【短編ミステリー】隣の部屋、異様じゃない?
榊原シオン
何気なかった日常に……。
「あ、どうも。こんにちわ。お引越しですか?」
先日、前の住人が出て行ったばかりの部屋ではあるが、隣の部屋に出入りをする男性の姿を見かけた為、ご挨拶位はした方が良いのかと思って、私は声を掛けてみた。
「……」
目の前に居た男性は、私の声が聴こえた筈だ。しかも、視線でも私の事を視界に収めていた。にも拘わらず、無視を決め込むと足早に錆びた古い鉄階段を降っていく。
(何よ! 無視する事無いじゃない! それとも何? 私は無視されてもいい程、ブサイクだとでも言いたいわけ!?)
私だって、華の女子大生の端くれだ。そりゃあ、まあ確かにお世辞にも美人だとは言えないかもしれない。でも、その分愛嬌を振りまいて今まで生きてきた自負がある。
(だからこそ、こっちから挨拶をしてやったっていうのにっ! 何なのよ! 何様のつもりなのよ! もう、こっちから絶対挨拶なんかしてやんないっ!)
私は、バッグから部屋の鍵を取り出し開錠すると、機嫌の悪さそのままに厚くもない入り口のドアを開け閉めする。
「うおっ!」
と、私が勢いよくドアを閉め過ぎたのか、部屋の中の壁越しに驚いたような声が漏れ聞こえた。
(え……? まだ人が居たの……?)
私の部屋は、この古いおんぼろアパートの二階の角部屋に当たる。なので、先ほどの男性が出て行った事で隣にはもう誰も居ないと思っていたのに、まだ室内に残っている人が居たらしい……。
私は急に恥ずかしくなった。
隣の部屋に残っている人が居たというのなら、その人は私が挨拶を無視された存在なのだという事は知らない訳である。
私は、急いでヒールを脱ぎ捨てると、足早に奥の部屋へと駆け込む。別に姿を見られている訳ではないが、少しでも隣人との距離を稼ぎたいとの心理が働いたのかもしれない。
そうして、暫くの間、奥の部屋でコタツにあたってジッとしていた訳であるが、そろそろ夕飯時だ。また入り口に近い部屋に移動しなければならなくなる。
(もう、そろそろいいかしら……?)
時間にして既に三十分程が経過していた。
流石に、そろそろ隣の機嫌の悪い住人の事など忘れている頃だろう。それにしても隣の部屋からは物音一つしやしない。
(前に住んでいた隣人の頃は、薄い壁からテレビの音が漏れ聞こえていたものでしたけど、新しい隣人さんはスマホでも
最近、若者のテレビ離れがネットニュースに挙がる程の事らしいが、私も例に漏れずこの部屋にテレビなんて置いていない。今の時代、スマホがあれば十分だし、日本放〇協〇に受信料を払うなんてのがそもそも勿体なく感じてしまう。
そんな事もあり、この部屋にはテレビなんて無い訳であるが、先ほど一瞬だけ聞こえた声から察するに残っていた隣人さんはかなり御年配の男性の声のように聞こえた。
(そんな人がスマホ弄りに夢中になるものなのかしら……?)
私は不思議に思いながらもスーッと入り口に近い部屋へと移動すると、設置された小さい冷蔵庫の扉を静かに開ける。
中には何も入っていなかった……。
まさかっ、泥棒!? と、一瞬頭を
でも、一度帰宅しまった今、また外出をするのは面倒くさすぎるし、そもそもまた入り口のドアを開け閉めする事は流石に気が引ける。
こうして、この夜は断食を決め込んだ訳であるが、私の機嫌の悪さがますます悪化した事は言うまでもない。
私は、華の女子大生だ。
ゆえに、講義の時間に合わせアパートを出入りする時間はまちまちであるが、その後の一週間で隣の部屋の住人の姿をちょくちょく見かけていた。
でも、妙だ。
隣室に出入りしているのは二人だけではなかった。日によって様々ではあるが、それこそ幾人もの人の出入りを目撃した私。
私が住んでいるこの古いおんぼろアパートは、古いだけでなく
あの男性の姿は、あれから一度も目にしてはいなかった……。
仮に、私を無視した男性が、ただ単に遊びに来ていただけだった。と、しよう。
その場合、二人の年齢層が違い過ぎるのだ。
私の事を無視した男性は比較的若かった。で、この部屋の本当の住人と目される方は、声から察するにそれなりの御年配な方のはず。
となると、親子という線も考えられるが、その場合は住む住人が逆でしょう。どうして父親がこんなおんぼろアパートに住む必要があるのよ。
しかも、出入りしているのはその仮親子だけなく、他にも出入りしている方々が居るの。しかも、女性まで含まれる……。
(え? ちょっと待って! それだと……。女性の方は愛人? 父親の方の不倫がバレて、別居中……とか?)
