二度目の口づけを

 夜半前に、ふとパトリツィアは目を覚ました。


 この日は午餐ごさんのあとに城下街へと出掛けた。ここでの成果はいまひとつだったものの、両手いっぱいにリアの花を抱えてパトリツィアは城へと戻った。


 今日はどうにも張り切りすぎたらしい。

 侍女のミラが香油で肌と髪を整えているあいだ、パトリツィアは椅子で船を漕いでいたのかもしれない。自分で寝台へと入った覚えがないので、ミラとユーディトが運んでくれたのだろう。


(二人には謝罪と、それからお礼を言わないといけないわね)


 たぶん、ミラもユーディトも笑みで返してくれる。

 白の王宮に居た頃から侍女はパトリツィアの味方だった。アストレアに来てからだってベネディクト姉弟をはじめ、フリード卿もエーベル卿もパトリツィアにはやさしくしてくれる。もちろん、夫であるギルベルト・エーベルもだ。


 早い時間に眠ってしまったせいか、パトリツィアはそれきり目が冴えてしまった。

 ふと視界に入ったのは、書斎机に置かれたままの従兄妹からの手紙だ。せっかくフロリアンが届けてくれたのに、パトリツィアはすぐ封蝋ふうろうを切らなかった。たのしみはあとに取っておきたかったのだ。


 パトリツィアはカウチに腰掛けて手紙を広げる。ちょっと癖のある筆跡は、たしかにリヒャルトの文字だ。


(お兄さまの夢を見たのは、きっとこの手紙のせいね)


 パトリツィアはゆっくりと手紙を読み進めていく。

 一枚目も二枚目も、パトリツィアを想うリヒャルトの心が十分に伝わってきた。三枚目からはリヒャルトの近況だ。相変わらず多忙な日々を送っているらしい。


(いつまでもリヒャルトお兄さまに心配を掛けてはいけないわね。そのためには、早く旦那さまと……)


 パトリツィアとギルベルトの結婚で、辺境の小国アストレアとマイア王家との繋がりができた。

 しかし、アストレアへと嫁いだパトリツィアの役目はまだ終わってはいない。むしろこれからだと、パトリツィアはそう思っている。


(そうよ。妻としての役目が重要なのよ。子どもをたくさん産むの)


 そのためには病弱なギルベルトに元気になってもらう必要がある。パトリツィアを気遣って手紙を送ってくれた従兄妹には、それとなく伝えよう。五枚目の手紙には最初とおなじく、パトリツィアを心配するリヒャルトの言葉が綴られていた。そしてその最後にはギルベルトのことも。


(え……っ? これは、どういう、こと……なの?)


 皆まで読み終えたパトリツィアは目をみはった。

 従兄妹のリヒャルトは嘘を吐けない人間だ。もういちど、五枚目だけを読み返してパトリツィアは早まった心臓を落ち着かせようとする。

 リヒャルトは嘘を書かない。次の瞬間、パトリツィアは手紙を握りしめて私室を飛び出した。




  *


 


 扉の向こうからは談笑がきこえる。ギルベルトは日中以外にも夜も執務室に籠もりきりで、その彼を補佐するべくフリード卿とエーベル卿がいるのだろう。


 たぶん、これは淑女にあるまじき行為だ。

 わかっていながらも、パトリツィアは勢いよく扉を押し開けた。最初に気づいたのはフリード卿、つづいてアルフォンス・エーベル、そして最後に夫ギルベルト・エーベルがパトリツィアを見た。


「おや……? どうなされたのです? 姫」


 ジーク・フリードがパトリツィアの前に来て、騎士の挙止きょしをする。言葉も所作も丁寧そのものだったが、夜の闇を思わせるその目は冷ややかだった。


「旦那さまに、おはなしがありますの」

「ふうん。こんな時間に? ずいぶんとせっかちだなあ、パトリツィア殿下は」


 アルフォンスが失笑する。パトリツィアも笑みを作った。


「あら? こんな時間だからこそ、ですわ。わたくしとギルベルトさまは夫婦ですもの」


 三人はカウチに座って蜂蜜酒ミード酒肴しゅこうのナッツをたのしんでいたところだった。邪魔者はパトリツィアと言わんばかりの視線を送ってくる二人を笑みで躱した。まずは邪魔者を追い払わなければならない。


