星夜の願い

香月 優希

星夜の願い

 十歳の姫沙夜キサヤは、すみれ色の瞳を目一杯開けて、星空を見上げていた。

 背中の中ほどまである、真っ直ぐで艶やかな黒髪。頭に乗せた飾り櫛には雅な蝶が描かれているが、夜の闇ではそれとは分かりにくい。おおよそ歩きやすそうには見えない裾が長めの着物を足の長さギリギリに引き摺り、てくてくと歩く姿は頼りない。

<ここは、どこかしら>

 今朝また熱が上がってしまって、寝てなさいと言われ、今日はずっと布団の中にいた。星祭りで賑わっている母屋の方が気になったが、顔を出したらまた部屋に連れ戻されることは分かっていたので、大人しくしていた。

 星祭りとは、夏の到来を告げる行事で、各家で玄関に明かりを灯した提灯をかざし、地主の屋敷では庭先を開放して、民に祝いの食などを振る舞う。

 姫沙夜の屋敷でも同じく、やってくる民たちをもてなすために準備が行われていた。やがて、夕食が運ばれて来たのを最後に、彼女のいる離れからは、忘れられたようにひっそりと人の気配が消えた。

 熱が下がったのを体感した姫沙夜は、そっと起き出し、ふすまを開けた。その途端、広がる夜空に心を奪われた。

<綺麗……>

 月のない今夜は、星がきらきらと瞬いて、歌っているようだ。大きな星も小さな星もひしめき合って、川のように空を横断し、たいそう楽しそうに見えた。

 昨日からずっと、引き篭もって退屈してもいたのだろう。姫沙夜は導かれるように、縁側にあった草履を履いて──家出をした。


 しかし。

 外に出慣れていない姫沙夜が、迷子になるのは当然だった。空は星明かりで明るいが、地上は木々の影が覆って真っ暗だ。ザワザワと気を揺らして鳴る風の音は、彼女を萎縮させるには充分だった。

<どうしよう>

 ぽっかりと、小さな丘のような場所に出たところで、自分が迷子になったことに気づいた。

 空を見上げながら歩いていたせいで、自分がどこから来たのかも分からない。どうしようもなく心細くなって、ついに彼女はしくしくと泣き出した。

 すると──


「どうした?」


 頭の上から、涼やかな声が降ってきた。驚いた姫沙夜が、思わず泣くのをやめて辺りを見回し、声の主を探すと、ちょうど今通り過ぎた木の上で、白銀の髪が揺れた。

 姫沙夜は目を凝らした。暗闇でも分かる黄金きんの瞳が、こちらを見下ろしている。自分よりは幾分年上のようだが、まだ若い男のようだ。

「誰?」

 世間知らずの姫君は、危険だのなんだのと思う前に、人がいたことに安堵して尋ねた。彼の声が、澄んだ水のように穏やかだったせいもあるかも知れない。

レキだ」

 青年は答えると、ひょいっと身軽に、木から飛び降りた。背で結えた白銀髪がなびく。彼は姫沙夜の前まで来て、少女を上から下まで不思議そうに見つめ、「こんなところで迷子か?」と問うた。

 姫沙夜が黙って俯いていると、靂は質問を変えた。

「どこの者だ?」

沙南サナの屋敷です」

「ほう──それはだいぶ登ってきたな」

 靂は感心したように言い、姫沙夜の横をすり抜けると、丘から見える明かりを指差す。

「今日は星祭りをやっているから分かりやすいな。あの明かりだ」

 姫紗夜は、靂の隣に立ってみた。彼の身長は、思ったより高い。もしかしたら、思うよりもうちょっと年上なのかも知れない。眼下には、意外と近く、見晴らしの良い状態で、自分の屋敷の星祭りの明かりが見えた。