でもその場合、室内ではキャッキャウフフな展開が繰り広げられていると予想されるが、隣室はいつ
もし、隣室からキャッキャウフフな声が漏れ聞こえて来ていたならば、お相手すら居ない私は
流石に隣室のこの状況は異常だと思う……。
異常だよね?
間違いなく異常でしょ!?
誰か異常だと言って!
隣人が越して来た事を認識した一週間前、私は挨拶を無視された事で、もう自分からは隣人の方に挨拶をしないと決めていた。
私は一度決めたら曲げない性格だ。でも、今回ばかりは、話しかけないと決めてしまった自分自身が憎らしい。もういっその事、根掘り葉掘り聞いてしまいたい!
「どうして、そんなに人が出入りしているんですか?」
「出入りしている女性は愛人の方ですか?」
「いつも、物静かな室内の中で
井戸端会議に華を咲かせるおば様方や、昼のワイドショーを楽しみにしている方の気持ちが少し分かった気がした……。
でも、私はグッと我慢する。私は一度決めたら曲げない! 曲げないったら、曲げないのよっ!
でも、私の好奇心を抑え込むのもそろそろ限界が近い……。
そこで私は閃いた!
聞けないのであれば見れば良いのだ! と。しかも、私自身は視力2.0の、この素晴らしい目がある! それが、今のご時世に
でも、
しかも、覗き見た事で室内の
でも、この古いおんぼろアパートを出ていけない理由は、私にだってある……。
なので、淑女という観点からも引っ越し出来ないという理由からも、そのやり方は間違いなく論外だ。
なので、私は残された選択肢である、すれ違いざまの情報収集。その一点にこそ望みを掛ける!
なんせ、私には『視力2.0の私eye』が備わって要るし、私自身は観察出来るだけの知恵も有している。伊達に華の女子大生が、彼氏も作らず単位取得に明け暮れている訳ではないのよっ!
そして、ある日の夕方。私自慢の『視力2.0の私eye』が、決定的な証拠を目撃した!
何気ない感じで、コンビニ袋をぶら下げて歩いてくる、これまた比較的若い男性の方。
もう、徹底的に観察してやろうと決め込んでいた私は、そのコンビニ袋の中身もサッとチェックした。
そこで、私は見た!
『視力2.0の私eye』も捉えたし、私の明晰な頭脳も認識してくれた!
彼がぶら下げているコンビニ袋。その中には、おにぎりが二つ入っていたの。でも、問題は、おにぎりじゃない。おにぎりの下にある物こそが重要だったの。
そのおにぎりの下には、袋に入った白っぽい粉状の物が、さりげなく敷かれていた……。
流石、私自慢の『視力2.0の私eye』 よくぞ、見逃さなかったと、この時ばかりは私自身を褒めちぎったわ!
なるほど……。
木を隠すなら森の中。
白い物を隠すなら、コンビニ袋の中って事ね!
でも、私の推理が正しければ、私自身はとても危険な状況下と言えてしまう……。
だって、あのコンビニ袋の中の白い粉。あれこそ正に、麻薬に違いない!
つまりは、隣の部屋こそ、麻薬の受け渡し場所。ともなれば、色んな人が出入りしている理由にも説明が付く。そして、麻薬の受け渡し場所だからこそ、その事を特定されないように、室内はいつも物音一つせず静かなんだわ! きっと、室内では筆談か何かでやり取りをしているのでしょうね。
(え……。ちょっと待って。じゃあ、私が一番最初に挨拶をした男性。あの人は、実際に麻薬を使用した後だったんだわ! だからこそ、ラリってて、私の声に反応出来なかったに違いない!)
