いい名前だね。二文字の名前ってなんか憧れる」
「ねえ、名前で呼んでいい? 私も名前でいいからさ」
まだ夏休みも始まったばかりのある日、私たちは上野に出掛けた。
硝子からの誘いはあれから何度目かの事だった。
JR上野駅の不忍口から西郷隆盛像の横を通りアメ横方面に少し歩くと不忍池の池畔が見えてくる。硝子が不忍池で面白いものが見えると言い来てみたが、目の前の光景は確かに壮観だった。人。人。人。とにもかくにも人だらけ。不忍池は名の知れた観光スポットではあるが、結局のところただの池だ。隣接する動物園や科博、東博などが並ぶ噴水広場の辺りならまだ分かるが、何故こんな池に人が集まっているのだろうか。いくら夏休みと言えども平日の真昼間の光景としては異常だ。
人波に圧倒されて立ち尽くしていると、いつの間にやら私の隣に立っていた硝子が「お、やってるねー」と言いながら、スマホのカメラで写真を撮り始める。
「あの人たちは何をしているの?」
目の前で蠢く、大蛇のような人の流れを指して聞くと、
「あれは亡者の行進だよ」
とカメラを構えたまま硝子が言った。
誰もがスマホを片手に、ぞろぞろと移動しながら時々立ち止まってはスマホに指を当てて何かを操作している。小学生くらいの子供から、初老の男性まで老若男女問わずと言った感じで、中には家族連れの一行も混じっているが、彼らの視線はただ一点スマホにのみ注がれているようで、池で綺麗に咲いた蓮の花には誰も見向きもしていなかった。そのうち誰かが「あっちで出たらしいぞ」と言うのを皮切りに、蠢く大蛇はその胴体をくねらせながら池の反対側の方へ行ってしまい、急に辺りは静かになった。
「あれを見ているとなんだが言葉にできない優越感を感じない?」
スマホのカメラから目を離した硝子が言った。
「優越感? どんな?」
「いや、だから言葉にできないって言ったじゃん」
硝子は困ったように苦笑して頭を掻いた。それから、
「でも、しいて言えば、生きていることの優越感……、かな」
と続けた。それから、
「知っているか分からないけど、あれはスマートフォンの位置情報機能と拡張現実を組み合わせたゲームアプリで、実際に街を歩くことでキャラクターを捕まえたり、他のプレイヤーと対戦できるゲームなんだけど。これが面白くてね、あるネットの記事で様々なコンテンツが五千万人のユーザーを獲得するまでに掛かった時間を紹介していてね。例えば、電話なら五十年、テレビなら二十二年とか、まあこの辺りは時代もあるし、当時は高価なもだったからある程度時間が掛かるのも仕方がないかな。身近なところで言えば、インターネットは七年、ユーチューブは四年、ツイッターは二年掛かっている。今では誰もが利用しているこの辺のサービスだって年単位の時間が掛かっているんだけど。ところがね、このゲームアプリはたった十九日で五千万人のユーザーを獲得しているらしい。これはこのゲームの面白さだけが要因じゃない。何が言いたいかっていうと、それだけ情報が伝達されるスピードが速くなったってこと。つまりはさ、現代社会に生きている私たちは情報によってその行動を操作されているわけよ。自分の意志で行動しているようで、その実動かされている。生きているようで、生かされている……」
「だから亡者の行進?」
「いい例えじゃない? あれを見ていると戒めになるよ。生かされることほど惨めなものは無いってね……」
「でも、わざわざこれを見に来た私たちも、ある意味動かされていることになるんじゃないの?」
私は意地悪く言ってみたが、硝子は案外けろっとした顔で頷き笑った。
「まあ、それもそうだ。まだまだ精進が足りませんなー」
特に返す言葉が見つからなかったから私はそれきり黙って池を眺めた。硝子も同じように池に浮かぶ蓮の花を眺めている。綺麗な花だったが、硝子がカメラを構えることは無かった。
しばらくして、ボート乗り場の辺りに集まっていた人波が弁財天の方に移動を始めたようで、再び賑やかさが戻ってきた。
「またこっちに来そうだし、そろそろ行かない?」
と硝子が言い、私たちは不忍池を後にした。
その後、私たちは近くの売店で昼食をすまし、午後は国立西洋美術館、国立科学博物館、東京国立博物館と渡り歩いた。上野にある国立博物館はある程度名の知れた大学の学生であれば、キャンパスメンバーズという制度で無料で入館できる。無料なのだから入らないと損だと硝子が言うので、午後を丸々いっぱい使って見て回ったが、とてもすべての展示物を観覧する余裕は無かった。夕暮れの上野駅で硝子と別れたときには、足が棒になりそうで翌日の筋肉痛を覚悟した。
硝子は公園口の改札からそのまま帰ったが、私は近くのヨドバシカメラでノートパソコンの下見がしたかったので、不忍口の方まで歩いた。大学に進学する時にパソコンを購入するのが普通なのだろうが、私は強がって、どうせそこまで使わないから要らない、と購入を勧める両親を突っぱねていた。というのも私はキーボードで文字を打つことがとても苦手で、パソコンに対してかなりのコンプレックスを持っていたのだ。しかし大学の講義でレポートを提出する際に、自前のパソコンが無いとわざわざPC室のパソコンを使いに行かなければならずとても面倒だった。それに学期末の時期はPC室も込み合っており、危うくレポート提出に遅れそうだったという経験から、流石に必要だと考え直し、恥を忍んで両親にそのことを言うと、少しあきれ顔で、それでも何の躊躇いもなくパソコン代だと言って、それなりの大金を渡された。今日は下見のつもりなので、そこそこコンパクトで薄ピンク色でシンプルなデザインのノートパソコンに目をつけ、写真だけ撮って店を出た。
