第6話 薄れいく記憶の中で
れいなは、フェロモンと同性愛の話を絡めるような話し方をしたが、それはあきまでも精神論のようなもので、実際に同性愛者ではない。菜々美もそのことを分かっているので、別にれいなから離れようとはしなかった。
逆に彼女の演劇愛のようなものが感じられたことが菜々美を感動させた。何かのきっかけがあったとはいえ、一つのことにここまで真剣になれると相手に信じさせるようになったことは尊敬に値することだと思うのだった。
むしろ、そのきっかけを、自分もほしいと思った。彼女がいうように、きっかけというものが人の心を動かすに十分なものだということは、彼女の話で納得したのであって、理屈としては、菜々美も分かっていたような気がする。
中学時代に、一度小説を書きたいと思ったことがあった。その時は、
「人に自分の書いた作品を読んでもらいたいな」
という、よくある何かを始める時のきっかけとなるような理由であったが、実際にやってみると、思ったよりも難しい。
何が難しいと言って、かしこまった形で真摯に向き合おうとすると、すぐに気が散ってしまうような気がしたからである。それはまるで、真剣になればなるほど、笑いがこみあげてくるかのような理屈であった。
それを思い出させるのは、小学生の頃の国語の時間だった。先生が生徒を順番に差して、教科書を読ませようという、よくある国語の時間の事業風景なのだが、自分の番になると、なぜか笑いがこみあげてくるのだ。可笑しくなる点などどこにもないはずなのに、どこがおかしいというのか、笑いがこみあげてきて、教科書を読めなくなってしまう。
それを必死にごまかしながら読もうとするのだが、それをまわりには当然悟られているということは分かっているのに、誰も悪いと思ってるからなのか、誰も指摘しようとはしない。それもおかしさがこみあげてくる理由だった。
誰も指摘しないという理由に、
「相手に悪い」
という理由だけではないものが孕んでいることも分かっている。
「もし、自分も似たような状況に陥った時、笑われるのが怖いからだ」
というのが理由であることを、まだ小学生の菜々美は理解していた。
後にあって思ったことだが、
「あの時は、理解しているのは自分だけではなく、皆理解していた。理解していて、言ってはいけないことだという暗黙の了解のようなものがあって、誰も言わないだけなのではないか」
と感じていた。
どこからそんな気持ちになっているのかよく分からなかったが、
「私はひょっとすると、小学生の頃の方が、よほどたくさんのことを考えていて、それが思春期になると、そのすべてが、考えなくてもよかったことではないかと感じたのかも知れない」
と思うようになっていた。
思春期になると、大人になるための準備期間なので、
「子供の頃の考えというのが、あくまでも子供としての考えで、大人になってからするものではない」
と考えるようになってきた。
だから、思春期は子供から大人への転換期として、精神面でも肉体面でも大いなる葛藤があり、まわりを嫌いになったり、躁鬱症のような状態になったり、自分のことを嫌いになったりするのではないかと思うのだった。
だから、小学生の頃に考えたことを、全否定する自分が当たり前だと思うことで、却って成長を止めているのではないかと思うようになったのは、劇団に入ってから、れいなと知り合ってからのことだった。
それまでは、人とこのような話をしたことはなかった。大学生の頃に、そういう話ができればよかったのだろうが、できた友達は皆そんな話をするのが嫌いな人ばかりだった。
ただ、これも後で知った話だったが、相手がこういう話をするのが嫌いな人だということを感じていたのは相手も同じことだったようで、
「相手が同じようなことを感じるから、自分も感じてしまうのだ」
ということを、菜々美は改めて感じたのだった。
そのことをウスウスだが感じさせてくれたのもれいなであり、
「れいなって、魔法使いのようだわ」
と感じるようになっていた。
れいなの考えが自分にとってどのようなものなのか、時々考えるようになった。れいなが菜々美のことを分かっているように、菜々美もれいなのことを分かっている。いや、分かろうとしているということが大切なのであって、それが、いつも真摯に向き合っているれいなへの礼儀のようなものだと菜々美は考えていた。
大学時代に、もう一度、小説を書いてみようと思ったことがあった。
「今ならきるかも知れない」
という思いがあったのだ。
その根拠となったのは、
「今なら気持ちに余裕があるからではないか?」
と感じたからであって、実はそれが間違いであるということが分かると、中学生の頃に書こうと思って書けなかった理由も分かってきた気がしたのだ。
「小説というのは、気持ちに余裕があるから書けるわけではない。むしろ気持ちに余裕がなくなった時に書けるようになるのだ」
と感じたのだ。
