最恐魔王は蜜月に溺れる
彪雅にこ
最恐魔王は蜜月に溺れる
「バトン領を訪問?」
「はい。ぜひフェリシア様のお力をお借りしたいのです」
ヨアンは必死に頭を下げるバトン辺境伯令嬢ニナと、その隣で懇願するようにこちらを見上げる愛妻フェリシアを戸惑いながら見つめた。
ここは、王族のみが持つ魔力によって護られる国、ルベライト王国。
比類なき魔力の強さと、悪魔のようだと恐れられてきた
国王の側近デュプラ侯爵の長女、フェリシアに長年焦がれ続け、思いが実り約半年前に結婚したばかり。
その容貌は息を飲むほどに美しく妖艶で、国色天香と称されるフェリシアと並び立つ様は、この世のものとは思えないほどに眩く神々しい。
長らく王家との関わりを絶ち、人目を避けて森の奥の古城に従者ユーゴと2人だけで引き籠もっていたヨアンだが、フェリシアとの婚約、結婚を機に、再び王族とも交流するようになった。
この日は、定期的に国王に招かれるようになった王城にて、国王たちとの晩餐を楽しんだ。
その後ティーサロンに場所を移すなり、一緒に晩餐に招かれていたニナがヨアンに頭を下げたのだ。
ニナは、その領地経営の手腕に惚れ込んだアレクシスが、バトン領から勉強のため王城に出仕するよう促した令嬢だ。晩餐の間も国王からさまざまな意見を求められ、鮮やかに返答していた。
バトン領は隣国カルセドニー帝国とを隔てる険しい山脈の裾野に広がる辺境の地で、数年前まで主だった産業や特産品などがなく、国一番の貧乏領と揶揄されてきた。
数年前からニナによって領地改革が進められると同時に、温泉も発見され、目覚ましい躍進を遂げている。
ニナと会うのは、ヨアンもフェリシアも今夜が初めて。いつの間にニナはフェリシアをこれほど熱心にバトン領に招こうとするに至ったのだろうか。
「先程、フェリシア様が私の支度をお手伝いくださった際、その素晴らしいセンスに感服いたしました。是非、フェリシア様にバトン領にあるアクセサリーショップへのアドバイスをいただきたいのです」
ヨアンの疑問を悟ったかのように、ニナが言った。
晩餐前、フェリシアはヨアンの甥である王太子アレクシスに頼まれて、ニナの身支度を手伝った。ドレスからアクセサリー、髪型やメイクに至るまで、すべてフェリシアが見立て、仕上げたと聞いている。どうやらその際に、ニナがフェリシアのセンスに惚れ込んだらしい。
幼い頃からアレクシスの婚約者として妃教育を受けてきたフェリシアは、洗練されたセンスと審美眼を持つ。女性の装いや流行に疎いヨアンでさえ、フェリシアの卓越した感性の豊かさを感じ取るほどだ。身をもってそれを体験したニナがフェリシアの手腕を借りたいと思うのも頷けた。
ニナの後ろでは、アレクシスがにこにこと微笑みながらヨアンの反応を見ている。
『仕掛けたのはこいつだな…』
どうやらアレクシスは、最初からニナにフェリシアのセンスを見せたくて、わざわざフェリシアにニナの身支度の手伝いを頼んだらしい。
『どうりで…。何故あえてフェリシアに手伝わせるのかと思えば…』
登城するなり、アレクシスがフェリシアにニナのドレスの見立てを頼み込んでいた時、何故メイドにやらせないのだ、というヨアンの問いをアレクシスがふわふわと交わしていたのを思い出し、ヨアンはアレクシスを軽く睨みつけた。アレクシスはヨアンの視線など意にも介さない様子で、微笑みを湛えたまま一歩前に出て、ニナの隣に並ぶ。
「結婚してもう半年になるというのに、叔父上とフェリシアは新婚旅行もまだでしょう?森にばかり籠もっていないで、たまにはフェリシアと旅行にでも行ったらいかがですか?バトン領の温泉は最高ですよ」
”新婚旅行”という言葉に、思わずぴくりと眉が動いてしまったのを、アレクシスは見逃さなかった。
