第9話 記憶喪失の結末

 れいながどんどん記憶が薄れていくことで、それに反してなのか、彼女がどんどん聡明になっていくのが感じられた。

 何か彼女を包んでいたベールが剥がされているように思えて、

「今なら、彼女の表現したいことが何であるか、そして、それを自分で表現できるところまで来ている」

 と思っているのではないかと思えた。

 ベールというのは、表に出そうになっていることを抑える力があるのだが、逆にその見えない力を形に表すという意味でも用いられるのではないだろうか。

 そこまでれいなは分かっていなかったようで、

「ベールに包まれていることは、表に出すべきものではない。だから、隠しておきたい時に使うんだ」

 と思っていたようだ。

 れいなは記憶が薄れている時、一番素直になる、意識が朦朧としてくる中で、素直な彼女を見ていると、

――なるほど、新人離れした演技ができるのが分かる気がする――

 と思っていた。

 あざとさを包んでいるのが、記憶という意識を持ったれいなであれば、記憶が薄れてくると現れるのが、素直な気持ちを表に出すれいなであろう。

「ジキルとハイドのようだわ」

 と、正対する二重人格者を描いた作品を思い出すのだった。

 話はかなり恐ろしい、ホラーであるが、ハイド氏というのは、ジキル博士が自分で開発した薬によって作られたものであり、先天性として持っているものを、増幅させることで表に出すという、これも正対する理論を、どちらも納得させる形で文章にできるところが名作と言われるところではないだろうか。

 れいなは、記憶が薄れて行く中で、

「私って、二重人格じゃないかって思うようになったの」

 と最近いうようになった。

 菜々美が見ている限りでは、そんな感じはなかったが、言われてみると、演劇をしている時に時々見せるあざとい演技が、どうもウソではなさそうな気がしてきた、あまりにもリアルに感じられるという感じである。

「ジキルとハイド」

 というお話は、クスリによる作用によるものであるが、トラウマによっても、二重人格になる可能性は十分にあるのではないだろうか。

 そのことをれいな自身が意識していて、その二重人格性がどこから来るのかを調べたいという意識から、演劇の世界を覗いてみると、意外と面白いことが分かり、二重人格の自分を確かめたいという思いとは別に、純粋に演劇をやってみたいという思いも生まれてきたことに気づいていたようだ。

 だが、そのこと自体、自分の二重人格性を表に出しているということになるのではあいかというのが証明されることになっていると、分かっているのだろうか?

 菜々美は、れいなを見ながら、自分がれいなになったつもりで見ていることで、れいなが意識として持っているのか分からないが、潜在意識として感じていることを、自分が感じているのではないかと思うのであった。

 れいなが中学の頃、母親に対して抱いたトラウマと、自費出版社に対して感じたトラウマ、似ているようでまったく違っているトラウマが、同じ自分の中にあると思うよりも、自分の中に、

「ジキルとハイド」

 がいて、それぞれにトラウマとして残っているのではないかと思うと、どちらかが表に出ようと自分の中で入れ替わる時、記憶の薄れが出ているのだとすると、そこに何か今まで感じたことのない何かが潜んでいるのではないかと感じるのだ。

 よく、

「長所と短所は紙一重」

 であったり、

「長所と短所は裏表」

 と言われるが、一見、まったく違っているもののように思えるが、実際には同じものではないだろうか、

 裏表と言っても、その間に境界線があるだけで、境界線が、紙一重だと思うと、あながち間違っているわけではない。ただそれぞれに特徴があるだけで、その特徴を網羅しているかどうかが問題なのだ

 特に裏表というと、実際にお互いが見えているのかどうかが問題になる。ジキルとハイドのように、一つの身体を共有していると、一つが表に出ている時は、片方は裏に隠れている。それが普通のように思える。裏表と言われるものに、果たして両方が表に出てくるというものが存在するかどうか、そちらの方がないようにしか思えない。