帰り際に、ふと不忍池の入り口が目に入り、少し足を動かし覗いてみると、まだ多くの人々が蠢いていた。夕暮れの池畔では一人一人の顔は認識できず、スマホから発光するいくつもの青白い光だけが上下に揺れながら、ゆっくりと進んでいく。その光景は確かに亡者の行進のようだった。
この日の事は何だが無性に忘れがたく、森下硝子という人物を語る上では欠かせない出来事だったと思う。
3
硝子は毎日が二日酔いのようだった。
夏休みの間、硝子からの誘いは頻繁にあった。私は実家の近くのファミレスで週に三日ほどアルバイトをしていたので、毎回というわけにはいかなかったが、それでも週に一回以上は硝子の顔を見ていたような気がする。大抵の場合は硝子から「明日空いてる?」とラインで連絡があり、「空いてる」と返信をすると、「何処そこに何時集合」といったように予定が決まる。なぜか硝子は前日にならないと連絡をしてこなかった。いつだったか、「予定が立て辛い」と苦情をいったところ、「私の誘いはくだらないことが多いから、ユウの予定を埋めるのが申し訳なくてね」などと心にも無さそうなことを言ってはぐらかされた。だいたい私の予定なんて、アルバイトの他には硝子と会う以外無いのだから気にしなくていいのに。とは恥ずかしくて言えなかったが、それなら前日に連絡が来たところで特段問題は無いのだ。
硝子は、本の栞に風俗嬢の名刺を使うような女だった。これは比喩ではなく実際に使っているのだ。この間なんてスピン(本と一体化している紐状の栞)が付いている文庫本にも風俗嬢の名刺を挟んでいた。硝子は曰く、昔の男の財布から拝借したものだと言うが、こちらはどうにも眉唾だ。硝子は女の私から見ても美人だと言えるが、男受けするような性格ではない。ただ傍から見れば確かに顔はいいので、彼女の性格を知らない男が言い寄ってくることはあるだろうが、それを硝子が受け入れるところはどうにも想像できない。或いは遊びの一貫で恋人ごっこに興じることもあるのだろうか。まあ仮に恋人がいたとしても、彼女が本気で恋をすることはないのだろう。と思う。
それ以外にも、毎週のように顔を合わせていると、いろいろ硝子について知る機会は多かった。
硝子は女にしては背が高い。百六十センチある私が目線一個分ほど見上げるくらいだ。ただひょんなことから体重の話になったとき、どうやら私と硝子は同じ体重であることが判明した。弁明するが、私だって世間の標準体重よりは軽い方なのだ。これは硝子が痩せ過ぎということだ。
硝子の服装はいつもキャミワンピースで同じようなデザインの服を着まわしているようだった。季節が変われば流石に違う服も着るのだろうが、暑いうちに別のファッションをお目に掛ることはなさそうだ。また、硝子は基本的に手ぶらで現れる。硝子の着るワンピースには両側に小さなポケットが付いているようで、そこにスマホと現金と文庫本を入れて持ち歩いていた。そういえば、初めて私たちが出会ったあの日も硝子は手ぶらで試験を受けに来ていたが、後々聞いたところによると、あの日は部室がクーラーで冷えるまでの間どこか涼める避暑地を探していたようで、テストのため解放されていたあの講義室を偶然見つけて入ってみたところ、いきなりテストが始まり、だからといっていまさら出ていくのも億劫になり、受講者の振りをしてテストを受けていたらしい。受けていたと言ってもペンも何も持っていないのだから、ただ白紙の回答用紙とにらめっこをしていただけなのだろう。
京浜東北線の
硝子はとにかく本が好きだった。いつも何かしらの文庫本を持ち歩いていた。大抵は太宰や芥川など近代国文学が多かったが、まれに哲学書なんかも読んでいた。彼女はよく会話の中にそれら文学作品からの引用を織り交ぜてくる。私も一般的な、それこそ近代文学と言われたらすぐに名前が挙がるような作品は一通り読んでいたが、硝子の引用はそのあたりにとどまらず、大学図書館の電動書庫に大儀そうに眠る文学全集の片隅に載る解説文からも、気に入った言葉があれば引用してくる。そして私が分からないでいると解説してくれる訳でもなく、そのまま別の話題に移ってしまうから、だいたいの場合は後で調べて一人で納得するしかないのだ。最近は「ファルス」という言葉がお気に入りのようで、何かにつけて「ファルス的」だとか「まさにファルス」だとか意味の分からない事を言っている。例のごとく調べてみると、どうやら坂口安吾の引用で「道化」という意味合いらしい。まったく昔の人は変な言葉ばかり作り出すから困ったものだ。
また、意外なことに硝子はインターネットも好きだった。SNSやネット掲示板は特に好んで利用しているようで、彼女の会話の話題の半分はそれらインターネットから仕入れたものだった。一度硝子のSNSのアカウントを教えてもらい投稿を見たことがあるが、普段の彼女とはまるで別人だった。どうやらSNSでの彼女は輝かしいキャンパスライフを送るイケイケの女子大生ということになっているらしい。ツイッターのフォロワーは私の十倍以上だった。普段の硝子は、そんな誰もが羨むような輝かしいキャンパスライフなんて聞けば、鼻で笑って、足裏で転がし、犬に食わせるくらいはやりかねないだけに、そのギャップには驚嘆を通り越して呆れるほどだった。