「フェリシア、温泉に入ったことはないよね?バトン領の温泉は肌もしっとりと潤うし、疲れも取れる。本当に極上なんだ。それに料理も美味しかったよ。ね?ニナ嬢」
ヨアンがフェリシアを溺愛していることを熟知しているアレクシスは、フェリシアを先に口説き落とす作戦に出たようだ。
「はい!是非バトン領の温泉に入っていただきたいです!絶対にご満足いただけると思います。お2人で訪領いただけるのであれば、当領が誇る宿泊施設のスイートルームをご用意いたします。もちろん、観光のご案内もいたしますよ」
ニナもアレクシスの作戦に乗り、バトン領の素晴らしさをフェリシアにアピールし始めた。
「スイートルームは、僕が視察で滞在した部屋だよね?あの部屋は専用の半露天風呂もついているし、眺望も素晴らしかった。きっとフェリシアも気に入るよ」
2人の熱量がすごい。ヨアンは、専用の半露天風呂のくだりで大いに心が揺さぶられてしまったことがフェリシアにばれないように、わざと大きな溜息をつきながらフェリシアを見つめる。
フェリシアはぐいぐいと迫る2人に困惑の表情を浮かべつつ、心配そうな瞳でヨアンを見上げた。頼まれれば力になりたいが、ヨアンが嫌がることは絶対にしたくない、という意思が感じられる。
結婚前のヨアンは長らく、周囲から向けられる恐怖や奇異が綯い交ぜになった視線に耐えられず、悪魔のような山羊の頭蓋骨を被り、自ら人を遠ざけてきた。だが、フェリシアがヨアンのすべてを愛し、受け入れてくれたおかげで、やっと人前でも素顔を晒せるようになったのだ。
正直、まだ見知らぬ地を素顔のまま訪れるのは怖い。しかし、このままではいけない、フェリシアのために変わりたいと思っているのも事実だ。
「フェリシアは、どうしたい?」
ヨアンの中で、何を置いても大切なのはフェリシアだ。フェリシアの望むようにしてあげたい、それがヨアンの意思だった。
「私は…私でニナ様のお力になれることがあるのなら、ご協力させていただきたいと思っております。――それに…できれば、ヨアン様と一緒にバトン領を訪れてみたいです…」
少し頬を赤らめながら控えめな声でフェリシアが言うなり、ヨアンは即座に首肯した。
「わかった。一緒にバトン領に行こう」
ぱぁっと顔を輝かせたフェリシアが堪らなく愛しくて、ヨアンも相好を崩す。
「ありがとうございます!公爵閣下!フェリシア様、よろしくお願いいたします!」
ニナが興奮気味にフェリシアの手を取る横で、アレクシスがヨアンを見て苦笑いをしていた。
「叔父上…気味が悪いくらい顔が緩んでいますよ…」
それから約二月後。
多忙なニナのスケジュールがやっとやりくりでき、ヨアンとフェリシアはバトン領を訪問していた。
あれからニナはアレクシスの婚約者となり、王城での出仕を続けながら妃教育も受けるなど、忙しなく過ごしているようだ。フェリシアもニナの教育係の1人として、これまでニナが学んでこなかった社交の場での振る舞い方や、身に着けるものの選び方などの知識を教授している。
今回、アレクシスは急ぎの案件が山積みで同行できず、かなり残念がっていたらしい。
直線距離で考えればヨアンの城からバトン領へ向かう方が近いが、森の中に馬車が通れる道はないため、一度王都へ向かい、ニナの馬車と合流してバトン領へとつながる街道を進んだ。途中の宿場町で2泊し、ようやくバトン領に辿り着いたのだった。
『この移動距離は辛いな…。ニナ嬢やアレクシスが街道の整備を急ぐのも頷ける。もしもフェリシアが今後もバトン領を訪れる必要があるなら、魔法陣を敷いておこう』
ヨアンのその強大な魔力を使えば、魔法陣を使った転移が可能だ。王城にも魔法陣を敷いており、居城と王城の間は転移魔法で行き来できる。バトン領のどこかにもそうした魔法陣を敷いておけば、次からは一瞬で移動が可能になる。自分一人ならまだしも、フェリシアに何度も長距離の移動をさせるのは避けたかった。
