電気を流すことで生き返る人だっているはず

@tyamizu

「電流が流れることで命が吹き込まれることもあるでしょう」

「電流が流れることで命が吹き込まれることもあるでしょう」

 彼女はそう言ってクスクス笑った。彼女の言葉は唐突で、大体が意味深げだ。そしてそれらはたいてい僕には理解できないので、彼女に教えを請わなければならない。彼女はそれを見越したうえでそんな言い回しをするのだから、僕はたびたび困らされた。

「何の話です? 綾乃さん」

 僕は仕方なくそう尋ねる。僕には彼女に逆らう勇気も権限もないのだから。僕の質問を聞いてくすりと笑った彼女は、ローテーブルの上に置かれていたティーカップを口元に運び、唇を湿らせるとゆっくりと語りだす。

「AEDの話です。自動体外式除細動器。心臓が止まった人でも、これを取り付けて起動させると助かることもあるそうじゃないですか。不思議なことです」

「はぁ。なるほど。しかしですね、綾乃さん。あなたは根本的な勘違いをされていますよ。AEDは心臓を動かすために電流を流すわけではありません。心臓マッサージを補助するために電気を流すわけですよ。AEDは心臓を一度、完全に止めるために使うのです」

 そう説明しても彼女は表情を崩さず、部屋の中をゆっくりと見渡す。そして彼女は再び紅茶を啜る。彼女は言葉を発するまでに時間がかかる。国際中継のように時差が発生するのが彼女と話すときの常だった。

 窓から入り込んできた風に、彼女の艶のある黒髪がたなびく。彼女の端正な顔立ちは、かわいらしいというよりもむしろ整った芸術品のようで、思慮深い物言いと落ち着いた佇まいは品がある。

「ふふふ。あなたは本質が見えていないようです。途中の過程を考えるのは科学者に任せておけばいいのです。私たちは因果、何をした結果どうなったのかを考えることが大切なのです」

 彼女は赤く染まったワンピースをふわりと浮かせてチェアから立ち上がる。僕は彼女の動向をただ見守る。足音を立てずに華奢な体はステップを踏むように移動していく。床の水たまりを避けながら歩く姿はさながらバレエのようだ。

「あなたも本当はわかっているはず。ここにあるのは首のない死体だけ。彼にはたとえAEDを施したとしても助かる見込みがないのは誰だってわかります。それがAEDを死者に命を吹き込む道具だと妄信する科学教の信者だったとしても」

「まぁ、普通に考えたらそんな人間はいないでしょうね。しかし科学は宗教ではありませんし、狂人は案外いるものですよ」

 しかし、僕の言葉には答えず彼女は床に倒れている『彼』の周りをぐるりと一周する。そして『彼』のそばに落ちていたオレンジ色のバッグを拾い上げる。小柄な彼女が抱えられるほどの小さな、プラスチックの取っ手がついたバッグだ。バッグからは何本かのケーブルが伸びていて、それらは『彼』の体に伸びている。

「首のない人にAEDを使おうとした人がいる。これは不思議ですね」

「不思議でしょうか? 私にはごく単純なことだと思います」

 彼女は抑揚のない声で僕の疑問を一蹴した。彼女はAEDバッグを細部まで観察した後、それをもとの位置に置き、ケーブルをたどって『彼』に手を触れる。

「冷たいですか?」

「ええ、冷たいですね。体もすっかり固くなっている。しかしそんなことは本質ではありません」

 『彼』は仰向けで倒れている。ワイシャツの胸元が開かれ、上半身がむき出しだ。中肉中背の男性。だが年までは判断できない。彼は全身に血を浴びていて、乾いて体に張り付いているところもある。胴体から出っ張った首からはいまだに血液がポタポタと滴り落ちて水たまりを広げ続けている。

「見てください、血が、胸の電気パッドの上にかかっています」

 彼女はそう言って、僕に見えるように『彼』を持ち上げた。なるほど、確かに『彼』の胸と脇に張られた電極パッドの上に血痕がべっとりと塗られている。

「本当だ」

 僕がそういうと、彼女は力尽きたように『彼』を放し、音を立てて落ちた。その際水たまりの血が飛び散って、彼女のワンピースにかかった。

「これは、AEDを使われた後に血が飛び散ったということです。……いや、実際には使われたかはわかりませんね。どちらにせよ、首が切られるより前にパッドが張られたと思うのが自然です」