知れば知るほど硝子は変な女だった。いつもフラフラしていて、意味の分からない言葉ばかりを口にして、世間を馬鹿にしているようでどこか自虐的で、排他的なようで人懐っこくて。ネット上では輝く女子大生を演じる一方、私の前ではデカダンな風俗を気取っている。彼女の行動の全てが一時の気の迷いから生じているように思える。そう気の迷いだ。酔った勢いだ。硝子は、まるで毎日が二日酔いのようだった。
4
九月上旬のある日。バイト帰りの夜道をコンビニで買ったアイスクリームを片手に歩いていると、いつものように硝子から誘いの連絡があった。白露の夜半は熱帯夜だった。日中よりもいくらか涼しくなったが、大気が溜め込んだ熱は空へ放出されず、首筋からはじっとりした汗が滲んでいた。硝子の誘いに「空いている」と返信すると、すぐに「十七時に
お祭りか……。
思い返せばここ数年は行っていなかった。子供のころは近所の八幡宮で行われる季節のお祭りによく遊びに行っていたが、高校に進学したあたりからめっきり行かなくなってしまった。特別忌避する理由があったわけでは無いけれど、大人になるというのは嫌なもので、提灯の明かりや太鼓の音だけで何か特別な気持ちになれたあの頃はもう戻ってこないということなのだろう。
そういえば、むかし一度だけ浴衣を着てお祭りに行ったことがあった。確かあれは私が中学三年のころだ。受験勉強の息抜きに八幡様の盆踊り行ってくると母に言うと、母は自分のお下がりだけどと言い白地に薄桃色の紫陽花の柄が入った浴衣を出してきてくれた。母に着付けを手伝ってもらい浴衣を着ると、なんだか大人の女性になったみたいで、自信と気恥ずかしさが袖を揺らしたようだった。その日、私は人生で初めて男子から告白を受けることになるのだが、それはまあ後日談みたいなものだ。
過去の記憶の感傷に浸っていると、ふと硝子の浴衣姿が脳裏に浮かんだ。
藍地に菖蒲柄、いや、硝子なら百合柄も似合う。下駄を鳴らして歩けばきっと様になるだろう。まさか着てくるとは思わないが、明日の楽しみの一つにしておこう。
少し上気した胸を抱えて再び家路を歩きはじめると、どこか遠くの方から低い太鼓の音が聞こえたのは気のせいだろうか。ぬるい風に乗って屋台のソースの匂いが微かに香ったのは気のせいだろうか。
丸ノ内線の茗荷谷駅から筑波大学の東京キャンパス前を通り小石川植物園が見えたらその斜向かいが簸川神社だ。埼玉県に総本社を置く氷川神社の末社で、大正時代に社号を氷川から簸川に改号している。創建はなんと紀元前にまで遡るらしいが、現在の本殿は空襲で焼失したものを戦後に再建したものとのこと。因みに江戸時代にはこの辺り一帯の総鎮守を担っていたようで江戸七氷川の一社として数えられるほどだったらしい。簸川神社の例大祭は毎年九月の上旬に二日間に渡って執り行われているようで、日中には氏子町内から多くの山車やお神輿が出張って町内を練り歩き、夜になると神社に戻ってくるという番組になっている。近所ということもあってか、どうやらうちの大学からもいくつかの団体が参加しているようで、大学のホームページにも取り上げられていた。
地下鉄に揺られながら手持無沙汰にいろいろ調べていると、車内アナウンスで茗荷谷へ到着したことが告げられる。茗荷谷には初めて降り立ったが、目に入ったのはよくあるチェーン店の飲み屋にファストフード店、コンビニ、ドラックストア、本屋、銀行、そして不動産屋が数店舗と、なんだか駅の周辺に必要最低限の物をぎゅっと集めたような印象だ。休日にも関わらず人が少なく閑散としているのは教育機関の多い街だからだろうか。
神社への道のりは簡単で迷いようがない。先ほど調べたように駅からは一本道なのだ。それに私と同じように神社を目指していると思しき親子も目に入った。母親を急かすように浴衣を着た二人の女の子が小走りに駆けていく。どちらも小学生の低学年くらいに見えるが、年子の姉妹かあるいは双子だろうか。なんだか微笑ましい。あれに付いていけば問題はないだろう。
しばらく歩くと、にぎやかな人だかりと屋台の明かりが見えてきた。簸川神社の本殿は長い石段を上った先にあるようだが、屋台は石段前の小径にも展開されていた。太鼓の音や掛け声は聞こえてこないので、お神輿や山車はまだ戻ってきていないのだろう。それでも屋台の周辺からは主に子供たちの元気な声が飛び交い、薄暮の空のグラデーションと屋台の明かりの暖色とが接続される様子は、一枚の絵を見ているようで心が和んだ。
少しゆっくり歩き過ぎたせいか、硝子との約束の時間は五分ほど過ぎてしまっていた。私は人込みの中をかき分けるように本殿へ続く石段に向かった。石段の麓にある屋台で、先ほどの親子を見かけたので暖簾を見ると、どうやらりんご飴の屋台のようだ。姉妹が大きく真っ赤なりんご飴を握るのを見て、なんだか久しぶりに食べたくなったが、大学生が一人でりんご飴を買うのが少し恥ずかしくて躊躇っていると、姉妹の後に見覚えのある黒のワンピースが屋台のお兄さんからりんご飴を二本受け取っていた。
「あ、硝子」
「あれ、ユウ?」
私たちは石段を上った先の境内で、少し人込みから外れたベンチに腰を下ろし、二人並んでりんご飴をなめた。残念ながら硝子はいつも通りのキャミワンピ―スだったが、足元は見慣れたスニーカーではなく涼しげなサンダルをひっかけていた。
「ごめん、少し遅れたみたい」
「別にいいよ。昨日の夜急に連絡したわけだし」
……それはいつものことでは?