「ヨアン様、素晴らしい眺めですね。アレク様がおっしゃっていた通りです」
ニナが手配したスイートルームに通され、そこからの眺望を目にしたフェリシアが目を輝かせた。
斜陽が山々の稜線をくっきりと描き出し、まるで影絵の世界のようだ。茜色と藍色が混じり合う空に海月のような月が浮かび、その横には一番星が輝いている。
窓辺に立ち、うっとりとその景色に見入るフェリシアの横顔も黄金色に染まり、窓枠に縁取られた一枚の絵のように美しかった。ヨアンは堪らず、後ろからフェリシアを抱きしめる。
「本当に綺麗だな。だが、どんな素晴らしい風景よりも、フェリシアの美しさが一番俺の心を揺さぶる」
絹糸のように滑らかに輝くプラチナブロンドの髪を撫でながら耳元で囁くと、フェリシアが恥ずかしそうに瞳を伏せた。夕日に照らされて確認できないが、きっと頬は薄紅色に染まっていることだろう。
結婚から半年以上が経った今でも見せるこの恥じらいが、より愛しさを加速させる。俯いた顎にそっと指を這わせて自分の方へ向かせると、ヨアンは夜露に濡れる薔薇の蕾のような唇を塞いだ。
柔らかい舌を絡め取り、吸い上げる。眩暈がするほど甘美な味。
「…は…ん…」
甘い吐息が漏れはじめ、フェリシアの身体から力が抜けていく。
かくん、と膝が折れた瞬間、抱き上げてさらに深く口づけた。そのままベッドに運び、優しく下ろす。
ひとしきり唇を味わってからフェリシアを見下ろすと、とろとろと蕩けた瞳と目が合った。
普段は清廉な泉のように澄んだ輝きを湛えているフェリシアの
――いつの間にか月は高く昇り、空を埋め尽くすかのように星々が輝いている。
ヨアンが身体を起こすと、隣で眠っていたフェリシアもうっすら目を開けた。まだ夢の中にいるかのような瞳で月明かりに照らされたヨアンの姿を捉えると、安心したようにふわりと表情を綻ばせる。
「――空の色…ヨアン様の髪と同じ夜の色…」
ヨアンはフェリシアの頬を愛おしげに撫でた。
「ああ。月ももう、フェリシアの髪と同じ色に輝いている」
ゆっくりと身体を起こそうとするフェリシアを抱き寄せ、自分の膝の間に座らせると、シーツを羽織り自分の身体ごとフェリシアを包み込んだ。2人で星空を見上げる。
「森の塔からの星空も綺麗ですけれど、ここからの星空も素敵ですね」
そっとヨアンの胸に身体を預けながら、フェリシアが呟いた。ヨアンも頷く。
「そうだな。塔の窓から見るよりも、空が広く感じる」
バトン領自慢のこの宿泊施設は、小高い丘の上に建てられている。そのうえ、このスイートルームは一面が大きな窓になっており、眼下に広がる街並みとどこまでも広がる大空を臨める贅沢な作りだ。
「たまにはこうやって、違う景色を眺めるのもいいな」
フェリシアを抱きしめる腕に力を込め、頬にキスをした。
「だいぶ遅くなってしまったが、軽く食事をもらうか?」
部屋まで案内してくれたニナが、食事は声を掛ければ部屋まで用意させると言っていた。ゆっくり疲れを取りたいだろうから、遅い時間でも構わない、とも。
2人は簡単な夜食を頼み、それを待つ間、部屋に設えられている半露天の温泉に入ることにした。
「本当に一緒に…入るのですか?」
ヨアンの提案に、フェリシアが真っ赤になって俯く。
「当然だろう。新婚旅行も兼ねているんだから。それに何より、俺が一緒に入りたい。嫌か?」
「嫌…では…ないです…。でも、心の準備が…」
透き通るように白く美しい手ですっぽりと顔を覆っているフェリシアを、ヨアンはひょいと抱き上げる。
「えっ、ヨアン様、待って」
はだけそうになったシーツを急いで胸元にかき寄せるフェリシアを抱え、浴室へと移動した。
「夜風が心地いいな。湯もぬるめだし、これならじっくりと浸かっていられる」
「――ええ、そうですね…」
「ところで、俺はいつまで星空を眺めていればいいんだ?」