 彼女はこのようなときでも、とても楽しそうに話す。目の前でこれだけ凄惨な事件が起きていても、彼女はまるで推理ゲームでもプレイしているようだ。彼女は首のない『彼』の姿を見ても恐怖することはないようだ。

「それで、パッドが張られた後に首を切られたというのは何を意味するのでしょうか」

 僕は尋ねる。そうしないと彼女はそれ以上しゃべらないからだ。

「ふふふ。あなたも考えればわかるはずですよ」

「……止まった心臓を再び動かそうとAEDを取り付けて心臓マッサージをした後、蘇生したにも関わらず首を切断した。ということですよね。それはわかるのです。しかしこれが意味するところが分からない」

 彼女はすぐに僕の質問に答えることはしない。だが、時間はそれほど残されていないことに彼女も気づいているはずだ。

「あなたが困惑している理由はわかりますよ。AEDを取り付けるという行為と首を切断するという行為が一見矛盾しているように見えるからです。ですから、ひょっとしたら二人の人間がいるだとか、犯人は死ぬ前にこの死体からなにか情報を引き出したかったのかもしれないと考えているかもしれませんね。ですがそれらの可能性はありません」

「違うというのですね、なぜそう言い切れるのです」

「簡単です。まず、情報を引き出したかったのだとしたら首を切断する理由、頭部を持ち出す理由がありません。首を切断するというのはかなり重労働だと思いますよ。あなたはそのような経験はありますか?」

「綾乃さん、あなたのジョークは笑えません。それで、二人の人間がいるということはどのように否定するのですか。AEDを使用した人物がこの場にいないことを根拠とするのでしたら弱いですよ」

「それは証拠をお見せすれば納得いただけると思います」

 彼女はそういうと、再びAEDバッグのところまで進み、それを抱き上げだ。彼女はなにか操作をしているようだった。そして、しばらくするとAEDバッグから電子音が聞こえてきた。ノイズが混じっているが、その内容は聞き取れた。

『心電図を調べています……。心電図を調べています……』


 彼女はAEDバッグを床に置き、僕を見ながら静かに話す。

「AEDには録音機能がある種類があるんです。これを聞けばわかると思います」


『患者に触れないでください。電気ショックを行います。患者から離れてください』

『ボタンを押してください。電気ショックを行い……』

 何かが破裂するような低い音。

「電気ショックの音です」

 謎の音に眉をひそめた僕に、彼女は解説してくれる。

『電気ショックを行いました。心肺蘇生を開始してください』

 その後、AEDバッグのメトロノームの音に合わせてドン、ドンと一定の音が聞こえてくる。そのペースはかなり早く、音だけでも重労働なのが分かる。この音から得られる情報を聞き逃すまいと耳を澄ませていたが、心臓マッサージの音に混じって息遣いが聞こえてくるのが分かった。それが男性の声だということは音質の悪いスピーカーからでも確認できる。

 五分ほど続いただろうか、男の息も上がってきたらしく、喘ぎ声がかなり荒くなってきていた。果たして、AEDが再び音声を発した。

『心電図を調べています……。心電図は正常です。心電図は正常です』

 その音声が、長かった心臓マッサージが終わった合図だった。蘇生したのだ。

『はぁ……。はぁ……』

 男の呼吸はしばらくの間荒れていた。やがて、ガチャガチャと金属が擦れる音が聞こえた。その間も男の呼吸の音は続いている。そして、間も無く、何かを叩きつけるような鈍い音が聞こえてきた。数回の打撃音の後、ガコンという大きな、異様な音がした。

