第8話 自費出版社系の会社

 冷静に考えれば、そんな時代が長く続くなどとは思わないと、どうして誰も思わなかったのかと、後になって考えると誰もがそう思うだろう。

 しかし、現実には、お金を流通することで儲かる仕組み以外には、考えられなかった。事実がすべてだとすれば、誰がそれ以外のことを想像し、警鐘を鳴らすなどできるというのか。

 何しろ、それまで言われてきた神話なるものがことごとく崩れていったのだ。

 何と言っても、その代表格が、

「銀行は絶対に潰れない」

 という、銀行絶対神話であった。

 バブルが弾けたという表現と同時期、大手銀行が破綻してしまった。考えてみれば、当たり前のことであり、バブルが弾ける。つまり、お金の流通がぎこちなくなると、それまで実態のないもので動かしてきたお金の価値が下がってくる。それまでは実態のないものでも金銭の価値がそれに見合っていたので、何とか回っていたということだったのだろう。

 副業に手を出して、どんどん事業を拡大していたら、拡大した分が回収できずに、不良債権となってしまう。

 その不良債権を一番担うのは、企業に融資している銀行である。バブルの時期は、銀行は必死になって営業を掛け、融資をどんどん仕掛けていったのだが、その分がそのまま焦げ付いてしまうのだ。ほとんどの企業に融資した分がそのまま不良債権となって、莫大な負債を抱えてしまう。

 銀行といえども、ひとたまりもないのだ。

 企業は民事再生を掛けると、銀行も債権を抑えられなくなる。そうなると、銀行も支えきれずに、倒産してしまう。企業はあてにしていた銀行に潰れられて、万事休す。お互いに潰しあったかのような悲惨な状態だ。

 銀行も一般企業も、生き残るためには、どこかの企業と合併するしかなかった。そのために、

「元はどこの会社だったんだ?」

 と思うほど、名前の長い会社になったり、まったく違う会社に生まれ変わったりしている。

 それが適わなかった会社は、必然と潰れるしかないのだろう。

 そんな時代を何とか乗り越えた会社も、それまでとはまったく違った経営方針を打ち出すしかなかった。

 何とか合併して生き残ったとしても、今までのようなことをしていては、あっという間に潰れてしまう。

 まずは、拡大した事業の縮小だった。そこには、事業所、工場、流通センターなどの閉鎖、それに伴うリストラ、ちなみに、解雇することのリストラという言葉が、この頃から言われるようになったのだ。

 さらに、経営方針を、売り上げ拡大から、経費節減にすることで、利益を何とか保とうという方法が試されることになる。

 当然、既存の事務所でも、リストラが行われ、それだけの人員で賄えなくなると、今度は、パートやアルバイト、さらには派遣社員という形での、

「非正規雇用労働者」

 という人たちを雇うことで、何とか人件費を賄おうとするのだ。

 だが、今はその問題が大きくなってきている。

「働き方改革」

 などという、寝ぼけた方針を政府は打ち出しているが、これもバブルを彷彿させると思っているのは、思ったよりも少なくないかも知れない。

 このバブルの崩壊という事実、これは、今の時代に繋がるものではないだろうか。

 数年前の禍の時、

「かつて、こういう時代が最近あったというのを学校で習ったような気がするんだけどな」

 と思ったが、すぐには思い出せなかった。

 それはきっと頭の中にはあったが、意識としてあまり感じていなかったからではないかというバブルという時代を彷彿させるからだった。

 バブルという時代には、

「どうして、あの時、誰も気付かなかったんだろう?」

 という思いがあるのだが、数年前の禍の時は、

「このまま進めばどのような悲惨なことになるか、分かっているはずなのに」

 と誰もが思っているのに、国家や自治体に、策がなく、

「専門家の先生のお話を伺いながら、善処していく」

 というセリフをまるでレコーダーによるエンドレスで聞かされたセリフのように、耳にも残らない、まったく説得力もなく、薄っぺらい言葉でごまかしながら、何度も何度も、甘っちょろい策しか取れずに、社会崩壊を招いたのだ。

