津安英里の音楽

みやこ

津安英里の音楽


 あの夏の日に、津安英里に会いに行ったことを、私は今でも恐ろしく思う。

 大勢湯町三番地が、その頃の私の住みかだった。田舎の農協での仕事に嫌気がさした私は溜め込んだ貯金を使って再び関東へと越した。その時に選んだのが大勢湯町のひなびたアパートだった。陰気な場所で、一目見て気に入った。丘を巻くようにして築かれた町並みは狭くて傾斜が急に過ぎる。所々は階段で、道によっては車も満足に通れない迷宮だ。家々はどこか古くさく、壁に蔦が生えていたり、ひびやさびもざらにあった。昼間の癖に人気もなく、晴れていても薄暗い。太陽から逃れようと町そのものが真っ黒な息を吐き出しているようにすら感じさせる暗さがそこにあった。


 当時心身を病んでいた私にとってその暗さは居心地が良いもので、時折ぶらりと外へ出て散歩をしたりなどしていた。アパートの前にはいつも落書きをする子供がおり、チョークで何か書いていた。紫色の花がプランターに咲いていて、たまに私に話し掛けてきたりした。電柱にしがみつく人影がある日落下して水溜まりめいたオブジェに変わっていたこともあった。コンビニは見たことも聴いたこともない店名で、何故か棚二つ分の時計を売っていた。川はいつも黒く、臭かった。たまにぷくりと白いものが浮かんでは沈んだ。そんな陰気な町で、当時の私は暮らしていた。

 

津安英里というのはアパートの隣室にいたギタリストだ。夜中に鳴ると彼はギターを鳴らした。時折町の広場で勝手に演奏しているのを見掛けた。バンドを組んでいる様子はない。この陰気な町でギタリストを気取るなど彼だけであろう。夜中に奏でられる音は、ギターらしく切れ味を感じさせたが、同時に不可思議な感情を励起させるものがあった。目を瞑ると、真っ暗闇が浮かぶ。大きな壁を感じる。その向こう側で何かが騒いでいる。その騒ぎの様子が奇妙だった。厭に気になった。そんな感情を、英里の音楽は呼び起こした。これまでに聞いてきた音楽とは全く無縁で独創的な音に魅了されて、一週間後、英里に声をかけることを決めた。


 ある夜、英里が広場でのソロ演奏を切り上げて帰って来た時、廊下で引き留めて言った。───私はあなたの音楽の素晴らしさをより強く感じたい。隣室の者です。どうかもっとよく聞かせてはいただけないだろうか。英里は不審そうに目を細めた。彼は多くのギタリストがそうであるように、共感し得ない苦悩をたたえた顔を持ち、身の丈に合わない服をよれさせていた。高価なものをひとつ買い、それを高価なままで維持させることができない様子だった。しかし彼は頷いて、私を部屋に上げた。彼の部屋には何もなかった。ベッドも、冷蔵庫も、家具と呼べるものは二つしかない。そのひとつは電灯であり、もうひとつは椅子で、それは窓脇に置かれていた。窓。そう、窓だ。このアパートの、彼の部屋の窓からは、町の様子がよく見えた。陰気な町並みも夜になれば流石に明るくなる。家々から漏れる光、街灯の、ぼんやりとし、明滅する光。空に浮かぶのは、いまなお無限に膨張し続ける銀河系の耀ける気体群が放つ眼光であり、それら全てを包み込むように、天地に暗黒が寝そべっている。英里は、無言で窓に近寄り、カーテンを閉めた。景色が消えたのを、私は残念に思った。