もうこれ以外無いし、自分の推理に何一つ
そうと解った私は、スーパーへと出向くのを諦め、古いおんぼろアパートの中へと取って返す。
私は、コタツに入らず一人膝を抱えていた。
だって、あの袋の中身が麻薬だとするならば、いまこそ正に隣室では麻薬の売買が行われているはず!
(私自身の身の危険を感じて、このおんぼろアパートへと戻ってきてしまいましたけど、逆にここに居た方が危ない? スーパーに
それに、今まさに隣室で麻薬の売買が行われているというのであれば、それこそ正しく通報するべきタイミングであろう。
麻薬の売人などを摑まえるのに必要なのは、それこそ正に取引現場だと聞いたことがある。ともすれば、今すぐにでも通報するべき案件であろうが、この壁が薄いおんぼろアパートへと戻って来てしまった事で警察に通報も出来ない。
(ならば、私が見張るべき? ただの一介の女子大生であるだけの私がっ!?)
そんな事出来る筈も無い……。
そして、どうするべきなのかを決められない私は一人膝を抱える。
(もし、隣室が麻薬の受け渡し場所なのだとしたら、その隣に住んでいるだけの私も疑われてしまうのかしら……。私は、ただ単にここに住んでいるだけなのに……)
この日は結局、一睡も出来なかった……。
それから、数日が経過した。
相変わらず隣室からは物音一つしない。実際に、あの日以降にも麻薬の売買が行われているのかどうかは定かでは無い。私は大学にも行かず、一人部屋で膝を抱えていた。
この部屋にいる方が、余程危険だという事は判っている。でも、もし外に出たタイミングで
それならば、この部屋で大人しくしていた方がマシだ。だが、この部屋に隠れ住んでいる事で、この部屋から発生した音に、麻薬を決めてラリっている隣の住人が怒鳴り込んでくるかもしれない……。
そう思うと物音一つ立てられない。私は今日も一人ビクつきながら一日を過ごす。
そして、そんな私の頑張りが遂に報われる日がやってくる。
遠くから聞こえ始めるパトカーのサイレンの音。それに伴い、今まで物音一つしなかった隣室が急に騒がしくなる。
そして、隣室から発生される声は複数人の物が混ざり合っている為、何を言っているかまでは聞き取れなかったが、なにやら怒声が行き交っているらしかった。
もしかしたら、この場に及んで逃げる算段をしているのかもしれない。
確かに、遠くからサイレンの音を響かせなどしたら、逃げてくれと言っているようなものだ。
まあ、これは完全に警察の不手際だろう。
ただ一つ気掛かりな事。
それは、ただの隣人であるだけの私も疑われてしまうのかどうか……。
でも、それも直ぐに潔白が証明されるだろう。私自身は麻薬なんて物に手を染めた事がない。もしかしたら尿検査くらいは要求されるかもしれないが、逆に言うとそれで身の潔白は証明される。
あとはこの部屋を調べ回られるのだろうか……。と、私は狭いゆえにあまり物すら置けないおんぼろアパートの中を見渡す。
もし仮にこの部屋を色々と調べられて、布団なんかも使い物にならなくなった場合、警察はちゃんと弁償してくれるのだろうか?