 専門家の先生も、政府のやり方に危機感を示していた。

「そんな専門家の意見を聞きながら」

 という言葉のわりには、自分たちの利権に絡むことであれば、無視してしまう。

 口で言っているだけの政府だということは、そんな禍がくるまでの国民は皆知っていたのだ。

 それなのに、政府は孤立してしまったかのように、今度は世論を無視して、自分たちの利権のために突っ走る。もしあのまま国家が転覆していれば、責任のすべてが政府だったであろう。

 政府与党がダメなら、野党もダメ。

 批判ばかりして、対案をまったく示そうとしない。批判だけしかしていないので、その趣旨はバラバラで、誰が信用するというのか。

 政府与党が世論調査で支持率が裁定になっているのに、野党も一桁という体たらくには、さすがに国民は、政治家というものすべてに疑心暗鬼になっていることだろう。

「本当にどうなるんだ。この国は」

 と、皆が言っていた。

 悪いのは政府だけではない。むしろ、もっと悪いと言われているのは、マスゴミだった(もちろん、マスコミなどという言葉は認めない)

 そんなマスゴミに世論も踊らされ、自粛を叫びながらも、一部の人間を煽るかのような報道は、政府と同様に、世の中に、

「人災」

 をもたらしていた。

 特に今の時代はネットが主流で、SNSなどのサービスも充実していて、いい面もあれば、悪い面もある。

 悪い面というのは特に、こういった国難の時期に起こる誹謗中傷であったり、デマを誘発してしまうことだった。

 誹謗中傷やデマはやはり想像された通り、いや、それ以上に蔓延していた。

「もう、何を信じていいのか分からない」

 というのも本音で、国民に自粛を呼びかける政府や自治体の職員などが、大人数の会食で、感染してしまうなどという不祥事と言ってもいいことが、頻繁にあった。

 それをマスゴミは必要以上に叩く。

 国民はそれを見て、誰もが勧善懲悪に目覚めてしまい、神経が過敏になって、

「自粛警察」

 なる、自分たちの理論でしかない正義を他人に押し付けようとする輩が出てくることになるのだ。

 そんな時代を背景に、政府は、批判されながらも、たくましく生き抜いている。それこそ、台所に救う、誰からも嫌われている脂ぎったあの虫のようではないか。

 そう、国家権力に胡坐をかいている連中は、どこかで一つ不祥事が出れば表に出ていないだけのものが十くらいはあると思ってもいいのではないだろうか。そう思っているのはほとんどの国民で、国民から見れば、政府は

「百害あって、一利なし」

 というくらいにしか思われていなかっただろう。

 何しろ、国難の時期で、何をおいても守らなければならない国民の生命や財産を、

「安心安全」

 と壊れた蓄音機のように繰り返して言っているイベントに執着しているのだから、もう誰も信用などしない。

 そこまで政治というものが腐敗している最低の国家だったのだろう。

 今は禍も少し落ち着いてきて、国家としての体裁を取り戻しつつあるが、一度失った国民の信頼を取り戻すことが本当にできるのか?

「まず無理だろう」

 という人が、調査ではほとんどだった。

 誰の目から見ても明らかなその状態。誰にもどうすることもできない状態が、かつてのバブル崩壊の時代にもあっただろう。違いといえば、国家がもう少しましだったということだ。政治家の質なのだろうか?

 当時のバブルが弾けてからの時代というのは、前述のように、リストラのあらしが吹き荒れ、人件費などの経費節減が叫ばれるようになった。

 会社は、人件費を減らしたために責任者だけを置いて、それ以外は正社員以外で賄うというようなやり方になり、しかも、経費節減から、残業手当もなく、電気をつけていると、怒られる始末だった。

