アストレアの花嫁
朝の陽射しをいっぱいに浴びて育った花を摘み取る。
ほんのりとした甘い香りだがくどさはなく、やさしい香りが鼻腔に広がる。摘み取ったらそれはすぐに花粉を取り除き、花弁を一枚一枚千切って子房と分ける。まだ新鮮なうちに薬品に付けて半日ほど釜にかけ、瓶詰めにすれば夏が過ぎて秋が過ぎ、冬になる頃にそれはようやく香水として出来あがる。
(その日が来るのが待ち遠しいわね)
パトリツィアは白い花を見て、思いを馳せる。
城下街の空き家を借りて、そこを作業場にした。パトリツィアの他には侍女のミラ、それからベネディクト姉弟。最初はこの四人だった。
そのうち一人が覗きにきた。三日前に声をかけた女たちのうちの一人だ。一番年下の娘は好奇心旺盛といった年頃、空き家に出入りする人間を見て、幽霊かと思ったらしい。
二人目は少女の友達だった。試作品の
若い娘たちがきゃあきゃあ言っていれば、家の仕事をさぼるなと叱るのは年長者の役割だ。そのうち母親たちが乗り込んでくる。ちょうどそのとき、パトリツィアたちは香茶をたのしんでいた。
侍女のミラは隙間時間に大台所へと通っている。ふとっちょの料理長モッペルは勉強熱心な侍女を気に入って、お菓子のレシピを教えてくれた。長机にはミラの作った焼き菓子が並んでいる。
半月足らずで、作業場は人でいっぱいになった。
みんなのたのしみは香茶と焼き菓子だけれど、リアの花に触れているあいだは全員が真剣な顔だ。パトリツィアはそれがとても嬉しく思う。
「みんな、家のことや子どものことで大変ですが、こういった時間も必要だと思いますわ」
「ええ、そうね。ミラ」
侍女のミラに囁かれて、パトリツィアは微笑む。
「でも、それだけじゃないの。わたくしたちは遊んでいるわけではないわ。きっと、このリアの花はアストレアに必要な花となってくれる。わたくしは、そう信じているのよ」
白い花の香水や香油ができるのは半年後、花弁を乾燥させて
「絵空事には終わらせないわ。まずは、アストレアの産業としてリアの花を育てましょう。薬草のことはエーベル卿にまかせておけば安心です。収入として十分に見込めなくとも、薬はいつだって必要ですもの」
「はい、姫様」
商品として売り出すには相応の時間が掛かるだろう。
そこらに群生するリアの花は人の目を楽しませるには十分でも、商品価値のあるものへと変えなければならない。品質向上のためには庭師の意見も必要で、パトリツィアは空いた時間を見つけては彼らと相談している。その場で追い返されなかったのは、それだけパトリツィアが真剣だったからだ。
「リヒャルトお兄さまも応援してくださっているもの。みんなでがんばりましょうね」
「もちろんです、姫様」
パトリツィアはリヒャルトへと手紙を書いた。王都に届くには十日は掛かるが、しかしその返事は半月も経たないうちに届いた。心配性の従兄妹らしいと思う反面、早く安心させなければと、パトリツィアは改めてそう思う。
「ですが、よろしいのですか?」
「なあに? ミラ」
お茶の用意をしながら、ミラは声を落とす。
「姫様がここに入り浸ってばかりですと、閣下はお寂しいのでは?」
「まあ……。旦那さまなら、心配要らないわ」
パトリツィアは笑みで応える。夫であるギルベルト・エーベルとは朝と夜の食事で必ず顔を合わせる。それにギルベルトはあの日以来、パトリツィアの寝所を毎日訪れるのだ。
それは侍女のミラならもちろん知っているはずだが、ミラの言いたいのはまた別なのだろう。
「ねえ、ミラはいつから知っていたの?」
「いつからとおっしゃるなら、最初からですよ」
「まあ……!」
パトリツィアは両手で頬を覆った。ミラは苦笑している。
「気づいていらっしゃらなかったのは、パトリツィア様だけでしたよ」
「そう、でしたの?」
「はい。なにかおかしいと思って問い詰めたところ、ユーディト様はあっさり吐きましたし。フリード卿やエーベル卿は姫様にちょっと意地悪をしていました」
「あれはそういうことだったのね……」
初夜から幾日が過ぎてもギルベルトはパトリツィアの元には来なかった。自身の魅力が足りないと誤解したパトリツィアはそれ以上に奮闘する。ところが、ギルベルトをよく知る従者たちにはお見通しだったらしい。