「…どうかそのまま、夜空を堪能していていただければ…」
外に開け、半露天になっている浴槽の縁で頬杖をつきながら、ヨアンは夜空を眺めていた。星が降ってきそうな夜空とは、まさにこのことだろう。せっかくの光景をフェリシアと一緒に堪能したかった。
しばらく振り向かないでほしい、とフェリシアに頼まれ、先に湯に入ってからしばらく経つ。
こっそり振り返ると、フェリシアは湯船の隅でこちらに背を向け、小さくなっていた。
恥ずかしくてなかなかこちらに来られないのだろう。居城でも、一緒に入浴したことはない。
『正直、一緒に温泉に入るのが、俺にとっては今回の訪問の一番の目的なんだがな…』
濡れた髪をかき上げ、フェリシアの背中を見つめる。
美しいプラチナブロンドは高い位置で纏め上げられ、薔薇色に上気した細い肩と首筋が露わになっていた。手を伸ばしたい衝動をぐっと堪える。
「フェリシア、こっちにおいで」
優しく声を掛けると、フェリシアがおずおずと振り向いた。しかし、ヨアンと目が合うなり、ぱっと恥ずかしげに向き直ってしまった。
「フェリシア」
もう一度、請うように呼びかける。強引に抱きすくめて隣に連れてくることもできるが、せっかくならフェリシアから近づいてきてほしかった。
フェリシアにもヨアンの気持ちが伝わったのだろう。僅かな躊躇いの後、やっと聞き取れるほどの小さな声で返事があった。
「そっち…向いていてくださいね」
微かな水音が近づいてきて、ヨアンの背中に華奢でしなやかな背中が触れる。柔らかい感触とともに、お湯よりもずっと熱い体温が伝わってきた。
「ほら、見て。綺麗だろう?」
ヨアンに促され、夜空を見上げたフェリシアの口から、感嘆が漏れる。
「わぁ…本当ですね…。星が近い…。なんだか手が届きそう…」
「バトン領の標高の高さだからこそ、見られる景色だな」
とろりと優しく肌を包む温泉のお湯のせいだろうか、触れ合う背中がしっとりと吸いつく。まるで、2人の境界線が溶け合い、混ざり合っていくかのよう。それが得も言われぬ幸福感を与えてくれる。
2人はしばらく黙って互いの熱を背中に感じながら、星空を眺めていた。
「滞在中は、毎日一緒に入ろう」
ヨアンが言うと、少し間をおいてフェリシアがこくりと頷いたのがわかった。
「おはようございます、閣下、フェリシア様。昨夜はゆっくりお休みいただけましたか?」
翌朝、ニナが部屋まで2人を迎えに来た。
「おはようございます、ニナ様。お部屋の設えも眺望も本当に素晴らしくて、感動いたしました。温泉のあまりの心地よさに、つい長湯し過ぎてしまって…。遅い時間にお夜食をお願いしてしまい、申し訳ございませんでした」
フェリシアが答える横で、ヨアンは密かに欠伸をかみ殺していた。
昨夜温泉から上がり、夜食を取った後、再び2人でベッドに入った。いつも以上にしっとりと吸い付くようなフェリシアの肌に溺れ、つい無理をさせてしまったことを反省する。
疲れ果てたフェリシアが眠りに落ちたのを見届けてから、日課となっている結界への魔力注入を行っていたため、あまり寝ていないのだ。
新婚旅行を兼ねた訪問とはいえ、国を守る結界に綻びが起きるようなことがあってはならない。
かつては何人もの王族が毎日魔力を注いでいたという国境の結界は、今やヨアンが1人で守っている。夜の澄んだ空気と静寂の中での方が魔力が研ぎ澄まされるため、結界への魔力注入は深夜に行うのがヨアンの日課だった。
居城では夜更かしをしても昼前まで寝ていられるが、ニナからの依頼が最優先のこの旅ではそうもいかない。
『これ以上フェリシアに無理をさせるわけにはいかないし、今夜は少し早めに休もう』
再び欠伸をかみ殺しながら、ヨアンはぼんやり考えていた。
ニナに勧められたバトン領自慢の温泉粥を食べ、支度を整えて馬車に乗り込んだ。ニナは別の馬車で先導してくれている。