「切断する前に首を折ったんです」

 彼女は眉一つ動かさずにそう呟く。その瞳は『彼』を見据えて離さない。

 その後、間を置かずに『彼』の首を切断する無機質な音だけが録音されていた。十分ほどその音が続いたのち、突然音声は途絶えた。録音時間が終わったのだろう。

「どうでしょう、二人いる説は崩れましたね。しかしせっかく音声というヒントがあるのに、犯人がわからないのが残念です」

 口惜しそうにそう言ったが、彼女がとうにすべての真相にたどり着いていると確信していることを僕は知っていた。彼女は表情が薄い。しかし、彼女は僕の知らないことはすべて知っている、そう錯覚してしまうほどの何かを持っていた。


「どうでしょう、ヒントはすべて出尽くしました。あなたは謎の真相に気付きましたか?」

 僕は観念し、自分の無力さを誇示するように弱弱しい声で、低く答えた。

「お手上げです。さっぱりわからない」

 彼女は彫刻のような顔に笑みを浮かべ、こちらに背を向ける。

「私としてはもう少しだけ頑張ってほしいのですが、あまり時間がないようです。この調子でいたらタイムアップがきてしまいそうですね。少々不本意ですが、私の考えを話させていただきます」

 僕には彼女の考える真相は全くわからないが、これから話す内容が常軌を逸したものであることは想像つく。しかし彼女はこんな状況でも凛とした表情を崩さない。彼女に恐怖はないのだろうか。

「まず、私が目を覚ました時、死体はすでに首を切られてここに倒れていました。少々のことでは動じない私と言っても、さすがにこの状況には驚きました」

 彼女はそう言って、部屋を見渡す。六畳の部屋はきれいに片付けられていて、ベッドのシーツやカーテンは淡い水色に統一されている。壁の一辺には大きなスチールサックが存在感を放って置かれている。そこに置いてある本までは見えないが、大型のハードカバーの物が多いように見える。冬だというのに窓は開かれ、カーテンがゆらゆらと揺れている。ただ、首のない『彼』の存在と血だまりだけがその部屋を異質めいたものにしている。

「この死体が誰なのかは置いておくことにして、なぜ犯人はAEDを使って蘇生させた後に首を切断したのでしょうか。ただ殺すだけではダメだったのでしょうか。なぜ首を持ち去る必要があったのでしょうか」

 僕は無言で彼女を見つめる。

「そして、なぜAEDがこの部屋にあったのでしょうか。そうです、あなたもおわかりになるように、ここは私の部屋です。外に出ればAEDもあると思いますでしょう。小学校やスーパーマーケット、老人ホームもあるので、探して持ってくることはできたでしょうね。しかし、実はこのAEDバッグにはご丁寧に名前が書かれているのです」

 そう言って彼女はAEDバッグを僕に見えるように抱えてくれた。裏側には太いマジックである公民館の名前が書いてあった。

「……この地名は私の住んでいる地区とは離れています。このAEDは緊急的に持ち出されたものではありません。あらかじめ、この状況を見越して持ってこられたものなのです」

「もうお判りでしょう。AEDは死者を蘇らせるために使われるのです。それをあらかじめ持ってきたということが意味することは一つしかありません」

「AEDはこの死体に使われたのではないということです。このAEDは私に使われたのです」

 僕は息を飲んだ。

「待ってください、どういうことです? 見ての通りAEDの電気パッドは死体に貼られているじゃないですか。それにあの音声だってそれを証明しています。あれはフェイクだとでもいうのですか?」

 彼女は僕の声を聴いて、静かに笑う。

「ふふふ。簡単なことです。電気パッドは私から彼に張り替えればいいのです。パッドはスペアがついているので、粘着する部分だけ変えればそれで解決です。そして、あの音声についてですが、あれは正真正銘、本物ですよ。ただあなたが勘違いしているだけです。あの音声は私にAEDを使っている音なのです」

 僕は彼女に何を聞けばいいのかすらわからない。彼女は何を考えているのだろうか。

「音声の通り、心配を停止していたAEDによって私が蘇生しました。そしてそのあと首を切断されたのはこの死体だった。つまりあれは一人の人物が生き返ると同時に、一方の人物が殺害される音だったのです」