 確かに仕事は大幅に減ったが、実際に一人に対してこなせる量は、却って増えたと言ってもいい。

 そんな中で、社員はそれまで会社に使っていた労力を他に向けるようになった。

 それまでは、それこそ、

「徹夜の仕事が何日も続く」

 ということで、スタミナドリンクが飛ぶように売れた時代だったのが、

「残業はしてはいけない」

 ということになった以上、定時には帰るようになった。

 その頃に言われていたのは、

「五時から男」

 などというように、定時になってから、急に張り切り出す人が目立ってきたということである。

 どうせ会社であくせく仕事をしても、給料が上がるわけでもなく、ボーナスも支給されないなどという時代も結構あった。

 そんあ時に流行り出したのが、趣味にお金を使うということであった。

 スポーツジムであったり、芸術に対してのカルチャー教室であったり、それまで仕事でできなかったことをしようというもの、いわゆる自分のスキルの向上であった。

 スポーツジムなどは結構流行っていたようだ。仕事が終わって、それまでのなまった身体を鍛えるということに目覚めた人も多かった。

 テニススクールというのも結構流行っていたようで、さすがにゴルフなどの、

「バブルの象徴」

 には手を出す人は少なかっただろう。

 気軽にできるものが流行るということで、芸術的な教室も多かったようだ。

 女性であれば、花嫁の嗜みと言われたようだ、お茶、お花などを一般の人が習い始めたり、絵画教室や、小説講座なども人気だっただろう。

 その中での小説講座。

 それまでは、なかなか続かないことの最たる例だったようであるが、徐々に小説を執筆する人口が伏せてくると、

「主婦や学生でも小説が普通に書ける時代」

 ということが言われ始め。それまでコンクールや小説文学賞などを制定しても、あまり応募者はいなかった。

 しかし、小説を書く人口が急激に増えてきたという情報が世間に出回ると、

「自分にだってできるのではないか?」

 ということで、皆ダメ元で小説を書いて、文学賞に応募したりするようになった。

 それを見てできてきたのが、いわゆる、

「自費出版社系の出版社」

 の出現であった。

「小説を書いても、今までであれば、文学賞に応募するか、あるいは、出版社に原稿を送りつけるか、直接手渡しするかのどちらかだっただが、まず間違いなく、開封をすることもなくゴミ箱入りだろう。

 いくら小説家書く人口が少なかったとはいえ、数少ない出版社に対して、小説を書く人は結構いた。その中で何人かが小説を書いて持ってくるのだから、編集者としても、自分の忙しい中、素人の小説など見る暇はないというものだ。

 ただでさえ、プロの先生の原稿を切り盛りするだけで大変なのに、素人にまで構っている暇はないというものだ。

 そんな時に現れたのが、

「原稿をお送りください」

 という見出しの自費出版社系の会社だった。

 バブルが弾けて増え始めた小説を書きたいという人の受け入れ口として、さっそうと出版社業界に名乗りをあげた。最初こそ、どこの馬の骨だったのだろうが、実際にどんどん原稿が送られてくる、

 そこで彼らは、その小説を読んで、批評を作り、見積もりと一緒に送り返してくれるのだ。

 今までは、読んでもらえたかどうかも分からない。(すべてがゴミ箱だったのだが)それに比べて、自費出版社の返信には、キチンと間違いなく読んだと言わんばかりに、レビューを書いて返すのだった。

 彼らの評価は、すべてが褒めちぎっているわけでも、貶しているわけでもない。

 最初に批評を書いたうえで、褒め言葉を書くのだ。

 信用してもらいたいという思いもあるのだから、いいことばかりしか書いていなければ、どこか胡散臭いと追われるだろう。しかし、最初に批評をしておいて、その後でいいところを書くのだから、筆者も信用するし、いいことが後なのだから、有頂天にもなりやすい。実にうまくできているではないか。

 まず、そこでコロッと騙されるのだ。

 作品がどんどん集まってくるようになると、出版社の方は、コンクールを始めた。年に二回の文学賞に、定期的なジャンルごとの文学賞、ミステリー、ホラー、恋愛などとそれぞれのジャンルで募集も掛けている。

