コーヒーハウスにて

シンカー・ワン

冬から春へ

「……緑色。春は芽吹くとか、若葉とか、そんな感じあるっしょ?」

「夏はさぁ~、青空に真っ赤な太陽。あと黄色、夏と言えばヒマワリっ」

「え~? 赤は秋でしょ~。ほら紅葉とか。あ、黄色も落ち葉とか」

「冬は白一択かな?」

「連想するのは雪ね。……風の色っていろんなイメージあるよね~」

「だね~。あ~ん、それにしてもここのパイって最高! ほっぺ落ちるぅ~♪」

「わかるわかるぅ」

「カロリー気になるのに、つい手がぁ~」

「……今は一時の快楽に堕ちようではないか」

「――後悔とは、後からするものと見つけたりぃっ」


 ……後方からのかしましさに、僕は現実に引き戻される。

 背後のボックス席をいつの間にか陣取ってた、女学生だろう十代の女の子たちの文学的なやり取りが呆けていた頭に刺激を与えて、目覚めさせてくれたようだ。

 ハッキリしてきた意識で対面を見る。

 誰もいない空っぽの席に別れを告げられたこと、彼女が去ったこと、どちらも現実なのだと改めて自覚する。

 僕は振られたのだと。

 大きくため息をつき、すっかり冷めてしまい香りも味も落ちてしまったコーヒーを口にする。

 カップの底に沈んだ、強い苦味が今の気持ちを代弁してるみたいだった。


 ……彼女と出会ったのは春先、大学の友人が設けた同コンの席。

 場であぶれていた者同士、何となく言葉を交わしたのがきっかけ。

 互いに人数合わせで駆り出されていたこと、こういう場が居心地悪いと感じる性質たちだという共通項が口を軽くさせ、僕らは会話を弾ませあう。

 いくつかの組み合わせが出来上がり、会がお開きになった際、このまま別れるのは惜しいと思った僕は思い切って彼女に声をかけた。

 良ければまた会って話がしたい、と。

 嬉しいことに彼女の方もそう感じてくれていて、連絡先を交換しあいそれから付き合い始めるようになったんだっけ。

 互いの大学との中間地点という立地から、このコーヒーハウスが僕らの待ち合わせ場所。

 特に出歩く用とかがなければ、ここで一服しながら何時間も言葉を交し合ったものだった。

 彼女との時間は本当に楽しくて飽きることがなく、僕がそう告げれば彼女も同じ気持ちだと返してくれたっけ。

 ふたりで過ごす日々は本当にかけがえのないもので、何となく僕はそれがずっと続くものだと思ってた。

 付き合いを深め彼女と身体を重ねたのは、出会ってから数か月が過ぎた夏の日。初めてのお泊りの夜、僕の部屋で。

 お互いに初めてではなかったが、だからと言ってそれで相手に対して思うことはなかった。

 僕も彼女も、初めての男女交際ではないことは、すでに伝えあっていたから。

 ただ、僕の過去の恋愛はあまりいい思い出ではなかったから、詳しく話すことはしていない。

 彼女の過去は、僕なんか比べ物にならないほど心に深い傷を残していて、彼女に話させてしまったのをひどく悔やんだものだ。

 何度か夜を一緒に過ごし愛し合ったけど、それ以上に僕はふたりで一緒に過ごしているだけで幸せだった。

 彼女の嬉し気な笑顔と心のつながり、それだけで充分。

 けれど、そんな風に思っていたのは僕の方だけで――。


「別れましょう」 

 先に来ていた彼女に、遅れた事を詫びながら席についたところで告げられたのがこの言葉。


「私、あなた以外の男の人に抱かれました」

 言われたことを呑み込めていない僕に、彼女が言葉を重ねてくる。


「行きずりの、どこの誰とも知れない人と、肌を重ねました」

 どこか自嘲気味に、淡々と。


「あなたのことを、裏切りました」

 今にも泣きだしそうな顔で、無理に作った笑みを浮かべる。


「愛の無いセックスは虚しいだけでした。けど、セックスの無い愛より満たされるものがありました」

 僕はそれを黙って耳にする。


「気持ちがつながりあっていればあなたは満足だったのでしょう? ――でも、私はもっと愛を確かめて欲しかった」 

 彼女がなにを思い、求めていたのかを、


「女として、もっと私を求めてほしかった」

 考えようともしなかった僕を、


「……けれど、あなたは私を求めてくれなかった」

 哀しく責める言葉が打つ。 

 