「向こうから、ここが見えるかしら」

 こっそり屋敷を出てきたことを思い出し、姫沙夜は不安になった。靂が冷静に答える。

「大丈夫だ。明るいところにいる人間に、暗いところなど見えない」

 姫沙夜は、靂を見上げた。よく見ると、静かながら、どこか鋭そうな雰囲気もある。彼はどうして、こんなところにいるのだろう。

「貴方は星祭りに、行かないのですか?」

 思ったままを聞いた姫沙夜に、靂が視線を向けた。その瞳に、気のせいか冷ややかな色が落ちる。

「騒がしいのは、苦手だ。それに、地上に灯された明かりより、星明かりの方が落ち着く」

 彼は空を仰いだ。姫沙夜がまた、尋ねた。

「だから──木の上で星を、眺めていたのですか?」

 靂の口元が、ふと緩む。

「そうだが。質問ばかりだな。お前こそ、どうしてこんなところに一人でいる?」

 姫沙夜は、言葉を探して俯いた。

「居場所が……なくて」

 みんなが楽しそうなのに、自分はまた熱を出して、賑わいから切り離されてしまった。いつものことだ。

「でも、星がとても綺麗だったから、ちょっとだけ、外を歩いてみたくなって」

 見上げて歩を進めていると、きらきらの星の中を歩いているようで、心が躍ったものの、気づけばこんな場所まで来てしまった。

「あの……」

 答えが返ってこないので、恐る恐る顔を上げると、靂が、ちょっと困ったような眼差しで自分を見つめていた。

「やっぱり迷子か」彼は呟く。「名は?」

「姫沙夜です」

 答えると、靂が反芻した。

「姫沙夜か。美しい響きだな」

 姫沙夜は、目を瞬いて彼を見返した。「そんなふうに言われたのは、初めてです」

 思えば、常に姫様と呼ばれる自分は、名前で呼ばれることなどほとんどない。それに気づいて、姫沙夜はまた、胸の奥に寂しさが広がるのを感じた。

「名前など、呼ばれないのです」

「そうか。良い名なのに、勿体ないな」 

 靂が、星空を見つめたまま、あまり抑揚のない口調で言った。

「居場所なら、私もない。けれど、ここにいると落ち着く」

 姫沙夜は今度は、どうしてとは聞かず、ただ靂を見上げた。静かな眼差しに浮かぶ思いが、なぜだか少し、分かった気がしたからだ。

 二人はしばし、そのまま黙って、星空の中に立っていた。いつもより多く灯る地上の明かりよりは暗いが、ささやかながらどこまでも広がる空の星明かりの川は雄大で、ぼんやりと眺めているうちに、自分の感じる寂しさや憂いも、ちっぽけなものに思えてきた。

 吸い込まれるように星空を見上げる姫沙夜の心の内が、靂に伝わったのかは分からない。だが彼は口を開くと、言葉少なに目印になる大きさの星を幾つか示し、名を教えてくれた。

「道に迷った時は、その時期の星空──星の位置を覚えていると、道標になる」

 どれも同じに見えていた星も、こうして見ると、光も大きさも様々だ。姫沙夜は、世界の広がりに感動した。


「さて」

 ふと、靂が姫沙夜に向き直る。

「屋敷の姫様が、こんな場所に長いこと一人でいてはならぬだろう」

 靂の言葉に、姫沙夜の顔が曇った。自分が屋敷を抜け出したことは、もう気づかれているだろうか。こんなところまで来ていると知られたら、父にどれほど叱られるだろう。

「でも……」

 さっきは闇に怯えていたが、今はこうして、靂が隣にいると少しも怖くはない。空に延びる星の川は、ずっと見ていたいほど綺麗だ。屋敷に戻ったって、また部屋で寝かされるだけなら、ここで星たちを眺めていたい。そしてもう少し、星の話を聞きたかった。

「帰りたくない」

「そうは言っても、ここにずっといるわけにはいかぬだろう」

「嫌です」

 キュッと口元を閉めて黙ってしまった姫沙夜を前に、靂はため息をついた。だが、この少女にここで夜明かしさせるわけにもいかない。

「また、来たらいい。そんなに遠くはない」

「道が、分かりません」自分でも驚くほど、頑なな態度になった。

「──全く」

 靂はまた息をつき、「聞きなさい」と、姫沙夜の肩にそっと手を置いた。彼女の瞳を覗きこむ。姫沙夜も自然に、靂の瞳に惹き込まれるように見つめ返した。

<お月様みたいな金色>

 今夜は月が出ていない。もしかしたら、月はこの青年の目の中にいるのかも知れない。姫沙夜がそんなことを思っているなどと知る由もなく、靂は諭すように言った。

「大丈夫だ。屋敷の近くに出られる一本道がある。単純だから、すぐに覚えられるだろう」

 靂の手が、姫沙夜の手を取った。「ほら。私も一緒に行こう」



 靂が言ったように、帰りは単純な一本道を下るだけだった。来る時にどこを通ったのかは覚えていないが、靂に手を引かれて山道を下った、その先に現れた小さな木造の門は、よく見覚えがあった。

「お部屋の裏側の門だわ」

 そこは先ほど、自分が抜け出した裏門だ。離れは出てきた時と同じように静まり返っていて、遠くから喧騒が聴こえている。

「気づかれてないみたい」姫沙夜は、ほっと胸を撫で下ろした。

「今夜はみんな、星祭りのもてなしで忙しいのだろう。運が良いな」

 靂が、姫沙夜の手を離した。

「さあ、行きなさい」

 促されて靂から離れ、門の前に立つ。内側から鍵が開いたままということは、やはり誰も、自分がいなくなったことには気づいていないのだろう。門を開ける前に、姫沙夜は靂を振り返った。

「ありがとう、ございました」

 ぺこりと頭を下げる。すると靂が、初めて柔らかく微笑み、彼女の名を口にした。

「姫沙夜。なかなか楽しかったが、もう、一人で夜の山になど、出てはならぬぞ」



 侍女が様子を見に来た時、姫沙夜はまた、ぼんやりと星を眺めていた。

「姫様、お願いごとですか?」

「え?」

「今夜は星祭りですものね。しっかりお願いすれば、きっと叶いますよ」

 侍女の言葉で、姫沙夜は、すっかり忘れていた星祭りの伝承を思い出した。星祭りの夜に星にかけた願いは、必ず叶うのだという。


<願いごと……>


 帰り道でずっと、靂と繋いでいた右手を見つめた。青年の手は、本人の涼やかな印象とは裏腹に、ふわりと温かかった。

 姫沙夜は、あらためて夜空を見上げた。

 暗き場所を照らす星々の光は、まるで希望の灯火ともしびのようだ。

 優しく瞬く星の中に、靂が教えてくれた星を順々に見つけ、頭の中でその名を反芻してから、静かに胸の前で両手を組む。


 そして、星に願いをかけた。

 

 月色の瞳をした白銀髪の青年──靂に、また会えますようにと。


 



(了)

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