 彼女の説明はあまりに突飛なもので、思わず僕は声を荒げた。

「待ってください、全然説明になっていないじゃないですか。そんなの憶測ですらありません。ただの陳腐な妄想としか思えません」

「いえ、妄想ではありません。先ほどの音声をお聞きになったでしょう。そこに証拠があるのです。どう考えても異常なところがあったでしょう」

「証拠、ですか? 聞いた限りだと何もおかしなところなどなかったように思えますが」

「いえ、AEDは一度、心電図が正常と言いましたよね」

 僕はうなずく、だがそんな行為に意味がないことに気付き、「はい」と答える。『彼』を見据えていた彼女はそれを聞いて、話を続ける。

「ですが、仮にAEDがつけられたのがこの死体だとしたら、なぜ殺されたときはAEDは反応をしなかったのでしょう。心電図に大きな乱れがあったはずではないですか?」

「……つまり、AEDが繋げられていたのが綾乃さんだったから、心電図に変化は見られなかったと?」

 彼女は何も答えない。それは肯定を意味している。

「わかりました、しかしそれでも説明できないことがたくさんあります。あなたはなぜ心肺停止状態になったのですか。それになぜそれを今まで隠していたというのです。それに、犯人がそのような……あなたを助ける行動に及んだ理由がわかりません」

「一つずつ説明していきましょう。まず、私が心肺停止になった理由ですね。それは、私が自殺を図ったからです。あなたも気づいているでしょう? この部屋にある練炭を。練炭など今時自殺をするためにしか使われません」

 彼女はそう言って部屋の中央、『彼』の隣に置かれている練炭に目をやった。僕はそれが練炭だということに気付かなかった。白い、バケツくらいの大きさの円柱。名前こそは知っていたが目にするのは初めてだった。

「二つ目は私が自殺を図ったことをあなたに隠していた理由ですね。私の答えは隠していない、です。必要がないと思ったから言わなかっただけです」

「三つ目の質問、犯人がそのような行動に及んだ理由ですね。それに関しては憶測の域を出ませんが、恨みを持った相手が目の前にいたから殺した。私はそう思っています」

 僕は、彼女の話を聞きながらずっと心に浮かんでいた疑問を口にしようか考えていた。僕の考え通りでないと、彼女の話のつじつまが合わない。しかしそれは彼女からするとあまりに残酷な質問だった。

だが、逡巡しても無駄だろう。結局は聞くしかないのだ。僕は意を決し、彼女に尋ねた。

「綾乃さん、あなたが犯人ということですか?」

 彼女は答えようとしない。

「続けます。次にあなたが次に疑問に思うことは、なぜ死体に頭がないのかということではないでしょうか。……しかし、あなたはこの死体が誰かということは一度も聞きませんでしたね。殺した犯人は知りたがっているのに、この部屋でなくなっている人物の素性は気にならない様子でした」

 彼女は一息ついて、テーブルの上に置かれていたティーポットから紅茶を注いで飲んだ。とっくに冷たくなっているだろうが、その温度は映像からは伝わってこない。

「あなたが死体の正体を気にしない理由。それはただ一つしかないのです。あなたは知っているはずです、これがいったい誰なのかを」

 そう、彼女の言うとおりだった。僕は『彼』が誰なのかは知っている。彼の服装も体型も知っている。だがそれは疑惑のままだった。しかし、あのAEDバッグの裏に書かれた公民館地区名を見たとき、それは確信に変わった。

「この人物は、あなたの父親ですね」

 僕は何も答えない。言い逃れすることはできる。しかしそれは無駄なようだ。彼女はそう断言できるだけの根拠を持っているようだった。だが肯定することも出来ない。それが『彼』の尊厳を損なわせることにつながるのだから。

「私が死にかけているとき、あなたの父親はこの家にやってきました。AEDバッグを片手に持って。鍵をかっていたのに入って来られたのはやはり合鍵を作っていたのでしょう」

