最終話 二人の未来

 部屋の外から聞こえる母親の声が、うっとおしくて仕方がない。

「うるせえぞ、ババア!」

 閉ざされた扉に向かって怒鳴ると、微かな啜り泣きの声が聞こえたが、やがてそれも遠ざかって行った。

 薄暗い部屋の中、複数のネット掲示板を巡回して、月代真珠と月代グループの悪口を書き込みながら、香次は舌打ちをする。

「くそ、くそ、あのくそ女が……」

 あれから真珠のスマートフォンに何度も電話をかけてみたが、「おかけになった番号は現在使われていません」という、機械的なメッセージが繰り返されるだけだった。

 出会いのきっかけとなった、ネットゲームのアカウントもとっくに消えていて。香次がゲーム内の掲示板で真珠について喚き散らしたところで、同情されるどころか、むしろ正論をぶつけられ非難されるばかりだった。

 別れてから気づいたが、真珠は香次との写真を一切撮ろうとしなかった。日頃からなんでもぱしゃぱしゃと写真を撮る女のことを、香次は下等生物だと見下していたため、それはむしろ心地が良かったが。別れた今となっては、証拠を残さないようにしていた気がしてならない。

 一応浮気の証拠として撮った写真はあるものの。盗撮な上にネットに上げたところで返って来る反応は、写真を上げた香次を非難するものばかりだろう。

 だから香次に出来ることと言えば、今やっているように様々な掲示板やSNSに真珠や月代グループの悪口を書き込むことだけだった。

 もっとも。それも負け組な男が見当違いな嫉妬や憎悪を喚きちらしているとしか、ネットの愚かな住民どもは思っていないようだったが。

『妄想乙WW』

『お前みたいな社会のゴミが、月代グループ令嬢と付き合えるわけがないだろ。いい加減現実見ろよ』

『というか昼間からこんなこと書き込んでいる暇があったら、働けよクソニート』

 一切容赦のない悪意の言葉に、香次が分かりやすくキレ散らかして反論すると、燃え上がった火はたちまち広がって行く。

 あっという間に香次のアカウントは大炎上し、投げつけられる正論と愉悦の入り混じった書き込みに嫌気が差し、香次はアカウントの設定から削除ボタンを押した。

 だが「アカウントを削除するには、パスワードを入力してください」の表示に、香次は思わず手を止めた。パスワードなんて全く覚えていない。

「くそっ、クソ運営が」

 吐き捨てる様に言って、香次はメールフォームを起動する。パスワードを忘れたなら、再発行するしかない。

 メールフォームを開くと、一通のメールが届いていた。それは香次のやりこんでいた、MMORPGの公式からのものだった。

「ん……」

 真珠と出会ったタイトルであるため、顔をしかめながらも、香次はメールを開いた。何かのキャンペーンの告知だろうか。

 メールを開くと、そこには形式的な前置きと共に、たった一文が書かれていた。

『お客様の書き込みに対する多数の通報があったため、アカウント停止の措置を取らせていただきました』

「……は?」

 ふざけるな、と思った。自分はただ、掲示板に真珠の本性を書き込んだだけなのに、その程度のことでアカウント停止なんて。

 一度アカウント停止措置をくらうと、復旧してもアカウントに記録が残るようになる。停止記録のあるアカウントのユーザーは、他のユーザーから冷遇され、場合によっては奴隷のようにこき使われることもあるのだ。

 実際に香次も、停止記録のあるユーザーは自分の運営するギルドに加入禁止としており、彼らのクエスト報酬を奪ったり、ストレス発散に攻撃したりすることもあった。

 だが次からは、香次も彼らと同じ立場に堕ちることになる。

 今まで莫大な時間とそれなりの金をかけてきたのに。恩を仇で返しやがって。

「くそッ、あの売女、ブス、死ね、死ね、死ね!」

 怒りに任せて、香次は目の前のモニターを殴りつける。数十万のゲーミングパソコンのモニターがバキバキに粉砕されるまで殴り続けると、香次は部屋の中で絶叫を上げながら、周囲のものを手あたり次第に投げつけて破壊し始めた。