しかし、気持ちに余裕がなくなった時に、書いてみようと思った。その時はちょうど、付き合っていた(付き合っていたと思っていたのは自分だけだったのだが)男に、別に女性がいることが分かって、その男性を問い詰めた時、
「お前何勘違いしているんだよ。別にお前と付き合っているわけじゃないじゃん」
と言われたのだ。
確かに、言葉で、
「付き合おう」
という話を交わしたことはなかった。
その男はそれを理由に、
「だから、お前が勝手に勘違いしているだけだ」
と言われて、反論できなかった。
どう反論していいのか分からなかったからだ。自分が愚かだったことに気づき、相手に追い打ちをかけられると、パニックになってしまい、そのうちにバカバカしくなった。
「そうね、あんたなんかを好きになったと思い込んでいた私がバカだったのね。よく分かったわ。そのオンナとやらをせいぜい大切にしてやってね」
と、精いっぱいの強がりを言って、その男を自分の中から打ち消したのだが、まるで自分の中で、
「糠に釘ってこういうことをいうのかしら?」
と思った。
いくら皮肉を言っても、一切相手に響かない言葉を放つことが、これほど虚しいことだと、冷静になって気付いた。皮肉を吐いた時は、それなりに恰好いいと思っていた自分が、本当は一番バカだったように思ったからだ。
「私は悪くないのに」
そうなのだ、菜々美は悪いわけではないのだ。
相手の男がゲスで、最低な男だったというだけだ。それなのに、精神的にかなり厳しいところまで追い込まれている自分を感じた菜々美は、気落ちに余裕がなくなっていることを感じた。
考えることネガティブなことばかりで、何かを考えて居なければいけないこの状況に対して、
「今の私は、精神的に余裕がなくなっている」
と思って、ハッとした。
「今なら小説を書けるかも知れない」
とそう思って、書こうとしたが、どうにも書けなかった。
だが、精神的には変わっていないのに、急に小説の神様が降りてきたような気がした。内容は別にして、書けるような気がしてきたのである。
「なぜなんだろう?」
と、菜々美は感じたが、それがどこから来たのかということに気づくまで、それほど時間はかからなかった。
「そうだ、これはニュートラルな状態、いわゆる『遊び』の状態を感じることができたからだ」
と感じたことが、小説を書けるようになったきっかけだった。
「自分の中で、答えまでのあと一歩まで行っておきながら、なかなかその壁をぶち破れなかったのは、そこに結界があったからなのか、それとも、『百里の道は九十九里を半ばとす』ということわざの通りだったからなのか?」
と、菜々美は考えていた。
最初の恋愛で、悟りを開くなどという言葉は、あまりにもおこがましいのではないかと思いながらも、そうとでも言わないとどこか恰好がつかないと、恰好をつける人が嫌いなくせして思うのだった。
「それもきっと、自分を卑下した気持ちにならないとできることではないな」
と思った。
卑下というのか、それとも、自虐というのかはよく分からなかったが、自虐には、覚悟のようなものがあるのかないのか、這い上がるというよりも、それ自体をネタにして、まわりの気を引くというイメージが強い。
そう思うとあまりいい表現ではないと思うのにも関わらず、自虐の方が新しくて新鮮に感じるのは、自分が思っているよりも歳を取っているせいではないかと思えてきた。
きっと若い連中は、自虐などという言葉を嫌というほど聞いているので、新鮮さどことか、どこか泥臭さしか感じないだろう。
だが、菜々美にはその泥臭さすら嫌ではなかった。嫌いではないと言った方がいいのかも知れない。
いくつからが若い連中だと言えるのか、菜々美には分からなかった。年齢的に二十代後半に差し掛かろうとしているのだが、人によっては、
「そうねぇ、三十くらいが境目じゃないかしら?」
という人がいた。
「どうしてなの?」
と聞いてみると、
「いろいろ理由はあるんだけど、まず最初に考えられるのは、老化というのは、二十代後半から始まるということ。それはきっと肉体的なものだろうから、精神的に本当に老化が始まったと思うのは、そこから少し経ってからの、三十歳くらいではないかと思うのよね」
と言っていた。
「うんうん」
「それにね、三十歳というと、昔でいうと、結婚適齢期と言われるくらいの年齢でしょう? そのうちに結婚を望む年齢が少し若くなった時期があって。そのうちに、客に三十過ぎでも十分に感じられるようになったんだけど、実質的に、それ以上になると、高齢出産が現実味を帯びてくるでしょう? そうなると、結婚しなくてもいいという人が増えてきて、結局、結婚ということ自体、しないでいいのかっていう機運が高まってきたでしょう? そのために、結婚適齢期などという言葉が死語になってきて、しかも今の時代になってくると、男に言われるとセクハラだとかの発想になってしまう。結婚という言葉が、触れてはいけないことになってきたのよね。それって、生きていくうえでの一つの節目を否定しているようで、何か変な気もするのよね」