 ただ、自分が何かの行動をする時に、自分が天邪鬼だという意識からか、考えていることと、反対のことをしてしまい、歯止めが利かなくなることって結構あるのではないだろうか。それを天邪鬼だと言って、考えていることと別の行動をしてしまうこととして、性格の表裏や、長所、短所とは切り離して考えるのではないだろうか。

 確かに、自分が行動する時、考えていることと違うことをしている自分を感じることがある。

「どうして、自分の意識にはないのに」

 と思うと、それを、

「今の自分は夢を見ているのではないか?」

 と思ってしまうだろう。

 夢を見ているのだと思うと、結構大胆になるもので、まったく思ってもいない行動をしている自分が、夢の中であれば、どんなことをしたっていいと思うと、怖いというよりも、興味津々の思いが強くなってくる。

 そして、自分の行動が本心から出ているのではないかと思うと、余計に行動を抑制することができなくなってしまうのだった。

 意外と行動に移してみると、

「どうしてそれまで行動しなかったんだろう?」

 と思うほど、難しいことではなく、自分の気持ちに正直になっている自分に気づくのだった。

 行動しながら、考え方と矛盾しているという思いもある。だが、自分の身体が拒否をしているわけでもないという感情から、

「ハイド氏というのは、裏で表の自分のために何かをしようとしているのかも知れない」

 と思うと、悪いことばかりではないように思えた。

 小説の上では、完全に自分とは違う人物であるかのようなのだが、実際には本当の自分の気持ちであり、その矛盾をいかに正当化しようと考えると、

「ハイド氏というのは、自分が眠っている間にしか行動できないもので、見ることはできないものなのだ」

 と感じる。

 以前に自分で書いた小説の中に、

「もう一人の自分」

 というのをテーマにして書いたことがあった。

 それは似ている人間であったり、ドッペルゲンガーのようなものではなく、もう一人の人物が違う次元にいて、十分先を生きているという発想だった。

 つまりは、十分先にいる自分のその世界は、別の次元だという考え方である。

 ただ、この考え方は、もっと言えば、この先に無限に広がっていく可能性という世界は、すべて別の次元であるというものであり、だから、同じ人間が同じ次元で存在することは許されないということである。

 これこそがタイムパラドックスなのかも知れないが、

「いつ何時、自分の前を歩いている人が振り向くと、そこに自分がいたなどということがあるかも知れないが、それを人に知られると、ドッペルゲンガーを見たということで死ななければいけないというジレンマから、決して誰にも言わないだろう」

 言わないから、事実を誰も知らない。これが一種の矛盾であり、パラドックスというものではないだろうか。

 菜々美は、楽器が苦手である。なぜかというと、左右で別々のことをできないからだ、ついつ、同じ動きをしてしまいそうになり、まったく動かなくなってしまう。それが、楽器のできない証拠であり、これは、右が表に出ていれば、左は表に出ない。左が表に出ていれば右は表に出ないということで、片方の手に従事してしまうからではないだろうか。

 そう思うと、二重人格であったり、裏表のある人の存在を納得できる気がする。そして、自分も同じような二重人格性を持っているような気がしてきた。

 れいなが記憶を失っていく中で、果たして、れいなだけが記憶を失っているのかどうか、そのあたりも自分でよく分かっていないような気がする。夢を覚えていないのだって、同じようなもので、

「夢というのは潜在意識が見せるもの」

 というではないか。

 潜在意識というのは、無意識の意識と言ってもいい。無意識というのは、表の自分が分かっていないだけで、裏の自分が暗躍していることだとすれば、

「夢というのは、裏にいる自分にとっての現実であり、夢の中の人たちも知っている人なのに、まったく違う人物のように接してくる。自分の名前を呼んでいるのに、違う人間に接しているようだ」

 と感じるのは、やはり、夢というものが、まったく自分とは違う人間を相手にしているからなのだろうか?