「温泉粥、とっても美味しかったですね。優しい味わいで、朝にぴったりでした」
「そうだな。朝食は辞退しようかと思っていたが、あれはすっと食べられた」
フェリシアが嬉しそうにしていると、ヨアンも心が温かくなる。
ヨアンが目を細めてフェリシアを見つめていると、フェリシアが小さな缶ケースを取り出した。
「ヨアン様、これ、よかったら」
蓋を開け、ヨアンに差し出す。仄かな薔薇の香りがふわりと広がった。缶の中には淡いピンク色のキャンディが並んでいる。
「旅先ではお菓子が作れませんので、出発前に用意していたのです。薔薇のエキスを入れて作ったキャンディなのですけど」
居城では、毎日フェリシアが手作りのお菓子を用意してくれる。王族の血を引くフェリシアにも、僅かながら魔力があり、フェリシアが作ったお菓子には癒しの効果があるのだ。ヨアンの魔力とフェリシアの癒しの魔力は相性がいいらしく、驚くほどヨアンに対して効果を発揮する。フェリシアと一緒に暮らすようになってからのヨアンは、魔力も体力も充実していた。
「まさか旅行中もフェリシアのお菓子を味わえるとは。キャンディとは考えたな。本当にありがとう」
ヨアンはキャンディを一粒、口に入れた。薔薇の香りとともに、甘酸っぱさが口内を満たす。じんわりと身体の核の部分が温かくなっていく感覚。
「うん、美味い。寝不足の身体に染みるな」
ヨアンの言葉を聞いたフェリシアが、心の底から嬉しそうに、笑みを浮かべた。
「お口に合ってよかったです。ニナ様からご依頼いただいたお店に行った後は、少し街を散策させていただきましょうね」
愛しさに胸を鷲掴みにされ、思わず可憐な唇にキスをする。
「このキャンディがあれば、今夜も夜更かしできそうだ」
ヨアンに艶美な笑顔を向けられ、フェリシアの頬がみるみる赤く染まっていく。
「駄目ですよ、睡眠不足が続くのはお身体にさわります…」
「今夜はもう少し加減する。フェリシアをあまり疲れさせるわけにはいかないからな」
真っ赤になったまま困ったように訴えるフェリシアが可愛くて、もう一度長いキスをした。
ニナにアドバイスを依頼された店は、石畳の道沿いに色鮮やかな建造物が立ち並び、空の青が映える、フォトジェニックな商業区の一角にあった。
「素敵な場所ですね。王都からの観光客に人気なのも頷けます」
目を輝かせたフェリシアに、ニナは自分が褒められたかのようにはにかんだが、すぐに表情を曇らせた。
「そう言っていただけると、本当に嬉しいです。――ただ、こちらのお店は売れ行きが少し芳しくなくて…。ターゲットにしているのは、王都から観光に訪れた貴族令嬢たちなのですが…。何かを変えなければならないのはわかっているのですけれど、どう変えればいいのかが、王都の流行や令嬢たちのファッションに疎い私にはアドバイスできなくて。それで、フェリシア様のお力をお借りしたいと思ったのです」
フェリシアもプレッシャーからか一瞬不安気な表情を見せたが、ニナを安心させたかったのだろう、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。
「私もお役に立てるかはわかりませんが、力を尽くします。まずはお店の中を拝見してもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです」
ニナとともに店内に入っていくフェリシアに続き、ヨアンも店に足を踏み入れる。
あまりに美しい2人が突然現れたため、店員たちが神様でも目にしたかのように見惚れ、固まった。
「こんにちは。商品を手に取ってみてもよろしいですか?」
フェリシアに尋ねられた店員が、まるで魔法にかかったかのようにうっとりとした表情で頷いた。