「そもそも、姫様が私の話を最後まできいてくださらないから……」
「ごめんなさいね、ミラ」
思い返せば侍女のミラは何度かパトリツィアに声を掛けている。思い込むと一直線なパトリツィアは侍女の話を途中からきいてはいなかった。
とはいえ、過ぎたるはなんとやらである。
二人きりとなればここぞとばかりにギルベルトは甘えてくるし、そんな彼をパトリツィアは愛おしく思っている。
「さて。休憩が終わったら、もうすこしがんばりましょう!」
パトリツィアが手をたたくと、皆が集まってきた。今日のおやつはミラの新作のナッツタルトだ。
*
「皆に姫を取られてしまったね、ギル」
アストレア城周辺の視察へと出ていたギルベルトは、半月前には空き家だった建物の前で急に止まった。
「うるさいぞ、アル。彼女は王家の姫君だ。敵意を持つ方がおかしい」
「はいはい、負け惜しみだね」
従兄弟のアルフォンスがにやにやする。そのうしろで隠れて笑っているのがジークだ。
(別にいいさ。夜になれば俺の――)
「うわあ、ギルがまたいやらしいこと考えてる」
顔をのぞき込もうとするアルフォンスを押しのけて、ギルベルトはため息を吐いた。
「お前たちこそ、いい気なものだな。彼女を歓迎していなかったくせに」
「試していただけだよ。僕は別に、あの姫様は嫌いじゃない。度胸もあるし馬鹿じゃない」
草や花、とりわけ薬草に明るいパトリツィアに興味を持ったらしい。アルフォンスはときどき、ギルベルトの妻のところに通っている。
(エーベル家は軍師の家系だからな。戦争のないいまは軍師の仕事もないから、アルも別の勉強がしたいのだろう)
そうは言いつつもちょっと面白くないのがギルベルトの本音である。
付き合いの長い従兄弟にはお見通しのようで、アルフォンスはずっとにやにやしている。ギルベルトは無視して、自分は無関係を装っている
「お前もだぞ、ジーク。彼女に余計なことを言うな」
「これは心外です。姫にギルベルト様の好みを問われましたので、真実をお伝えしたまでのこと」
「
白の王宮という箱庭で大事に育てられた姫君だ。パトリツィアは純真で、ともかく人の言うことを鵜呑みにする。
「ギルがそんなに心配しなくてもさ、大丈夫だよ。あの姫は案外しっかりしてる」
「アルフォンス様の言うとおりです。過保護ならば可愛いものですが、そのように
「そうそう、それにどうするの? ギルがリヒャルト殿下に張り合って買い付けたドレスや宝石たち。あれのおかげで、ますますアストレアは貧乏になってるんですけど?」
「閣下が無駄な努力をされたところで、姫君はなにひとつ気づいていらっしゃらなかったですからね。溺愛っぷりもほどほどにしていただかなくては」
「うるさいぞ、二人とも」
隙あらば説教ばかり繰り返す従兄弟と麾下を置いていく勢いで、ギルベルトは城下街をあとにする。
アストレアの領主として、ギルベルトを待っている仕事は山ほどあるのだ。執務室に戻りたくないのが本音でも、そういうわけにもいかないのだ。
(大変なのは、これからだな)
それでも、と。ギルベルトは思う。
白の王宮にて、
(リヒャルト殿下は本気で彼女を愛していたのかもしれない。それでも、殿下が選んだのは愛ではなく国だ。おなじことが俺にはできない。だからこそ、彼女をかならず幸せにする)
アストレアの花嫁となったパトリツィアをギルベルトは心から大切に思っている。神聖なるイシュタニア像の前でパトリツィアに贈った言葉に偽りなどない。愛している。彼女が望むだけ何度でも、ギルベルトはその言葉を贈る。
(いや、俺だけじゃない。彼女は皆に愛されているし、アストレアにとって必要な人になる)
きっと、その日が来るのもすぐだろう。
ギルベルトがパトリツィアから嬉しい報告をきかされるのは、これより半年後のことである。
アストレアの花嫁〜辺境の小国に嫁いだ姫君は、病弱な旦那さまにもっと愛されたい!〜 朝倉千冬 @asakura
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