 彼女はそう言いながら『彼』の遺体を見つめる。その表情は見えない。どんな感情を抱いているのだろうか。嫌悪か、憐憫か。

「なぜ、『彼』は救急に通報しなかったのでしょうか」

「怖かったのでしょう。私の家を知っていた理由を警察に追及されるのが。本当に臆病者ですね」

「……綾乃さんは本当に死ぬつもりだったのですか」

 僕はおずおずと尋ねる。

「おかしなことを聞きますね。私は一度死んでいるんですよ。その気がなかったらそうはなっていないはずです。それなのに蘇らされてしまった。不本意なことです」

 僕は反論せずにはいられなかった。ずっと考えていたことだ。

「しかし、あなたの行った方法が解せないのです。練炭自殺というのはポピュラーな方法です。しかしそれをわざわざ家で行った理由は何でしょう。それのほとんどは密閉にしやすく、人に見つかりづらいように自家用車やテントの中で行うものではないですか? あなたの六畳ほどの部屋で行うのには時間がかかりますし、密閉にするために窓張りしたことも手間になったはずです。それに『彼』はあなたの家を知っている」

 彼女は黙って聞いていた。その目はこちらを見つめている。しかし彼女には僕の顔など見えるはずもない。

「教えてください。あなたと『彼』はどんなどのような関係なのですか」

「……いいでしょう。すべてを話します。あなたをこのようなことに巻き込んだ責任もありますしね」


 杉浦綾乃は、シングルマザーの家に生まれ育った。母親は公務員だったため、生活に窮するようなことは一度もなかったし、綾乃自身それを引け目に感じることも一度もなかった。地元の高校、地元の公立大学と順調に進学し、学部を卒業すると都内の食品系の中小企業事務職に就職した。地元を離れて知り合い一人いない地での生活は不安も大きかったが、何よりも都内での生活への期待がそれを上回った。

 しかし、彼女の期待は大きく裏切られることになった。低い賃金に、高い物価や人の流れ、それらすべてが地元とは異なっており、友人も出来ず孤独な日々を送っていた。地元にいた恋人と別れたばかりということもあって、寂しさを埋めるように浪費していくようになる。

 気が付いたときにはわずかながらの貯金も使い切り、最低限の生活を送るだけの金すらなくなっていた。そして、その状況が綾乃をいわゆる『パパ活』へと走らせることになった。SNSで募集をかけたところ、客はすぐに集まった。初めは一緒に食事をしたり、テーマパークへ遊びに行ったりするものが多かったが、やがて提示される金額に目がくらみ、性行為に及ぶようになった。

 そのような生活を数か月送り、出会ったのがあの男だった。その男は綾乃と会っても性行為はしようとせずに、たわいない世間話だけして解散するようなことが多かった。

 そのような客は案外多いものだ。綾乃は特になんの感情も抱かぬように、ほかの客と同じように接していた。だが、その状況が変わり始めたのは男が、自分以外の客と会うことはやめて欲しいと言い始めたのが原因だった。

 金は他の客の分まで払うといった。そこまでして説得しようとする男は必死で、綾乃は当惑したが、その条件の良さに目がくらみ、約束した。だが、綾乃は約束を守らなかった。今まで通りにほかの客と会い、性行為をし、浪費を繰り返す。それでいて男とはたまに食事をして上乗せされた金額を受け取る。

 あるとき、男は綾乃の不貞行為に気付いた。そして彼は激しく罵った。綾乃の肩を強く掴み、唾液をまき散らしながら怒鳴った。その迫真の表情に綾乃は恐怖を覚え、綾乃は逃げ出した。

 男は陰で綾乃を監視しているのだ。そう確信した綾乃は恐怖から外に出ることができなくなった。警察に相談しようとも成り行きが成り行きであるため憚られた。

 綾乃は職場に行くことができなくなった。買い物も昼間の人が多い時間にコンビニに行くことが精いっぱいで、そのほかの時間は部屋に閉じこもりっきりになった。母親からは実家に帰ってくるように言われたのだが、一年もしないうちに都落ちしたとなっては同級生と合わせる顔もない。

 やがて綾乃の精神状態は崩れていき、死をも考えるようになった。食事も喉を通らずに、一日中部屋に閉じこもっていると体重は次第に減っていった。死を考えたことも何度も会った。ふと、睡眠薬を大量に服薬する方法を何かのドラマで見たことを思い出した。