『俺のフェリシアは、誰もを魅了するな。美しさはもちろん、慈愛に満ちた眼差しも、透き通った甘い声も、すべてが女神のようだ』
自身の美貌も大いに目を惹き、他を魅了しているというのに、そんな視線には気づきもせず、ヨアンはフェリシアだけを熱い眼差しで見つめていた。
「ヨアン様、お待たせして申し訳ございませんでした」
店の隅に用意された椅子に座り、時間が経つのも忘れてフェリシアを眺めていたヨアンのもとに、ニナや店員との話を終えたフェリシアが戻ってきた。
壁の時計に目をやると、いつの間にか店を訪れてから一刻が経とうとしている。
「もう終わったのか?フェリシアを見ていたから、あっという間だった」
ヨアンのストレートな物言いに、フェリシアがあっという間に耳まで薔薇色に染めて恥ずかしそうに俯き、後ろで聞いていたニナまでもが頬を赤らめて固まった。
咳払いして気を取り直したニナが、2人を店の外まで見送りながら言った。
「昼食は近くのお店に個室を用意しておりますので、お2人でどうぞ。バトン領の郷土料理をお楽しみください。私はもう少しここに残って、打ち合わせをいたしますので」
「ニナ嬢、ありがとう。では、お言葉に甘えよう」
ニナが用意してくれたという店はすぐ近くのようだったので、ヨアンはフェリシアの手を取り、歩き出した。こんな風に2人で街を歩くのは初めてのことだ。
『これが世に言うデートというものなのだろうか。心が躍る』
フェリシアの指に、自らの指を絡めてきゅっと握りしめた。
「どうだった?ニナ嬢の期待には添えそうか?」
店に入る前に少し不安気な表情を見せていたフェリシアを気遣うように覗き込む。
「まだわかりませんが、とっても素敵な商品もありましたし、きっともっと素晴らしいお店になると思います」
フェリシアが微笑んだのを見て、ヨアンも安堵の表情を浮かべた。
「フェリシアがそう言うなら、心配ないな」
フェリシアが生まれ持った才覚に加え、幼い頃からどれだけ努力をしてきて、どれだけの知識や感性を身につけてきたのかをヨアンは十分理解しているつもりだ。
『フェリシアが携わるのだから、必ずいい結果が得られるだろう』
ヨアンは自分のこと以上にフェリシアが誇らしかった。
昼食の後は、2人で商業区の店を見て回った。
「お父様やマクシムにも、お土産を買って帰りたいです。もちろん、ユーゴさんやロイ、ヨナ、リム、それからノアにも」
「そうだな。皆に買って帰ろう」
ロイ・ヨナ・リム・ノアはヨアンの使い魔たちのことだ。もともとヨアンにしか見えなかった使い魔たちの姿だが、ヨアンと心が通じ合ったフェリシアは見ることも触ることもできるようになった。名前のなかった彼らに名前をつけたのはフェリシアだ。
少しだけはしゃいだ様子のフェリシアが新鮮で、ヨアンの頬も緩む。フェリシアと買い物を楽しむのも初めての経験だ。
以前なら特異な鮮紅の瞳を気にして、人目のあるところでは魔力で色を変えて見せていたが、フェリシアがありのままを受け入れてくれてからは、それをするのをやめた。
フェリシアの夫となった日、フェリシアの隣に相応しくあるため、精進すると誓ったのだ。
『隠すことなどない。何も後ろめたいことなどないのだから』
ヨアンは臆すことなく顔を上げ、フェリシアの腰に腕を回した。
「これ、ユーゴさんにいかがでしょう?」
「ああ、似合いそうだな」
大切な人たちへのお土産を選び、疲れたらオープンテラスのあるカフェで休憩する。
光を放つような美しさの2人は、そこにいるだけで注目を浴びてしまったが、バトン領の領民たちは温かく、明らかに高位の人物たちだとわかっていながら、いい意味で2人を放っておいてくれた。
どの店でも特別扱いはせず、他の観光客と同じように接する。必要以上に近づいてきたり、声を掛けたりはしない。それは、辺境伯令嬢でありながら、着飾るでもなく、尊大な態度を取るでもなく、領地のために奔走するニナの姿を見ているせいなのかもしれない。
