第7話 出版業界の秘密
菜々美は、れいなが記憶をどんどん失っていくのを見て。心なしか怖くなってきた。別にれいなの記憶が薄れていくのは、菜々美の原因でも何でもないのに、なぜそんなに怯えなければいけないのか、菜々美には分からなかった。
誰かがそばにいてほしいということは分かっていると思っていた菜々美だったが、それが自分でなければいけないという思いがなかったのだ。
「れいなには私以外の誰かが寄り添ってくれるはずだ」
と自分にいい聞かせた。
菜々美の今までにあった自分の経験からであれば、そんなことは決して考えないはずなのに、なぜそんな思いを抱いたのか、それはやはり怖くてにれいなから逃げたいという思いが強かったからに違いない。
では、何に対してそんなに怖がっているのか? そこにどれほどれいなが関わっているというのか、菜々美はそのことから目を逸らそうとしていた。だから、れいなが近づいてくると、思わず身体を逸らしていたのだが、自分ではそれを誰にも気づかれないくらいに微妙な行動だと思っていたが、そんなことはなかった。少なくとも、れいな本人には分かっていたことであり、分かるはずなどないという楽観的な考えに基づいている菜々美とはかなりの温度差があったのだ。
れいなはかなり傷ついていた。なぜ自分の記憶が薄れていくのか、それよりも、薄れていった記憶という隙間にあったものが、どのような記憶であったのか、それが怖かったのだ。
一番信頼できると思っていた菜々美が離れていくことは、れいなにとって、裏切りに見えた。そうでも思わないと、自分の中で消えていった記憶が、悪いことであるという結論にしかならないからだ。
自分にとって悪いことを忘れていっていることに気づいた一番自分に近い存在の菜々美だったら、どんな態度を取るというのか、れいなの記憶の中にいる菜々美は、決してそんなことをする人ではなかったはずだ。それなのに、、自分から遠ざかっているというのは、失っている記憶が最悪な態度をまわりに向けている時の自分だとすれば、怖くなったとしても無理はないかも知れない。だからと言って敬遠するというのは違うだろう。そんな時に寄り添ってくれるのが、親友なのではないか、
だから、ここで分かりやすく離れていくというのは、れいなにとっては親友としてありえない。そうなると、裏切られたという気持ちになって当然であろう。
そんなことを思っていると、れいなの方も菜々美に対する感情が、いくつかの段階を通り越して、
「もう、顔を見るのも嫌だ」
というくらいにまで発展していた。
二人が劇団にいても、まったく別のところに座っている。れいなは、以前から所属していたので、少しは寄ってくるくる人がいた。しかし、まったくの新人で、しかも、友人というと親友になってくれたれいなくらいのものだったので、自分からそのれいなを遠ざけたのだから、まわりに誰かが来ることはない。
しかも、れいなとは親友だったはずだ。劇団人の団結は、他のサークルなどに比べて、かなり深いものであることは、団体の中の個人も、他の団体の個人にも分かっていたはずだ。
それなので、一度入ってしまった亀裂が元に戻ることは難しいのかも知れない。このままでいくと、菜々美かれいなのどちらかが劇団を辞めてしまわない限り、この状態をどうすることもできないだろう。
「今まで味わったことがないはずのこの孤独感と、その孤独感の裏側にあるマヒした感覚。まるで昨日のことのような気持ちを、一日経ってもまた感じるようになるというのは、どうしてなのだろう?」
と、菜々美は感じていた。
そして、別の意味で意識したのは、
「この感覚は過去にあったことではなく、未来に感じることのような気がした。それも実に近い未来で、その未来を予知しているということを分かっていながら、認めたくないのは、裏にあるマヒした感覚があまりにもリアルだからである」
という感情からだった。
感覚がマヒしてしまうという思いは過去にもあった。いや、むしろ、定期的にあったような気がするのだ。