「ああそうだ、りんご飴いくらだった?」
「五百円」
案外高い。私が財布から小銭を取りだそうとするのを硝子が制した。
「いいって、ここは持たせてよ。今日はユウに一仕事してもらう予定だからそのお賃金ね」
「はあ? まさか屋台で焼きそばを焼けっていうわけじゃないでしょうね?」
私は境内の中央辺りに展開している一つの屋台を指さして言った。その屋台では若い男女が汗を流しながらせっせと焼きそばを焼いていた。彼らはおそろいのTシャツに袖を通し、背中にはポップ体の大きな文字でうちの大学の名前がプリントされていた。ボランティア系のサークルか、あるいは大学主催の慈善団体か何かだろう。
硝子はキョトンととした顔でその屋台を見てから少し笑った。
「ユウならあんなダサいTシャツで焼きそば焼くより浴衣でも着せて看板娘の方が適任かな。いや、そうじゃなくて、私の個人的な頼み事なんだけど」
「何をさせる気?」
「まあまあ、そのうち分かるから」
そう言って硝子は楽しそうに足をぶらぶらバタつかせて、地面の小石を軽く蹴り上げた。私も真似をするように小石を蹴り上げると、勢い余って履いていた下駄のようなサンダルが足から抜けて、何度か地面を転がり表向きで止まった。
「晴れだ」
「晴れだ」
二人の声が重なる。
「可愛いサンダルだね。お祭り用?」
転がった私のサンダルは、下駄のように鼻緒が付いており、全体的に茶色を基調とした少し小洒落たデザインをしている。浴衣を引っぱり出すのは億劫だし仰々しいからせめて足元だけでもと、今日の午前中に買ってきたのだ。
「そういうわけじゃないんだけど……」
硝子のサンダルは私の物と比べると、デザインより機能性を意識したようなシンプルで飾り気のないもので、なんだか自分だけはしゃいでいるようで少し気恥ずかしくなり、紛わすように飴の部分がすっかり無くなったりんご飴を齧ると、なめているときは甘いだけだったはずが、りんごの果実は僅かに酸味を感じた。
それからしばらくすると、境内にお神輿が戻ってきた。「えいや」「そいや」と大きな掛け声と共に石段を上ってくる様子はなかなかに壮観で、私も硝子も立ち上がって手拍子をした。お神輿が戻ると境内の雰囲気は一段と騒々しくなり、酒を飲んだ男衆の大きな笑い声が屋台の煙と溶けあい夜空へ上っていく。
「少しおなか減った」
硝子がつぶやくとなんだか私もそんな気がしてきた。
「焼きそば買ってこようか?」
私がそう言って立ち上がると、ちょうど一人の若い男が私たちの座るベンチへ近寄ってきた。見ると焼きそば屋台のダサいTシャツを着て、両手にはプラスチックの容器に入った焼きそばを抱えている。まさか屋台が訪問販売を始めたのだろうか? 「あの娘たちさては空腹と見た。どれいっちょう売りつけてやろう」と。しかし、これは悪手だ。本当に欲しかったものでも、おすすめされたり、押し売りされると買う気も失せるというもの。焼きそばはやめて隣の焼きとうもろこしにしようか。いや、とうもろこしは口元が汚れてしまう。かくなる上は石段を下ってたこ焼きという手も……。
「こんばんは。森下さん」
どうやら訪問販売では無く硝子の知り合いのようだ。
「ごきげんよう。タダノウエダくん」
タダノウエダ?