と、少し話が逸れてきたので、
「それで?」
と聞き返すと、彼女も我に返ったようで、
「あっ、そうそう、本題から少し離れてしまったわね。でもね、私にとって三十歳というのを考えた時、これは年配の人が真剣な顔でいうことなので、思わずその気になって聞いてしまったんだけどね。説得力があったの」
というではないか。
それを聞いて思わず、こちらも乗り出すようにしながら、
「それで?」
と喉を鳴らすようにしながら、再度同じ聞き方をしたが、
「その人がいうのは、十年間という期間で区切ってみると分かるっていうの。それはね、二十歳から三十歳までの十年と、三十歳から四十歳までの十年、この違いが教えてくれるんだっていう言葉を聞いたことなのよね」
と、いうのだ。
「それって、十年の長さがまったく違うと言いたいのよね?」
と聞くと、
「うん、その通りなの。しかも、その人が本当に真剣な顔でいうのよ、それはこっちも真摯に受け止めなければいけないことでしょう?」
「真摯」という言葉に、どこか他の言葉と重みの違いを感じていた菜々美は、その話を訊いた時、
「そっか、三十歳を境にその前後がどういう違いなのかは分からないけど、そこが一つの節目になるということね?」
と聞くと、
「そうなのよ。子供が大人になってからでも、ずっと大人のままでいくわけではなく、またどこかで節目がでてくる。それを自覚できるかどうか、いや、その瞬間になるべく近い時に気づけるかどうかは大切なことではないかな?」
というのを聞いて、
「確かに子供と大人の境目も、なるべく近い将来に気づいていたらよかったと今でも思いますもんね」
と、菜々美は言った。
そんなことを考えていると、
「自分ももうすぐ三十歳になるんだ」
と思うようになった。
三十歳というと、母親が自分を生んだ年だということを思い出した。今では五十歳を過ぎて、かなり老けてきていて、実際に太ってきているのを気にしてはいたが、年齢の割にはまだまだ綺麗だと思っているのに、なぜそんな風にいうのかを考え、昔のアルバムを見てみると、三十代の母親が、今では信じられないほどに美しく、まだ二十過ぎでも通用するのではないかと思えるほどであった。
実際に、女の菜々美から見ても、羨ましいくらいに見える。逆にいうと、
「あんなに美しい母親が、五十を過ぎると、見る影もないくらいに老けてしまうんだ」
と感じられることが怖かった。
母親だという贔屓目で見ても、五十代それなりにしか見えない今の母親は、やはり、
「一番近い存在なのだが、触れることのできない存在なのではないか?」
と思わせるほどの女性であった。
見た目ではない威圧感が母親からは感じられ、自分が生んだ子供に対して、果たして自分がそこまでの貫禄を持つことができるのか、疑問であった。
それでも、中学、高校時代にはそれなりに反抗期を迎えていて、かなり逆らっていた記憶があった。
だが、逆らったというだけで、今から考えると、その逆らうということに信憑性はなく、何が不満だったのか、それも自分でハッキリと分かっているわけではなかった。
母親の威厳が、今でも触れることのできない何かを持っていると思わせたのは、年齢的なものと、親子という切っても切り離せない関係にあることの運命を感じたからではないだろうか。
母親についての話をれいなと話したことがあった。
れいながいうには、
「私は母親をあまり母親として感じたことがない」
と言っていた。
「どういうことなの?」
と聞くと、
「私の母親は、お父さんが死んでから、何度か再婚しているんだけど、すぐに別れてしまうの。相手の男が別れを切り出すようなんだけど、子供の私から見ても、その理由は分からないのよね。別に男から嫌われるようなタイプじゃないし、そんなことを考えていると、急に母親が私に冷たくなってきたの。『あんたがいなければよかったのに』って言いながら、私を殴ったこともあったわ。ちょうどその頃、私はまだ十歳ぐらいだったかしら? その時、母親はかなり酔っていたようで、後でそんなことをしたなんて覚えていないほどだったのよ。それ以外の時は私には優しかった。その時だけが異常だったとしか思えない。子供だったんだけど、私の中で、その時の母親が、本当の母親だという気持ちが消えなくて、それがそのままトラウマになって、母親に対して信用しなくなった。もし、あの時のことがなければ、もし、あそこまでひどくなければ、私の人生は変わっていたかも知れないと思うくらいなの」
というではないか。
「そうだったの」
と言ったが、今のれいなからはそんな気配も感じられない。
てっきり、普通に幸せに過ごしてきたんだと思っていたが。考えてみれば、自分だってまわりからそう見られているかも知れないけど、人それぞれに事情があって、いろいろ考えるところがあるのだろうと、思うのだった。