 いや、まったく逆で、夢というもの自体が別次元のもので、もう一人の自分がこちらの世界で何もできないので、夢の世界という別次元で行動したことを夢に見ているのではないだろうか、

 ということは、逆に夢の中の自分も同じように夢を見ていて、現実のこの世界の自分を夢として見ているのだとすれば、それはそれで納得できるような気がする。

「こんな小説を書きたかったんだよな」

 と菜々美は思って、メモに書いた。

 菜々美は、結構忘れっぽい性格で、せっかく何かに閃いても、すぐに忘れてしまう。そう思ってメモに書くのだが、すぐにメモに書いたことすら忘れてしまっている。だから、ネタ帳というものを作り、何かを思えばそこに書くくせをつけるようにした。定期的に見るようにすれば、書いたことを忘れていても、メモを見ることで思い出せるというものだ。

 だが、結構いいことを思いついた時に限って、肝心なことを忘れてしまっている。その時の気持ちに何とか戻ることができると思う出せるのだが、最初はなかなかそうもいかなかった。

 だが、自分で印象的に感じたことというのは、えてして何度かは思い出すようで、

「前にも感じたことがあったような気がする」

 と思った時、ネタ帳を見ると、結構思い出せたりするものだった。

 その中には、かつての禍が世間を蹂躙していた時期に感じた恨みや憤りを書き散らしたもの。さらに、かつての自費出版社のような悪徳商法を懲らしめるかのような内容のネタだったりがあった。

 その中には、結構記憶を失うという設定の話が書かれているものもあり、プロットに近い形のものを三年くらい前の大学卒業前くらいに書いたものが見つかった。

 そこには、自分が登場人物の名前とキャラクターの設定が書かれていた。菜々美としてはそこまですることは結構珍しかったのだ。

 その中の主人公のなまえが、れいなという名前だったのだ。

 そういえば、劇団の中で仲良くなった時、名前を聞いたのだが、その時に、

「竹内れいなって言います」

 と言われた時、何となく懐かしさを感じた。

 今から思えば。自分で書いた小説の中のれいなと、現実のれいなを重ねてみていたようだった。

 しかし、性格的には結構違っていた。小説の中のれいなは、女らしいというべきか、嫉妬深かったり、お金に執念深かったりしたものだったが、なぜか、自費出版にはお金を払ったのだ。

 実は、元々、本を出したいという意識があり、普通の自費出版でもいいという思いからか、自費出版に手を出したのだ。

 このエピソードの原点は、高校時代の先生のものだったが、先生の話を訊いていて、

「実際には誰も口にしないだけで、結構まわりには小説を書いていて、自費出版に手を出した人も多かったのよ。もちろん、中には、自分にもできると思い込んで、実際にはほとんど勉強もせずに自我流の人もいたんだけどね。だから、まわりを見ていると、皆同じ気持ちなのかと思って、ある意味、少し気持ちが冷めかけていたことがあったの。そういう意味で、早めに目が覚めたのかも知れないわね」

 と言っていた。

 その中に、中学時代のれいなもいたわけだ。

 だが、先生の気持ちも分からなくもない。確かに、小説というのは、そんな簡単に書けるものではない。最後まで書けるようになるまでがどれほど大変なものなのか。そういう意味では、端にも棒にもかからない小説を書いている人でも、最後まで書ききっていれば、菜々美はそれはそれで評価できると思っていた。

 これからどんどん上手になる可能性を秘めていると思ったからだ。

 そういう意味では、最初の作品があまりにもひどいからと言って、その人の実力をその時点で判断するのは早急すぎる。

 だから、小説を書くということは、

「継続は力なり」

 という言葉と同じなのではないかと、菜々美は思うのだった。

 どれだけの力がその人に潜在しているかは分からないが、まずは、小説を最後まで書ききるということがどれほど難しく、それを達成できるようになることが一番大切なのだということを知ることが、小説を書き続けるための、第一歩でもあるのだ。

 れいなは最近、奇妙なことをいうようになった。何かの妄想のようにも思えるのだが、それはれいなが記憶を失っているその部分に忍び寄ってきたものであろうか?