ある日、作用が強いと評判の睡眠薬の錠剤をに二十粒ほど飲み干すと、しばらくして吐き気が襲ってきた。何度も嗚咽し、悶えながらもこれで死ぬことができるのだという喜びをかみしめた。やがて、覚醒と昏睡が交互に波のように打ち寄せてきて、ある瞬間意識が途切れた。

睡眠薬では死ねなかった。残ったのは部屋に巻き散らかされた胃酸と吐き気、頭痛。絶望と惨めさにうちひしがれて一日中泣き続けた。だが、目が覚めてふと気になることがあった。冷蔵庫にあったいくつかの食料がなくなっているのだった。そして綾乃の空腹は雲のように消えていた。普通に考えれば、意識がないうちに食事をしていたということになる。インターネットで調べてみたところ、これは睡眠薬などを服用したとき、まれに起こる症状で睡眠関連摂食障害(SRED)というらしい。食事以外にも、性欲や排泄欲と言った欲望を無意識のうちに行うことがあるという。いわゆる夢遊病というものに近いのかもしれない。

体は生きることを欲しているというわけだ。しかし、それにしても考えるのはあの男への恐怖と怒りだけで、生きる意欲もわくわけではない。ならばと最後に復讐を実行しようと考えた。

 それが自分の死の瞬間を配信し、その様子をあの男へ送りつけることだった。しかし、男は綾乃の家まで来た。そしてAEDを使うと綾乃を蘇生させてしまった。ここからは憶測だが、命を取り戻した綾乃は無意識のうちに男を殺害したのだ。それがどのような無意識化の心理の表れかはわからなかったが、SREDによるものかもしれない。

 そして意識を取り戻した時、目の前には首のない男の死体と、護身用に買った金属バットと血だらけの包丁が転がっていた。そして胸と脇腹にはやけどのような跡があった。

 綾乃はこれが自分の犯行であることが分かった。AEDの電気パッドが男に張られていたような点はあるが、これも無意識のうちに行ったつたないアリバイ工作であることは容易に想像がついた。

 しばらくの間綾乃は部屋で呆然と佇んだ。そして、自分があの男への復讐が果たせていないことに気が付いた。確かに殺したのは自分かもしれないが、その意識は今の綾乃ではない。そして思いついたのがあの男の息子に真実を伝えることだった。あの男と話すとき、必ずと言っていいほど息子の自慢をしていた。「あいつは自分とは似ていなくて優しい奴だ」それがあの男の口癖だった。その息子に、このような残酷な状況を見せ、知らしめることでなおさらショックを与えることができると考えた。

 綾乃はおもむろに立ち上がり、転がっている男の荷物を漁った。携帯電話はズボンのポケットに入っていた。冷たくなりつつある男の手を使って指紋認証で携帯電話のロックを解除すると、通話履歴から男の息子と思しきものを見つけるや否や、電話を掛けた。


「突然見ず知らずの女から通話がかかってきたため、きっと驚きましたでしょう」

 彼女は長い話を終えると、再び紅茶を口に含み、微笑みかけた。

「ええ……。驚きました。しかも、おそらく綾乃さんが思った以上に驚いたのですよ。あなたが最初に名乗ったときには」

 僕がそう言うと、今まで余裕を見せていた彼女の表情に初めて驚きの感情が浮かんだ。

「それは、あなたは私のことを知っていたかのような口ぶりですね」

「はい、僕はあなたのことを知っていました。『彼』からあなたのことを聞いていたのです」

 彼女は困惑し、慌てて聞き返してくる。

「そのようなことはありえません。『パパ活』の相手である私のことを息子であるあなたに話していたということですか?」

 僕は一息ついて、ゆっくりと話す。彼女は誤解している。僕はその誤解を正そうと今から話すのだ。間違いがあってはいけない。

「綾乃さん。あなたは勘違いしているのです。『彼』の真意をあなたは気づいていない。『彼』がなぜあなたに近づいたと思いますか。恋愛感情を抱いていたため? 違います。『彼』は娘であるあなたに会いたかったからです。あなたにそのような仕事を辞めてほしいと思ったからです」