「私は、母親を恨んでいるわけではないのよ。ただ、しいていえば、その時のことがなかったら、人生が変わっていたかも知れないなどと思うことはなかった。違う人生があったかもというのは、自分が経験したことで感じるものでしょう? 外的な要件から受けるものなんかじゃないよね? それが私には悔しいのよ」
と、れいなはいうのだった。
どちらかというと、天然で天真爛漫だと思っているれいなに、そんな部分があったことで、冷静沈着な部分がれいなにもあるという当たり前のことを、いまさらながらに思い知らされたことで、れいなと自分の関係が、今までにはない、何かを発見しそうな気がする菜々美だった。
そんなれいなだったが、次第にれいなの記憶が薄れて行っていることに、菜々美は気付いていた。
元々記憶力があった方ではなかったが、その記憶に何か障害でもあるのではないかと思うようになったのは、れいなが母親のことを話してからすぐのことだったように思う。
最初は、れいなの記憶に障害が出てきたなどということにも気づかなかった。ただ、天真爛漫で天然なれいなが、
「天然で、天真爛漫なれいな」
ではなくなったことだった。
ただ、二つの要素を持っているのは確かなのだが、その二つの要素をくっつけて考えられなくなったというのか、片方が表に出ている時は片方が引っ込んでいるという現象に、違和感を感じ始めたからだった。
そもそも、その二つは同じようなことであり、重複することが違和感そのものだったはずである。
それなのに、それぞれが単独で感じられるようになると、その方が違和感であるかのように感じられるようになったわけで、昼と夜の違いのようなものであって、表裏が重なり合うことはないという理屈が違和感だったのだ。
そう思うと、菜々美自身も、自分が何を考えているのか、その先が見えなくなった。それを思うと、
「そうだ、記憶に障害があるということは、先が見えなくなっていることと繋がっているのではないか」
と感じるようになったことだった。
記憶と先が見えることとは直接関係がないように思える。実際に関係があることでは確かにない。ただ、記憶というものが、封印されているものと、表に出ているものの二種類があるということに気づくと、あながち、二つの要素が裏表になっていることと、まったく関係のないことではないように思えてきた。
意識には、無意識に感じる潜在意識と、実際に意識するなかで意識している顕在意識とが存在する。普通は、これらを一緒に意識という言葉で呼ぶが、実際にはまったく相反するものと言ってもいいだろう。
天然で、天真爛漫というのも、この潜在意識と、顕在意識のようなものではないか。どちらかが意識してのことで、どちらかが無意識ではないかということだ。
ただ、天然も天真爛漫ということも、まるで無意識という言葉が代名詞のようになっている。
それなのに、どこに意識という言葉を連想させるものがあるというのか、それを考えていると、れいなが何かに嵌りこんでしまったように思えてならなかった。
「れいながこの感覚に落ち込んでしまったことで、それが原因で記憶に障害を感じているとしても、他にそのスイッチを押した引き金があったのではないだろうか?」
と、菜々美は感じるようになった。
その時に思い出したのが、れいなが言っていた母親とのいきさつだった。
「もしかして、母親に殴られたという事実が、れいなの中で、今まで思い出してはいけないこととして封印されていたはずなのに、私が自分の母親の話を安易にしてしまったために、引き出してはいけない記憶を引き出すkとになってしまったのかも知れない。それは潜在意識という無意識な思いが記憶を封印させていたのに、そのことを知らない私の無意識性作用して、開いてはいけない『パンドラの匣』を私が開いてしまう結果になってしまったとすれば、私の罪はかなり重たいもののはずだ」
と菜々美は感じていた。
あの時、れいなが殴られたことで、精神的には記憶として封印できていたかも知れないが。その記憶を呼び起こすことで、その時にできてしまった身体的な後遺症が、その記憶を呼び起こした時に、引き出されたものになってしまったのではないのだろうか。
そのことは、もし、れいなと友達になっていなければ気付くはずのないことだっただろう。しかも、れいなとすれば、菜々美と友達になっていなければ、過去に封印したはずの記憶を呼び戻すことはなく、記憶を徐々に失うという憂き目にあうこともなかったのではないだろうか。
それは、菜々美にとっても辛いことであった。
自分の無意識な行動が人の人生を狂わせるのだ。しかも、それが親友だと思っている相手であり、これから、いろいろな相談にも乗ってくれるかも知れなかったはずの相手を、自らで抹殺してしまうということをしてしまったのだ。
「取り返しのつかないことをしてしまった」
と思うことだろう。
それが菜々美にとって、何を意味するのか、誰にも分からない。何しろ、菜々美自身にも分かっていないのだからである。
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