 一曲だけと彼は言って、演奏を始めた。なるほど、それは実に巧みな腕前であり、これほどの名手がこんな町の隅で燻っている事実を嘆きたくなるほどだったが、私にとってそれは例えばインターネットでモナリザの画像を見るようであり、つまり素晴らしいことは分かるが心までは打たれない。何よりそれは、普段壁越しに聞こえてくるあの歪な宴の響音ではない、普通の楽曲なのだった。私は不満を覚え、演奏後、帰るよう示そうとする彼の先を取り、あの曲を聞きたいと言った。あの曲? と彼は訝しげに眉を潜めた。何のことかわからない。最近弾いているのはこれだ。いいや、違う。私は既にその旋律を記憶していて、音楽的素養の皆無な恥知らずの痴技だが、鼻歌だってできる程だった。私がそれを再生すると、英里は目を見開き、そして目に見えて狼狽した。若き才人はその時、蛇を食う鷲を見たカエルのような表情で、慌てて私の口を塞いだ。その感触が総毛立つ程に快感なのに驚き、制御できない拒絶が私と彼を襲った。私に弾かれた彼はバランスを取ろうと腕を振り回し、カーテンを掴んだ。彼の倒れるのを、カーテンは防いでくれなかった。バキリと音が鳴り、カーテンが外れた。窓の外が露となる。ひゅっと、英里は息を飲んだ。私も同じような反応をしていた。窓の外には人が沢山立っていた。英里の家から漏れる光を浴びて、彼らは皆一様に真っ黒だった。光を浴びても彼らは黒く、それは人種的な性質というよりかは、超自然的現象による光の吸収を思わせた。何故かといえばその黒さはのっぺりと平面的であり、鼻や口や眼といった顔面の機関も一切見させてはくれなかったのである。その頃の私が精神を病んでおり、この世ならざる何かしらを常々見ていたのも、その判別に影響した。この黒い者たちは人ではなく、ある要因を以て現世へと顕現するに至った隠世、幽冥界のものどもであろう。しかしてその要因とは、間違いなくこの狼狽する才人、英里が独創のギターにある。私はある昔話を思い出していた。平家の怨霊に連れられて、滅んだ邸宅で琵琶の腕を披露した法師の話を。これらも同じではないか。英里の独創に惹かれた亡者の群れとなす光景こそ目の前の非現実の正体であり、英里がカーテンを閉め、私の口を塞がんとした理由。

 

英里は震えていた。

 

私は、嬉しかった。何故か。これで進退極まった。英里が生き延びるならば、この亡者達を満足させる他なく、その為にはかの楽曲を鳴らす他ない。かの饗曲を聞きに来た私としてはこれ以上の状況はない。


 弾け、と私は言った。英里は信じられないものを見た。それは私だった。弾け、と繰り返した。首を振ろうとした彼の前で、私は窓の鍵に手を伸ばした。動く屍たる吸血鬼は許されない限り家に入ることができない。この亡者どももそうなのか? 聞きやすくしてやろうと嘯いて、鍵に指を掛けると、英里は絶叫した。それはこの世のあらゆる恐怖が渾然一体となった叫びだった。喉よ枯れろと言わんばかりに叫んだ後、やる、やるから開けないでくれと泣きながら懇願するギタリストを見て私は彼の美しさを知り勃起した。彼の口の中がカラカラに渇いているのと相反して私の口腔は過去一番の唾液分泌により決壊寸前と成り、そして彼はギターを構えた。


 私は亡者達を見た。彼らは動かない。いい気分だった。壁越しに、窓越しにしか聞けない彼らよりも、私は特等席にあるのだ。英里の指が弦を弾いた。


 それはこれまで漏れ聞いたいかなるものよりも恐ろしかった。耳のみでなく、目で彼を見て、肌で音の振動を感じ、鼻と口には炸裂するかのような甘さと辛さが生み出された。その演奏の動機はまごうことなき恐怖であった。彼はただひたすらに不快なる音の連なりを絶叫させ、喚き散らすがごとき騒音を以て、窓の外と窓の内の私を───或いはさらなるなにかを───意識から消し去り、忘我せんとしていたのだ。その演奏は世界の終わりを四度束ねたような轟音だが、英里の卓越にして至高の音楽性がひとつの曲として成り立たせていた。喉よ砕けろと声が弾けた。楽器だけでなく喉もまた音を紡いだ。「さらに大きく、さらに荒々しく」。滝でも浴びたような汗は異様な光の反射と臭気を伴って全身を乱舞し、男の手から逃れる処女のように身をくねらせて、英里は狂乱を歌い続けた。私はその演奏の中に幻影を見た。それは真っ暗な洞穴に響く楽しげな宴であり。薄く開いた岩戸の端から見えたのは、焚き火を囲む神々と痴態だった。毒煙と虹色の雲と太鼓の鳴り響く宴会場で、天宇受売命が、豊満な乳房を振り乱しながら踊っていた。その顔は恍惚ではなく恐怖に満ちており、その周囲で囃し立てる神々の姿は皆一様に真っ黒であった。その時、私は何かおおきなものの気配を感じた。それは英里の鳴らす騒音ではなく、黒いものどもとも異なる気配で、天の底から沸き上がるような、穏やかで、悠然とし、優しげで、包み込むような、侮蔑に満ちた楽音だった。