 ただ奇妙なことと言っても、冷静に考えると、そんなにおかしなことを言っているわけではない、むしろ正論に近いくらいであった。それを正論と思えないのは、普段のれいなが言っている言葉と違っているからだと思えたのだ。

 よくよく聞いてみると、

「私が時々感じていることだ」

 と感じたのだ。

 かと思えば、菜々美が最近感じていることで、無意識に頭の中で口ずさんでいる言葉があるのだが、それは菜々美がいうようなセリフではなかった。

 しかも、そのセリフを独り言だと思っていると、

「菜々美って最近変なことを口走るよね?」

 と劇団の人から言われたのだが、そのセリフというのは、そのすべてが、れいなの役のセリフだったのだ。

 すべてが同じ芝居のセリフではないため、誰も、それをセリフだという意識はない。だから、れいなにもきっと菜々美が口ずさむことが何なのか分かっていないかも知れない。

 芝居というのは、それだけ自分の中で集中していて、集中していない時に、自分のセリフを訊いても、案外ピンとこないものだ。

「これ、あなたのセリフじゃない。しっかりしてよ」

 と言われることもあったくらいなのだが、それがどうしてなのか、れいなも菜々美も分かっているので、納得ずくのことであった。

 しかし、セリフに関しては自分で言っているという意識がないので、分からない。やはり集中力が強ければ強いほど、意識がないのかも知れない。

 菜々美はそのことと、記憶が薄れてきていることが、どこかで重なっているような気がして仕方がなかった。

 記憶喪失というのが、いろいろな原因によって起こることであるのも分かっている。何かショックなことがあったり、トラウマから起ころこともあるだろう。しかし、まさか二重人格のもう一人の自分が関係していたり、自分の集中力の強さが影響していたりということを考えたことはないであろう。

 そのあたりの感情であったり、無意識な潜在意識が夢と重なり合って、そこから記憶が薄れていくこともあるのだ。

 ただ、記憶が薄れるというのは、本当にすべてを自分の中で、

「なかったことにする」

 という意識の表れなのだろうか?

 何か先を目指すうえで必要なことなのかも知れない。

 そういえば以前絵を描いている人から話を訊いたことがあったが、

「絵描きというのは、目の前にあるものを忠実に描くだけのものではないんだ。時として大胆な省略も必要であり、省略したところを想像力で補うこともある。不要だと思うことが必要になることだってあるんだ」

 と言っていた。

 それを聞いて、

「大胆に省略するというのは、いきなり一気に叩き斬るかのようなイメージでいいんですか?」

 と聞くと、

「もちろん、徐々に薄れて行くことをイメージすることだってありなんだ。何しろ目の前にあるものを消し去るんだから、一気に消し去ってしまうと、無理がある。なぜか分かるかね?」

 と訊かれて、

「いいえ」

 と答えると、その人はニッコリと笑って、

「消し去った向こうに何があるかというのを創造しないといけないだろう? 実際には消し去るものが構えているのだから、その向こうに何があるのか分からない。それを創造するためには時間が掛かるかも知れないよね」

 と言われた。

「確かにその通りです。その創造にどれほどの時間が掛かるかは人それぞれなんでしょうけど、創造することができない人は、大胆な省略もできないということでしょうか?」

 と聞くと、

「いや、そんなことはないんだけどね。でもね、創造ができない人というのは、大胆な省略ということを思いつかないんだよ。それだけ、ちょっとした発想でも、考えることというのは難しいということなんだ」

 と言われた。

 人が発想することは、他人から見れば、

「そんなこと当たり前じゃないか」

 と言われるようなことであっても、結構難しいことはあるもので、ちょっとした発想の転換ができないものだ。

 これはまるで、自分で自分の顔を見るのと似ているのではないだろうか? 自分の顔を見ようとすると、鏡であったり、水面に写すなどの何かの媒体を使わないとみることができない。