しかも、その思いが、自分だけではなく、れいなにもあったのではないかと思ったのは、「親友というと性格も似ていると思われがちだが、磁石の同極のように、相反するものではないかと思う。しかし、れいなと同じ天真爛漫で天然なところがあるのは不思議な気がする」
と思っていたが、それなのに親友でいるというのは、
「一口で表す性格は同じであっても、その種類が違っているのかも知れない。それはお互いに分かっていたはずではないか?」
と、菜々美は考えていた。
れいなはしばらくすると、劇団に来なくなった。理由もハッキリと分からないようで、団長が菜々美に聞きにきた。
「先日、れいなが、しばらくこの劇団を休みたいと言ってきたんだけど、菜々美さんはなにか聞いている?」
と聞かれた。
「いいえ、初耳なんですねど」
と、答えたが、それは本当であった。
菜々美にとっても、れいながどういう気持ちでいるのかということを分かりかねていた。れいなのように普段から天真爛漫な人は、自分もそうだけに分かるのだが、何か都合が悪くて、その人から遠ざかる時、理由を言いたがらない。
これは実は本心ではなく、本当は言いたいのだが、相手が分かってくれるはずがないという気持ちが一番強くなり、そのせいで、まるで殻に閉じこもったかのようにまわりから見られてしまうのだ。
それを、本人が損だと思うよりも、それ以上に、自分の事情を話す方が嫌だと思う。だから、気持ちをまわりに打ち明けようとしないのだ。
れいなにとって、菜々美に裏切られたと感じたのは、菜々美が思っているよりもかなり強く感じているようで、会った時やすれ違った時に、顔を見ようとしないのは、目が遭った瞬間に、どんな表情になるか、自分でも想像がつかないからであろう。
菜々美は、最初こそ、れいなを意識していたが、それは意識しないようにしようと思えば思うほど、意識してしまうからだった。
「じゃあ、却って意識するようにすればいいのか?」
とも思ったが、それこそ本末転倒である。
それを思うと、どちらにしても、意識せざるおえないのであれば、後はこの思いに慣れてきて、感覚がマヒさせるだけしかないのではないかと思ったのだ。
ようするに、
「時間が解決してくれるまで待つ」
これしかないと思っていた。
時間の経過というのは、最初こそ時間がなかなか経ってくれないものであるが、次第に時間の感覚がマヒしてくるのを感じると、どんどん時間の進みに比べて、忘れていく意識が加速する方が早いと感じられるようになる。
だが、それは錯覚によるもので、実際には、それ相応に時間が経ってしまっているのだった。
時間が経つことにマヒしてしまったのだと言えるのだろうが、そう思ってしまえば、忘れてしまうまでというのはあっという間で、気分も随分と楽になるというものだ。
そんなことを感じていると、今度は無性に寂しさがこみあげてくるように思えた。理由がどうであれ、苦しんでいる親友を見捨てたのは事実だ。しかも、その理由としても、実に曖昧なもので、もし、自分がれいなの立場だったら、許すことなどできないだろう。
そう思うと、れいなに背を向けた自分を恥ずかしく感じる。元にも取りたいという意識もあるのだが、実際にそれができないのは、一度背を向けてしまうと、元に戻すことがどれほど厳しいことなのか分かるからだ。
キチンと歩んできた二人の関係を、少しでもたがえてしまったら最後、戻そうとする場合に、どこに戻るのか分かったものではない。下手をすると、自分の知っているれいなとはまったく違う人が自分の前に現れるかも知れない。それくらいなら、少しでも元に戻れる可能性が残っているのであれば、今の状態を続けるしかないと思っている。
つまり、
「ゴールは未来にしかなく、過去にゴールは存在しない」
ということだ。
もし過去に行って、過去の歴史を変えてしまうと、どんなに些細なことでも、次の瞬間には本当に進むべき未来とは違う未来が無限に開けてしまう。どこに進むか分からない未来だ。それを思うと。菜々美は恐ろしくて、過去を振り返ることができない。
「またここでも、タイムマシンのパラドックスを感じてしまうなんて」