 窓の外の黒どもは一気に消え失せた。代わりに乏! と風が吹いた。嵐のような夜風が不吉さを乗せて窓に辺り、ガシャガシャと揺らした。気がつけば雷が鳴る風が吹く雨が窓に辺り硝子よ割れろと叫んだ。英里の演奏は既に人に許された域を外れ切り、そのギターからは信じられないことに木琴のトロンボーンのオルガンの尺八のハープのカスタネットのボーカロイドのキーボードの和太鼓の、線路を走る電車と鳴り響く遮断機、潰される車、落下する人が聞く風切り音、鼓膜に激突する波濤、締まる喉から漏れた最後の空気、カタンと倒れた足場、破れる血管、己の滴る血の音といったものがまぜこぜとなり放たれていた。その愚かしさを侮蔑しながらも優しく包み込む、気高い音楽が英里に答え、天上より降り注いだ。ひときわ強烈な風の飛来が窓を破り、同時に電灯が滅した。暗黒に囚われた部屋の中で私は、愚かな羽蟲のように光源を求めて外を見た。彼の部屋に入った時、そこに闇夜でも見える家々と街灯と星空があるのを見ていたからだ。だが───、狂気の演奏に背を向けた私が見たのは、眇眇と吹き込む風のみであり、つまり明かりある陰気な町並みも、気の遠くなるような過去から放たれた気体星の記憶も存在しない、ただ無限を思わせる闇があるのみだった。それは正四十一角形の形をしていた。虚無すら虚無へと変わる虚無だった。何もない、すらも失われた世界が広がっていて、私はこの時初めて、英里の音楽が途方もない彼方のなにものかをもてなすためのものであったことを知り、それは窓の外の黒いものも町に溢れるこの世ならざるものどももその全てを束ねようともつりあわない畏怖すべきものであることを痛感した。神を消費する黒が逃げ去るなにか。その前では英里の音楽すらもてなしのひとつに過ぎない。やめろと英里が叫んだ。その口からは既に血が飛び散っており、絶叫のあまり顎は外れ、歯も何本か砕けていた。彼の手は中指と薬指が千切れとんでおり、残りの三本も爪が剥がれ、真紅に染まっていた。私はその時ようやく正気に戻った。いや、狂気も正気も同じであることを知った。それらは所詮人間の社会という定規が生んだ相対概念に過ぎない、絶対的で天文学的数値を前にすれば一も百も塵芥であると知る。病んでいた静清は病んでいないことを知り、良心が私を突き動かして、英里の身体に触れて演奏を止めさせようとした。だが触れた手は一瞬で離さざるを得なかった。英里は燃えていた。いつ出火したのか分からないが。少なくとも十秒前は燃えていなかったそのギタリストは炎を纏っており、もはや私には触れられないところに旅立っていて、それでもなお演奏は止まない、むしろ肉の焦げる音、骨の焼ける音、脳の炙られる音すらも交えた、死出の極限芸術が開花しつつあった。忌むべき音が至高の音楽性によりひとつの合奏を象っていく。今の英里は単身で大楽団にも等しい音色を奏でる究極の楽器であった。その音は大宇宙の無限大の次元を潜航する外骨格を纏った鯨の化石が眠るデルタ・イヤゴンドの地質学的見地に基づき、気圏の中を舞う瑪瑙の孔雀、根を持たない金剛樹、四重螺旋構造の第九次元立体図系公式、眞俱那麻製三光輪、アスファロイド結晶の大洞穴、全生命の答え、食人巨大種、いまなお膨脹するネャイダ恒、脇から血を流し腐臭を放つ天使の軍勢、鉄食らう病、ハジーダー星湖で死ぬこともできずに惰眠を貪るンバ蛇の夢見る、因果の、運命論の、仮説の、大経典の、頭脳伝達系の、反応炉の、原子核の、終わりなき旅路の果てに待つ、根源的恐怖そのものであった。


 駆け出して、壁という壁に肩をぶつけながら、扉を蹴破り、階段を転がり落ち、無音の家々の間隙を走る傾斜の急な狭道を駆け下った。階段を下り、時には上り、下へ下へ下へ、外へ外へ外へ、あのアパートから離れようと駆け抜けた。そして町を取り囲むような川を越え、ようやく私は倒れ込み、停止した。

 風はなかった。月が空に耀いていた。車の走る音が遠くに聞こえた。飲食店の自動ドアが開く音が、その奥から流行りのJ-POPが流れてきた。


 起き上がった私が振り返ると、そこには川はあったが、渡ったはずの橋がなかった。


 以来、私は、かつて住んでいたはずの町を見つけられずにいる。

 津安英里という才人のことも。

 そしてあの夜、軽率な私が踏み込んだ、おおきなものの世界も。

 それでいい。

 それでいいのだと。

 言い聞かせている。

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