「自分のことは自分が一番よく分かっているはずではないか」

 と思うが、実は自分のことは自分が一番分かっていないものなのではないだろうか。

 また、別の話で面白い話を訊いたことがあった。

「黒い鳥はすべてがカラスである」

 という言葉を例に出して、

「それを証明するにはどうするかということなんだけど、君ならどうする?」

 と言われて、

「そうね、私だったら、普通に黒い鳥を全部調べて、カラスだということを証明するでしょうね?」

 というと、

「でも、逆もあるんだよ。黒くないものを調べて、それがカラスではないということを証明するのも一つなんだよね」

 と言われた、

「どういうこと?」

「黒と、黒でないもののどちらを調べるのが大変かということは別にして。逆も真なりなんだ。黒い鳥はすべてがカラスだと言っているんだから、黒い鳥を調べる必要はないんだ。それがもし、九官鳥であっても、関係ないからね」

「ん?」

 菜々美はまだよく分からなかった、

「だって、黒い鳥はすべてカラスだと言ってはいるんだけど、黒い鳥はすべてカラスだとは言っていないのよ。だから、九官鳥が黒くても問題ないということだね」

 というではないか。

「なるほど、そういうことか」

 何となく納得はしたが、いまいち話の内容が分からなかった菜々美だったが、今回のれいなの記憶が薄れて行く中で、どこか関連性があるように思えてならなかった。

 だが、それがどこから来るのか分からないというところもあり、気持ちの上では曖昧であった。

 次第に、れいなの記憶が薄れていっている中で、れいなを見ていて何かが発見できそうになるのだが、肝心なところで曖昧になってしまう。ある程度までは突き詰めているにも関わらず、結界なのか、シートに阻まれているのか、その先が見えてこない。

「これだけいろいろなことが頭に思い浮かんでくるのに、どうしたことなんだろう?」

 とは思う。

「記憶が薄れていってはいるんだけど、最初の勢いほどではないような気がするんだ。ある程度まで記憶の喪失が進むと、そこで下げ止まってしまうという感覚なんでしょうかね?」

 とれいなは感じているようだ。

 菜々美は、逆に今、いろいろなことが頭に浮かんできて、どんどん消えていく。それがまるでれいなの頭の中にあったことではないかと思うほどに、いろいろなことであった。

 だが、まったく繋がっていない突拍子もないというようなことではない。どこかで繋がっているようなのだが。そのつながりがどこから来るのか分からない。

 菜々美はそれを自分で書き留めた。そして、それをれいなに見せると、れいなも驚いて、

「それ、まさに私が思っていたことだわ」

 と言って、ふたりで、思い出しながら、脚本にしてみた。

「これって、お芝居にできればいいのにね」

 と最初に言ったのはれいなだった。

 だから、れいなに任せてみたのだが、

「意外といいかも知れない」

 と菜々美も思い、思い切って団長に脚本を見せた。

「これは面白いわね。脚本はれいなさんが書いたのね。そして、菜々美さんも同じ発想だったのね」

 と言われて、

「はい、そうです」

 というと、

「じゃあ、監督は菜々美さんがすればいい。分からないところとかは、私がフォローするから」

 ということで、菜々美が監督をすることになった。

 内容は、れいなの頭の中を夢という設定で描くものだが、芝居にしてみると、見ている人が皆、一瞬記憶を失う瞬間があるという。

 それがどこで失うのかはハッキリとはしないのだが、劇を見た後の皆さんの印象として、

「もう一人の自分が自分を支配している、そんな夢を見たような気がするんだ」

 というではないか、

 そして、最後にこう付け加えている、

「夢というのは、いつも曖昧だと思っていたけど、今日の芝居を見ると、本当に曖昧なのかが分からなくなるほど、演劇自体、曖昧だった。まるで、そこか肝心なところを大胆に省略しているかのように感じるんだ」

 と……。


                (  完  )

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記憶喪失と表裏 森本 晃次 @kakku

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