「――違う。求めてくれたのは初めての夜だけで――」

 愛しい彼女が言う。


「あとは私が誘ったから、応えてくれてただけでしたよね?」

 僕が、なにも見ようとも知ろうとも、していなかったのだと。


「ずっと、ずうっと、考えてました。私はあなたの何なんだろうって」

 真っ直ぐに僕を見つめながら、彼女は断罪する。


「恋人だと、愛を交わし合う相手だと、私はそう思ってた」

 愚かな僕のこれまでを。


「けどあなたは違っていた。――あなたが欲しかったのは、居心地のいい存在だけ」

 自分の心が満たされることしか考えずにいた、


「愛を交し合う相手じゃない」

 身勝手な僕へと、


「――だから、愛してもらえていないから。私、あなた以外の人に身体を任せました」

 突きつけられる別れの言葉。


「あなたへの優しさ、私、失くしちゃいました」

 頬を濡らして、彼女は哀しく微笑む。


「――もう一緒には居られません。勝手でごめんなさい」

 深々と頭を下げる彼女。長い黒髪がさぁっと流れるさまが綺麗だった。


「さようなら、お元気で。……今までありがとう」

 力なく座って俯いたたままの僕を残し、彼女は席を立ち離れていく。

 ドアベルが響き、彼女がこの店から去ったことが知れる。

 僕は動けないままで――。


 思い返しているうちに時間は過ぎていて、いつの間にか後席の姦しさも無い。

 すっかり陽も落ちて、窓ガラスは鏡のようにぼんやりとした僕の顔を反射うつしていた。

 ああ、ひどい顔だ。

 引きつったままの頬と口元が、なんとも情けない。

「――あの」

 固まった表情をどうにかしなきゃと、顔に手を当てたところに声がかかり、

「こちら、お下げしてもよろしいでしょうか?」

 神妙な表情を浮かべたウエイトレスさんが、空のカップを指し示して尋ねる。

 その顔から、僕が別れを告げられたことを知られているのが察せられた。

 女学生たちが来るまでは静かだったコーヒーハウス、僕らの話が聞こえていても不思議はない。

 ……追加オーダーって気にはならないし、陽も暮れている。

 僕はもう帰ることを告げ、席を立つ。

 伝票はと目を配らせたら、同席されていた方が支払われましたと、一言。

 やれやれと苦笑いを浮かべつつ、背もたれに掛けていたコートを羽織り、店の出入り口へと歩を進める。

「えっと……」 

 扉を開けようとしたところで、先程のウエイトレスさんに声をかけられる。

「――元気、出してください」

 振り返った僕に贈られたのはそんな言葉。

 少し情けなく笑いつつ、

「……ありがとう」

 何とかそう言って、僕は店を後にする。

 真冬の寒さが、身にも心にも凍みた。


 あれからしばらくが経ち、そろそろ春を迎えようかという今日この頃。

 僕はと言えば、今もあのコーヒーハウスに通っている。

 馴染んでしまっていることと、今更別の店に移るのも煩わしかったから。

 ――もしかしたら彼女とまた会えるかも、なんて都合のいい思いがあったのを否定はしない。

 けれど、彼女とはあれっきりだ。

 通信端末も換えたのだろう、連絡も取れなくなっている。

 再会したところで、またやり直せるなんて思っちゃいない。

 多少の冷却期間を置いたからもう一度なんて、そんなに甘い話なら彼女もあんな別れ方はしなかっただろう。

 彼女とは、もう終わったのだ。

 いや、僕の身勝手さが終わらせてしまった。

 落ち着いてから気が付いた。僕が別れを決断しやすいようにと、彼女が自分を悪者に仕立てたことに。

 僕と出会う前、無理やり身体を奪われたことがあると、辛い過去を話してくれた彼女。

 僕に抱かれると身体も心も暖かくなると言ってくれた彼女。

 そんな彼女が行きずりの男に身体を任せた……。もしかしたら、嘘だったのかもしれない。

 でも本当なら、彼女をそこまで追い詰めてしまったのは、僕だ。

 彼女にもっと寄り添ってあげなかった、彼女が何を望んでいたのかをわかってあげられなかった僕が全部悪い。

 もう戻れやしない。

 ただ、また会うことが叶うなら、彼女に辛い思いをさせてしまったことへの謝罪と、ひとときでも僕の傍らに居てくれたことへの感謝を伝えたいと思っている。

 ――まぁ、未練だよな。 

 カウンターでは人生に疲れたなどと愚痴ってた常連のひとりが、女店主ママさんにからかわれてた。

 女手ひとつで店を切り盛りしてきた人生の経験値、その差を思い知らされ凹んでる。

 それを横目で見やってから、窓際のいつもの席で、店自慢のブレンドを口にする。

 あの日の冷めたものとは違う、本来の深いコクを味わいつつ、窓の外を眺める。

 傾いた陽射しに、嫌でもあの別れの日の記憶が蘇る。

 長い黒髪にふくよかな姿態、絵画に描かれるニンフのような彼女の姿を思い出す。