タダノウエダがちらっと私を見る。
「えーと、上田です。森下さんとはゼミが同じで」
ああ、上田か。
「あずきです」
とりあえず私も名乗る。
「あずき……さん、と呼んでもいいですか?」
「ええ構いません。あずきは苗字なので」
よく名前と間違われることが多い。
私と上田のやり取りを見ていた硝子がくすくす笑い始めた。
「君ら、お見合いの初顔合わせでもしてるの? 私らみんな同学年なんだからため口でいいよ」
上田は苦笑いして、持っていた焼きそばを硝子に渡した。
「これ差し入れだから、二人で食べてよ」
「おお、ありがとう、ただの上田くん。気が利くね。ちょうどおなか減ってきたところだったんだよ。ね、ユウ」
そう言って硝子は、上田から受け取った焼きそばを一つ私に渡した。
「ありがとう上田くん」
「どうせ売れ残るだろうからいいんだ。みんな勢いで作りすぎるんだよ。後で俺たちが処理する羽目になるだろうし、むしろもらってくれた方が助かる」
上田はチラッと屋台の方を見やってから肩をすくめた。
確かに、鉄板の前で焼きそばを焼く学生たちの勢いと売れ行きは、残念ながら比例していないようだった。現在進行形で不良在庫を量産する仲間たちに上田は眼鏡の奥の目を細める。
上田は痩せぎすで背はかなり高かった。私が頭一つ分くらい見上げるほどだから百八十センチ近くはあるのではないだろうか。少し長めの前髪を軽く左右に流したような髪型は、その温厚そうな、いわゆる塩顔とよく調和している感じがして好印象だ。顔の主張が少ない分か少し大きめの銀縁眼鏡もあまり五月蠅くない。ただ顔のバランスがいいだけに、着ているダサTが非常に残念だ。それに袖から伸びる細長く色白の両腕もどうにもアンマッチな感じする。せめてもう少し肌が焼けていて筋肉があればまだましだったようにも思う。因みにこれは後に聞いた話だけれど、硝子が上田を「ただの上田くん」と呼ぶのは上田敏との混同を防ぐためだと言う。実に硝子らしい意味の分からない理由だ。
私が上田の外観を分析しているうちに、硝子はもしゃもしゃと焼きそばを食べ始めていた。私も座って食べようかと思ったが、上田がまだ屋台に戻らずベンチの脇に突っ立っているので、少し気まずくなり会話を続けてみた。
「上田くんは硝子と同じゼミなんだよね。なんのゼミなの?」
そういえば知らないなと思い聞くと、上田は少しきょとんとしてから、
「あれ言ってないの?」
と焼きそばを頬張る硝子に確認するように目を向ける。硝子は首だけ横に傾げ、「はて、言ってなかったっけ?」とでも言いたげな表情を浮かべた。
上田は軽く肩をすくめて言った。
「文学部、国文学科の藤井ゼミ。専攻は近代詩だね」
「キンダイシ? ポエムの詩?」
「文学部でヒストリーの史はやらないでしょ」
口が空いたのか、硝子が横から入ってくる。
「本当は近代文学か古典がやりたかったんだけどね。どっちも定員オーバーで泣く泣く定員割れしてたゼミ入ったわけ。でもやっぱり詩なんてどうしようもないよ……」
「ずいぶんな言い草だね。ここにまじめに詩をやりたくてゼミに入った人がいるんだけど」
と上田が肩をすくめる。どうやら上田には肩をすくめる癖があるらしい。
上田を全く無視して硝子が続ける。
「あれは実直すぎるよ。まったくファルス的じゃあない。なんだってフィクションであんな馬鹿正直に己の感情を表現しようとするのか理解できないね。そんなのは手紙にでも書いて本人に送ればいい。世間に訴えたいならその辺の駅前で演説でもすればいい」
と言いたいことだけ言って、硝子はまた焼きそばを頬張り始めた。
上田はまた肩をすくめた。
「まあ、そんな訳で俺たちは近代詩のゼミだけど、あずきさんは? 確か同じ学科だよね」
そんな訳とはどんな訳なのか……。
「私は現代文学のゼミ。というか、なんで同じ学科だって知ってるの?」
私と上田は初見のはずだ。硝子にも私の学部や学科については喋ったことは無かった気がする。
「ああ、何度か学科の必修科目の教室で見かけたことあったから。現代文学史とか、言語学とか取ってたでしょ?」
「取ってる」
確かに現代文学史や言語学は学科の必修科目だ。卒業までに履修する必要があるが、だいたいの場合は一、二年時に単位を取ることが多い。と入学時のオリエンテーションで説明があった。だから私も一年の前期に履修した。当然同じ学科なら同じ講義が被ることも多いだろう。しかしそれらの必修科目は決まって受講者が多くなるため大講義室が割り当てられている。つまり同じ講義を受けているからと言って、それで顔を覚えている方がレアケースなのだ。私なんて誰一人覚えていない。
私の疑念を察したのか、上田が補足するように言った。
「あずきさんいつも一人で一番前の席に座ってたでしょ? それでよく覚えていたんだ」
そういう事か……。確かに前の方は席は比較的空席が多いため静かに講義を受けるにはいいが、逆によく目立つ。