 全部あの女のせいだ、あの女が全部悪いんだ。あの女が、あの女が、あの女が。

 薄暗い部屋の中で暴れ、香次はひたすらに真珠を恨み続けた。まるで月代真珠が、この世の全ての悪であるかのように。

 もっとも、すべての責任を真珠に押し付けたところで。香次の今の現状が、何か変わるわけでもないのだが。


「別れよう、摩季ちゃん」

 一週間後の月曜日、春は摩季を呼び出すと、さっぱりとした笑顔で告げた。

 裏庭の花壇では、ムスカリが今日も綺麗な花を咲かせていて。今から繰り広げられる、どろどろとした会話を中和してくれるようだった。

「え……」

「じゃ、そういうことだから」

 信じられないというような表情を浮かべる摩季に、春は片手を振って背を向けた。

 そんな春の手を、摩季は慌てて掴む。仕方なく、春は摩季を振り向いた。

「ちょ、ちょっと待ってください!なんで、急に―――」

「君と付き合うメリットが、なくなったからかな」

 さらりと言う春に対し、摩季は理解できないという様に、春の腕をぎゅっと抱き寄せた。まるでこれは、自分の「モノ」だとでもいうように。

「お金も割り勘にしましたし、セックスだってしましたよね?それでも、それでもだめなんですか!」

「割り勘でもきついものはきついから。セックスは……まあ、悪くなかったけど」

 最初の方はさっぱり言い切ったものの、最後の方はやや歯切れが悪くなってしまった。

 それでどうやら、摩季は気づいたらしい。突き放すように春の腕を離すと、怒りで頬を真っ赤に染めて、春を睨みつけた。

「寝たんですね、月代真珠と!」

「……うん」

 誤魔化しても仕方がないと思い、春は頷いた。すると摩季から平手が飛んできて、乾いた音とともに春の頬に痛みが走る。

「酷い、酷いです!私がいながら……酷い!」

「そうは言われても……」

 頬をさすりながら、春は困った表情を浮かべた。

 真珠とは思ったよりも相性が良く、正直摩季よりも良かった。三万円の特別ボーナスもくれるし、体だけの摩季とは比べ物にならない。

 もはや摩季と付き合うだけ無駄なのだ。彼女が何を言おうと、春の気持ちは変わらない。

 だから春は、この頬の痛みを利用することにした。ジンジンと痛む頬をさすりながら、春は摩季に言う。

「少なくとも。真珠はかっとなっても、暴力に訴えたりはしないと思うから」

「そ、それは……」

 慌てた様子で、摩季は春の頬を叩いた自分の手を握りしめた。

 春自身、殴られたのは仕方ないし、自分が身勝手なことを言っているのは分かっているが。摩季との関係を断ち切るのに使えるなら、使うに越したことはない。

「さようなら、摩季ちゃん。君との恋愛は楽しかったよ」

 淡々と、定型文のような別れの言葉を告げ。春は再び摩季に背を向けた。

「待って、待ってください!お金も全部払いますから!セックスだって好きなようにしていいですから!だから、だから私を捨てないでください!」

 背後から必死に懇願する叫びにも、その後から聞こえて来た泣き声にも、春はもう二度と振り向くことなく、ムスカリの花が綺麗な裏庭から立ち去った。


「突然だけど、今月いっぱいで偽装恋人の契約を終了しようと思うの」

 バイトの終了間際に、春の職場であるファーストフード店に訪れた真珠は。フライドポテトのLサイズと、二人分のドリンクを注文して、二階に春を引っ張って行き告げた。

「え……」

「理由は単純。この前本命の恋人と別れたから、もう偽装する必要がなくなったのよね」

 ポテトを齧りながら、真珠はさらりと春に言う。

 春に拒否権なんて、初めからなく。だからこそ黙って俯いて、真珠が目の前に置いたオレンジジュースのカップに視線を落とす。

 摩季と別れなければよかったと、思ってももう遅い。自分勝手な男には、相応しい末路じゃないか。

 真珠の方がいいって、真珠はあくまでも偽装の恋人だったのに。いつから彼女を、本当の恋人のように思い込んでしまったのだろうか。

 この前ベッドを共にしたせいで、性欲に目がくらんでいたのだろうか。仕事だとあれだけ言い聞かせて来たのに、自分の事ながら愚かである。

 自嘲と自己嫌悪の入り混じった息苦しい感情に、春が何も言えずにいると、真珠がため息を吐き出した。

 きっと情けない自分に呆れているのだろう。そう思いながら春がゆっくり顔を上げると。

 そこにはいつもの、不敵な笑みを浮かべた真珠の顔があった。

「何情けない顔をしてるのよ。本題はここからだっていうのに」

「えっ」

「これは仕事じゃなくて、プライベートな提案なんだけど。私たち、本当の恋人にならないかしら」

 さらりと言われた真珠の言葉に、春は思わず目を瞬かせた。

「今、なんて」

「だから本当の恋人にならないかって言ってるのよ。ほら、私と春くんって思ったより相性いいじゃない」

 平然と言って、真珠は手に持っていたポテトを口に運ぶと、紙のカップに入ったコーラを一口飲んだ。

 そしてまた、春に誘うような笑みを向ける。

「顔も地頭もいいし、貧乏なのはアピール次第ではむしろプラスに働くものよ。こちらとしても、恋人とその家族への援助は惜しまないつもりだから、そっちにもメリットはあると思うけど」

 どうかしら、と言う様に。真珠は首を傾げて見せる。

 あまりの提案に、春はしばらく硬直して、何も言えずにいたが。やがてゆっくりと唇を動かし、やっと言葉を絞り出した。

「嬉しい、嬉しい、けど。いいの?本当にいいの?」

 確かめる様に尋ねると、真珠は少し俯いてから、顔を上げて微笑んで見せた。

「いいのよ、だって。なんだかんだ言って、春くんと一緒にいるのが、一番居心地がいいもの」

 夜にも関わらず、真珠のその笑顔が、太陽に光のように輝いて見えて。

 春は気が付くと立ち上がって、真珠に対して頭を下げるとともに、片手を差し出していた。

「よ、よろしくお願いします、月代真珠さんっ」

 すると真珠は呆れたように笑って、細く白い手を伸ばし、春の差し出した手を優しく握る。

「今まで通り『真珠ちゃん』でいいわよ。私たちもう、本当の恋人なんだから」

「う、うん」

「私も今まで通りに、行かせてもらうから―――だからよろしくね、春くん」

 こうして、菊森春と月代真珠は、本物の恋人になった。

 この二人が数々の困難を乗り越え、月代グループ総帥とその妻となり、世界的企業にまで発展させるのは。

 あと三十年後の、未来のお話。

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似合いの二人~契約カップルが本当の恋人になるまで~ 錠月栞 @MOONLOCK

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