「バトン領、とても素敵なところですね」
しがらみのない地での自由な時間は、2人がこれまで経験したことのない貴重なものだった。普通に街を歩き、買い物や食事を楽しむ。初めての経験に、2人の心は深く満たされた。
街の散策と買い物を目一杯楽しみ、宿泊施設へと戻ると、昼から別行動をしていたニナからの伝言があった。
「今夜はお食事のコースをお部屋にご用意いたしますので、どうかご堪能ください。また明日の朝、お迎えに参ります」
昨夜は夕方に到着し、軽い食事だった2人に、今日はフルコースを用意してくれているようだ。
フェリシアの手を借りるためだけでなく、ヨアンとフェリシアの新婚旅行もこの訪問の目的だということをよく理解したニナの配慮に、ヨアンは感心した。
『さすが、あのアレクシスが惚れただけあるな。ニナ嬢が王太子妃になるなら安泰だ』
かつてフェリシアの婚約者であり、フェリシアを愛しフェリシアのために心を殺した日々を送ったアレクシスが幸せを掴んだことが、ヨアンは心から嬉しかった。
フェリシアを失うことはヨアンにとって絶望を意味する。だから、フェリシアを黄泉へと送ろうとした者たちを遠ざけた後、再びフェリシアをアレクシスの婚約者に、という声が上がったのを知った時、どうしても身を引くことができなかった。フェリシアの幸せを考えれば、自分が諦める方がいいのかもしれないと思い悩みもしたが、あの時引かなくてよかったと今は心から言える。
ただ、フェリシアに襲い来る魔の手を振り払うために手を貸してくれたアレクシスに対して、申し訳ないと思う気持ちも捨てきれなかったのだ。
『もしもあの時フェリシアが選んだのが俺ではなくアレクシスとの未来であったなら、きっと俺は耐えきれなかっただろう。アレクシスはそれを味わったのだ。どんなに打ちひしがれたことか…想像するだけでぞっとする』
自分と同じくフェリシアを愛した甥。結婚式の時にアレクシスから託された思いを、ヨアンは決して忘れてはいけないと思っている。
「ヨアン様、お疲れではないですか?」
考え込むような表情を見せていたヨアンの顔を、フェリシアが心配そうに覗き込んだ。最愛の人がいつも自分の様子を気に掛けてくれる幸せが、心を温かくしてくれる。
『どうしてこんなにも可愛いんだ』
ヨアンはフェリシアの細い腰を抱き寄せ、唇を啄む。
「大丈夫だ。フェリシアがいる幸せを噛みしめていただけだから。フェリシアこそ、疲れていないか?」
唇を離したヨアンに甘やかな瞳で見つめられたフェリシアは、恍惚の表情で頷く。
「私も…ヨアン様といられて、本当に幸せです…」
潤んだ紫水晶の瞳に、自身の紅玉の瞳が映る。混じり合う幻想的な色に吸い込まれるように、ヨアンは再びフェリシアに唇を寄せ、溶け合った。
バトン領に滞在した一週間は、瞬く間に過ぎた。
フェリシアが連日件の店に通い、ニナと改善策を練って形にできるところから着手していったおかげで、その店は瞬く間に洗練されていった。取り扱う品々やレイアウトも一新され、軽い気持ちで覗きに来ただけの観光客がそのまま商品を購入することも増えたようだ。これから内装を変更をする予定もあり、益々磨かれていくことだろう。
さらに、王都から観光に訪れていた貴族令嬢たちがフェリシアとヨアンの姿をその店で見かけたことから、陽炎姫と魔王が訪れる店として話題になりそうだという。
フェリシアは貴族令嬢たちに請われれば、気さくに求めに応じて彼女たちにアクセサリーを見立て、感激されていた。
「フェリシア様のおかげです!それに、ヨアン様のお姿を目にしたご令嬢たちが、こぞって紅玉のアクセサリーをお求めになられて。私の友人のアクセサリー職人も、お2人の姿を見て作品のイメージが次々と湧いてきたと、意欲的に新作を作っています」