「上田くんはいつも友達と一緒に受けてるんだ」
「まあね、だいたい誰かと一緒かな」
「友達、多いんだ」
「うーん、どうだろう」
「私なんてだいたい一人だよ」
「森下さんは一緒じゃないの?」
「知り合ったの最近だから」
そういえば硝子と知り合うまで、大学に友人と呼べる存在はいなかったのかもしれない。まだ入学して半年も経っていないのだから全然普通だと思っていたが、上田の話を聞いているとなんだか自分が遅れているのではないかと不安になる。そもそも硝子にしたって友人と言えるのだろうか。かれこれ出会ってひと月ほどになるが、私たちの関係を的確に表す言葉を未だに見つけられない。
知らん顔をして焼きそばを食べている硝子を見ると、私の視線に気が付いたのか、少し食べる手を止めてニコッと笑った。
「俺もそこまで友達が多いってわけじゃないんだけどね」
上田の言葉は私に向けられていたけれど、どこか独り言のようでもあった。
「そうなんだ」
「入学後すぐにできたグループで一緒に履修登録をしたんだけど、今はもう講義でしか会わないからね。だから友達っていうより、知り合いって感じかな」
「そうなんだ……」
その後、ゼミではどんな事をやっているだの、最近はどんな本を読んでいるだの、文系学生のよくある社交辞令的で紋切型の会話をいくつか交わして、上田の入っているサークルの話に移った。大方の予想通りボランティア系のサークルとのことで、地域のイベント事にこうして参加することが主な活動だと言う。また公認サークルだけにそれなりの補助金が大学から支給されるようで、あのダサいTシャツはその産物だそうだ。デザインはその年の新入生全員で考えるのが慣例となっているようで、その共同作業を通して一体感と仲間意識を植え付ける役割を果たしている。のだろうと私は推察する。あのTシャツを恥ずかしげもなく着られるのはその一体感が成せるわざ、ということだろうか。しかし上田はそんな仲間たちとどこか距離を置くように振舞っているように見えた。「このデザインだって俺は反対だったんだ」と自嘲めいて弁明する様子からは、言外に「一緒にしないでくれ」というアピールが伝わってくる。であればそんなサークル辞めてしまえばいいものをと思うが、そのあたりは何か事情があるのだろう。いつだったか硝子が言っていたが、ボランティア系のサークルは就活に役立つらしい。
そんなこんなで上田のサークルの話も終わると、いよいよ会話のネタが尽きてきた。上田は一向に帰る気配を見せず、硝子は上田が来てからめっきり口数が減っている、というかずっと焼きそばを食べている。
気まずい沈黙が三人の間を練り歩く。
私は沈黙に耐えられないという質ではないが、それはある程度気の置けない相手に対してに限る。私はどちらかと言えば人見知りなのだ。これが駅前で道を聞いてきた老人や、喫茶店の店員のように、その場だけの関係で終わる相手であればいくらでも適当な言葉が出てくるものだが、関係は薄いが今後もその関係が継続する相手というのが一番質が悪い。関係が深くないということは、ここでの言葉の一つ一つが相手に与える印象の大部分を占めることになる。そして関係が継続するということはその印象をリセットすることができないのだ。
だから私は薄氷の上を踏む思いで次の言葉を探した。
だがそんな私の胸中も知らずに、硝子がその薄氷を思い切り踏み抜くようなことを言った。
「ところでただの上田くん。君は一体何の用でここにいるのかな?」
硝子は食べ終えた焼きそばの容器をかたわらのベンチに置き、つい先刻と同じように小石を軽く蹴飛ばした。小石は何度か地面を転がり上田の黒い革靴に触れる。その声音はどこか気の抜けたようなトーンでありながらも、妙に気迫は孕んでいた。
上田は少し驚いたように目を見開いてから、一度眼鏡の位置を片手で整えた。そして躊躇いがちに言った。
「えっと……、用件は前もって伝えてあるはずなんだけど」
「なら早く言いたまえよ。そのために呼んだんでしょ」
空気がひりつくとはこういう事を言うのだろうか。なんだか試すような物言いの硝子と、少したじろぐ上田。二人に挟まれる形の私は自然と一歩後ろに下がっていた。
戸惑う私を見て上田が言った。
「——ごめん、あずきさん。ちょっと席を外してもらえないかな」
「え? あ、はい」
ご退場願われては仕方がない。
そもそも上田は初めから硝子に何か用があったと見える。それを私が変に気を使って会話を続けてしまってせいで妙に気まずい空気になってしまったのだ。何も言わなかった硝子も、上田の言い草にも少し腹は立つが、ここで私があれこれ
私がその場を去ろうとすると、今度は硝子が引きとめた。
「いやいや、ユウもここにいてよ。部外者ってわけでもないんだから」
「はあ?」
「——どういうことかな、森下さん」
上田は怪訝そうな顔で硝子を睨む。
しかし私も上田と同じ気持ちだ。どういうことなの、硝子?