「あなたは、何をおっしゃっているのですか」

 彼女の額には汗が浮かんでいる。

「あなたは『彼』の娘です。僕とはきょうだいということになります。正確には腹違いなのですが。『彼』の前妻が綾乃さんの母親なのです」

「突拍子がなさすぎます。そんな話どう信じろというのですか。それに、ならどうして今更私と会うことにしたのです。しかも客として」

 彼女はそう言いながらも、自分の問いの答えに気づいているのだろう。明らかに気が動転している。

「会うことにしたのはあなたのお母さんに頼まれたからです。娘が危ない仕事に手を出しているかもしれない、そう相談があったそうです。もう二十五年も連絡を取っていなかったにもかかわらずです。『彼』はそれを承諾しました。しかし、今更父親としてあなたの前に現れる資格はないと考えた『彼』は、客としてあなたに接触しました。そして、金を渡す交換条件としてほかの客と縁を切れ、つまり仕事をやめろと間接的に説得したのです」

 彼女は唇を震わせ、動かない。話を聞いているのかどうかすら定かではないが、僕は話を続ける。

「しかし、あなたはそれを破った。気づいた『彼』は怒りました。ですが、それはあなたが思っているような痴情の縺れではありませんでした。父親が娘を叱ることと同じものだったのです。しかしあなたは勘違いした。『彼』はあなたに危害を加えようとしていると考えた。そしてあなたは自殺を行う配信のリンクを『彼』に送り付けました。それを見た『彼』は、何かを考えるより前に家を飛び出していきました。そして、そのあとのことはあなたの知る通りです」

 僕は一息つくと、モニターに映る彼女の姿を見た。彼女は先ほどから動いていなかった。だが、眠っているわけでも死んでいるわけでもない。ただこの事実に打ちのめされているのだ。

「綾乃さん」

「私は、私は自分の父を殺したということ?」

 彼女は、僕の声にかぶせるようにして尋ねた。

 僕は答える。

「そうです。しかし、あなたはそれを知らなったのも事実です。法には詳しくないですが、もしかしたら正当防衛も成立するかもしれません」

 しかし、彼女は顔を落としたままだ。

「いえ、私は先ほど言いました。途中の過程を考えるのは私たちのすべきことではありません。私は実の父親を殺しました。それも命を救おうとした父親を。この事実は決して揺らぐことはないのです。そして、私はあろうことか憎しみのあまり首を切り落としました。自分の弟を苦しめようと思ってそれをあなたに見せつけた」

「綾乃さん、聞いてください」

「私はなんてことをしてしまったのでしょうか。とてつもない、恐ろしいことをしてしまいました」

 彼女は僕の声が届いていないようだった。そして、彼女はやがてブルブルと震えだした。しかし、その震えは恐怖によるものではなかった。

 彼女は嘔吐した。そして膝から崩れ落ちると地面に臥せ、間を置かずに痙攣しはじめた。

「綾乃さん!」

 モニターには彼女がもだえ苦しんでいる様子が映されている。彼女のそばには首のない痛いと、ティーポッドが乗ったローテーブルがある。僕はそれを見て、一つの考えに至った。

「綾乃さん、あなた、何を飲んでいたんですか!」

 彼女は答えないが、あの異常なまでの苦しみ方から鑑みるに、何か毒物を飲んだとしか思えない。もう推理ゲームは終わりだ。僕はモニターの電源を消し、彼女のもとへ向かった。


 カーテンの隙間から夕陽が差し込む個室で、彼女は体を起こしていた。

「綾乃さん、もう大丈夫なんですか」

 僕が声をかけると、しばらくの間の後、

「はい、胃洗浄をしましたから」と言って彼女はふふふと笑う。電話越しで聞いた笑い声だったが、モニター越しで見た時よりも、はるかに人間らしいと思えた。

「何かおかしいですか?」

 そういうと、彼女は笑顔のまま答える。

「すみません、あなたのお顔を見るのが初めてでしたから。電話越しの声とあの人から聞いた話でしかあなたのことを知らなかったので。でも、あなたは私の顔を知っているのですね。少し不思議な気分ですが」

