フツカヨイ

安槻由宇

序章 ある冬の日

 ある冬の日。その日は朝から分厚い雲が空を覆い、一日中どんよりとした静かな寒さが街を包み込んでいた。家を出るとき、これはひと雨降りそうだ、と手に持った傘は一度も開かれることなく今も左手に握られている。夜になって風が出てきたが、結局雨は降らなかった。

 

 JR秋葉原駅、電気街口。改札前の広場を抜けてUDXへと向かうエスカレーターの歩道橋。その脇の影となる場所で、私はひとり、二日酔いの頭を抱え寒さに震えながら流れる人波を眺めていた。いつからそうしていただろうか。横目で見える改札口からは、一定のリズムで人々が吐き出されては呑み込まれていく。路行く誰もが上着の前を合わせて足早に行き交う。

 私はふと「行きかふ年もまた旅人なり」という言葉が頭に浮かんだ。

 そういえばこの間、ついひと月ほど前に、去年が行ってしまい、今年がやってきた。一年ぶりに帰った実家では、両親、祖父母、それから挨拶に来た親戚複数人から、ゆうちゃん(親戚の人たちは私をそう呼ぶ)はいつお嫁に行くんだろうね、と繰り返し圧力をかけられ、向こうしばらくは帰省するのを控えようと決心したものだ。一昨年に帰省した時は微塵もそんな話題は出なかったというのに……。思えばあっという間の一年だった。幼いころ一年と言えば、それは怖くなるほど長い期間を意味しており、数えてしまえば無限にも思えたその時間が、今では瞬く間に消費されていく。特に大学を出てからの三年間は本当に一瞬で過ぎ去った。時の流れる速さに自分だけが置いて行かれているような感覚をいつも感じていた。そして、あの頃に戻れたら、などと思うようになったのもこの三年間だった。どこかで私は間違った選択をしてしまったのではないかと思うことがある。今の自分は本当の自分ではないという感覚。誰か違う人の人生をロールプレイしているような感覚。あの頃に戻ってやり直すことができれば……。何か嫌なことがあったとき、心が弱ったとき、普段は押し込めている感情が表出してくることがある。しかし、そんな感情はすぐに心の奥底にしまってしまわなければならない。時が戻ることなどあり得ないからだ。年は行き交うと芭蕉は言うが、結局のところ行ってしまうばかりで決して戻ってはこない。だから過去を振り返るなど非生産的なことはやめて、これからのことに頭を使った方がいいのだ。そんなことは分かっている。それでも今日だけは……。


 ひときわ強く吹いた風が首元を抜けて髪を掬っていく。それを抑えるようにして右手を上げると、腕時計がちらっと見えた。時刻は二十一時過ぎを示していた。もうかれこれ一時間以上もここにいたことになる。どこか酔いも抜けてきたような気がするのは、外気が頭を冷やしたからだろうか。

 改札前の広場ではまだあどけなさを残した女の子が一人、可愛らしいフリルのついた紺地のスカートをなびかせビラを配っている。おそらくメイド喫茶の客引きだろう。彼女はこの寒さの中コートの前もしめず風に吹かれていた。ここに来た時には他にも同業者らしい女の子たちが数人いたが、この寒さで客入りが悪いと踏んだのか、今は彼女一人を除いて既に撤退していた。ただ一人になっても客引きを続ける彼女の横顔には、自らの職務への責任感やノルマへの焦りではなく、どこか投げやりな表情が伺えた。通行人へ向ける笑顔の内側に隠れた、どこまでも冷めた本心が彼女の輪郭を形成していた。冷たく鋭利でそしてどこまでも希薄な輪郭だ。その希薄な輪郭はまるで、都心という欲望渦巻く舞台の上で、ただ吹かれるまま流されるままに舞う踊り子のように映った。


 ——同じようなものを三年前にも見た。

 あの日も寒かったことを覚えている。そして世間では、新種の感染症が大陸で流行し、ついに日本でも感染者が確認されたと騒がれていたころだった。入国制限だの水際対策だの画面の中の非日常にどこか浮足立ちながら、それでも街ゆく人々にとってはまだ対岸の火事で、まさか三か月後にはこの日本でも緊急事態宣言が実施され、自主的なロックダウン状態が始まるとは、誰もが想像していなかったはずだ。

不安と期待、そして迫りくる混沌の時代への微かな予感が街を包み込むパンデミック前夜。

 あの日も私はここにいた。そして、私の正面には、一生涯で最も心を開いた親友であり、そして指の先から内臓の底まで愛した硝子しょうこが立っていた。硝子はこの世にこれほどくだらないことはない、とでも言いたげな表情を困ったような笑顔で隠し、風に吹かれる上着の前もしめずに、ただ立っていた。無造作に伸びた前髪が、彼女の大きな瞳を隠したかと思えば、風に揺られなびいていく。その瞳に写る世界に、もう私はいなかった。

 あの日、私は、何も言わない硝子に促されるようにしてその言葉を口にした。

「……じゃあ、いくね」

 硝子は微かに笑っていたように思う。

「——God be with you」

 ……一緒には行けない。

「さて、私も行こうかな」

 それが私と硝子が交わした最後の言葉だった。

 その後のことはよく覚えていない。家の最寄り駅に着いた時、胃の中に鉛の塊が入っているような異物感を覚え、トイレで吐き出したことだけが微かに記憶に残っている。


 ——あれから三年が経った。

 世間はこの三年でいろいろ変わった。本当にいろいろあって細かく言えばきりがないけれど、一言で言えば、止まっていたものが動き出したような感覚だ。それが良い方向になのか、あるいは悪い方向になのか、それは何とも言えないけれど、それだけ世界的パンデミックが社会に与える影響は大きかったということだ。戦争で科学が発展するように、人類は感染症によって進むことを余儀なくされた。要らないものは捨て、これまで保留されていたことに決着をつける。そんな曖昧さを排斥する流れが世界中で渦巻いている。

 一方、私はというと。残念ながらどこにも進むことができず、いまだここにいる。三年前のあの日、この場所に置いてきてしまったものを性懲りもなく追いかけている。後悔、とは少し違う。それでもあの時、なぜ言葉が出なかったのか。なぜ手を伸ばすことができなかったのか。そう考えだすと自然とこの場所へ足が向かっていた。


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