硝子は楽しそうに笑って言った。
「今の君はただの上田くんじゃなくて、正太郎ということだよ。え? 分からない? ならいいや。早く用件を言いたまえ」
「いや……、だけど……」
「呼んだのは君だろ? いつまでも黙っているなら私とユウは帰らせてもらうけど?」
話を促す硝子と、躊躇う上田の攻防戦が続く。どこからか聞こえてきた和太鼓の音が、ドンドン、ドンドンと殺陣を演出(気分的に)する。私はとても居づらかったが、硝子が私の服の裾を掴んで離さないので、上田には申し訳ないがこの場を離れられない。最後の一音がドドンと響き、上田が根を上げた。
「——分かったよ。あずきさんにも聞いてもらおう」
どうやら殺陣は硝子の勝利で幕が閉じたらしい。
上田は肩をすくめて、「ふうー」と一息吐き、ベンチに座る硝子の方に向き直った。
「森下さん。……いや硝子さん」
そして意を決したように唾を飲み言った。
「——改めて、俺と付き合ってもらえませんか」
帰り道、私たちは住宅街に隠れた小さな児童公園で休んだ。公園を取り囲む家々からは白色やオレンジ色の生活の明かりが漏れ出し、明かりに乗せて気の抜けた話し声や食事の匂いが微かに香る。時計を見るとちょうど夕食時だった。
帰りは茗荷谷方面ではなく千石方面に歩いていた。大学のある方角だ。硝子がこっちの方が帰りやすいというから付いていった。私はどちらでもよかった。小石川植物園を背中に小学校の脇を抜けた辺りでその児童公園はどこからともなく現れた。ちょうど近くに自動販売機があったので、じゃあ少し休んでいくか、ということになった。
「ご苦労さま」
と硝子は私にペットボトルを渡した。よく冷えたサイダーの結露が私の手を濡らしたが、気にせず飲んだ。炭酸の刺激が喉を通り胸にはじけていく。ぬるい夜の熱で緩慢になっていた思考が洗われていくような気がした。
硝子は私の隣に腰掛け大きく伸びをした。
「なんか、楽しいね、こういうの」
硝子が何を指してそう言ったのかは分からない。お祭りでの事かもしれないし、今こうしている時間を言っているのかもしれない。或いは……。いや、深く考えるのは無粋だ。実は私も今なんだか楽しい気分なのだ。だから今はそれでいい。きっとそれが私たちの丁度いいあり方なのだから。
私は誰にも聞こえないような微かな声で「そうだね」と呟いた。その言葉は夏の淡い夜空へ溶けるように消えていく。見上げた空は私たちのすぐ近くにあって、手を伸ばせば届きそうな気さへする。
——その後、なんとなく続いた沈黙を破ったのは、硝子の、
「あっ!」
という驚いたような声だった。
「えっ? 何?」
硝子が急に大きな声を出すから、私も驚いて高い声が出た。
「——それ、切れてる」
硝子は私の足元を指して言った。
見ると、今日新調したばかり下駄みたいなサンダルの片足の鼻緒が切れていた。
「ほんとだ……」
「替えの靴、なんてあるわけないよね」
「うん」
困ったことにこのサンダルは鼻緒が切れると使い物にならなくなる。まさか一日も履いていないのに壊れるとは、どこか初期不良があったのだろうか。購入した靴屋に文句を言いたいところだが、今はそれどころじゃない。
ここからの帰り道を想像する。幸いここから千石駅はすぐ近くだ。硝子の力を借りれば片足でもたどり着けるだろう。そこからは地下鉄で神保町まで行く。車内はまあ問題ないだろう。乗り換えは少し歩くが壁を伝えば何とかなる。あとは最寄りの調布駅から家までだが、両親に連絡して迎えに来てもらえば無事帰ることはできるか……。
いや! ダメだ。今家の車は使えない。というか両親も二人の妹と長野に旅行中だ。なんというタイミングの悪さ。とにかく家までは自力で帰らなければならない。駅には自転車があるが流石に裸足では乗れない。かくなる上はタクシーという手もあるが、家までどれくらいお金がかかるか分からない。どちらにしても学生には厳しい出費になるだろう。だが背に腹は代えられない。
私が財布の中身を確認していると、硝子も何やらゴソゴソとワンピースのポケットを漁っている。そして何か布切れのような物を取り出した。
「これ、使えないかな?」
「え?」
ハンカチ? だろうか。赤地にペイズリー柄のそれは、くしゃくしゃに萎れた薔薇のような姿で硝子のポケットから出てきた。
「ちょっと借りるよ」
と、硝子は私のサンダルを手に取り、切れた鼻緒の部分をしげしげと見てから、今度は自分のハンカチを口に咥え、思いきり破いた。
「ちょっ、ちょっ、何してる?」
「これなら直せそうだから、ちょっと待ってて」
「直す?」
「そう。こうやって……」
硝子は器用に手元を動かして、破いたハンカチで切れた鼻緒を修繕していく。私はその様子をぼーっと眺めていた。なんとなく、私は硝子に対して退廃的で懶惰な印象を持っていたが、こういう一面もあったのだなと少し認識を改めた。
「ほら、これでどうかな」
硝子から受け取ったサンダルは、切れた鼻緒の代用として赤色のハンカチが結ばれている。足裏に少し感触はあるが、気を付けて歩けば問題ないだろう。
「うん、たぶん大丈夫だと思う」
「まったく。たまたまハンカチを持っていてよかったよ」
「ほんと、ありがとう」
硝子は少し自嘲気味に、
