喪服
武江成緒
喪服
「照子さんがいらしてますよ」
玄関で僕を出迎えたのは、女中のそんな声と、小さなリボンをあしらった可愛らしくも品のいいパンプスだった。
だというのに、僕の背には
ほがらかで活気にあふれ、それでいて肝心なところでは
妻としても、これ以上の婦人は僕には望めないと心得ているし、望む気もさらさら無い。
だというのに、祝言の日が一歩、一歩と歩みくるたび、僕の胸は高鳴るよりも、むしろ刃のせまるような怖れに満ちているのを感じる。
照子と並んで杯をかわす。
照子のことを妻と呼ぶ。
照子とともに初夜を迎える。
それを思い浮かべるたびに胸がはち切れそうになる。
それを引き起こすものが、喜びではなく、むしろ恐怖だと気がついたのはいつだったか。
――― あんな
――― 変化というのは心を不安にするものだ。たとえ慶事であってもな。
――― 君に自信が欠けているからさ。幸福を得るのを不相応だと恐れているのだ。
さまざまな人に相談しても、この怖れを減じてくれる答えは一つとしてなくて。
夜となれば、こうして不安と恐怖を酒でまぎらわしつつ、夜風に吹かれて酔歩することが習慣となってしまった。
情けないと思えばこそ、怖れはますます重くのしかかる。
――― 飛ばしたい。
いずことも知れぬ裏路地、月の明かりに照らされて、知らず知らずに
――― 祝言の日など、とても耐えられる気がしない。
その後につづく初夜も。
そこからつづく新婚の生活なども、体験するのが、ただおそろしい。
――― 人生を迂回する近道のようなものを通って、そんな時間を飛ばすことは、何とかできないものだろうか。
――― できるよ。
ふいに背中から、かん高い声。
飛びあがらんばかりに驚きふり向くと。
こんな夜半に、いったいどんな素性のものか。
蒼い月の光を
――― これを使えばいいんだよ、
妙に馴れ馴れしい口調。
暗い影にかくれた顔はしかと見えないが、なにかほくそ笑むような気配を帯びている。
こんな小さななりをして、こんな夜中に出歩く不品行や不気味さ。
僕を
そんなものをも大きく超えた、肌がざらつく、血がにごる、そんな嫌悪がぬぐえない。
僕の胸中を知ってか知らずか、その小僧は、数枚の紙を差し出した。
――― その券の、一きれにつき、一日さ。
一日を飛ばすことができるものなのさ。
確かに。
その紙には格子状に、縦と横の折り目がつけられていて。
折り目に区切られた一つ一つに
債権の利札にも似てはいるが、米國に留学したとき見たことのある
こいつを一枚ちぎるごとに、一日を飛ばすことができるのか。
恐ろしくてならない未来を、何日も迂回して、恐れが過ぎ去ったであろう時期にまで近道ができるのか。
思ったとたん、酔った頭が、興奮に
小僧の手から紙をひったくり、一枚、一枚、小さな券を
まるまる一枚の紙をすべて
だがそれでも、胸中にはまだまだ怖れがくすぶっている。
次の一枚を手に取って、また新しく券を千切りとる。
一日一日を飛ばして、怖れのない未来へつづく近道をひた走る。
どのぐらいの日を飛ばした勘定になるか。
怖れがようやく無くなったためか、血の巡りが早まったのか、胸のなかが
そのとたん。
本当に、胸のなかで何かの切れる音がして。
ききき、と、あの
気がつくと、家の仏間に立っていた。
目の前には照子がいる。
だがその目は僕のほうを向いていない。
その綺麗な顔は、涙に
声をかけようと思っても声が出ない。口も、舌も、
手を動かそうとしても、
さすがに事態が察せられてきた。
どれほどの日々を飛ばしたものか知らないが、どうやら僕の天寿はさほど長いものではなかったようだ。
日々を千切り飛ばした果てに、僕の死ぬ日に突き当たり、そうして今、若くして
どうしてこうなったのだろう。
何の罠があってこんな事態に
飛ばした日々のいずこかで、その
黒い喪服につつまれた照子のからだは、その
その胎の中から、あの小僧が。
ぞっとするほど
照子の血肉を、愛情を、おのれの独占物だとばかりに吸いつつ、ききき、と
喪服 武江成緒 @kamorun2018
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