そんな事を考えていた最中、この部屋のドアが数回ノックされる。
やはり、少なくとも事情聴取くらいはされるのかもしれない。私は諦め心半分で、おんぼろアパートのドアを開ける。
そこには、くたくたのブルゾンを着た御年配な男性の方が居た。
その方は、ポケットに手を突っ込むと、何やら手帳らしい物を取り出す。そして、その手帳の表紙には桜の花が
(実家でドラマを見ていた時と一緒だ。警察手帳、初めて見た)
私は少し感動してしまった。この人は、私服警官という事かもしれない。
「警察の方が来ることは判っていました」
「ん? 本官が来ることを予期していたと?」
と、何故か私服警官の方が、私の発言に
「ええ。それで、目的の方は捕まえられたのですか?」
「はあ。まあ、何とか……。って、さっきから貴女は何を言っているんです?」
「だって、あなた方警察は麻薬の取引現場を、取り押さえに来たのでしょう?」
「正しく、その通りではありますが……。なぜ、貴女がそんな事を知っているんです?」
「だって、状況証拠が揃ってましたもの。なので、
「え? 貴女自身が麻薬をやっているという自白でありますか?」
と、ここにきて私服警官が一番の驚きを露わにする。
「だって、貴方様はその為に私をお訪ねになったのではありませんか?」
「んんん? なんかどうにも話が嚙み合いませんね……。まず、本官の目的でありますが、本日は一言お礼をと伺った次第なのですよ」
「え? 私は疑われているのではなく、今からお礼を言われるのですか? 正直、私自身は何もしておりませんが……」
「ええ、ええ。だからこそです。物音一つ出さないよう気を使ってくれていたでしょう。よく、本官が集音器を使っているとお判りになりましたね? あ……。もしかして一度、扉の開け閉めの音に驚いて声を出してしまった事がありましたが、それでですか?」
「え? 声?」
「ええ。隣の部屋でしばらくの間ご厄介になっていたのは、本官でありますから」
「え? ええええええ! だって、隣の部屋こそが麻薬の取引現場ではないのですか!?」
「いやいや! 違います。麻薬の取引現場は、向かいのデカいマンションなんですよ。私は、そこに麻薬の売人が潜んでいるという情報を入手した為、向かいから様子を確認出来る隣室にて張り込みをしていた訳です」
「え? だって、私は若い男性の方が、コンビニ袋の中におにぎりと一緒に白い粉状の物を運んでいるのを見ましたよ!」
「ん? コンビニ袋に、白い粉状の物……? ああ、あれは砂糖ですよ。本官は根っからの珈琲党なのですが、根っからの甘党でもありましてね。砂糖が欠かせないのでありますよ。それに、コンビニの袋が白く半透明で光を通す事から、麻薬と見間違えたのかもしれませんね」
と、私服警官は、そういう事かと豪快に笑う。
「えっ! じゃあ、じゃあ、人が多く出入りしていたのは?」
「確かに、本官はこの道一本の仕事人間ではありますが、警察官である前に一人の人間なのですよ。なので、食事も必要であれば、睡眠だって必要です。それとも、本官は睡眠すら一切取らずに見張らねばならないのですか?」
と、またまた豪快に笑う。
「えっと、では、もしかしなくとも全ては私の勘違い……ですか?」
「ええ。どうやら、そのようですね。ただ、今回はその勘違いに助けられました。取引現場を特定出来ましたから。わざわざ遠くからサイレンを鳴らしてしまう、派出所の馬鹿どもとは、えらい違いです」
どうやら、サイレンの音で隣の部屋が慌ただしくなったのは、逃げる為では無く、売人達に逃げられないよう慌てていた事と、サイレンを鳴らしてしまった警察官に対し
「本当に只の私の勘違い? え、でも、最初に隣に越して来たことを確認した日に、若い男性の方に挨拶しましたが無視されましたよ?」
「ん? 越して来た初日? つまりは、張り込みの初日って事ですな? ああ、あの日はアイツが砂糖を買い忘れてたもんで、怒鳴ったんですよ。かなり本気で怒ってしまったので、アイツも挨拶を交わす心の余裕がなかったのかもしれませんね。すみません、これは完全に本官のせいです。貴方様が挨拶をして下さったというのに、申し訳ない」
と、頭を下げてくれた。
そして、くたくたのブルゾンを着た私服警官は、私に再度お礼を伝えてくれた上で、隣室へと戻っていった。なんでも、今日中には隣室から引き払うらしい。
こうして私には、いつもの日常が戻って来た。
緊張感から解放された私は、ベランダに出て、大きく伸びをする。要らぬ心配から、いくつか大学の単位を落としてしまった……。
(まあ、いいか……。これからは、もう少し柔軟に生きていきましょう)
そして、この考えが彼女の転機となる。
今まであまりの融通の利かなさに、彼氏すら出来なかったのだが、大学を卒業した数年後、彼女は結婚していた。
確かに、隣室は麻薬の取引現場では無かったものの、非日常な男性が仮住まいしていた為、異様な部屋であった事は間違いなかったのであった。
『隣の部屋……。異様じゃない……?』
完
【短編ミステリー】隣の部屋、異様じゃない? 榊原シオン @sion0411
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