 しかも、著作権に抵触しない程度の二重投稿は可にしているし、一人で何作品もいいことにしているので、その数はどんどん膨れ上がってくる。

 貰った作品を評価するのだが、その際にランクをつける、大賞一作品、佳作数作品などとして、それらの作品は、出版社から企画作品として、すべて無料で文庫化する。そしてそれ以外のほとんどの作品(文章として、あまりにも拙いもの以外)には、出版社と筆者との間で折半することで費用を出し合い、本にするという提案を見積もりという形で行う。

 その際に、後一歩で佳作のレベルなどと筆者をおだてておいて、今本にすれば、いろいろな人に見てもらえて、プロになれる可能性もあるなどと言っておだてられれば、筆者の中には、

「それなら、本にしてもいい」

 と言って、本の制作をお願いする。

 しかし、ここがひどいところで、定価に部数を掛けたよりもさらに高額を筆者に課せるのだから、悪徳商法もいいところである。

 もっとも、単純に考えておかしいと思わない筆者もどうかしていると思うのだが、何か洗脳するような魔術でもあるのだろうか、高校の頃の先生で、その人も投稿したという話をしていたが、

「私は、応募して、見積もりを見た瞬間に、怪しいと思ったものだけど、どうして誰も何かおかしいと思わないのか、不思議で仕方がなかった」

 という。

 文学賞に応募すれば、そう応募数が公表されるのだが、ウソか本当か、何と万単位の作品が応募されるという。有名出版社の文学新人賞でも、数百がいいところなのに、あまりにもこの差は酷いというものだ。

 十作品にも満たない入賞作以外のどれほどに、共同出版を持ちかけているのか分からないが、実際には、半分くらいがいいところなのだろうか。その中から本を出す人もかなりいるという、その証拠に、自費出版の会社が、それから二年ほど、日本一の出版数を誇ったのだ。やはり、本にしたいという人、いわゆるだまされた人が多いということであろう。

 誰もが出版社に洗脳されて本を出す。しかし実態は、ただの自転車操業である。

 まずは、本を出したいという人がどれだけたくさんいるかというのが問題になる。本を出すという人が多ければ多いほど、儲かる仕掛けになっているのだから当然だのだが、本を出すにも経費が掛かる。そのために、損益分岐点というべき人数も計算からは決まってくる。

「月単位で、三百人以上の本を作らないと損益分岐点を割り込む」

 などというものであり、その分岐点が何人なのかは、計算しないと分からないので、会社でなければ分からないだろう。

 しかし、いくら本を出すほど儲かるという詐欺だとはいえ、そこまでに行き着くための経費は莫大なものだろう。

 まずは、本を出したいと思っている人に、会社の存在を知らせるための、宣伝広告費が必要である。そして、原稿を送ってきてくれた人の作品を読んで批評する人、さらには、本の制作をサポートする人である。ひょっとすると、作品を評価する人と、製作する人が同じの可能性もああるが、どちらにしても、人件費はかなりのものに違いない。

 ただ、どの部分もプロではない素人なので、どこまでの人件費なのかは疑わしいところである。

 そして、ここから先が出版に関わるところであるが、出版のための製本費用、そして、問題がここからなのだが、正直、ど素人の本をいくら出版しようとも、それを本屋が置いてくれるはずはない。毎日のようにプロの人が作品を発表しているのだ。素人の入る隙間などあるわけがない。

 プロと言ってもピンからキリまでいるだろう。発表すれば、同時にテレビ化、映画化などという売れっ子作家もいれば、本屋に並べても貰えない人、もし並べてもらえても、三日後にはすべてが返品という状態の作家。本屋は、本当に売れる本しか置かないのだ。いくらネームバリューがあったとしても、

「かつての人気作家」

 という程度では、まず並ぶことはない。

 それを考えれば、本を出すことがどれほど困難か分かりそうなもので、それなのに出版社が、共同出版で本を作るなどというのは、これほど胡散臭いものはないというものだ。

 ということになると、本を作っても、作っただけで、どうすることもできない在庫ということになる。最初から出版社がそこまで考えてこの事業を始めたのかも分からない。あまりにも在庫が膨れ上がってしまって、倉庫をいくつ借りてもどうしようもなくなると、まさかとは思うが、筆者には、

「ちゃんと千部作製した」

 と言って、ウソをついているのかも知れないと疑いたくもなる。

 一日、十人の作家の本を毎日発行したとすれば、一年で、三千六百冊。それが千部となると三百六十万冊がそのまま在庫となることになる。それほどのものか、想像がつくわけもない。図書館にすべて並べたとすれば、いくつの図書館が必要になるということであろうか?