と、菜々美は自分を因果に感じていた。
その応報がどのような形で現れるのか、考えただけでも怖かった。その不安を払拭するには、とりあえず、今は演劇の練習に没頭するしかないと思うのだった。
考え方として、
「答えは未来にしかない」
というのは、本当は当たり前のベタ過ぎる話であった。確かに歴史の答えも未来にしかないと単純に考えれば、それを正しいと思うだろう。
しかし、冷静になって考えると、少し違っていると思うのはおかしいだろうか。
何かの答えをほしいと思った歴史の事実が今であれば、確かに、
「答えは未来にしかない」
と言えるだろう。
つまり、ちょっとでも過去になれば、過去から見た未来には、今から見れば、答えはすべての場合がありえるのだ。
一つは、本当に未来である場合。そしてもう一つは、一番可能性としては低いが、現代がその時における未来である可能性である。
しかし、答えが見つかった今だからこそ、その時に立ち戻って、
「ああ、本当に答えは未来にあったんだ」
と言えることに気づくからである。
そしてもう一つの可能性は、その時の未来が今から見ると過去になる場合である。これも、現代の時同様に、答えをみつけたその時から、少しでも時間が経てば、今から見れば答えを見つけた瞬間は過去なのである。
ここで一つ気になるのが、現在の立ち位置である、未来はあっという間に現在になって、さらに過去になっていく。どの時点を持って現在というのか、今まで未来だと思っていた瞬間が現在になり、そして過去になる。何もなければ、例えば一秒で終わってしまう現在だ。しかし、現在に何かがあれば、その出来事が、同じ瞬間だと思えるだけ現在というのは続いているのだろうか?
きっと誰もその答えを毅然として答えることなどできるであろうか?
いや、できるはずもない。それこそ、その瞬間にこのことをジャストタイミングで考えたことにしか、その根拠を答えることはできないだろう。ひょっとすると、ジャストタイミングで答えられた人にも根拠を説明することはできないかも知れない。それだけこのジャストタイミングというのは、偶然で成り立っているという可能性が高いからだと言えるのではないだろうか。
そんなことを考えていると、小説を書こうと思った頃を思い出した。
オカルト系の作品を書こうと思ったのは、
「世の中で、何事もなく普通に生活している人が、ふとしたきっかけで、想像上の世界に入り込んだというそんな話が書ければいい」
と感じたからだ。
どうしてそんな風に感じたのかというと、大人になって、小説を書きたいと思わせるきっかけになった小説があったのだが、そのジャンルを、
「奇妙な味」
というらしい。
普段聞きなれないジャンルで、どちらかというと、都市伝説や、奇妙な世界を人間社会からあくまでも創造したかのような話のジャンルをいうらしい。
これは、あるミステリー作家が提唱したジャンルだと言われるが、そういう意味では、元々は探偵小説からの派生ではないだろうか。要素としては、オカルト、SF、ミステリー、それぞれの要素を持った話を、
「奇妙な味」
というジャンルの小説という。
しかし、実際に表には、その名前のジャンルは出てこない。本屋にもなければ、小説界のジャンルとして、表に出てくることもない。もちろん、文学賞などの賞の中に、そんなジャンルが存在するわけでもない。
そんな作品を今ではあまり見ることはないが、昭和の時代には、結構あったものだった。今の本屋はかなり様変わりしていて、売り場面積はそれほど変わっていないのに、昔であれば、有名作家の作品は、作品の数だけ、本屋に並んでいたと言ってもいいだろう。百冊をその出版社から発行していれば、有名大型書店であれば、八割近くは置いていてもおかしくはなかった。
しかし、いくら今が平成を飛び越して、令和の時代だとはいえ、本の数が、多くて十冊、作家によっては、そのほとんどが絶版になり、しかも、残る作品も、一世を風靡したことのカバーとは違うものになっていた。
「あのカバーで本を買った人がたくさんいたのに」