 彼女が倒れた後、僕はすぐに彼女のもとへ駆けつけた。その部屋は死臭が立ち込めていてひどいありさまだったが、僕は迷わず彼女を背負い、車に乗せて病院まで運びだした。

「それにしても、どうして私の家を知っていたんですか? それもあの人から聞いていたのですか?」

 僕はかぶりを振った。

「いえ、実は僕はずっとあなたの家のすぐそばにいたのです。なんせ『彼』をあなたの家まで行くときに、車を運転したのは僕ですから」

 彼女は目を丸くした。

「綾乃さん。一つお願いがあります。二度と自殺など考えないでください。僕はあなたの弟です。あなたを姉として好きになってしまったのです。あなたに死んでほしくなどないのです」

 彼女はそれを聞いて、顔に影を落とした。

「ですが、私はじきに捕まります。そうなったら私は真実を話すしかありません。あなたはひどく身勝手だと思うでしょうが、私は自らの恥を公衆の面前に晒されることが堪らないのです」

「そうなるくらいなら命を絶つ、と?」

 彼女は無言で自分の膝を見つめる。僕を見ることが恐ろしいことのように。

「それなら心配はいりません。あなたは警察に捕まらないからです」

「それは、どういうことですか……?」

「あなたは犯人ではない」

 彼女は眉間にしわを寄せる。そんな顔をするのはやめて欲しい。あなたには笑っていてほしいのだ。

「あなたは『彼』を殺してなどいない。睡眠関連摂食障害ですか。あなたは本当に無意識のうちに人を殺すようなことがあると思っているのでしょうか」

「ですが、……そうとしか考えられません。あの場には私とあの人しかいなかったのだから。それに、音声も私が犯人であることを示している」

「いいえ、常識で考えてください。いくらAEDと心臓マッサージで蘇生したからと言って、その直後に意識を取り戻して人を殺すことなど不可能です」

「なら、いったい誰が犯人だというのですか」

 僕は彼女の顔を見つめる。彼女はとても美しい。最後にあなたと話せてよかった。

「犯人は、僕です。心臓マッサージを終えた『彼』を後頭部から殴り殺しました。そして首を切り落とした。あなたを犯人に仕立て上げるために偽装工作をしました。本当に驚きました。部屋から立ち去って、車に戻ったところ時分が濡れ衣を着せようとした相手から電話がかかってきたからです」

「待ってください。私にはわかりません。あなたはなぜ私を犯人にさせようとしたのですか? あなたはなぜその私を助け、真実を話しているのですか? あなたななぜあの人の首を切断したのですか」

 彼女は助けを求めるように弱弱しい瞳で僕を見つめてくる。

「あなたを犯人にしようと思ったのはただの偶然です。あなたとの関係は父から聞いて知っていました。しいて言うならあなたの家で殺すことで、警察が都合のいい動機を考え出してくれると思ったからです。なんといっても父と知らずに『パパ活』をしていた娘ですからね。

 そしてあなたを助けてこの話をしているのは、先ほども言いましたがあなたが好きだからです。あなたに罪をかぶせるのは許せません。あなたと話して、最後に真実を伝えたいと思いました。幸せになってほしいと考えました」

 彼女の顔は青白くなっている。僕を見る彼女の目は瞳孔が開かれ、手が小刻みに震えている。

「そして、首を切断した理由ですか。これは単純です。ニュースとして大きく取り上げて欲しかったのです。そうすることで『彼』の娘への愛のある行動は美談として取り上げられることになるでしょう。あの世へ行く彼へのせめてもの償いのつもりだったのですよ」

 僕は質問に答えたが、彼女は反応をする様子を見せない。どうやらこれ以上話しても無駄らしい。僕は小さくため息をつくと、踵を返して病室を去った。最後に扉を閉めるときに彼女に向って最後の言葉をかけた。

「それでは、僕は今から自首してきます。面会などは来ていただかなくて結構ですので、あなたはどうか幸せな人生を送ってください。『彼』の遺産は僕の母とあなたに分配されるようにしておきましたので」

 僕は笑顔で言ったのだが、彼女は僕の顔を見ていない。

 そして小さく

「狂ってる」

と言った気がした。

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