 気色けしきばむアルフォンスの腕を押さえて、ジークがまず退出した。

 物言いたげなアルフォンスだったが、一応は空気を読める人間だったらしい。じろっとパトリツィアを睨みつけながらも、最後には出ていった。


(これで、ようやく二人きりだわ)


 パトリツィアは無意識に作っていた拳を緩めた。従兄妹のリヒャルトからの手紙はくしゃくしゃになっていた。


「ごめんなさいね。お二人を追い出してしまって」

「い、いえ……」


 ギルベルトは完全にパトリツィアに気圧けおされていたが、まずはカウチに腰掛けるようにと、視線で誘導してくる。このまま素直に従うのも悔しい。そう、パトリツィアは怒っているのだ。


 ふた呼吸ほど空けて、けっきょくパトリツィアはギルベルトの隣へと腰掛けた。思わず一人分の距離を空けようとしたギルベルトだったが、しかしパトリツィアは彼のシャツを掴んだ。


「あら? どうして逃げるの?」

「逃げているわけでは、」

「でしたら、ちゃんとわたくしの目を見て」


 身を乗り出すようにしてパトリツィアはギルベルトに迫る。一方のギルベルトはパトリツィアに視線を合わせようともしない。


「旦那さまはうそつきだわ」


 涙でギルベルトの輪郭がぼやける。耳鳴りもするから、彼の声だってよくきこえない。


「あなたが、わたくしにくれた言葉は、嘘だったのね」

「姫、わたしは」

「旦那さまは言ってくださいました。聖イシュタニアの前で、誓いの言葉とは別に……声をくださいましたわ」


 婚礼の儀式のとき、純白のドレスに身を包んだパトリツィアは夫となるギルベルト・エーベルの目を見た。清冽せいれつなアストレアの水とおなじ色をしていた。そして、ギルベルトは言ったのだ。あいしている、と。それは聖イシュタニアの前で読みあげる言葉とは別の、たしかに彼の声だったのだ。


(だから、わたくしはこの方の妻として……)


 ぽろぽろと、パトリツィアの大きな目から雫が落ちていく。


「落ち着いてください、姫。いったい、なにが……?」

「リヒャルトお兄さまからの手紙を読みましたわ」

「殿下の?」


 パトリツィアはこくんとうなずく。


「リヒャルトお兄さまにはずいぶんと心配を掛けてしまいました。急な結婚でしたもの、仕方ありませんわ。ですがわたくしもマイア王家の一員として、務めを果たさなければなりません。この婚約はリヒャルト殿下が、マイアとアストレアの明日を思ってこそ。でも……っ!」


 パトリツィアは無理に声を絞ってつづける。


「そうではなかったのですね。わたくしを妻にほしいと、そう願い出たのはギルベルトさま、あなたが」

「……殿下は内緒にしてくださるとお約束していたのに。意地悪な方だ」


 ぽつりと、ギルベルトはそう落とした。パトリツィアは思わず自身の夫を睨みつけた。


「お兄さまを悪く言わないで。ひどいのは、あなたです! 旦那さま、あなたはわたくしに嘘を吐いている」

「落ち着いてください、姫。私が何を」

「思ってもいないくせに、あんな言葉を囁いたりしないで……!」

「ちがいます、姫。私はほんとうに」

「でしたら、どうしてわたくしのところに来てくださらなかったの?」


 最初の夜からそうだった。ギルベルトは一度だって夜にパトリツィアの元を訪れない。これではいつまで経っても妻の役目を果たせない。籠のなかで飼われている鳥とおなじだ。


「あなたに、触れるのがこわいからですよ」

「こわい……?」


 弱々しく紡がれるギルベルトの声にパトリツィアは目をしばたく。これまでパトリツィアは自分をとびきり美しく魅せてきたつもりだ。それでも魅力が足りないというのならもうお手上げである。