 それを考えると、もし、このカラクリが話題になり、詐欺だということで訴えられる危険性を出版社も考えないのだろうか。

 あれだけの本を出しているのに、都会の有名書店のどこに行っても、その出版社から出版された本を見ることはない。当然のごとく、裁判を起こす人が一人二人と増えてきて、裁判の行方よりも先に、評判がガタ落ちになり、本を出す人がいなくなる。当然数か月で運転資金は底をつき、自己破産ということになってしまった。

 しかも、民事再生を起こしたので、作者にはお金は返ってこないどころか、本は、買い取りということになる。

「そんなバカな、共同で出版しているのだから、破産したら、自分たちのものだ」

 と言っても、相手が民事再生ではどうすることもできない。債権者に圧倒的に不利な法律だからである。

 それが、自費出版社系における社会問題であったが、そもそも、勉強もしないで、ちょっと他の人も書いているというだけで、

「自分もプロになれるかも知れない」

 という考えが大いに甘いのだった。

 あれだけ本を出したい、小説家になりたいと思っていた人が雲の子を散らすように、本を書かなくなったようだ。

 もっとも、これが正しいあり方なのだろう。趣味で楽しむだけであれば、それほど騙されryこともなければ、問題になることもない。そもそも、昔から自費出版というものはあった。

 それは、自叙伝や詩歌などを趣味として書いている人が、人生の記念にということで、書いているものを、数十部ほど作成し、知人や、家族に贈呈する場合などのことである。人生の記念なので、本人はお金の問題ではなく、別にプロになるなどという思いもないので、別に問題にはならないだろう。

 さらに、自費出版というと、同人誌などのように、あくまでも趣味のサークルとして、自分たちでお金を持ちよって、製作し、それを製作発表ということで、フリーマーケットなどで販売することもよくあるというものだ。

 それも、別に問題になることはない。

 だから、今も昔も自費出版というのはあるのだろうが、どうもあの頃の自費出版ということが社会問題になったので、その言葉自体があまりよくは言われていないかも知れない。

 菜々美は、その時はまだ知らなかったが、れいなは以前中学時代に小説を書いていて、自費出版の会社に自分の作品を送り、評価を受けたこともあった。

 その時、本当は母親に、自費出版の会社から本を出したいと言いたかったのだが、前述のような事情であったため、言い出すことができなかった。

 その頃かられいなは、自分を閉ざしてしまったのではないかというのであったが、騙されなかったというだけでもよかったと言えるのだろうが。

 れいなにとっては、その頃小説を書くということが、母親に対しての反発を心の中で抑えるという意味で、抑制力のようなものになっていた。

 しかも、その作品がある程度母親に対しての憎しみから出ていることで、中学生という枠を超えての恨みの籠った作品は、自費出版社の心を捉えたのは確かなようだ。

 それこそ、

「あなたの作品は、もう少しで入賞できるレベルの作品です」

 と、たくさんの人に言っていたが、その中で一番信憑性のあるのは、れいなの作品にだったであろう。

 れいなはそれだけ聡明な女の子で、頭がよかったこともあって、結構早いうちに、この会社の怪しいことを分かっていたようだ。

 そして、

「自分の作品であっても、プロにはなれない。これでも恨みは足りないのか?」

 という思いがトラウマになってしまったようだ。

 それを隠そうとする思いから、天然で天真爛漫になった。天真爛漫でいれば、嫌なことは忘れられるし、まわりを支配しているかのようにすら思えたからだ。

 そういう意味で、れいなの天真爛漫さは、ある意味、あざとさであって、あざとい中に頭の良さが混じっていることで、ある意味、かしこさをごまかせるのであった。

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