とオールドファンはそう思うだろう。
映画化もテレビ化もされ、十年以上を空前のブームで、今でも、そのジャンルでは一、二を争うと言われる作家であっても、本屋の扱いは、ここまで変わるものだった。
「では、一体何が本屋面積に増えたというのだろう?」
正直分からない。
だが、本屋で見かける作品の中に、増えてきたものも確かにある。
例えば、二十一世紀になって増えてきたのは、時代が科学の発展に機能し、発展してきた文化としての、
「携帯電話」
がある。
そこで生まれたジャンルが、
「ケイタイ小説」
あるいは、
「ライトノベル」
と呼ばれるジャンルであろう。
携帯電話のメールの文章のように、短いセンテンスであったり、読みやすいようにということで、マス目の空白が多いというよりも、行間自体の空白を多くしているような小説などが多く出てきたりした。文章離れが顕著になり、わざわざ難しい言葉を使う文学的な表現としての小説ではなくなり、何と絵文字までもが通常の文字として使われるほどになったことは、本当にいいことなのかどうか疑問である。
さらに、もう一つ考えられることとして、それまでも小説のジャンルとしては確立はされていたが、それを一つのジャンルのコーナーとしてまで確立していなかったジャンルが表に出てきたこともあげられるだろうか。
その最たる例としては、
「官能小説」
というものがあげられるのではないだろうか。
昔から、官能小説専門の雑誌が存在したり、官能小説専門の雑誌社もあったりはしたが、なかなかコーナーとまではいかなかった。
原因はいくつかあるだろうが、官能小説と言われるものの中でも、文学的な作品として認知されているものが本屋に並んでいるのかも知れない。
もう一つ考えられるのが、
「官能小説を書く作家が増えてきたことで、必然的に小説界でのシェアが広がってきたのではないか」
と言えるのではないか。
ただ、一つ言われていることとして、
「官能小説と呼ばれる小説は、書くのが難しい」
と言われている。
その中で、最近の官能小説の中には、今までのターゲットとして、男性、しかも、特殊な性癖を持っているような男性ではないかと言われていた時代があったようだが、今はそうでもない。
下手をすると、恋愛小説と呼ばれる小説の中にも、性的描写が官能小説に負けないくらいのものも存在する。それは恋愛小説に限らず、ミステリーなどにもありえることであった。
官能小説は、いかに男性の性欲をそそるか、そんな描写をうまく織り交ぜ、かといって汚らしいというイメージを植え付けてはいけないだろう。(一部のカルト趣味の作品はその限りにはない)
最近では、ボーイズラブ(BL)などと言った作品もあり、昔であれば、男色、衆道などと言われた、一種のカルト趣味の作品だと思われがちだが、そうではなく、いわゆる、
「イケメン同士の恋」
という形で読まれている。
つまり、読者は完全に女性であり、今まででは考えられないことだったはずだ。
そのことが、官能小説をコーナーにまで押し上げた原因の最大なものではないだろうか。今までは男性読者だけだったのが、女性層にまで食い込んでいて、恋愛小説や、ミステリーなどで、アダルトな描写に慣れてきている読者にとって、アダルトな作品は、身近に感じられるものとなってきた。
もちろん、感覚がマヒしてしまっていれば、逆効果であっただろうが、刺激的な男女の描写を、純粋に読みたいという読者も多くなってきたのもあるのだろう。そういう意味で、ボーイズラブの出現などは、大きな原因の一つだと言えるだろう。
さらに言えることとしては、海外にもロマンス文庫と呼ばれるような官能小説に近いジャンルがあり、そちらの方が先に文化を形成していたのだろう。
日本で流行ってきたというのも無理もないことで、ネットを使えば、別に本屋で購入することもなく買える人もいる。相対的に読者人数が増えてくれば、比例して書籍も売れるというのが一般的な理論である、官能小説のコーナーが存在するのも、当然と言えば、当然である。
さて、次に多くなってきたものとすれば、