「誤解されたくありませんので、もう正直に言います。私は本当にあなたを愛しているのです、姫。だからこそ……触れられなかった。一度あなたをこの腕に抱けば、私はきっとだめになってしまう。あなたのことしか考えられなくなるのは、わかっていました」


 パトリツィアの頬を撫でる手がやさしい。いつのまにか止めどなく流れていた涙も止まっていた。


「ほんとうに……?」

「ええ、本当です。それにあなたは素直で人に影響されやすい。ジークでしょう? あなたに妙なことを吹き込んだのは」


 ため息を吐きながらギルベルトはパトリツィアの身体をまじまじと見た。パトリツィアは羽織を忘れて寝間着のままここへと来た。


「私はあまり濃い色は好みません。姫にはもっと白とかピンクとか……そういう色が似合います。寝間着となればなおのこと。それに、薔薇ローズの香水もあまり……」

「そう、でしたの……?」

「はい。ですから、姫はジークに騙されていたのです」


 今宵のパトリツィアの寝間着はバイオレットパープルだ。これを用意してくれたミラは渋い表情だったような気がする。

 ぽかんとしたままのパトリツィアに向けてギルベルトがやさしく、そしてどこか恥ずかしそうに微笑む。


「リヒャルト殿下の手紙は真実ですし、聖イシュタニアの前で落とした声もおなじです。姫、あなたは覚えていないかもしれませんね。ですが私は、白の王宮であなたと何度も会っているのです」


 白の王宮にいた頃、妙齢のパトリツィアの元に毎日たくさんの貴人が来た。ギルベルトもそのうちの一人だった。初対面ならばともかく、二度目に会った人ならばパトリツィアはちゃんと覚えている。それは次期国王であるリヒャルトとの謁見を済ませて、ついでのようにパトリツィアと会っていたとしてもだ。


「覚えていますわ。ギルベルトさま……、あなたは伺候しこうと称して、来てくださったでしょう?」

「けっして機嫌伺いなどではありませんよ。他のやつらはどうか知りませんが。……いや、私も変わりありませんね。あなたに近づいて、まったくの下心がなかったとは言えませんので」

「えっ……?」

「私はそう饒舌じょうぜつな人間ではありませんので、退屈な時間だったでしょう。でも、あなたはいつも本当の笑みで私に接してくださった。あなたはおやさしい人ですから、他のやつらにだっておなじ笑みをしたでしょうね。だからこそ、独り占めしたかった」


 パトリツィアは信じられない気持ちでいっぱいだった。

 辺境の領主。白の王宮で会ったときのギルベルトの印象はそれだけだ。追従ついしょうを言う人間はとにかくおしゃべりで、けれどもたしかに彼はそう口数が多くなかったように記憶している。


(でも、まさかあのときからわたくしを……?)

 

「あなたに会いに行った回数とおなじだけリヒャルト殿下の前で頭をさげました。あまりにもしつこかったので、殿下はとうとう私の声をきき入れてくださいましたよ」

「でも、それはアストレアのためでしょう?」 

「皆はそう思っているかもしれません。でも、少なくともリヒャルト殿下はわかっておられます」


 止まっていた涙が溢れた。ならば、ギルベルトもリヒャルトの思いを知っていただろう。遠く離れた場所に行ってもパトリツィアの幸せを願ったリヒャルト。偽らざる心でパトリツィアを愛すると誓ったギルベルト。ふたりの心をパトリツィアはようやく知ったのだ。


「ごめんなさい、ギルベルトさま。わたくしは大変な誤解を」


 パトリツィアはやっとギルベルトのシャツから手を離す。その手を、今度はギルベルトが掴んだ。


「ギル、と」

「えっ?」


 きょとんとしたパトリツィアにギルベルトはつづける。


「これから二人のときは、そう呼んでください。姫」

「でしたら、わたくしのことも姫ではなくパティと」


 返事の代わりにギルベルトはパトリツィアに口づけた。

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