ニナが興奮気味に教えてくれた。
ニナの幼馴染みだという職人が、ヨアンを一目見るなりデザインが降りてきたと言って作成した紅玉をはめ込んだ耳飾りは、フェリシアが一目惚れしたためヨアンが買い上げて贈った。
「いつでも耳元にヨアン様がいらっしゃるみたいで、どきどきします」
フェリシアが嬉しそうに耳飾りに触れているのを見て、ヨアンもフェリシアをイメージした耳飾りとバングルをオーダーした。
ニナの父親であるバトン辺境伯にも晩餐に招待され、その際辺境伯邸の庭に魔法陣を敷かせてもらうことになったため、今後はいつでも居城と行き来ができる。オーダーしたアクセサリーはまた後日受け取りに来る予定だ。
「ニナ様、滞在中、心を砕いてくださり本当にありがとうございました。バトン領はとても素敵なところでした。ぜひ、今後もうかがわせてください」
フェリシアの言葉に、ヨアンも頷く。
「ニナ嬢、本当にありがとう。とてもいい時間を過ごさせてもらった」
2人から礼を言われニナが、慌てて首を振る。
「とんでもございません!お2人がいらしてくださったおかげで、バトン領の大きな宣伝になりました。あのお店の売り上げも上向いていますし、これからフェリシア様のご指導に従って改善を進めれば、さらに繁盛することでしょう。ぜひ、これからもお時間を見つけてバトン領をご訪問ください。領民一同、心よりお待ちしております」
「これからは、王太子妃殿下になられるニナ様が、バトン領の一番の広告塔になられることでしょう。今頃、アレク様が首を長くしてニナ様のお帰りを待っていらっしゃるでしょうね」
フェリシアが微笑むと、ニナがあっという間に首まで赤くなった。
「アレクシスは今回来られなくて、かなり悔しがっていたからな」
ヨアンも笑う。
「あまり待ち焦がれさせるのも可哀想だ。ニナ嬢を先に王城に送り届けよう。それから俺たちの居城に」
ヨアンの言葉に、フェリシアも同意する。
「ぜひ、そうして差し上げてください。ヨアン様」
「私まで転移させていただくなんて、なんだか申し訳ないのですが…。でも、アレクシス様や国王陛下への贈り物で荷物も増えてしまいましたし、正直とてもありがたいです」
頭を下げるニナに首を振り、ヨアンはニナを魔法陣の上へと促した。ニナの馬車も魔法陣の上に導き、ニナを馬車に乗せる。
「礼には及ばない。さあ、忘れ物はないか?――では行こう。フェリシア、すぐ戻る」
ヨアンが呪文を詠唱すると同時に、馬車とヨアンの姿が消える。見送りに来ていたバトン辺境伯が「おお」と驚愕の声を漏らした。
それから一分も経たないうちに、ヨアンだけが再び魔法陣の上に姿を現した。
「おかえりなさいませ、ヨアン様」
「フェリシア、ただいま。さあ、次は俺たちの番だ」
バトン辺境伯に礼を言い、自分たちも馬車ごと魔法陣の上に進む。
「いつでもいらしてください。お待ちしております」
バトン辺境伯の言葉に頭を下げて手を振ると、2人は居城へと戻った。
「あるじとふぇりしあ、かえった!」
新婚旅行を終えた2人が森の居城の玄関前に到着した途端、城から使い魔たちが飛び出してきた。こちらも2人の帰りを待ちわびていたらしい。
2人の周りを嬉しそうにぐるぐると飛び回るロイとヨナに、足下に身をこすりつけるリム。
その後ろからノアを抱いたユーゴが現れ、2人に頭を下げる。
「おかえりなさいませ、ヨアン様、フェリシア様」
いつも通りの城の空気。
バトン領は素晴らしかったが、やはりここが一番落ち着く。2人の居場所、どこよりも温かい場所。
「ただいま」
「ただいま戻りました」
ヨアンとフェリシアは同時に言って、幸せそうに微笑みを交わし合った。
最恐魔王は蜜月に溺れる 彪雅にこ @nico-hyuga
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