「実家にいた頃、母親に手芸一般をしつけられてたからね。まさか役立つ日が来るとは思わなかったけれど……」
と言い笑った。
その笑顔を見ていると、硝子が直してくれた赤い鼻緒のサンダルが僅かに熱を持っているように感じた。きっと気のせいなのだ。
「——そろそろ行こうか」
気づけばペットボトルのサイダーも残り一口になってた。硝子の言葉に促され私は最後の一口を飲んだ。冷えていたサイダーはずいぶんとぬるくなって炭酸が抜けていた。
座っていたベンチから腰を上げるとき、ふと足元の赤い鼻緒のサンダルが目に入った。そしてはっとして思わず「あっ!」という声が漏れた。
「今度はなんだ?」
振り返る硝子の顔とサンダルを二、三度見比べる。
やっぱりそうだ。
「——やっと分かった」
「何が?」
「正太郎」
硝子は一瞬何のことだか分からないといった面持ちで首を傾げてから、思い出したように「ああ、あれね」と呟き、今度は私の左足が収まる赤い鼻緒のサンダルを見て、得心いったように「なるほど、赤い鼻緒か……」と声を漏らした。
つい先刻の事だ。神社で上田からの告白を受ける前に硝子は言っていた。君はただの上田くんじゃなくて正太郎だと。硝子はいつも意味の分からない事ばかり言っているから、一つ一つ気に留めたりはしないが、なんとなくあの言葉は耳に残っていた。なんでかと問われると言葉に窮するけれど、しいて言えば、あの祭りの雰囲気と正太郎という名前の響きにどこか既視感を感じた……。といったところだろうか。
そしてその既視感の正体が今分かったのだ。
「たけくらべ、だよね」
「——ご明察」
硝子は軽く手をたたいて、それから歩き始めた。
私も後を追うように夜道を歩く。まだ宵の口だというのに住宅街は静かだった。静寂とはまた違うけれど、落ち着いた静けさだ。時折聞こえる声も虫の音と混じりあいオブリガードのように夏の夜に深みを与える。
「やっぱり赤い鼻緒で分かったの?」
硝子がおもむろに聞いてくる。顔は前を向いたままなので、どんな表情をしているのかは伺い知れない。でもきっと笑っている。
「——きっかけは、ね」
硝子の直してくれたサンダルを履き立ち上がろうとしたとき、ふと不揃いのサンダルが目に入り、その修繕された鼻緒の赤色に強烈な既視感を覚えた。そしてその既視感が正太郎の既視感と繋がった。
正太郎。お祭り。赤い鼻緒。そして先刻の一件。
正太郎は樋口一葉の『たけくらべ』の登場人物だ。そして『たけくらべ』はお祭りの夜に物語が始まり、最後は紅入り友禅染の一件で幕を閉じる。
「上田くんが正太郎なら、さしずめ私は
「その通り」
硝子はしてやったりとでも言いたげなテンションで首肯した。
私はなんだかため息でもつきたい気分になった。
「まさか、最初からそのために私を呼んだの?」
「いやいや、まさかね」
硝子はすぐに否定したが、怪しいものだ。
「ユウがそのお洒落なサンダルを履いているのを見て、ちょうどいいと思ったんだよ。まさか鼻緒が切れて、本当に信如みたいになるとはね。私も偶然ハンカチなんて持っているし。現実は小説より奇なりってやつかな」
物語の終盤、信如は下駄の鼻緒が切れて途方に暮れる。その様子を見ていた美登利は紅入りの友禅染の切れ端を持っていくが、直接渡すのが恥ずかしく影から見ていると、別の友人がやってきて信如に下駄を貸してしまうという件がある。美登利は信如に恋をしていたのだ。
因みに正太郎は美登利に恋をしている。だから硝子は上田を正太郎と呼び、彼の告白を断る口実に私を使った。
「——実は私たち付き合っているんだよね」
私の腰に腕を回して硝子はそう言った。
上田は開いた口が塞がらない。私はうまく笑えていただろうか。多少顔が引きつっていたとしても私は悪くない。
「——だからね。私は君とお付き合いすることは出来ないんだよ。すまないがこれまで通りただの知り合いとして接してほしい」
このとき、私はなぜ今日お祭りに誘われたのか理解した。ただ、呆れはするものの、そこまで嫌な気持にはならなかった。それどころかこの状況を少し楽しんでいたのかもしれない。上田には申し訳ないが……。
「それじゃあ私たちはもう行くから、また新学期大学で会いましょう。さようなら——ただの上田くん」
そう言って硝子は私の手を取り、駆ける様に境内を抜け、石段を下り、屋台の合間を通り、気が付けば住宅街まで来ていた。硝子に手を引かれている間、私のからだはとても軽かった。こんな気分は生まれて初めての事だった。今なら空でも飛べるような、まるで自分が小説の登場人物になったような、そんな感覚だった。
前を歩く硝子は鼻歌を口ずさんでいる。
もうすぐ駅に着く。
住宅街から国道へ出る道は長い下り坂になっている。だからここからは眼下に拡がる街がよく見える。その空々しい空虚の隙間を埋めるように輝く都会の夜は、まるで私たちの行く末を照らしているようだった。
「もう、夏休みが終わるね」
自然と漏れたその言葉は、過ぎ去るものへの悲哀ではなく、訪れるものへの期待を孕んでいるように感じた。
——硝子と出会った夏が終わった。
フツカヨイ 安槻由宇 @yu_azuki
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