「ジャンルごとの出版社が増えてきた」
ということであろうか。
それは、単独の出版社というよりも、既存の出版社の子会社というか、別レーベルのような形での出版方式である。
たとえば、ホラー小説など、〇〇出版からも、発行されているし、○○ホラー文庫という形で、○○出版社の子会社からも発行されているというものである。
スーパーなどに置いてある賞品が複数の場所にあることがあるが、例えばたまねぎなどの野菜が、野菜コーナーと、話題コーナーとしてカレーのコーナーなどがエンドに作られていれば、そこにも置かれていることがあるが、そういう考え方である。
つまり、別々の場所に置いてあるが別に違う商品ではなく、用途によって違う場所にも置かれているというだけで、拡販に貢献することになるであろう。
似た意味で、ホラーに特化した文庫として置かれていると、ホラー好きの人は、いろいろな文庫の場所を歩き回ることなく、そのエリアだけで、自分の好きな本を選ぶことができる。そういうメリットを生かした売り方をするのも、一つの方法なのだろう。
こうなると、ホラー文庫の分、本のコーナーが埋まるのも当然だと言えるであろう。
ただ、そうなってくると、昔からの本を読みたい人にはなかなか手に入らないことになる。絶版でもなければ、お取り寄せ予約もできるのだろうが、それでも、十日から二週間も待たなければいけない。よほど待ってでも詠みたいと思うのなら別だが、そんなに待たされるのであれば、興冷めしてしまうだろう。
さすがに、そこまでして、本が読みたいのかと言われると考えてしまう。本屋という雰囲気が好きで、そこに並んでいる本の背を眺めながら本を選ぶのが、本好きに人の醍醐味である。
「ネットで購入すればいいじゃないか」
という人もいるが、ネット購入など、本頭巾人間からみれば、
「邪道」
なのである。
やはり、本の背を眺めながら本を購入するという形でないと、本を読む気にもなれないと思うのだ。
それを思うと、本というものが減ってきていて、電子文庫が増えているが、これを、
「時代の流れ」
という一言で片づけていいのだろうか?
確かに、その方g経費としても、若者のニーズを考えると、その方がいいのかも知れないが、それで、本当に電子書籍が売れるというのか? 考えものだと言えるのではないだろうか。
そんな本屋で、本が売れなくなってきた理由の一つに、ネットの普及というのもあるが、かつての事件、いや、社会問題が大きな原因なのではないかと、菜々美は考えるようになった。
この問題は、今から十五年くらい前から発生したことで、二、三年の間に一時期ブームとなったのだが、ある問題から、急速にすたれていった。そこには訴訟問題などが絡んできたのだが、もう、それも十年以上前のことになってしまう。
菜々美も実際に、高校の頃だっただろうか、小説を投稿したことがあった。だから、その経緯について、見守っていたが、菜々美は結構早い段階で、
「これは危ない」
と危惧していたことで、問題はなかった。
そもそも、この問題の発端となったこれらの企業が発展してくる要因となったのは、今から三十年くらい前まで存在していた、
「バブル経済」
というものから始まったと言えるだろう。
昭和の最後を代表するバブル経済と呼ばれるもの。
バブル、いわゆる泡と呼ばれる経済は、実態のないものであった。
当時よく言われたのが、
「土地ころがし」
なる言葉であった。
土地を転がすことで、実際にモノを売っているというわけではなく、それでいて、お金が入ってくる。このお金も流通しているわけで、実際に手にしているわけではない。
何か事業を起こすことで儲かる仕掛けになっていたというのが、バブルの時期であったので、ほとんどの会社が本業以外にも副業を行っていた。
「事業拡大」
などという言葉で、たくさんの企業が発展していき、お金が潤滑油のように、どんどん流通していくことが経済発展に繋がる時代だった。
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