 なんだかんだ言って、そう簡単に忘れられるものじゃない。

 別れ方はともかくとして、一緒に過ごした日々はけして悪いものではなかったから。

 つい笑んでしまうのも仕方ないだろう。

 僕たちには悪い思い出ばかりじゃなく、楽しかった時間も確かにあったのだから。

「あなたへの優しさを、私は失くした女です」

 誰よりも優しく接してくれていた彼女に、そんな言葉を言わせてしまった、僕の身勝手さが招いてしまった別れ。

 刻んでおこう、心に強く。

 教訓として。

 わかっているつもりでいた、そんな愚行を繰り返したりしないために。


「――あの」

 物思いにふけっていたところに声がかかる。

 見やれば、知った顔のウエイトレスさんが立っていた。

 赤みの強い茶髪のポニーテール、細身で小柄だけどいつも元気に働いている印象がある。

 あの日以来、僕への接客にこの人が良く来るようになって、軽い挨拶を交わす程度にはなっていたが、はてなんだろう?

「ちょっとお時間よろしいですか?」

 どことなく硬い声で言うなり、僕の向かいの席へと腰を下ろす。

 いや、いくらなんでもそれは気易すぎるだろうと、女店主ママさんへと知らせようとするが、

「わたし今休憩時間で、ママさんにも許可をもらっています」

 先を取られてしまった。

 なるほど、よく見れば仕事中の証しともいうべきエプロンをしていない。

 休憩で店主にも許しを得ているというのなら、一方的に責められないか。

 僕は軽くうなずく事で同席を認めると、ウエイトレスさんも小さく礼を返してくる。

「……それで、僕に何か御用ですか?」

 たぶん同世代で歳もそう違わないだろうウエイトレスさんに、いぶかし気に尋ねる。

 ウエイトレスさんは僕の問いに、一度大きく深呼吸をし居住まいを正してから、

「単刀直入に言います。わたしお客さんのこと、好きです」

 そう切り出した。

「――えっ?」

 突然すぎて理解しきれず、僕は間抜けな声を返す。

「彼女さんと来ている時から、ずっといいなって思ってました」

 え、えっ? なんだ、これは? ドッキリとか何かか?

 頭が上手く回らない僕へと、ウエイトレスさんの告白は続いた。

「あの日、彼女さんと別れ話しているの見て、正直チャンスって思いました」

 あー、あの時の声掛けは、つまりそういう、こと?

「――もう、いいですよね? もう、あの人の事ふっ切れてますよね?」

 真っ赤な顔をして、いっぱいいっぱいなのを隠そうともしないで、僕へと訴えかけてくる。

「わたしとお付き合いしてもらえませんか? お願いしますっ!」

 ゴンと、テーブルから鈍い音。

 言い切ると同時に、勢いよく下げた頭をぶつけるウエイトレスさん。

「うー、いったぁ」

 打撲で赤くなった額を手で押さえながら、上目遣いでこちらをうかがってくる。

 その仕草が何かおかしくて、僕はつい口元を緩める。

 ――もういいかも知れない、彼女のことは。

 忘れられた。なんて言わないが、いつまでも後ろは向けない。

 それはたぶん、僕と彼女、お互いのためでもある。

 ――って、これも僕の勝手な思い込みかも知れないけれど。

 僕は浮かんでくる苦笑いを、出来るだけ抑えながら答える。

「……まずはお友達からで、いいですか?」

 僕の言葉に、ウエイトレスさんはパッと目を見開き、期待を込めたまなざしを向けてくる。

「正直、すぐに彼氏彼女なんて、今は考えられません」

 そしてじっと見つめたまま、僕の言葉を確かめるように聞いている。

 向けられる真剣さに口も緩み、自虐的な言葉がこぼれてしまう。

「……身勝手さでフラれたバカな男ですが、それでもい」

「構いませんっ、友達からでも大丈夫ですっ」

 僕が言い終わらないうちに、勢いよく被さってくるウエイトレスさんの返事。

 言葉だけでなく、身体も乗り出してテーブルに被さっている。

 キラキラと瞳を輝かせるウエイトレスさんの紅潮した顔に浮かぶ、とても嬉しそうな笑み。

 その喜びっぷりにつられて、僕の顔もついほころぶ。

「――なら、よろしくお願いします」

 言いながら、軽く頭を下げる。

「こ、こっ、こちらこそ、よろしく、ですっ」

 裏返った声の返事に、僕も笑みを返す。

 生暖かい視線がカウンターの方から向けられているのが感じられた。

 きっと、ママさんや店の同僚さんたちのものだろう。

 優しい気持ちも伝わってくる。

 目の前の彼女が、皆に好かれているのがうかがえた。

 照れ照れと、落ち着きなく髪やら服やらをいじってるウエイトレスさんに、微笑みを隠さないで僕は言う。

「それじゃ、まずはあなたの名前、教えてもらえますか? 僕は――」


 春は、もう直ぐそこ。

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