第16話 千里眼殺し
「・・・・・・だが、いずれ、僕らは破滅にいたる運命だったかもしれない」
と、彼は言う。
「僕らは、母を母として見ることに疲れていた。認知症によるひどい癇癪と錯乱、積み重ねてきたものが、子どもの積み木のように蹴散らされる喪失感。まして、それが過去の亡霊に取り憑かれて、ひとを襲うとあれば、もはや殺害することが当然と思った。折しも、家には刑事がいる。罪の自供をするには、もってこいといえる。
だから僕は、刃物を背中に隠して、ふたたび庵にもどった。奇しくも、母はいつもの認知症により健忘を生じていたし、僕を新人のヘルパーと思っていたよ。一時間前に食べた昼食を食べるといって起き上がろうとしていた。だからこれ幸いに、うしろから抱きかかえて――」
興奮でまくしたられていた声が、そこで急に詰まった。
昌義は喘ぐように息をして、ゆっくりと身体を折ったまま、ふたたび語ろうとする。
公園のささやかな葉擦れさえ騒がしい静寂に、彼の嗚咽が混じる。
「抱きかかえて、殺そうと、杏樹の苦しみを教えてやろうと、刃物をむけたとき、母が、母が、ふりかえって――、あら、まさ、まさよし、って。帰ってきてたの、って。昔のように、わらって。かあさんが、かあさんが」
彼の声は嗚咽によって塞がれた。
それは、或いは最後の鶴子が視た、幼い彼の面影のダブる、こどもの泣き声だったかもしれない。しんしんと夜だけを聞き手にして、彼はすべての感情を哀哭に変えた。
「・・・・・・・・・・・・ありがとう」
どれだけの涙を流しただろうか。
眼球を絞ったあとに残る、ふたすじの涙の轍が、いまだ街灯に燦めく頃、昌義は立ち上がって、足元にあった缶コーヒーの殻を、ひとつひとつ、丁寧に近くのゴミ箱に収めると、ふうっと夜気を吸った。
「警察署にいくよ」
「そう、ですか」
「君が君の役割を果たしてくれたように、僕は僕の役割を果たそう」
そうして、彼は南署のほうに歩き出した。
ところが、等間隔にならぶ街灯の、その一個先で、彼は振り返った。
明かりは彼の立ち位置から、ややずれて、まるでスポットライトから、半身だけズレたように立った。そのため、振り返った彼の顔に深い陰翳がかかり、まるで顔面が黒いのっぺらぼうのようになる。
「そういえば、南署の人が調べたそうだ」
「なにをです」
「和代のアリバイだよ。竹下幸さんは、妻を殺人鬼と思い込んでいただろう?」
「アリバイが、あったんですか」
「あったよ。竹本さんの息子さんが殺害されたと思わしき日、妻は介護老人福祉施設に説明を受けに行っていた」
「・・・・・・まさか、その場に」
「ああ。母もいた。妻は母をつれて、施設の見学に行っていた。だから、母は竹本さんの子どもを殺しては居ない。つまり、母は死体が、どこに遺棄されているか、全く知らなかったんだ。竹本さんが視たという、和代に似た人物というのは、まったくをもって別人だったんだよ」
「でも、そうなら、翔太くんを見つけたのは――」
「そう。どうなるんだろうね。どっちだったんだろうね」
彼は嗤う。
そこにもう悲しみはない。
「母は認知症だった。そして認知症の人間も自分が認知症になっている自覚は持ちうる。だから不安になって情緒不安定にもなる。過去の自分が信じられなくなる。ときにはありもしない罪を、認めてしまうことだって、あるかもしれない」
出雲は答えない。
答える術がない。ただ、木偶のぼうのように立ちすくむしかない。
「どっちだったんだろうね」
彼はあらためて言う。
昏い深淵を覗くように。
「母は稀代の殺人鬼だったのか。それとも本当の千里眼だったのか」
了
千里眼殺し 織部泰助 @oribe-taisuke
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